第二十二章:楽器

>>[弦楽器(弦を爪弾く)]

 レワープ

 「レワープ」とは、ウイグル族、タジク族、ウズベク族などが愛用する弦楽器の一種である。600年ほど前の14世紀に考案された楽器だとされている。当時、新疆と国内外の各民族との間で経済文化交流が盛んに行われ、ウイグル族は他民族の楽器の長所を取り入れ、いくつかの新しい楽器を作り出した。「レワープ」はそれらを代表する楽器として、今日まで受け継がれてきた。

 ほとんどが木で作られ、非常に独特な形をしている。その上部は細長く、ヘットは湾曲していて、下のボディーは丸く球状になっている。

 「レワープ」には、3弦、5弦、6弦、7弦、8弦、9弦とそれぞれ異なる種類があるが、いずれも演奏する時は一つの弦しか使わず、その他の弦は共鳴弦の役目を果たすのが共通点である。

 また、高音の表現力が豊かな楽器で、独奏、合奏、伴奏など幅広く使われる。坐って弾く場合も立って弾く場合も背筋を伸ばし肩を水平にしなければならない。演奏者は「レワープ」を胸の前に置き、右ひじでボディーを支え、左手で「レワープ」の上部を持ち、右手に持っているバチで弦を鳴らす。

 「レワープ」には民族ごとにいくつかの種類がある。ウイグル族、タジク族、ウズベク族の三民族は同じ新疆ウイグル自治区で生活しているが、各民族の「レワープ」は種類だけでなく名前や音色なども違う。

 例えば、タジク族では「レワープ」をレブプと呼び、その多くは杏の木で作られている。また、ウイグル族の「レワープ」には、カシュガルレワープ、新型レワープ、ドランレワープ、羊飼いレワープなどがある。

 このなかでもカシュガルレワープは、カシュガル一帯で演奏されていることからこの名前が付けられた。音色は柔らく、音量は比較的小さいのが特徴だ。これに対し、ウズベク族のレワープは形がカシュガルレワープと似ているが、音量や音色の面で大きな違いがある。ウズベク族のレワープは音量も大きく、明るい音を出す。

 柳琴(リュ―チン)

 柳琴は琵琶に似た弦楽器である。柳の木で作られ、形も柳の葉のように見えることから「柳琴」或は「柳葉琴」と名付けられた。初期の柳琴は構造が非常に簡単で、その外見が琵琶によく似ていたことから、一般に「土琵琶」と呼ばれていた。「土琵琶」は昔から山東省、安徽省、江蘇省あたりで地方劇の伴奏用として使われ、今日まで受け継がれてきた。

 柳琴は見た目や構造が琵琶と似ているだけでなく、演奏方法も琵琶と同じで、バチで弦を弾く。演奏する時は、姿勢を正しくし、柳琴を胸の前に置き、左手で楽器を支えながら弦を押え、右手の親指と人差し指の間にバチを挟んで弦を弾きます。この楽器を奏でる姿は非常に優雅である。

 1958年末、王恵然氏が楽器メーカーの技師たちと共に初代の新型柳琴にあたる「三弦琴」を開発した。その後の改良を重ね柳琴は本来の2弦から3弦へと変わり、音階も7つから24に増えた。

 初期の「土琵琶」と比べ新型柳琴の音域は広く、音程の調節も便利になり、音色も高く明るい音になった。70年代になると王恵然氏は更に二代目の新型柳琴「四弦琴」を開発し「高音柳琴」と呼ばれるようになった。

 二代目の新型柳琴は弦や音階の数を増やしただけでは、無かった。もっとも大きな改良面は今まで高粱を使っていた楽器本体に竹を使うようになり、弦も生糸から銅線などの金属性のものに変えたのである。これらの改良により柳琴の性能が良くなったうえに、表現力もより一層豊かになった。これにより200年あまりの間、伴奏楽器でしかなかった柳琴が初めて独奏楽器として舞台に登場するようになった。

 現在、柳琴は中国の民族音楽で多くの役割を果たしている。民族楽団内では、柳琴は弦楽器パートの高音楽器としてよく使われる。独特な音色を生かし高音部の重要な主旋律を担当している。その音色は他の楽器の音に消されにくいことから、時には主旋律を奏でる中心楽器となることもあります。そのほか柳琴は西洋楽器のマンドリンと似たような音を出すことからオーケストラとの相性も良いと言われている。

 古琴(七弦琴)

 古琴(七弦琴)は中国古来の弦楽器である。今から3000年ほど前の周の時代に誕生し、昔は「琴」や「瑤琴」と呼ばれていた。

 古琴は美しく、やわらかで豊富な音色をもっている。昔の人は古琴を演奏する時、一連の儀式を重んじていた。演奏する前、まず風呂に入り服を着替えてから、香を焚き、あぐらをかいて琴を膝の上、或いは机の上に置いて演奏を始めた。演奏方法は、右手で弦を押え、左手で弦を弾く。音程の正確さが厳しく求められる楽器である。

 中国古代の文人と古琴音楽は、密接な関わりがある。多くの文献によると、文人たちは古琴の製作、演奏、鑑賞や普及に大きく貢献をしたことが記されている。

 古琴の製作過程は非常に難しく、ひとつの芸術と見られている。唐、宋の時代は古琴製作の黄金期とされ、巧みな技術でつくられた楽器は芸術性も高く音色も素晴らしく、貴重な名器が数多く生まれた。しかし、古琴の製作技術は早い時期に途絶えてしまった。保存された歴代の古琴は、いずれも演奏家自身が作ったもので、各部品の位置や寸法などがそれぞれ異なっている。ここ数十年、中国では古琴の製作が復活しつつある。改良も加わり、古来から伝わる伝統楽器に新たな魅力が加わっている。

 古琴は非常に豊かな表現力をもち、喜怒哀楽や大自然の描写など全て表現することができると言われている。独奏のほか、簫(しょう・中国の管楽器で縦笛の一種)との合奏、そして古歌の伴奏など演奏形式も多い。現存する古琴の楽譜の約半分は古歌の伴奏用のものである。

 伽耶琴(ジャーイェチン)

 伽耶琴は古くから朝鮮族に伝わる楽器である。現在でも中国東北部の吉林省延辺朝鮮族自治州で愛用されている。もともと漢民族の琴とも深い関わりがあり、形も良く似ている。文献によれば、紀元500年前後に朝鮮の古代国家である伽耶国の国王が琴を真似て作った弦楽器を「伽耶琴」と呼ぶようになったと言われる。

