今回は北京放送リスナー暦30年の篆刻愛好者・奥田正彦さん(雅号:奥田黄石)にお話を伺います。この秋、CRI主催の「和而不同」書画展に篆刻作品を出展してくださり、開幕式にあわせて北京に来てくれました。
今回はとりわけ、奥田さんが最近精力的に取り組んでいる「七十二候(しちじゅうにこう)」にちなんだ創作活動についてお話を伺いました。
45年も篆刻に惹きつけられてやまなかった奥田さん。一体、篆刻のどこに惹かれたのでしょうか。奥田さんが篆刻を通して見えた世界をほんの少し覗かせていただきました。
(左)奥田黄石さん10月作「哀音動人」、(右)11月作「茶香」
奥田黄石さん10月作付きの説明文
奥田黄石さん11月作付きの説明文
【奥田正彦さんの寄稿】
七十二候を篆刻する
爺爺が七十二候に興味を持ったのは、〈旧暦のある暮らし『日本の七十二候を楽しむ』〉という本を読んだのがきっかけです。
七十二候というのは、古代中国に考案された季節を表す方式のひとつで、二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のことです。
七十二候にはそれぞれ名称がついていて、花や鳥、虫や植物の動向など、繊細な気候変化を美しい短文で表しています。
五感を磨き、止まらない時を肌で知る目安にもなるので、この名称を篆刻でやってみようと思い立ちました。
欲張って、日本の暦「略本暦」と中国の暦「宣明暦」両方の名称を刻しています。
今回北京へは「和して同ぜず」東北アジア書画展で来たわけですが、開幕の9月8日は、二十四節気では白露にあたり、七十二候ではその初候という ことになります。日本の略本暦では草露白(くさのつゆしろし=草に降りた露が白く光る)、中国の宣明暦では鴻雁來(こうがんきたる=雁が飛来し始める)というふうになっています。
名称の中には、「野鶏入水為蜃・やけいみずにいりおおはまぐりとなる(キジが海に入って大ハマグリになる)」とか、「腐草為蛍・かれたるくさほたるとなる(腐った草が蒸れて蛍になる)」といった実際にはあり得ない事柄も含まれています。
でもこれには出どころがあって、『菜根譚』(明代末期・16世紀末)を読んでいると、前集の第二十四の中に「腐草は光なきも、化して螢となりて采(さい=いろどり)を夏月に耀かす。まことに知る、潔(けつ=きよいもの)は常に汚(お=よごれたもの)より出で、明(めい=ひかりかがやくもの)は常に晦(みそか=くらやみ)より生ずるを」とあります。また『礼記(らいき)』に「腐草螢となる」とあり、『淮南子(えなんじ)』にも同文があります。
前漢時代からこのように伝承されていたことを学び、七十二候の名称が多く礼記から引かれていることを知り、あらためて中国文化の奥深さに頭が下がります。
5-6日間に二つの印を刻すと言うことは、篆刻ばっかりやっているわけではないので、考える時間=推敲の時間がありません。卆意の刻で爺爺の地が出て、いかほどの印ができるかを自分自身で楽しむというか、見どころじゃないかと思っています。
ここからは脱線。
暦にはいろいろあったのですが、平安時代のはじめに「宣明暦」が伝わったのち、894年の遣唐使廃止以降は、中国との国交もまったく途絶えてしまったので、日本では暦が全然変わらないという状況が続きました。つまり、862年から1683年まで、約820年もの間宣明暦が用いられたのです。これはローマのユリウス暦(約1000年間)と並ぶ期間です。
これは宣明暦が優秀だったからではなく、日本には変える機会がなかったためです。日本で800年以上もの間、同じ暦がずっと使われていた間に、中国ではいくつもの暦が変わっていきました。その中でも画期的だったのが元の「授時暦」です。
江戸時代、幕府の中に澁川春海という人がいました。彼は天文学を学び、宣明暦の矛盾と授時暦の優れた暦法を知って、暦の改正に取り組むことを決めました。
最初、彼は授時暦を採用するよう、幕府に運動しました。しかし、1675年に起きた日蝕が、授時暦の予報がはずれ、宣明暦の方が当たってしまったために、春海は自ら暦を作り出すことを決意します。8年がかりで作り上げた新たな暦法に彼は「大和暦」という名をつけ、幕府に採用するよう願い出ました。ちょうどこの年(1683)、宣明暦が予言した月蝕が起きなかったため、春海にとっては順風でした。しかし、幕府としては当時の清王朝で用いられていた時憲暦を採用しようと決定したのです。
そうこうしているうちに、世の中は動き、明治維新を迎え、西洋の様々な制度が日本に輸入され、暦もそれにあわせて変える必要が出てきて、明治新政府による改暦がはじまるのです。
古代のものがそのまま使われている二十四節気に対し、七十二候の名称は何度も変更されています。日本でも、日本の気候風土に合うように何度か改訂されました。1874(明治7)年の「略本暦」では、それまでと大幅に異なる七十二候が掲載され、現在ではこの七十二候がつかわれています。
芒種次候の「腐草為蛍(かれたるくさほたるとなる)」は、「枯れた草が蛍になる」という意味で、明治15年までは略本暦に記載されていましたが、どうも嘘っぽいとの理由で明治16年の暦ではこの候だけが外され、明治17年からは七十二候そのものが暦から削除されました。
【プロフィール】
奥田正彦(おくだ・まさひこ)さん
北京放送リスナー暦30年、篆刻暦45年の愛好者。
1935年大阪生まれ
東京の出版社でデザインと印刷の仕事を担当。1997年、定年退職と共に中国留学へ。
北京第二外国語学院(大学)で1年間留学した後、旅先で上海の篆刻家と出会ったことが
きっかけで、1998年9月から上海師範大学へ留学。翌年帰国。
1970年篆刻と出会い、現在は府中市のご自宅で石と戯れる日々を送っている。
<関連リンク>
【奥田黄石・花と篆刻のブログ】http://okudamasahiko.cocolog-nifty.com/blog/
【ウェボー】淘气爷爷爱北京
【CRI2015年花便り】奥田正彦さんの花アルバム
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