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~数字の「四」を含む四字熟語~

2015-06-23 18:56:37     cri    


























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 今日は数字の「四」を含む四字熟語、3つご紹介します。ばらばらに裂けることを表す"四分五裂"、項羽にまつわる話、"四面楚歌"、これは日本人でもお馴染みですよね。そして、言葉巧みに人を欺くというもともとの意味から転じて、考えがころころ変わって定まらないことを形容する"朝三暮四"です。

 四分五裂(しぶんごれつ)

 "四分五裂"、ばらばらに裂けること。まとまりのあるものが秩序を失って乱れることを表します。国や政党がひとつにならないことをを形容する場合が多いです。

 この四字熟語の出典は、『戦国策・魏策』です。『戦国策』は前漢の劉向(りゅうきょう)がまとめた書物です。主人公は戦国時代に活躍していた諸子百家の1つ、縦横家たちです。「戦国時代」という言葉もこの本に由来するそうです。

 "四分五裂"も、縦横家の一人、戦国時代の外交家の代表的な人物の一人、張儀にまつわる話です。まず、その歴史的背景についてご説明します。

 中国の戦国時代、七つの国、つまり、秦、韓、魏、趙、斉、楚、越が覇権を争っていました。戦国時代の末期になると、西部に位置する秦の国がますます強くなり、東部にある6ヶ国は自らの力で秦に対抗できなくなり、即ち、「一強六弱」の状態でした。

 対策を講じなければ、弱い6つの国は、だんだんと秦に侵略されてしまいます。逆に6ヶ国がもし一致団結できれば、何とか秦に対抗できそうです。縦横家の代表的な人物の一人、蘇秦の提案です。つまり、各国が生き残るために、6つの弱い国が力を合わせて、秦に対抗するという「合縦策(がっしょうさく)」です。一番強い国、秦が西にあります。秦以外の6ヶ国は秦の東に南北に並んでいますので、この縦に並ぶ国が力を合わせて秦に対抗することを、合縦と呼ばれます。

 秦も負けてはいません。合縦策を打ち出した蘇秦と同じ先生のところで一緒に勉強した張儀を起用しました。張儀は「合縦策」を切り崩すために、「連横策」を主張します。つまり、6ヶ国それぞれが単独に秦と同盟を結んで、延命を図るのが賢明だという主張です。実際の意味は、東にある小さな国が西にある強い秦と東西に並ぶという意味です。

 張儀はこの「連横策」を持って、各国へ説得に走りまわりました。四字熟語"四分五裂"は、張儀が魏の国へ行き、魏の王を口説いた時に、使った言葉です。

 張儀がどのような弁舌で、魏王を口説いたか、『戦国策』に書いてありますので、ご紹介します。

 張儀は魏王に言いました。

 「魏の立地条件が好ましくないのです。鄭や陳、楚、韓、趙、及び斉に囲まれていて、いざ戦争になると、容易に守ることが出来ません。これは致命的な弱点です。南の楚と連合するなら、斉が東から攻めてくる。斉と連合するなら、趙が北のほうで挑発するだろう。また、韓とうまく行かなければ、韓の軍隊が西から攻撃してきます。楚と仲良く出来なければ、楚が南から進攻してくるだろう。このように、今のままでは少しでも油断すれば、戦が始まります。安全は保障されていません。これはまさに「四分五裂」の状態と言います。」と、魏王を脅かしました。

 魏王は心配になり、「何か方法があるか」と聞きました。

 張儀���魏王の心が動いたことを見て、更にこう進めました。「王のためには、秦と連合したほうが一番いいと思う。秦が強いので、秦と連合すれば、他の国が侵攻してこないでしょう。これで魏は滅びるおそれもない」と語りました。

 魏王は張儀に脅され、それまで他の国と結んでいた合縦の盟約に背いて、張儀を通じて、秦と講和を結びました。秦と講和を結んだから安全になったというわけではありません。最終的にこれらの国は全部秦に滅ぼされ、結局秦が中国を統一しました。