 古代の伽耶琴の本体は一本の木から彫られ、端が羊の角のように曲がっていた。当時の楽器には底板がなかったため、音のボリュームも小さく表現力も豊かではなかった。伽耶琴の誕生から1500年を経た現在、朝鮮族は他民族が使う同類の楽器の長所を取り入れ、ようやく民族の特徴が生かされた性能の良い伽耶琴を作り出すことに成功した。現在の伽耶琴は音量も大きく、音色は以前よりも多彩で美しく改良されている。朝鮮族は伽耶琴に用いる材料に大変こだわっていて、各部にそれぞれ違う材料を厳選して用いている。

 新中国成立後、伽耶琴に更に新たな改良が加わり、楽器製作者らの手により18弦の伽耶琴と21弦の伽耶琴が相次いで開発された。21弦の伽耶琴には、特別に共鳴用のボディーが加えられたほか、弦は従来の生糸のほかナイロンや金属性のものになり、音量が大きく音色も綺麗になった。

 伽耶琴は音色が綺麗なだけでなく、演奏する姿も非常に上品である。演奏時は左手で弦を押え、右手で弦をはじく。伽耶琴は表現力に富んでおり、奏者によって喜怒哀楽などそれぞれ違う感情を表現することができる他、雄大で激しい音から軽快で楽しいメロディまで幅広く表現することができる。昔、伽耶琴の奏者はほとんどが男性だったが、朝鮮族の間で主要楽器になっていくのに伴い、女性の奏者も次第に増えてきた。

 伽耶琴は独奏か重奏に用いられるほか、唄の伴奏にもよく使われ、民族楽団の中でもポピュラーな楽器である。朝鮮族には「伽耶琴弾歌」という伝統的な唄がある。民族衣装を着た朝鮮族の女性、数十人が舞台に並び、伽耶琴の端を地面に置き、先端部分を右膝で支えながら演奏します。女性たちが伽耶琴を弾きながら唄を歌う姿は非常に美しいものである。

 火不思(ホーブスー)

 火不思とはモンゴル族の言葉で「琴」という意味で、古くからモンゴル族に愛された民族楽器である。紀元前1世紀初頭、中国の北方民族は琴や箜篌(くうご・東洋の弦楽器のひとつ)などの漢民族の楽器を参考に新しい楽器を作り出した。

 伝統的な火不思は、ご飯を盛るときに使う"しゃもじ"のような形をしていて、長さ90センチほどの弦楽器。先端は少し湾曲しているが、下に向かってネックの柄の部分が真っすぐ伸びている。円形の共鳴胴には蛇の皮が張ってあり、柄は長く3本~4本の弦が張られている。皮張りの小さな共鳴胴が特徴で、音色は草原の風景を思わせる北方的な雰囲気である。火不思の演奏法は他の弦楽器とほぼ同じで、左手で弦を押え、右手で弦を弾く。火不思の音は明るくクリアーで、音色も柔らかくて美しい。独奏や合奏、或いは唄や舞踊の伴奏まで幅広く使われている。

 火不思の名前は中国の史書に13世紀から14世紀にかけて初めて登場した。当時は国家級の楽器として大規模な宴の席などで演奏されていたが、その後民間に広まっていった。元の時代が終わり、漢民族が統治する明の時代になり、火不思は国家級の重要楽器から外された。しかし、17世紀の清の時代になるとモンゴル族の伝統や習慣が注目され、用いられるようになったため、火不思も再び国家級の楽器として認められるようになった。当時、火不思は宴の席で演奏されたほか、毎年旧正月の一日と五日に行われる宮廷での謁見や狩りの場などでも演奏された。

 その後、様々な要因から清朝後期には火不思の伝承が途絶えた。現在のものは新中国成立後に、出土品などを参考に音楽関係者の手により再現されたもの。新たに開発された火不思には、高音、中音、低音を出す三つの種類があり、その形はいずれもモンゴル族伝統の様式となっている。新しい楽器は共鳴胴の大きさが古代の火不思と比べ二倍になり、音量も大きく出せるようになっている。その他、音域も4オクターブまで広がった。

 東不拉(ドンブラ)

 ドンブラはカザフ族に古くから伝わる弦楽器である。現在でもカザフ族は家族全員がドンブラを弾くことができる家もあり、人々に愛されている楽器。ドンブラの「ドン」とは楽器が出す音で、「ブラ」はカザフ族の言葉で楽器の音を調律することを意味する。

 ドンブラの歴史は古く、紀元前3世紀に新疆地方へ伝えられ、広く普及した。

 ドンブラの本体は木で作られていて、スプーンを大きくしたような形をしる。最古のドンブラは非常に簡単なつくりで、素材となる木をスプーンのような形に削っていき、その上に板をかぶせ、羊の腸で出来た弦を張ったものだった。カザフ族の歌手にとって欠かせない楽器であり、遠方へ放牧に出かける時もこの楽器ひとつあれば寂しさを紛らわすことができる。家に帰ればドンブラを弾きながら歌ったり、踊ったりして家族と一緒に楽しく過ごす。

 ドンブラは独奏、合奏、伴奏などに幅広く使われ、非常に表現力に富んだ楽器である。その他の弦楽器同様、左手でドンブラを持ち、右手の中指と親指で弦を弾く。音色は、草原を流れる水の音や、鳥の鳴き声、羊の群れや馬の走る音を生き生きと表現することができる。

 阮

 阮(げん)は中国の弦楽器である。昔は「秦琵琶」と呼ばれていた。紀元前2~3世紀の秦の時代「秦琵琶」の前身となる「弦鼗(ゲントウ)」という楽器が誕生し、その後、箏などの楽器を参考に「弦鼗」がより進化した「秦琵琶」が誕生し、阮へと繋がっていった。

 紀元前3世紀頃、この丸い共鳴胴のある「秦琵琶」を演奏するのが非常に上手な、阮咸という音楽家がいたので、人々は自然にこの楽器のことをこの音楽家の名前で呼ぶようになった。「阮咸」から「阮」と略称で呼ばれるようになったのは1000年ほど前の宋の時代からだとされている。

