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元八路軍の日本人兵士・小林寛澄さん「軍事パレードに参加できて光栄」

2015-09-02 14:17:30     cri    

 日本八路軍・新四軍戦友会会長の小林寛澄さんは、抗日戦争の日本人元兵士代表として、9月3日に北京で行われる中国抗日戦争勝利70周年軍事パレードに参加する。軍事パレードの前日、小林さんは中国で96歳の誕生日を迎える。人民網の記者が小林さんを取材し、中国人と共に日本帝国主義の侵略に対抗した時のことを語ってもらった。

 ▽日本人として八路軍に、「一生の誇り」

 小林さんは高齢だが、耳がやや遠くなったほかは身体は問題なく、頭脳明晰で、自分の力で歩くこともできる。少し前には、東京都内の在日本中国大使館を自ら訪れ、「七七事変」(盧溝橋事件)の記念イベントにも参加した。今回の軍事パレードへの参加を招待されたことについて、小林さんは「光栄に思う。うれしい」としたほか、「抗日戦争勝利70周年を盛大に祝うことで、中国人の民族精神を団結させ、民族の自信と誇りを高めることができる。また、歴史を歪曲し、侵略戦争の歴史を美化しようとする、時代の流れに逆らう行為に警鐘を鳴らすことができる」と語った。

 小林さんは自らを国際人だと考えている。日本人であると同時に中国人でもあるのだ。小林さんにとって、中国に行くのは故郷に戻るのと同じであり、中国は祖国のようなものだ。小林さんは取材に対し、中国語で抗日戦争に参加した経歴を語ってくれた。「軍事パレードでは、抗日戦争に参加した他の兵士にも会うことができる。彼らと会って握手できれば、どんなに感激することだろう」。小林さんは抗日戦争の戦友をずっと気にかけていると言い、取材中にも何度も彼らの名を口にしていた。

 日本兵として八路軍の捕虜になった小林さんは、自らの抗日戦争の経歴を誇りに思っている。彼は日本帝国主義の侵略に対する中国人の抵抗の闘争に参加し、新たな人生を得ることができたからだ。小林さんはかつてスピーチ原稿の中で、「八路軍の捕虜になったあの日、昔の私はいなくなった。中国人が新しい人生を私にくれた。日本人八路軍は、私の一生の誇り」と記している。

 ▽捕虜に対して日本軍よりはるかに寛容な八路軍

 小林さんは1919年9月2日に群馬県の裕福な寺の住職の家に生まれた。高校卒業後、小林さんは実家の寺を継ぐはずだったが、1年後の1940年に徴兵されて中国の青島付近に派遣され、軽機関銃手となった。1941年6月19日、小林さんの所属する部隊は付近の山にいる八路軍を攻撃するよう命じられたが、逆に八路軍の待ち伏せに遭い、弾薬手だった白戸利一さんと共に山中で身動きが取れなくなってしまった。

 逃げ場のないことを知った小林さんと白戸さんは自決することを決意。軍人として、捕虜となるのは恥だと思っていた。小林さんは当時を振り返り、「あの時は本当につらかった。戦友に向かって発砲するのはどうしても躊躇われたが、捕虜になっては絶対にいけないと思った」と語る。白戸さんから懇願され、小林さんはついに腹部に向かって発砲する。その後、小林さんは軽機関銃を自分の頭に向けて発砲し、自殺しようとした。

 発砲後、小林さんは気を失ったが、銃弾は頭の皮を掠めただけで、死んではいなかった。目が覚めると、小林さんは八路軍の捕虜となっていた。八路軍は日本語で「捕虜は殺さない。優待する」と何度も呼びかけたが、小林さんは恥と怒りに耐え切れず、何度も自殺しようとした。しかしその都度、八路軍によって止められた。

 自殺ができないと知った小林さんは、まずは八路軍に従い、機会を見て行動に移そうと考えた。幸い、小林さんが腹部に向かって発砲した白戸さんも命をとりとめており、2人は八路軍が付近の農家から持ってきた戸板に乗せられて付近の村に送られた。八路軍の尋問に対し、小林さんは初め、嘘の情報を伝えていた。八路軍をおびえさせようと、付近では日本軍が軍備を整えていると言ったりもした。しかし八路軍は小林さんの嘘を暴かなかったばかりか、傷口の治療をし、食事を運び、八路軍の軍服に着替えさせた。小林さんは、八路軍の捕虜に対する態度は日本軍よりはるかに上だと感じていた。