 昔の歴史を知っている現在の私たちにとっては、秦の統一は、必然的なことですが、当時の戦国時代に生きた人たちは、生き延びるために、可能性を求めて一生懸命頑張った訳です。そんな歴史を教えてくれる四字熟語が、"四分五裂"でした。

 四面楚歌

 "四面楚歌"、日本語もそのまま「四面楚歌」と言いますね。孤立無援の状態を表すものです。これは、項羽にまつわる話です。簡単にご紹介しましょう。項羽の軍が垓下に立てこもった時の話です。兵は少なくなり、食べ物もつきました。劉邦が率いる漢軍と諸侯の兵は、これを幾重にも取り囲みました。夜になって、漢軍の中で盛んに楚の歌を歌う声を聞いて、項羽は大いに驚き、「漢はすでに楚を得たのか。なんと楚の人が多いことか」と言いました。

 司馬遷が書いた歴史書『史記・項羽本紀』の故事によるものです。しかし、四面に楚歌、楚の歌が聞こえたのは、項羽が心配していた大本営、楚が占領されたわけではありません。劉邦とその軍師である張良が仕組んだ心理的な計略です。

 気分が淋しくなる夜中に、疲れ果てた楚の兵士は、懐かしい故郷の歌声を聴いて、ホームシックになり、戦意をくじかれました。劉邦と比べると、項羽は力と勇気がありすぎて、計略が足りないということでしょうか。結局、烏江で攻められ、自殺することになりました。

 「四面楚歌」。敵に囲まれて孤立し、助けを求められないことのたとえです。周りに味方がなく、周囲が反対者ばかりの状況をもいい、孤立無援ともいいます。 「四面楚歌」のような状態に陥りたくありませんね。周りの人たちと仲良くしましょう。

 朝三暮四(ちょうさんぼし)

 面白い故事がありますので、ご紹介します。

 宋の国に猿が大好きなおじいさんがいました。おじいさんはたくさんの猿を飼っています。彼には猿の心がよくわかり、猿もまた彼の心がわかるといいます。おじいさんはそんなに裕福ではありませんので、家の者の食べる物をへらして、猿に食べさせていました。

 ところが、ある時、おじいさんの家は更に貧乏になってしまいました。おじいさんは困って、猿の餌を減らすしか方法がなくなってしまいました。 せっかく自分に馴れている猿の機嫌をそこねてはまずいと思い、まず猿たちにこう言いました。

 「お前たちにドングリをやるのに、これからは朝に三つ、暮に四つにしようと思うがどうだ?」

 すると猿たちは皆怒り出しました。それを見て、おじいさんはこう言いなおしました。

 「それじゃ、朝は四つ、暮に三つということにしよう。そうすればよかろう?」 

 猿たちは皆喜んで身体を伏せて、おじいちゃんの言うことを聞きました。 

この寓話は『列子』の「黄帝篇」から来ています。もともとの意味は、利巧者が愚かなものを騙すことを暴露することにあります。ドングリの数は実は変わっていません。ただ、朝三、暮れ四から、朝四、暮れ三に変わってだけです。実際は一日食べる量は同じです。巧みな言い方に騙されないよう戒める言葉です。

 目先の違いにとらわれて、結局、同じであるということに気付かない、というのが、愚かな猿たちですね。

 さて、中国ではこの四字熟語は今でもよく使われますが、残念なことに、長い時間が経ち、いつかその出所が分からなくなり、もともとの意味がもうひとつの四字熟語、「朝秦暮楚」と間違えられたのです。

 これはおそらく言葉の構造が似ているからでしょうね。「朝秦暮楚」。これも「四分五裂」と同じように、戦国時代にまつわる言葉です。戦国時代に林立する国々の中で、秦と楚が一時的に強かったのです。弱い国が自らの勢力を保ち、存続するためには、秦と盟約を結んだかと思うと、また、それを破り、楚と連合するようになったことが出典です。つまり、考えがころころ変わって定まらないことを表します。

 というのは、現代中国語では、「朝三暮四」は、「朝秦暮楚」と全く同じ意味で使われているということです。言葉の意味が変わって、ちょっと残念ですが、これを考察することが面白いですね。

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