「友情の種を蒔き、共に青春を」
中国山西省太原市 趙 春
1984年9月、220余りの団体から集まった3,017名の日本の青年が「日中友好の翼」10便に分乗し中国を訪れました。これこそ、中日の友好交流史上でも美談と伝えられている「日本の青年三千人による訪中」活動です。この活動では、日本の青年が中国の工場、農村、学校を見学し、中国の人々から心のこもった友好的なもてなしを受けました。特筆に値するのは、当時全国青年連合会の主席だった胡錦涛氏がその全日程に参加していたことです。1985年3月、全国青年連合会の主席であった胡錦涛氏が数百名の中国の青年を率いて日本を訪問しました。1984年と1985年の中日両国の青年相互訪問は、中日の青年友好交流史に見事な一頁を加えました。
2008年5月、胡錦涛国家主席が訪日中に早稲田大学で講演をした時、彼の人生で忘れがたい経験について触れました。往時を振り返り、胡国家主席が感慨を込めて語ったのです。「こうした経験は、青年時代に蒔いた友情の種は永遠に私たちの人生と共にあるということを教えてくれました。」と。この話を新聞で見かけたとき、思わず心にざわめきを覚えた私は、目を潤ませてしまいました。
20年余りが過ぎ、あの時の凛々しい中日青年はもはや若くはなくとも、こうした青年たちの友好交流は、彼らの心をずっと結んでいるのです。その心の中で、中日間の友好は、歳月の移ろいに色褪せることはなかったのです。若い頃、心に蒔いた友情の種は、20余年の時を経て、天に届くほどの大樹に育ったのです。
20年後、当時その交流活動に参加した多くの中国人と日本人は、ともに中日友好を促進するため我を忘れて働いています。1984年の訪中の際、突然胃から出血した穂積一成さんは、中国の医師に救命措置をしてもらってから、中国の皆さんに貢献しようという思いが芽生え、二度訪中して日本語を教えてきました。当時、中日友好のため、お腹の底から大きな声を出して歌っていた日本のスター芹洋子さんは、今でも中日友好に力を注いでいます。
その20余年前の素晴らしい出来事は、今でも懐かしいものです。20余年来、中日両国の関係は、のどかな春も長い冬も過ごしてきました。その間に歩んだ道は決して平坦ではありませんでした。それでも、中日両国国民の友好の種は旺盛な生命力を保っていました。2006年から、前後して両国指導者の「氷を砕く」、「氷を溶かす」、「春を迎える」、そして「暖かい春」の旅により、中日関係は新しい生命力と活力を奮い起こしました。特に、胡錦涛主席と福田康夫首相による両国青少年の友好交流の強化に関する提案は、更に何億万という中日両国の青年間の意思の疎通、理解そして友好の道を、また両国の平和的、友好的、互恵的な未来につながる輝かしい道を指し示しました。
過去百余年の歴史を振り返ると、日本の軍国主義が中国に対して発動した侵略戦争は、中国国民に深刻な災難をもたらし、さらに、日本人をも戦争の苦難と影の中に深く陥れました。中国人であれ日本人であれ、永久に忘れられない重い歴史なのです。しかし、戦争が中日両国の人々を傷つけたからといって、中日両国の青年が、再び先人の背負った歴史の重荷を担いで苦難の道を行く必要もありません。「山をもってしても、流れを妨げることはできない。」のです。結局、先人の経験した戦争と苦難はすでに過去のものとなり、今日の中日の青年は更に気軽に、更に打ち解けて一緒に座り、互いに理解し、意思を疎通し、交流し合うべきなのです。世界は日進月歩し、時代は飛ぶように進む今日、平和な環境で成長してきた日本の青年が平和と温情ある友好を熱愛する世代なのだということは、十分に信じることができるのです。互いの間に十分な理解と信頼を打ち立てるだけで、中日両国の青年は友達になれるのです。もちろん、その全ては、中日両国の青年間の広くて、深くて、末長い疎通や交流と一瞬たりとも切り離すことはできせません。
青年とは、国家の中で最も活力ある世代層です。青年の価値観は、かなりの割合でその国の発展の方向性を決定します。中日の青年が、今日の積極的な交流を通じて相互の信頼と友情を促進することにより、中日両国の明日は期待できるものとなるのです。現代の中日の青年としては、当然、両国の指導者の呼びかけに応えるべきです。「2008中日青少年友好交流年」に際し、相互交流を強め、相互理解を深めて、広い視野と度量、そして理性的な態度で相手を信頼して受け入れ、共に青春の活力を漲らせた友情を築くのです。こうしたことが、中日両国の現世代より1つ上の世代にある宿怨の前提をほどき、また、未来に向かう世代の友好的な隣国となる基礎を両国間に築くのです。そして、このことこそ、平和を愛する両国民の共通の願いでもあるのです。
|