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聞き手:王小燕
現在、日本・東京国立近代美術館フィルムセンターにて開催中の持永只仁展
(左は長女・伯子さん、右は入り口に展示された若き頃の只仁夫婦の写真)
持永伯子さんのお話の2回目です。今週は子どもの視点から見た父親の仕事、そして、戦争の醜さと残酷さ、友情の清らかさを振り返ります。2歳半から父親と共に中国へ旅立ち、その後、1953年5月の本帰国まで、ずっと父の傍で過ごした伯子さんに自らの視点に立ってもらい、当時の実体験を語っていただきます。
持永只仁は1919年東京生まれ、佐賀や中国の長春で育ち、1939年に日本の映画製作会社・芸術映画社に入社、瀬尾光世のもとでセル・アニメーションの修業を積み、『アリチャン』(1941年)では日本初の多層式アニメーション撮影台を開発しました。日本が敗戦直前の1945年5月に、母親のいる中国東北部に渡り、その後、新中国の映画撮影所設立に力を尽くすとともに、アニメーションの製作を指導、後の中国アニメーション界をリードする多くの人材を育てました。1953年に日本に帰国。その後、人形映画製作所を率いて『ちびくろ・さんぼのとらたいじ』(1956年)などの名作を送り出し、またその後も『ルドルフ 赤鼻のトナカイ』(1964年)などアメリカのテレビ・劇場向け作品に携わります。とりわけ『怪物の狂宴』(1967年)は、少年時代のティム・バートン監督にも強い印象を与えました。
1945年10月、日本の植民地支配のための国策映画会社「満州映画協会」は中国人による東北電影公司として再出発。只仁はアニメーション班演出として参加。翌年の5月、東北電影公司は戦火を避け、黒竜江省ハルビン、ジャムスを経由して、シンサン(興山、今の黒竜江省鶴岡市)へ移動。スタッフと家族(うち、81人の日本人が含む)は映画機材を37輌編成の鉄道貨物車に乗せ、10日間かけて移動して、シンサンに到着。6月1日にシンサンに到着して、その後映画根拠地の建設が始まり、10月1日、両国スタッフの総力による「東北電影製片廠」(廠長:袁牧之)が成立しました。
翌年から、ここで制作された大型ニュース記録映画「民主東北」シリーズで只仁が作画、撮影、現像を担当し、また、立体の人形で一コマずつ撮影する人形アニメーションの技法を開発し、「皇帝の夢」などを仕上げました。
1949年4月、前年の長春解放に伴って、東北電影製作所がシンサンより長春に戻ります。
1950年2月、成立したばかりの新中国は美術映画と呼ばれるアニメーション映画の拠点を上海に作る方針を決めました。只仁が立ち上げの会議からかかわり、中国人の仲間と共に上海に向かい、上海電影製片廠の中に「美術組」(1957年に「上海美術電影制片廠」として独立)を創立することになりました。
(左)1950年、上海電影制片廠に新しいアニメーションの拠点を築くため、
持永・特偉を上海に派遣する際の記念写真
(右)1953年、上海電影制片廠にて持永の送別会記念写真
父親の仕事場が上海に移ったのに伴い、伯子さんも祖母、母、妹と共に上海に移住。妹の貴子は1946年生まれで、当時はまだ4歳でした。引っ越しする度に、伯子さんは幼馴染とのさみしいお別れを体験しますが、当時の仲間とは今でも親しい付き合いを続けていると言います。
ところで、中国の動画サイトで「謝謝小花猫」と検索してみると、1951年に制作した14分のアニメーション映像を見ることができます。
冒頭に「演出 方明」と大きく表示されています。「方明」は只仁が当時使っていた中国名です。今でも、当時のことを思い出すと、思わず挿入歌を口ずさむようになる伯子さん。熱い思いが伝わります。
1953年8月、34歳の只仁は、先に帰国した家族を追っかけ、日本に戻ることを決定しました。帰国前に、上海電影製片廠を上げての歓送会が開かれました。
帰国後、只仁は日本、アメリカを舞台に活躍し、数々の名作を送り出しました。一方、中国との絆も途絶えることはありません。1970年代後半から上海美術映画製作所を度々訪れ、交流や指導を続けていました。1985年8月-86年7月、北京電影学院の招請に応え、同大学の「美術電影」(アニメーション)の講師として、北京で一年間滞在しました。
現在、当時の教え子は中国のアニメ業界や教育界の中堅となって活躍しています。北京電影学院では、毎年秋の若手アニメーターを激励する学院賞に恩師の名で命名される「持永只仁賞」が受賞されています。伯子さんも一昨年から招きに応じて、授賞式に参加しています。
今や「方明」だけでなく、「持永只仁」の名も中国のアニメーション界から知られ、若手アニメーターを叱咤激励し続けている存在となっています。
1999年4月、只仁は「アニメーション、アニメーション」とつぶやきながら、東京で永眠しました。父親の思いを語り続けると、いつの間にか、やや震えた声になった伯子さんは言います。
「父は中国を本当に大事にしていました。『中国のアニメーションがうんと世界に伸びていけばいいな』と常に言っていました。日本も負けずに互いに伸びていって、良い作品を世界のみなさんに見ていただけるようにしたら、こんないいことはないな、と思っています」 (王小燕)
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