「意義ある参加」
青海省西寧市 馬有福
こんな人が視野に入るとは思っていませんでした。それ以上に思いも寄らなかったのは、その現れ方です。私は、北京からわざわざ来た張承志さんに付き添って、西寧市で彼の遺骨を埋葬する儀式に参加したのです。その人は、面識すらない日本のお年寄り、服部幸雄さんでした。
服部幸雄さんは、前世紀である1990年代、張承志さんと日本で知り合いになったそうで、内蒙古の東蘇木という地図では分からない草原の一角が彼らを結びつけ、友情が芽生えたとのことです。それは、功利的な色彩など全く混じらない、試練にも咀嚼にも耐え得る友情で、私たちがいつも言う「水の如く淡い」個人の付き合いでした。このことについて、張承志さんは『追憶の蘇木』と題する文章でしっかりと述べています。
私が張承志さんと知り合ったのは、2003年の夏のことでした。その年、青海人民出版社から彼の20年間の散文選集『夏台の恋』が出版されました。彼は出版社の求めに応じ、著書のサイン会に来ていたのです。友人の紹介で顔を合わせた私たちは、夕食を共にしました。私はそれまでに彼のほぼ全作品を読んでいたので、その日はとても興奮し、話もとりとめのないものになっていしまいました。最も忘れられないのは、彼の半袖シャツに刺繍されたアラビア語です。「唯ひとり、神(アラー)のみが勝者である。」という。「スペインのある国王が、自分の宮殿に刻ませた名言なのです。」と彼は言っていました。その時から、私たち二人の付き合いは、日ごとに親密さを増していきました。あっという間に4年です。毎年、私たちの間には忘れられない付き合いや話題がありました。
去年の旧正月には、公用で私が北京へフィルム審査に出ている間、ほぼ毎週のように張先生と過ごしました。まさにその時、彼がこの服部幸雄さんという人に言及したのです。その人と青海省との幾千万筋にも交わる感情や関係について聞きました。そして、その人の青海省での具体的な生活を尋ねてごらんと言われたのです。私が調べやすいようにと、彼は私に青海省政治協商会議、青海民族学院などの情報に詳しい人物を教えてくれました。
時は半年以上流れて、服部さんの遺骨の埋葬の儀が西寧で執り行われるなんて、誰が想像したでしょう。この知らせは、張先生に不安にさせました。すぐにも訪れるラマダンをも顧みず、9月8日の夜11時40分、彼はムスリムの身分を表す白い帽子を被って西寧空港に現れました。彼は、「ラマダン前にこの願いを果たしたいのです。」と言いました。こうして、私は張承志さんに付き添って、面識のない日本人?服部幸雄さんの遺骨を埋葬する儀式に参加したのです。
2007年9月9日、西寧南山公墓。遺骨を携えて日本から来た服部幸雄さんのご夫人、ご長男、ご次男と娘さん以外は、多くが青海省政治協商会議の指導者と自発的に各地から駆けつけた一般の人々でした。彼らは、服部さんが生前に助けてきた地区の教師と一般の人々の代表でした。彼らの心中は、服部さんの生前の生活のあれこれに激しく沸き立っていたでしょうに、この日は表情も厳かに押し黙っていました。彼らの硬い表情には、貧しい子供に優しく控えめな日本のお年寄りへの想いを感じ取ることができました。
聞くところによると、服部さん本人も決して裕福ではなかったのに、衣食を切り詰め、自分の収入のほぼ全てを差し出し、青海省各地の貧しい学校に、誰も確かな数字を知らない額?数百万元を寄付したのだそうです。ある年、青海省に来る前、彼自身にはお金が無かったので、お姉さんから100万円を借りました。尊敬の念を起こさせたのは、彼という人は行動しても、メディアの取材を一切受けなかったということです。結局いくら寄付したのかということを、彼はずっと誰にも教えませんでした。ご夫人によると、彼は本当にそういう人?「口に出すようなら、彼ではない」とのことでした。
その日の儀式自体について言えば、私が忘れられないと感じたのは、多くの文明の形が融合した儀式だったということです。袈裟を身につけたラマ僧が、死者のためのお経をあげていたり、スーツなどの様々な出で立ちをした一般の人々が、故人に三礼をしたり…と。先生と私は、手を合わせて祈りを捧げました。多分、黒い和服をまとった服部幸雄さんのご夫人とご子息、ご息女は、止むことのない感慨を覚えたことでしょう。今日のように粗野で窮屈な時代にあって、一人の人間が多くの民俗、多くの文明に推戴を受けることができるとは、なんと大きな名誉であり、大きな成功なのでしょうか。この一人のお年寄りの遺骨を埋葬する儀式に参加して、安寧を得ないということがあるでしょうか。
日本が私たちの心に残した傷は余りにたくさんあります。そのため、私は、個人的には全ての日本人に対して好感を持っていませんでした。しかし、服部幸雄さんの前では、長らく私の心を占めてきたこの意識を、急に否定したくなったのです。私と張承志さんは、終始、ムスリムの身分を示す白い帽子を被っていました。その場面で、私たちは、両手を広げてムスリム式の黙祷を捧げ、自身の行動によって国家の歴史的な罪を洗い清めた高貴なる霊魂に敬意を表しました。
こうした埋葬儀に参加して、私たちの姿にも表情にも何ら作り事はありませんでした。ですから、重視に値する参加であったと思えるのです。
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