 阮の形は非常にシンプルで、琴頭と呼ばれる先端部、ネックである柄の部分、そして本体の三つの部分から構成されている。先端部には中国の伝統的な竜などの模様が彫刻され、その両端には琴軸と呼ばれる弦を張り音を調律するための四つの軸がついている。本体は円形の共鳴胴になっていて、面板(表側)、背板(裏側)の2枚の板から構成されている。その製作過程、使用される素材、演奏法などいずれも琵琶と似たところが多くある。

 ここ数年、民族楽器が重要視されるようになったことに伴い、音楽家たちは阮に対して多くの改良を行い、小阮、中阮、大阮、低阮などを相次いで開発した。

 小阮は高音を出すことができ、音色も明るくてきれいであることから主旋律の演奏によく使われる。

 中阮は中音域を出し穏やかで柔らかな音色を持つことから合奏でよく使われる。伴奏に用いる場合は中音域を更に充実させるために2つの阮を同時に使う。

 大阮は中阮より音が半オクターブほど低く、チェロに似たような音色が特徴である。低阮はさらに低く、響きのある音を出すことができ、コントラバスのような役割を果たす。

 箜篌

 箜篌(くご)は長い歴史を持つ中国の古い弦楽器の一つである。考証によれば今から2000年以上前に誕生し、宮廷で使用されていただけでなく、民間にも広く普及した。唐の時代の繁栄期である西暦618年から907年までの間、経済や文化の飛躍的な発展に伴い、箜篌の演奏技術も非常に高いレベルに達していた。この時期に箜篌は日本や朝鮮などの隣国にも伝わった。日本の東大寺には今でも唐代の箜篌の一部が2張分、保存されている。

 この古い楽器は14世紀ごろから徐々に廃れ、結局は姿を消してしまい、現在は昔の壁画などでしかその姿を見られなくなってしまった。そこで、箜篌を復活させるため、1950年代から中国の音楽関係者や楽器製作者などが多くの研究を行ない、古い文献や保存されてきた古代の壁画に描かれている形を参考に、数種類の箜篌を試作した。た。しかし、これらの箜篌はいずれも完全な復元ではなく、今日まで正確に伝承されることは出来かった。

 1980年代に初めて新型の箜篌(雁柱箜篌)が誕生する。構造が完璧で、科学的な音響面や民族の特色を併せ持っていることから、実践的に広く活用されるようになった。

 古代愛用された箜篌には、横式箜篌と縦式箜篌の二種類がある。新型の雁柱箜篌は縦式箜篌の形を元に開発されたもの。形はハープに良く似ている。違いは二列に弦が張られ、一列に36の弦が人文字の弦柱によって押さえてある。張り方が空を飛ぶ大雁の群によく似ていることから「雁柱箜篌」という名前が付けられたと言われる。

 雁柱箜篌の音色は柔らかで澄んでおり、音域も非常に広いため、表現力がとても豊かである。民族風の曲を演奏することができるだけでなく、ハープ曲の演奏にも適している。左右両端に同音の弦が張られているため、演奏するにあたって様々な便利性を持っているほか、この1台でハープ2台分の演奏を同時にすることが可能。これは他のどの楽器にも無い特徴で、そのほかにも弦を弾く時の手のすべらせ方、振動など、演奏の手法でも特別の技を必要とするのも特徴の一つとされている。

 

>>[弦楽器(弓で弾く)]

 板胡(バンフー)

 「梆胡」または「秦胡」とも呼ばれる板胡(バンフー)は、地方劇の一つである梆子腔と共に、胡弓を基に作られた楽器である。ほかの胡弓と比べ、板胡の最大の特徴は音量が大きく、音色も明るくハッキリしていること。特に高揚する感情や情熱的な雰囲気を表現するのに最適だとされている。約300年前に誕生し、その名前は共鳴胴に薄い木の板が張られていることから名付けられた。

 当初、板胡は中国の北方地域に普及し、現地の地方劇、例えば河北梆子や評劇、河南省の豫劇、陜西省の秦腔などの伴奏楽器として使われていた。

 板胡は芝居と深い関わりを持っているため、芝居の音楽を演奏する時が楽器の特徴を最も発揮でき、地方独特の風情を引き出せると言われている。

 構造は、ほぼ二胡と同じだが、共鳴胴に違いがある。共鳴胴の表面には二胡のように皮を張らずに桐の薄い板が張られおり、これが板胡独特の音を出す鍵になっている。格別に澄んだ響きのある音を出すことから、高音部の演奏に使われることが多い。

 新中国成立後、音楽関係者の努力の結果、板胡の製作技術も大きく発展し、いくつかの新しい種類が加わった。代表的なものに「中音板胡」「高音板胡」「三弦板胡」「竹筒板胡」「秦腔板胡」などがある。

 製作技術の発展に伴い、板胡演奏の技術レベルも高くなり、表現力も豊かになっていきた。板胡は中国の民族楽団に欠かせない楽器となっているほか、地方色を色濃く持つ独奏楽器でもあり、民族歌劇や民族舞踊などの伴奏にも幅広く使われている。

 馬頭琴

 馬頭琴は中国の少数民族であるモンゴル族が使う弦楽器である。"さお"と呼ばれるネックの先端に馬の頭の彫刻が施されていることから名づけられた。長い歴史を持ち、13世紀の初頭からモンゴル族の間で広く演奏されてきた。モンゴル族の間でも地域によって構造、音色、演奏法なども違い、内蒙古西部地区では「莫林胡兀爾(モリンホール)」と、東部地区では「潮爾」と呼ばれています。

 共鳴箱は台形で、弦は数十本の長い馬の尻尾で作られており、しっかりと固定されている。同じように馬の尻尾で出来た弓を使い、弦を摩擦することで低くて美しい音を奏でることができる。これは国内外の弦楽器をみても極めて独特なものである。

 初期の馬頭琴は、演奏者が自ら作っており、音量は比較的小さく、狭いパオや室内での演奏向けだった。その後、時代の変化に伴い、楽器製作者は伝統的な馬頭琴を改良し、音域を拡大したほか、弦をナイロン製に変え、音量を大きくすると同時に今までよりも四度高い調律に合わせた。伝統的な馬頭琴のやわらかな低い音色を保ち、清らかで明るい音色を出せるようにもなり、改良後は広い舞台や屋外でも演奏に用いることができるようになりました。弦を弓で引いて演奏するだけでなく、弦をつま弾きながら演奏することもでき、モンゴル族の間で最も重要な独奏楽器となっている。

