jpjingji20151201-2.mp3
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聞き手:王小燕
「東京から私の大学時代の先生が、お墓参りに北京に戻ってきますが、会って話を聞いてみませんか」
このようにCRIの同僚から声をかけられたのは秋のことでした。
同僚は中国語放送の所属で、日本語とは関係がないはずなのに。
「先生は日本人残留孤児で、1997年に家族を連れて日本に戻りました。私たちにとって、お父さんのように面倒見の良い、優しい先生でした」と続けました。
同僚が中国メディア大学(当時「中国広播学院」)に入学したのは1980年代の初頭でした。中国では当時大学生は「天の驕子」と呼ばれ、ほんの一握りの人しか大学で学ぶチャンスがない時代でした。"闫老师"と呼ばれ学生たちに好かれていた宮崎さんは、同僚の担任の先生でもありました。そのクラスは後に、中国のテレビ局やメディア界で活躍するジャーナリストたちを輩出しているとも聞きました。
これが、宮崎さんに話を伺うきっかけでした。
1997年、51歳にして、これまでのすべてを捨てて、日本人として人生の再スタートを切った宮崎慶文さん。
本当の親のことは一切知ることなく、苗字、名前、生年月日…すべて養父母に引き取られた後に決めたものでした。
栄養失調で育つのかと心配されていた赤ちゃんは、子宝に恵まれなかった養父母の献身的な愛に包まれ、健康に育ちました。その養父母は1980年代半ばに相次いで病気でこの世を去りました…
戦争が一個人の身に与えた影響、そして、生みの親の祖国に戻った後の暮らしと戦いの様子を51歳から覚えた日本語で一生懸命話してくれました。
スタジオで印象に残ったのは、宮崎さんが日本語で歌った「ふるさと」でした。実に感情のこもった歌声でした。
「ぼくの大好きな歌です。なぜなら、僕が51年間暮らしてきた中国、中でも、子どもの時に過ごした大連の風景が歌いながら、蘇ってくるので…」
今回は宮崎さんのお話の1回目をお送りします。ぜひお聞きください。
【プロフィール】
宮崎慶文(みやざき よしふみ)さん
1945年11月10日(養父母の戸籍上の記録)、中国遼寧省大連市に生まれた。
中国メディア大学での教職を経て、1997年2月に妻と2人の子どもを連れて日本に戻る。
現在は「中国帰国者・日中友好の会」副理事長。戦争孤児が様々な権利を獲得するのを積極的に助けるほか、自らが住む東京都大田区の数千人の中国人の日本でのより良い暮らしを助けるため、同区の「多文化共生推進計画」にも積極的に参加している。
2015年4月に朗読劇「孤児の涙」の脚本を書き下ろし、8月26日に琦玉県所沢市民文化センターで公演。
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