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貨殖列伝(下)

2015-06-23 18:56:28     cri    
























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 (貨殖列伝・序言)周の時代、軍師姜太公(じゃんたいこう)は、現在の山東省にある営丘という土地を領地としてもらった。その土地はほとんどアルカリ性の貧しい土壌で、住民は少なかった。姜太公は地元の女性に紡績の仕事を与えると共に、魚や塩を外部に流通させることを支援した。すると、各地の住民はひっきりなしにここにやってきた。その後の春秋戦国時代になると、姜太公の領土を基に斉の国ができた。この斉の国で作られた冠や帯、衣服、靴などは全国範囲で売られるようになった。東中国海から泰山までの小さい国々の王が恭しく斉の君主に謁見するようになった。後に、斉は一度衰退したが、その時の名人管仲は太公の政策を修正。物価を調節し、資金を貸し付ける部門を設置した。これによって、斉の桓公は覇王となり、各国の諸侯と何回も会合を開き、世の中のルールを正しい道に乗せた。管仲も税金を集めたりし、斉の家臣でしかないのに、諸侯国の君主よりも金持ちになった。斉の強い国力は後の威王や宣王までの時代にも続いた。

 *姜太公って、どんな人物なのか

 姜太公、苗字は姜、氏は呂、名は尚と書く尚(しょう)、字は子牙。姜公という尊称の他、呂尚或いは太公望といった呼び名で知られています。姜太公は数々の伝説に包まれた人物です。紀元前1156年に生まれ、紀元前1017年に死去し、139歳だったそうです。商の末期から周の初期に活躍していた政治家・軍事家です。80歳までは特に大きな功績がなく、ただただ読書ばかりし、貧乏な暮らしを送っていました。

 商の時代の最後の王、紂王(ちゅうおう)は、専制的で暴虐な政治を行いました。呂尚はいつか商王を倒す運動が発生する。そうなれば、きっと誰かが自分を家臣として求めてくるだろうと考えていました。その時、河南省を中心とした商の国の西部にある周の国は、後に周文王となる君主、姫昌が、経済発展を促し、国民に福祉をもたらす政策を行っていたので、日々国力は強くなっていました。この姫昌という有能な君主が国を治めるため、有識者を求めていることを聞き、呂尚は商を離れ、周の領地に入り、現在の西安の近郊にある、渭水の支流で、静かに魚釣りをしながら、待っていました。なぜ魚を釣ることで、周の君主、姫昌を待つことになるの?いったいどうやって、周の君主の目にとまったのか?と聞きたいでしょうが…

 中国では、姜太公にまつわるあることわざがとても有名です。"姜太公钓鱼,愿者上钩"「太公望の魚釣り、相手が自ら望んで引っかかってくる」。この物語をお話すると、諺の意味が分かると思います。

 姜太公の釣りは実は魚釣りではありません。なぜかというと、釣りに使う針は餌をかけるため、曲がっています。しかし、姜太公はまっすぐな針を使い、さらにあえて釣り針を水中には入れず水面からおよそ1メートルも上に垂らします。もちろん、魚がつれるはずがないですよね。通りかかる人は不思議に思います。「こうやって、魚を釣ると、100年経っても1匹も釣れないじゃないか」と聞きますと、姜太公は、このように答えました。「正直に話そう。わしは魚ではなく、天下を釣りたいんだ!」と堂々と公言しました。

 そうすると、この奇妙に聞こえる話は、ついに周の君主、姫昌の耳に伝わります。姫昌が自ら呂尚を尋ねてきて、「あなたこそ太公(祖父)が待ち望んでいた人物だ」と認めました。これが、太公望という名前の由来です。日本語では、「太公望」は、魚釣り、釣りが好きな人の意味ですね。それもこの話から来たのでしょう。

 最終的に、姜太公は文王やその息子の武王に仕える軍師となり、商を滅ぼし、周を確立しました。まあ、「太公望の魚釣り、相手が自ら望んで引っかかってくる」"姜太公钓鱼,愿者上钩"という諺では、自ら望んで引っかかってきたのは、周の文王でしたね。

 司馬遷がこの「貨殖列伝・序言」の中で述べたように、成功した姜太公は後に、山東省の営丘一帯を領地として封ぜられました。貧しい土地ですが、姜太公は地元で多く取れる魚や塩の商売を進めると共に、女性に紡績の仕事をさせました。山東省一帯は後に斉の国になりましたので、姜太公は斉の始祖として、斉太公とも呼ばれています。

 現在でも、山東省は、農業や貿易が発達した土地ですね。日本との貿易も盛んに行われています。日本のアパレル系を含めて、多くの製造業企業が山東省に工場を持っています。これらも3000年も前の時代から築かれた良い基盤があったからなんでしょう。  

 (貨殖列伝・序言)だから、管仲はこう語った。「倉凛(そうりん)みちて、すなわち礼節を知り、衣食足りて、すなわち栄辱を知る」。つまり、米倉がいっぱいになるとマナーをわきまえるようになり、衣食が十分に足りるようになると名誉や恥を知るようになるという。マナーは豊かになる時に生まれるもので、貧しい時には自然と忘れられてしまう。このため、君子は金持ちになってから始めて、慈善などをし、恩義を施すようになる。庶民が豊かになって、初めて自分の労働力を調整できるようになる。深い川に、魚が自然に集まり、山奥に動物が駆けつけるのと同じように、人間が豊かになれば、自然と仁義を考えるようになる。金持ちは勢力を持つと、一層影響力を持つようになり、勢力を失うと、流浪の人と同じように落ち着かない。少数民族の地域では、このような情況はとても明らかである。だから、「いっぱい金を持つ者は、乱雑な場所で死なない」という俗語も一理あると思う。世の中の人は、誰でも利益のために生きている。いっぱい財産を持っている国の君主や諸侯、大臣たちでも、貧乏なことを苦にしているから、普通の庶民は尚更そうであろう。

 *「倉凛満ちて、すなわち礼節を知り、衣食足りて、すなわち栄辱を知る」

 管仲は斉の国の宰相でした。こんな名言があります。「倉凛(そうりん)みちて、すなわち礼節を知り、衣食足りて、すなわち栄辱を知る」。「倉りん」は穀物を入れる蔵。つまり食糧倉庫です。直訳すれば、食べることに不自由がなければ、人間はマナーを知るようになり、衣食住に不自由がなければ、名誉や恥を知るようになる。つまり、生活にゆとりができさえすれば、道徳意識はおのずから高まるという意味ですね。

 管仲は斉の宰相になってから、貨物の流通を促し、富を蓄え、斉の国力を増強させました。後には、斉は春秋時代の初の覇王となりました。「倉凛(そうりん)みちて、すなわち礼節を知り、衣食足りて、すなわち栄辱を知る」。これは斉の国が富国強兵に向けての指導的思想となりました。現代の言い方で表現しますと、経済基盤によって、上部構造=意識や考え方が定まる」という意味でしょうね。

 二千数百年前の当時は、経済が発達していなかったので、あれこれと道徳・モラルばかりで国民を抑えるよりは、経済と貿易を促進し、国力を強めたほうが正しい道であり、きわめて先見性があると思います。でも、その言葉の延長線上に、「経済が進めば進むほど、人間のマナーや名誉・恥を知る意識が高まる」という言い方はどうでしょうか?

 今の社会の現状から見てみますと、当てはまらないかもしれませんね。昔と比べると、現在は経済が比べられないほど、とても進んでいますが、人々のメンタル面では、マナーや名誉、恥どころか、自分自身を失ってしまっているところもありますからね。(文章:ZHL)

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