 このほか、楽器製作者は中型の馬頭琴や大型の馬頭琴を研究開発している。演奏方法はチェロやコントラバスと似ており、このように馬頭琴に高音域、中音域、低音域をカバーできる種類の楽器が仲間入りし、中国の民族楽団の充実に一役買った。改良後の新しい馬頭琴は、表面の装飾がモンゴル族の特徴を保ち、本体には民族的な図柄が描かれ、上品で風格のあるつくりで、美しい工芸品とも言われている。

 擂琴

 擂琴は雷胡とも言い、芸人の王殿玉が墜胡を基に改良し1920年代に誕生した弦楽器である。

 王殿玉は山東省鄆城県の出身で、貧しい家に生まれ、幼いときに天然豆がもとで両目を失明した。彼は苦労しながらも墜胡などの稽古を受け、こつこつと努力した結果、民謡や地方劇の歌などの演奏を修得した。1920年代末、王殿玉は墜胡に大胆な改良を加えネック(柄)の部分を長くし、共鳴箱を大きくすると共に、表面には厚いウワバミ(大蛇)の皮を貼った。このようにして墜胡よりも音量が大きく、音域も広い、音色のきれいな新しい楽器が生まれた。1953年、この楽器は正式に「擂琴」と名づけられる。

 擂琴は、ネック(琴杵)、本体(琴筒)、琴頭、弦軸、弓で構成され、ネック、琴頭、弦軸は、いずれも堅木で作られている。本体は少し短めで、薄い銅板で作られている。弓は二胡よりも少し長く、馬の尻尾を使ってあり、毛の張られた幅も比較的広くなっている。また、サイズによって二種類に分けられ、大きいものは長さ110センチで鋼線の弦を使用し、小さいものは長さ90センチで生糸の弦を使用している。通常、四度或いは五度に調弦する。大擂琴の調弦は、一定なものはなく、演奏者の習慣や合わせ方によって決まる。小擂琴の調弦などは、大擂琴とほぼ同じですが、音は1オクターブ高くなりる。

 他の弦楽器同様、演奏する時は坐って弾く。演奏者は本体左足にのせ、左手で弦を押さえ、右手で弓を持ち、2本の弦の間で弓を動かします。指の押さえ方や演奏法などに多くの特徴がある。例えば奏者の弓をコントロールする動きが、徐々に強くなったり、弱くなったりするほか、急に力を強く入れたり、弱くしたりと、大幅に変化させる技があります。擂琴の指の押さえ方は二胡と似ていますが、主には人差し指と薬指で弦を押さえる。

 表現力が非常に豊かな楽器で、音域が広く、音量も比較的大きく音色は艶がある。独奏のほか、合奏やアンサンブルなども可能で、人の声や様々な動物の鳴き声を表現することもできる。また、笙、チャルメラ、京胡、二胡、銅鑼、太鼓などと似た音を出すことができるのも特徴である。

 牛腿琴

 牛腿琴は中国古来の弦楽器である。主に貴州省や広西省、湖南省のトン族の住居地域で演奏されてきた。ネックの部分は細長く、牛の足に似ていることから「牛腿琴」と名づけられました。伝統的な牛腿琴は1本の杉の木から作られている。杉の木を空洞にくりぬき、表面に杉や桐の木を貼る。牛腿琴のネックは太く、頭は正方形をしている。硬い木で作られた弦の軸は細いシュロ縄の弦を固定する。弓は細い竹から作る。

 シュロの糸が張られた弓でシュロ縄の弦を弾くため、少しかすれた音が特徴。音色は柔らかく、品があり、独特で人の声とよく調和し、民族色豊かな風格が漂う。牛腿琴の演奏方法はバイオリンとほぼ同じで、演奏者は本体を左肩にあて、左手でネックを持ち、弦を押し、右手で弓を弾く。音域はバイオリンより狭い。

 牛腿琴はひとつひとつ手作りのため、材料や製作の段階で大きさが微妙に違う。楽器の表現力や性能をあげるため、トン族の人々は長年にわたり絶えず牛腿琴を改良してきた。改良された牛腿琴は、本体が大きくなっただけでなく、表の板と裏の板の間に木でできた支えを入れ、指板を増やしたほか、生糸や鋼線で出来た弦と、馬の尻尾の毛から作られた弓が、シュロ縄の弦と弓に変わって使われるようになってきた。そのほか、本体の底に曲がった金属片をつけらものもある。演奏する際、金属片を脇の下で挟むことで、より本体をしっかり固定できるようになった。これは楽器を支える演奏者の左手の負担を軽減し、演奏手法も豊富になっている。

 トン族文化で、牛腿琴は重要な位置を占めており、歌などの伴奏で頻繁に使われる。ほぼ全てのトン族男性の家には牛腿琴があり、祝日や農閑期に、男性は牛腿琴を弾きながら親戚や友人の家を訪ねる。この時、人々は牛腿琴の音に導かれ集まる。楽器を弾き、歌を歌う光景はとても賑やかである。

 高胡

 高胡は"高音二胡"とも呼ばれるもので、二胡を改良し制作されたものである。誕生は広東音楽と密接な関係がある。

 「広東音楽」とは、南方の広東地域で流行した民間音楽で、地元の地方劇と民間音楽から生まれた。最初、広東音楽には高胡という楽器は使われていなかったが、1920年代ごろ"広東音楽"の作曲家でもあり演奏家でもある呂文成氏が、二胡に大胆な改良を加え誕生した。伝統的な二胡の弦に使われている生糸を鋼線の弦に変え音域を高くしたほか、両足で本体を挟んで演奏するスタイルを考案。清らかで、明るい音色を出すこの楽器は高胡と名づけられ、瞬く間に「広東音楽」を代表的する楽器になった。

 高胡の構造や製作過程、使われる材料は二胡とほぼ同じだが、本体(琴筒)が比較的細いところが最大の違いである。高胡は誕生が遅かったため、大きな制約を受けず、丸いボディーを楕円形に平たくし、音量を大きくしたり、2本の弦を3本の弦に変え、音域を広げたり自由に楽器を改良することができた。

 音色は高らかに澄み、女性の声楽家が出す高音=ソプラノのようである。この音に低音のやわらかな音色を加えた高胡は楽団の中でも非常に目立つ存在。非常に豊かな表現力を持っていて、抒情的で華やかな音色で主旋律を奏でることができ、中国の民族管弦楽団は高胡を重要な楽器としている。

