許地山(1893ー1941)は中国近代の文学者です。
1893年、台湾の台南生まれ。1894年に、甲午戦争(日清戦争)で清王朝が敗れ、台湾は日本の植民地支配を受けました。許地山の父親ーー許南英はそれ抵抗して、家族を連れ、福建省龍渓県に移り住みました。
1896年、許地山は塾に通って、勉強を始め、13歳の時、広州韶舞講習所に学び。1917年燕京大学文学院に合格、3年後に卒業して、文学学士の称号を得ました。その後、燕京大学神学院で宗教の研究を続けました。
北京にいる間、彼は瞿秋白や鄭振鐸らと共に、積極的に「五・四運動」に参加し、また、1921年10月に、沈雁氷や葉聖陶らと共に「文学研究会」を発足させ、「人生のために文学を創作する」との主張を展開しました。その後、この会が出版した「小説月報」で処女作「命命鳥」を発表しました。この小説はミャンマーに住む男女が愛のために宗教の戒律と戦う物語を描いています。その後、相次いで、「商人婦」、「黄昏後」などの短編小説を発表し、文壇での地位を築きました。
1922年、アメリカのコロンビア大学に留学し、哲学を専攻しました。文学修士の学位を取った後、宗教史とインド哲学を研究するため、引き続きイギリスのオックスフォード大学に留学しました。
1925年、許地山は自らが書いた散文40余りを選んで、作品集「空山霊雨」を出版しました。
1927年、燕京大学の助教授となり、また、清華大学、北京大学、北京師範大学などの大学で、インドの哲学や人類学の講義を担当しました。1927年、商務印書館は彼の著作「インド文学」を出版し、また、1931年から彼は「中国道教の歴史」(上巻)の編纂を始めました。
1941年8月、心臓病で亡くなりました。48歳でした。
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