 その後、小林さんは八路軍と共に各地を転々とした。途中、多くの村が日本軍によって焼き討ちに遭い、村民が殺害されているのを見て、徐々に恥ずかしいと感じるようになった。小林さんは捕虜であったが、八路軍の幹部と兵士は友好的な態度で小林さんに接した。小林さんは現地の八路軍が開催した中国共産党創立20周年大会に招かれたほか、傷の治療、食事にいたるまで、一般の兵士よりも良い待遇を受けた。日本語が話せる八路軍の幹部は抗日戦争の性質について彼に語り、日本語の関連書籍を渡した。

 ▽中国人と共に侵略戦争に対抗

 小林さんは八路軍から信頼され、重視されていると感じるようになった。「九一八事変」(満州事変)10周年の1941年9月18日、小林さんや小林清さんら数人の日本人は反戦同盟膠東支部を結成、正式に八路軍の一員となり、中国国民と共に抗日戦争に参加することになった。

 この変化について小林さんは「75年前、私は八路軍の兵士に銃口を向けた日本兵の1人だった。八路軍の捕虜になった後も、八路軍は私を敵として扱わず、十分な自由と平等を与えてくれ、私を友人、兄弟、同志として扱い、私の目を覚ましてくれた」と語る。小林さんは捕虜になった後、日本の帝国主義が中国に対して発動した戦争は、正義のない侵略戦争であったと理解し、侵略を食い止めるべきであること、中日両国の国民を日本の軍国主義から解放すべきであることを悟った。

 小林さんは他の反戦同盟のメンバーと共に、日本軍に向けた反戦のビラを書き、配った。また、日本軍が通り過ぎた場所には標語を書いた。彼らは日本軍の電話線を利用して日本の兵士に電話をかけたり、八路軍兵士の援護の下、日本軍の拠点の近くで、大きな声で投降を呼びかけたりした。

 小林さんは積極的に働き、勇敢かつ忠義にあふれていたため、山東軍区反戦同盟魯中支部副支部長に任命された。1943年の八路軍山東軍区関連会議において、小林さんは在中日本人反戦同盟華北聨合会山東分会委員に選ばれた。1944年8月、小林さんは日本人民解放聯盟浜海支部の支部長となり、聯盟のメンバーを引き連れて反戦の宣伝を積極的に行った。

 ▽在中日本人反戦同盟のことを一生忘れない

 1945年に日本が降伏した後、小林さんは解放戦争に参加した。新中国成立後は、東北地域、済南市政府外事弁公室などで働いた。1953年、小林さんは内モンゴル豊鎮人民病院の副院長になり、それから2年後の1955年12月18日、組織の手配により、船で日本に帰国した。

 日本に帰った後、小林さんは組織の工面したお金で東京で不動産を購入し、遠洋商船の中国語通訳の仕事を得た。仕事をする一方で、小林さんは中日友好にも取り組んできた。1967年、日本に帰国した日本人八路軍・新四軍の退役軍人の組織が結成された。これが日本八路軍・新四軍戦友会だ。小林さんは3代目の会長を務めた。今も健在の日本人八路軍は小林さんと、初代会長の前田光繁さんのみだ。

 2005年、小林さんは中国政府の招きを受け、日本の元兵士訪中団代表として訪中し、抗日戦争勝利60周年記念大会に出席した。

 小林さんは、「中国の抗日戦争は、中国の近代史において最も偉大な民族解放戦争であり、世界反ファシズム戦争の重要な一部である。中国の抗日戦争に参加したのは中国国民だけではない。特殊な国際主義部隊--在中日本人反戦同盟も含まれる。私たちは中国国民と肩を並べて戦い、血を流し、犠牲を払い、中国の抗日戦争のために努力と貢献を果たした。私は反戦同盟における生活と戦いの日々を忘れることができない」と語る。「人民網日本語版」より

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