 二胡

 二胡は中国の有名な弦楽器である。起源は紀元7世紀から10世紀にかけての唐の時代まで遡る。当時は主に中国西北部の少数民族の間で演奏されていた。千年余りの歴史の中で、常に劇曲の伴奏楽器として使われてきた。

 簡単な構造で、細い木で作った約80㎝ほどのネック(琴杵)に二本の弦を張り、下にはコップのように小さい本体(琴筒)がついている。弓は馬の尻尾でできている。演奏者は座り、左手で二胡を構え、右手で弓を動かす。「中国版バイオリン」とも呼ばれる音色は、悲哀を含み、深い感情を表現するのに優れている。

 新中国成立の1949年以降、二胡の制作や演奏方法も発展し続けてきた。独奏のほか、踊りや歌曲、劇曲など総合的な芸術作品の伴奏もできる。中国の民族管弦楽団で二胡は主要な楽器とされており、西洋の管弦楽団でのバイオリンと同じポジションといえる。

 二胡は製作も簡単で、値段も安く、しかも比較的簡単に音を出せることから、民間で非常に普及した楽器である。

 

>>[管楽器]

 細觱篥

 細觱篥は朝鮮族の間で広く伝わる民間楽器である。主に中国の吉林省延辺朝鮮族自治州、及び他の朝鮮族が集まる地区で演奏されている。音色は高く、朝鮮族の特徴を持っている。

 細觱篥の歴史は古く、その祖先は古代觱篥と言われている。マウスピース(管哨)と管で構成されていて、マウスピースは4㎝ほどで、皮を剥いだ葦で作られている。管は細い竹で作られ、長さ20㎝から25㎝、太さは直径約1㎝ほど。管には7つの指穴があり、裏にも一つ穴が空いている。

 演奏方法は多くの管楽器と同じく、管を縦に持ち、マウスピースを口にあて、左手で裏の穴と正面の上部3つの指穴を押さえ、右手で下部の4つの指穴を押さえる。

 「高音域觱篥」「中音域觱篥」「二管觱篥」という三種類に分けられる。伝統的な高音域觱篥は1つの音調での演奏だったが、改良した結果、6つ目の指穴の右上に穴を開け、音調が変えられるようになった。中音域觱篥は高音域觱篥とほぼ同じでだが、中音域は高音域より1オクターブ低くなっている。二管細觱篥は、大小ピッチの同じ高音域細觱篥を並べて作ったものである。演奏するときは1つの管を吹けば単一の音が出せ、同時に2つの管を吹いた場合は、ピッチが同じ二つの音を出すことができる。その他、二管細觱篥は、三度、四度、五度の和音も吹くことができ、音量も単管の楽器よりは大きく、清らかな音がする。演奏技術は比較的難しいとされている。

 喉管

 喉管は"竹管"とも言い、民間楽器の管子(ヒチリキ)を基に作られたオーボエのように吹き口がダブルリードの楽器である。喉管が誕生した当時、広東省では行商人がお客を集める道具として使っていた。1920年代末に広東音楽や粤劇(広東の地方劇)で使われるようになり、その後広東や広西に広く伝わっていった。

 構造は非常に簡単で、リード、管、ラッパの部分に分けられる。リードは葦で作られ、2枚重ねのダブルリードのため厚みもあり幅も広めである。管は竹、黒檀、マホガニー、プラスチック製、金属など様々な材料で作られる。中でも、竹で作られたものが最も音色が良いとされている。管には7つの指穴があり、その下に薄い銅片で出来たラッパが付き、音量の拡大と装飾の役割を果たしている。

 喉管と管子(シチリキ)の音は似ているが、喉管の方が厚みのある低い音色で、鼻にかかった声に似た感じを持っている。民族楽団で喉管は常に中胡や低胡と一緒に用いられ、中低音部の厚みを出している。

 中国の民族楽団で、最も使われる喉管はG管(中音域喉管)とD管(低音喉管)である。中音域の喉管は長さ53㎝で、直径1㎝から1.3㎝、8音階です。それに比べ、低音域の喉管は85㎝と長く、直径1.4㎝から1.7㎝、音域は狭く、変調も難しい。1960年代に改良され補助キーを付け18から19の指穴を作った。この新しい喉管は半音階も出すことができ、音域も拡大され独奏楽器としても用いられるようになった。

 簫

 簫(しょう)は"洞簫"とも呼ばれる中国古来の管楽器である。数千年前、簫はすでに民間で広く演奏されていた。その歴史は、排簫(はいしょう)の歴史と重なり、数千年前、排簫は簫と呼ばれていた。その後、人々は排簫を演奏する時に単独で1本の管に穴を開け、音程の違う音が演奏できることを発見した。簫は次第に多くの管を束ねた排簫から単管の洞簫へと変化していった。

 現在の簫は漢の時代に既に存在していたが、当時は"羌笛(キョウテキ)"と呼ばれ、四川省や甘粛省に居住するキョウ族の楽器だった。紀元前1世紀、黄河流域に伝わり、幾度かの改良によって6つの指穴のある楽器となり、今の簫に非常に近いものとなった。

 構造は簡単で、形は縦笛にそっくりである。普通は紫竹などの竹で作られ、管は縦笛よりも少し長め。竹は節ごとに切断し、その断面が吹き口にあたる。管の側面には5つの指穴が空いており、裏側の上部にも1つの指穴がある。そのほか管の下側の裏にも3つ~4つの穴があり、音の高さを調整し、音量を大きくする役割を果たしている。

 音色は優雅で柔らかく、低音域の音は低く深みがあり、静かな音で演奏する時にその特色が生かされる。中音域は美しく、まろやかな音を出す。演奏方法はほとんど笛と同じでだが、笛ほどスピード感のある曲には向かず、非常にゆったりと表情豊かな音色は自然の景観や人の感情を表す曲に使われる。

 また、表現力に富んだ楽器で、独奏から合奏まで広く用いられるほか、江南地方や福建、広東音楽などでは伝統的な地方劇の中で伴奏にも用いられている。

 簫の種類は「紫竹洞簫」「玉屏簫」「九節簫」など多岐にわたる。

 紫竹洞簫での演奏曲『平沙落雁』は、雁が空中を旋回して飛んでいる様子を表す名曲として知られる。

 管子

 管子は非常に長い歴史を持つ管楽器(オーボエ同様、ダブルリード楽器)である。古代ペルシャ(現在のイラン)で生まれ、中国では古代"篳篥(ピリ)"或いは"蘆管"と呼ばれていた。2千年ほど前の西漢時代、管子は既に新疆一帯で広く用いられる楽器となり、その後は中原地区(黄河の中下流地域)に伝わり、幾度かの改良を経て演奏法も徐々に巧みになっていきた。現在は中国で広範囲にわたり演奏され、なかでも北方人の好む楽器となっている。

