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首里城正殿 |
康熙帝から贈られたとされる扁額 |
首里城は、琉球王国の幾多の興亡を伝える歴史の証人である。
1879年は、首里城にとっては500年余り続いた王城の歴史の終焉の年であり、その後の悲劇の始まりの年でもあった。この年の3月27日、日本政府から派遣された松田道之が熊本鎮台兵400余名、警官160名、官吏32名を率いて首里城にのりこみ、直ちに南殿に王府高官らを召集し、廃藩置県を宣言した。この時から首里城は、第六師団熊本鎮台沖縄分遣隊が駐留する陸軍省の所轄地となり、荒廃の一途をたどることになります。
1945年に首里城は米軍の猛攻撃を受け炎上し、地上からその姿をほぼ完全に消してしまったのだ。1992年11月3日、首里城は、18世紀以降の首里城をモデルとし復元された。2000年12月には首里城跡が世界遺産に登録されている。
首里城に入るには、まず守礼門を通らなくてはならない。守礼門は中国の牌楼によく似ている。首里城の城郭内部に入る最初の門が勧会門であり、門の左右には獅子(shisa)が配され門を守っている。
中に入ってまず目にしたのは、中国の隋朝人が着た服と思われる衣装を身に着け立っている50代前後の男性だ。ガードマンだという。後ろにカップルの話し声が聞こえた。どうも外国のようだねと。確かにここで目にしたもの、感じ取ったものは日本文化よりも、古代中国の文化と琉球文化を融合しあった文化ではなかろうか
首里城でよく冊封使という言葉を目にする。琉球王朝が成立する前の、群雄割拠の時代に終わりを告げようとする頃、中山の察度(さっと)王の時代、1372年に中国・明の太祖の招諭招聘を受けて、弟の泰期を遣わし、貢物を献上した。そうした朝貢の礼に対して明は「汝を封じて琉球王国とする」という勅書をあたえた。それを冊封といい、その勅書を持って琉球へやってくる使者を冊封使といった。
中国が正式に琉球に対して冊封使を使わしたのは1404年でそれ以後、琉球の国王が亡くなり、新しい国王が即位する度に、中国・明や清朝時代には冊封使が遣わされました。それは琉球王朝最後の王・尚泰が即位する1866年まで続きました。これを冊封体制と言う。冊封することは、朝貢することすなわち、貢物を中国に献上すると、中国からはそれを上回る莫大な貿易利が得られたと言う。琉球は中国の配下になり、名を捨て実をとるというものであった。中国の配下といっても名目上のことで、冊封が続いた四百年余りの間、中国から内政干渉を受けたことはなかったのである。
日本の関係資料を調べ以上のことが分かった。
首里城正殿の二階に入って人々の目を引くのは真ん中に掲げれている『中山世土』という四文字が書かれた扁額である。複製品である。それは、1683年、尚貞王を冊封するさいに、康煕帝から下賜されたもので、冊封正使されたもので、扁額の大きさは幅l.47m、横3.75mで、重量は約160kgである。
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