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日本の敗戦まであと1か月の7月半ば、父親が中国東北部の阜新で病死しました。一番最初の子供で、長男でもある恵さんが12歳でした。母親は5人の子供を連れて早く日本まで帰りたく、日本行きの船が出る葫芦島市を目指して、逃走が始まりました。しかし、混乱と危険から逃れたく、結果的に目的地まで150キロほどの鉄道幹線沿いの村に住みつくことになりました。母親は、どんな時にも手放さなかったミシンを使い、裁縫をしながら、一家の生計を立てていました。
長男の恵さんも地主の家へ豚や牛の世話をするようになり、家計を助けていました。
「僕が一生、中国人と交流したいことの原点は、まさにこの時の体験によるものです。農家の人たちがぼくらを受け入れ、守ってくれたからです」
インタビュー2回目では、引き続き遼寧省北鎮県六台子村蘇家街で過ごした少年時代の思い出です。
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