 音量は比較的大きく、音色は高く明るい。構造は比較的簡単で、リード、マウスピース、円柱形の管と3つの部分から構成されている。独奏、合奏、伴奏と用途も広く、特に中国の北方では非常に重要な管楽器である。吹き方も豊富で、音を振動させる技法のほか、ポルタメント(音から音への移動をなめらかに滑らせること)、特別な打音や歯音などもある。フィンガリング(指の技法)のほか、マウスピースを口に含むときの深さによって音の高さが決まり、口の形の変化で人の声や動物の鳴き声を真似た音を出すことが可能。

 また、ただ演奏法が豊かなだけではなく、楽器自体の種類も豊富で、小管、中管、大管、双管などの種類がある。

 管子独奏曲の『小開門』は、流れるようなメロディーで、リズムも軽く、中国では地方劇の中に登場する人物の着替えや、通行場面での伴奏として使われている。

 塤

 塤(シュン、オカリナのような楽器)は7千年ほどの歴史を持つ中国で最も古い吹奏楽器の1つで、「石流星」という狩猟道具をルーツとする楽器である。

 古代の人たちは糸に縛りつけた石や泥の塊を鳥や獣などの狩猟に使っていた。球体の中が空洞になっているものもあり、振り回すと音がしたことから、人々はこれを吹き始め、徐々に現在の塤になってきた。当初、ほとんどの塤は石と骨で出来ていたが、その後陶器製もつくられるようになり、形も楕円形や、丸い形、魚の形、洋梨の形など様々なものが登場した。梨形が最も一般的。

 上部に吹き口があり、底は平らで、側面には指穴が空いている。最も古い塤は指穴が1つしかなかったが、紀元前3世紀末ごろに6つの指穴の空いた塤が誕生した。

 1930年代末に中国音楽学院の曹正教授が古代の陶器製の塤を模した楽器をつくり、その後、天津音楽学院の陳重教授が古代の梨形をした塤を基に、9つの指穴のある新しい塤をデザインし、江蘇省宜興市の紫砂陶器(釉薬をかけずに焼いた陶器)を使い製作した。この新しい塤は伝統的な形と音色は、そのままで音量が増し、音域も広がり、スケール演奏もできるようになったほか、転調も可能になった。新しい塤の音色は素朴でシンプル。このほか、もともと不規則な指穴の排列を変え、演奏が更に便利になったほか、独奏だけでなく、合奏や伴奏もできるようになった。

 その後、陳教授の教え子である湖北省歌舞団の趙良山氏は、マホガニーの木で10の指穴のある塤を作り、高音域が演奏しにくいという塤の欠点を解決した。

 主に歴代の宮廷音楽に用いられ"頌塤"と"雅塤"に分けられていた。頌塤は小さく卵のような形で高音が響き、雅塤は比較的大きく低音の響く楽器である。

 笙

 笙は中国古来の管楽器で、世界で最も早くからリードを使って演奏していた楽器である。西洋楽器の発展にも大きな影響を与えた。

 今までに発見された中でも一番年代が古い笙として、1978年湖北省随県の曾侯乙墓から2400年余り前の笙が数本ほど出土している。

 笙の歴史は3000年前まで遡る。初期の笙は排簫(はいしょう・中国古来の管楽器)と少し似ているが、リード部分もなく、頭(笙斗のこと)もない、ただヒモで音域が異なる幾つかの竹管を束ねただけのものだった。その後、簧(リード部分のこと)と頭の部分が新たに付けられ、排簫と区別されるようになった。

 頭はひょうたん、吹き口は木で作られ、長短10数本ある竹管は、馬のひづめのような形をした帯(竹管がバラバラにならないように束ねている金属の輪)でまとめられ、頭のすぐ上にある鏡と呼ばれる部分に空いた穴に差し込まれています。唐の時代後、演奏者たちは笙の頭を木製に変え、その後銅製のものも登場するようになったほか、簧も竹製から銅製へと変わっていった。

 笙は歴史が長いため、地域ごとに異なるものがある。新中国成立後、絶えず笙の改良が行なわれ、様々な種類の笙が作られた。これらの新しい笙は本来の笙が持つ欠点を補い、新たな可能性を引き出した。

 音色は明るく心地よいもので、高音域は澄んでいて透明感がある。中音域は柔らかく、低音も響き、音量も比較的大きい。中国古来の管楽器の中で、唯一ハーモニーを演奏できる楽器。他の楽器と合奏する時は楽団全体の音色を調和する役割も果たす。大規模な民族オーケストラでは、ソプラノ、アルト、バス音域の三種類の笙が同時に使われる。

 葫蘆絲(フールースー)

 葫蘆絲は少数民族の吹奏楽器で、南西部地区のタイ族、アチャン族、ワ族などの少数民族に愛用されている楽器の1つである。

 歴史が長く、紀元前221年まで遡ることができる。現在の構造は古代の楽器の特徴を保っている。

 形や構造はとてもユニークで、1つのひょうたんに3本の竹管と三枚の金属製リードがあり、ひょうたんの先端部分には1本の竹管が挿入してある。この部分が吹き口となり、ひょうたんは共鳴箱の役割を果たしている。ひょうたんの底には3本の太さが異なる竹管が付けられており、竹管にはそれぞれ銅製或いは銀製のリードが付いている。中央の竹管が最も長く、7つの指穴が空いていて、メロディーを奏でる。両側の竹管は主管に対して共鳴管の役目を果たしている。

 他の笛系の楽器と同じく、音量は比較的小さいが、音色は柔らかく上品で、味わいのある。シルクを小刻みに震わせるように瓢々として滑らかな音がすることから「葫蘆絲(ひょうたん絹)」と呼ばれている。

 雲南省の少数民族が使う葫蘆絲は民族や居住区域により、形や演奏方法が異なるが、山歌(山仕事のときに歌われる歌のこと)の演奏に使われる共通点がある。特に流れるようなメロディーの楽曲を演奏するのに適しており、柔らかな音は演奏者の感情が反映される。

 改良が行われ新しく作られた楽器は、葫蘆絲独自の音色と特徴を保っているだけでなく、音量は大きくなり、音域も拡大され、表現力がさらに豊かになった。現在、葫蘆絲は少数民族の楽器から、世界的な舞台に登場するほどまでになっている。

 笛

 笛は中国で広く演奏され、天然の竹で作られるため「竹笛」とも呼ばれている管楽器である。

 小さくて短く、構造も比較的簡単で1本の竹から作られる。節を削り、竹の側面には歌口(息を吹き込む孔)、膜孔の他に6つの指孔をあける。歌口から息を吹き込み、管の中の空気を振動させて音を出す。膜孔は歌口の下(上から2番目の孔)にある孔で、ここには竹や葦からつくった薄い膜を貼る。この薄い膜に空気が振動し、澄んだ艶のある音を出す。

 7000年の歴史を持ち、今から4500年前に笛の材料は骨から竹に変わった。紀元前1世紀末の漢武帝時代、笛は横に吹くようになり、当時の演奏楽器の中でも重要なパートとされた。7世紀から更に改良が加えられ、膜孔がついたものが新たに加わった。表現力も豊かになり、演奏法もレベルが高くなっていった。10世紀になると宋の時代の詞や元の時代の曲の発展に伴い、これらの歌の主要伴奏楽器となった。その他にも民間の地方劇や少数民族間で使われる楽器の中で笛は欠かせない楽器となっていった。

 豊かな表現力と高く澄んだ音で美しい旋律を奏でるだけでなく、開放的な雰囲気を出すこともできる。軽快な舞踏音楽や叙情的な民謡まで幅広く演奏でき、大自然の中の鳥の鳴き声などのように様々な音を奏でることができる。種類も多く曲笛、梆笛、七孔笛、十一孔笛など南北両派がある。

 南方の笛は優雅で清らかな音色で主に曲笛が使われている。曲笛本体は比較的太く、穏やかで柔らかい音を出す。主に江南地方で愛用されている。

 北方で愛用されている笛は、音が豪快でたくましいのが特徴で、主に梆笛が使われる。細く、音色が明るいのが特徴である。

 

>>[弦楽器(撥で叩く)]

 揚琴(洋琴)

 揚琴(別名:洋琴)は中国で既に400年以上の歴史がある弦楽器の1つである。音色は明るく澄んでいて表現力が豊かで、独奏、合奏、歌劇の伴奏など広く使われ、民族音楽団で重要な役割を果たしている。

 記録によりますと、中世期以前、中東の古代アラブ諸国では「薩泰里琴(サタイリキン)」と呼ばれる弦楽器が流行していた。明の時代(1368年―1644年)、中国の東西アジアとの密接な往来に伴い、この弦楽器も海を渡り中国に伝えられた。最初は広東地域だけで演奏されていたが、その後徐々に各地へ普及し、改良を経て現在の揚琴となった。

 主に木製で、共鳴箱の役目を果たす本体が蝶のような形をしていることから「蝶々琴」とも呼ばれている。演奏するときは木製の台の上に置き、演奏者は両手に揚琴琴竹と呼ばれる竹製のバチを持って弦を叩き、音を出す。

 揚琴の演奏技法は多く、音色もとても多彩です。低音域の音は重厚で、中音域は澄んだ透明な音がするほか、高音域はとても明るい音が特徴です。揚琴はテンポの速い楽曲の演奏に適しており、活発で喜び溢れた感情の表現にはぴったりです。

 長い歴史の中で、幾度かの改良が行われ「変調揚琴」「琴揚琴」「電気揚琴」などの新しいタイプの揚琴も製作された。特に注目されているのが電気揚琴。本体のほかに、アンプやスピーカーがあり、弦が振動した音を電磁波の信号に変え、音をスピーカーから出す仕組みになっている。電気揚琴は伴奏だけでなく独奏もできる楽器で、誕生当初から揚琴奏者に高く支持され、愛用されている。

 長年にわたり人々の間に受け継がれ、製作、演奏、作曲などに中国の伝統的な特徴と民族的な雰囲気が漂い、長く愛用される楽器となっている。

 

>>[吹奏楽器]

 口弦

 口弦は中国の楽器の中でも比較的小さく、最も長い歴史をもつ少数民族の楽器である。紀元前40世紀の原始社会で、人々は口弦を使い音楽を奏でていた。当時、口弦は「簧(リード部分の意味)」と呼ばれていた。

 愛用されていた地域は非常に広範囲にわたり、使われていた種類も多い。大きくは楽器の素材によって竹製と金属製の二種類に分けられる。また、リードの数によって「一舌弦」「多数舌弦」があり、演奏方法も指でリードを弾くものと、張られた絹糸を弾くものの二種類がある。

 竹製の口弦は普通堅い孟宗竹を削って作られる。刃物で竹を薄く削り、中央三面のリードを透かし彫りし、頭の部分を剣の形に削るほか、尾の部分はきれいに切りおとし、口弦の柄とする。竹製の口弦の形は、先頭部分が薄く大きいのに対し、中央部は厚く幅が狭くなっている。リードの両端は傾斜をつけて削られている。口弦の先頭部分をつま弾くと、竹の弾力性を利用してリードが振動し音が出る。何枚かの口弦をひもで繋ぐと「多数舌口弦」となる。多数舌口弦は2枚~5枚ほどの音程の異なる口弦からなり、音の高さは舌の長さや厚さなどによって変わる。

 竹製の口弦と比べ金属製の口弦は、普通銅製或いは鉄製で、形は木の葉の形に似たものや、細長い形をしたもの、銃弾の外殻で作られたものもある。音は澄んでいて軽快なほか、大きさも竹製のものより小さめ。

 口弦は形や製作過程が独特なだけでなく、演奏方法もユニークである。左手の親指と人差し指で口弦の柄を持ち、リード部分を唇の間に置き、右手の親指と人差し指で口弦の先頭部分を弾き、舌の振動により明るい音を出す。絹糸が張られた口弦の演奏方法はさらに独特で、リード先に結んだ絹糸の端を右手の指にも結び、指で絹糸を弾きながらリードを振動させ音を出す。そのほか、音量をあげ響きを出すために唇を前に突き出して筒のような形にする。演奏者は唇の形の変化と呼吸コントロールなどで音色を変え、様々な楽曲を演奏する。

 

>>[パーカッション]

 磬

 磬(けい)は古代の打楽器であり、中国で最も古い民族楽器の1つである。素朴で古風な感じのする楽器で、非常に精巧に作られている。歴史はとても古く、遠い昔の《母系社会》で、磬は「石」や「鳴る球」と呼ばれていた。当時、漁や狩猟で生計を立てていた頃、一日の仕事が終わった後、石を叩きながら様々な獣を真似た踊りを踊ったという。このとき叩かれていた石がその後、徐々に改良され打楽器の磬となった。

 当初、人々の踊りや歌の中で演奏されていたが、その後は編鐘(へんしょう)と同じように、古代の権力者が戦や祭りなどの場面で使うようになった。

 使われる場所や演奏法によって特磬と編磬の二種類に分けられる。特磬は皇帝が天地と祖先を祀る時に演奏され、編磬は主に宮廷音楽に使われ、幾つかの磬からなり木製の棚に並べて演奏する。2000年ほど前の戦国時代、楚の編磬製造技術は既に比較的高いレベルに達していた。

 1978年8月、中国の考古学者が湖北省随県の擂鼓墩で2400年ほど前の古墳(曽侯乙墓)を発掘した時、その古墳の中から古代・楚文化の特徴を表す編鐘、編磬、琴、瑟、簫、鼓など120点余りの古代楽器や多くの文化財が出土した。その中に32枚の曽侯乙編磬があり、上下に配置された青銅製の磬が棚の上に並んでいた。石灰石や玉などから作られていたこれらの編磬は、本来は澄んだ明るい音色を出すが、出土した大多数はボロボロでヒビが入っており、音が出ない状態だった。1980年に湖北省博物館と武漢物理研究所が協力して製作した曽侯乙編磬の複製品は、本来の編磬とほぼ同じ美しい音色を再現した。

 1983年、湖北省音楽団が12平均律に従い32枚の石製編磬を作ったほか、1984年9月には蘇州の民族楽器工場と玉彫刻工場が碧玉で18枚の編磬を作った。

 編鐘

 編鐘は1つ1つ大きさが違い、音色も違う鐘をいくつも並べて吊るした古代から伝わる重要な打楽器で鐘の1つである。時代によって編鐘の形も様々で、鐘の表面には美しい絵が描かれている。

 今から3500年前の商の時代に初めて登場し、当時は3つの鐘が主だったが、その後時代の変遷に伴い鐘の数も変化してきた。古代は宮廷での演奏に使われたり、上流社会で使われる楽器で、権力の象徴でもあり、民間ではあまり使用されることはなかった。戦のときや、王に接見する際、または祀りごとなどの場面で演奏された。

 近年、雲南省や山西省、湖北省など古代の王侯貴族の墓で、多くの編鐘が発見された。最も注目されているのは湖北省随県曽侯乙墓で発見された曽侯乙編鐘。この編鐘はとても美しく、精巧にできていて、音域が非常に広い。音階の構成は現代のハ長調音階に近く、本体には2800字余りの音階に関する文字や音楽の専門用語も数多く記録されており、中国古代の音楽文化のレベルが高かったことを示している。この曽侯乙編鐘は現在までに中国で発見された数が最も多く、規模も一番大きいものになっている。完全な状態で保存されている編鐘は、人類文化史上の奇跡とも呼ばれている。編鐘音楽は音色も明るく澄みわたり、歌のようなメロディーが演奏できることから、歌の鐘とも呼ばれている。

 1982年、武漢民族楽器工場と武漢精密器械鋳造工場は曽侯乙編鐘の複製し新しい編鐘を製造した。24枚の鐘で構成され、1つの鐘が2つの音を出すことができるもので、3列に分けて吊るされたこの編鐘は舞台演出や現代音楽に新しい改革をもたらした。

 曽侯乙編鐘で演奏される楽曲《楚商》は、古代の詩人・屈原が追放される時の悲哀の気持ちを表している。

 銅鑼

 銅鑼は民族楽団の中で非常に重要な位置を占め、幅広く使われている中国特有の打楽器である。民族楽器の合奏や各種地方劇、演芸および歌や踊りの伴奏で用いられるほか、集会やイベント、ドラゴンボートレース、獅子舞、豊作を祝う祭りなどでも欠かせない楽器。

 中国の打楽器は素材により、金属、竹、その他と主に3種類に分類される。金属類の打楽器に属し、銅を製錬して作られる。構造は比較的単純で、円形の本体を周りの枠に吊るし、演奏者はバチで銅鑼の本体中央部を叩き、振動が発生して音が出るという仕組み。

 最も古くから使っていたのは中国西南部に住んでいる少数民族で、紀元前2世紀頃に各民族の文化交流が盛んになにつれ、銅鑼は中国内陸部まで伝わった。昔は戦争でよく使われていた。軍隊の指揮官は銅鑼で作戦の合図を送り、陣頭指揮をとった。中国の古代軍事専門用語である「鳴金収兵」という言葉の「金」は銅鑼の別称でもある。

 その後、一般的によく使われる大銅鑼と小銅鑼の2種類の他、使う場所や場面によって、様々な30種余りが誕生した。

 大銅鑼は銅鑼の中でも最も大きく、直径30㎝から1mまである。特徴は音が大きく、重々しい低音で、柔らかく響く音色は余韻を長く残す。大規模編成の楽団では、雰囲気の盛り上げに大きな役割を果たしている。また劇中に使われる時は、雰囲気をかき立て、人物の性格を強く現す音としての役割も果たしている。

 小銅鑼は高音、アルト・ホルン、低音の三種類に分けられます。直径は21㎝から22.5㎝の間で、使い道も非常に幅広い。特に京劇のほか、華北や東北地方で広く行われる地方劇「評劇」、また、湖北、湖南、江西、安徽省などの地方劇の「花鼓劇」といった各地方劇でもよく使われる。その他、演芸、現代劇、吹奏楽団、民間舞踊などで広く用いられる。

 太鼓

 太鼓はかなり前に発明され、発掘された出土品によると約3000年の歴史がある中国でよく使われる打楽器である。昔、祭りや踊りの伴奏に使われただけでなく、敵や猛獣の襲来時にも使われ、人々に時間や危険を知らせる道具でもあった。社会の発展に伴い、太鼓を使う範囲は更に広くなった。例えば民族楽団、各種の芝居、民間芸能、音楽や舞踊、ボートレース、獅子舞、イベント、各種競技の場など欠かせないものになった。比較的単純な構造で、革と胴の二つの部分からなっている。

 革は太鼓の音を出す部分であり、普通は動物の皮を胴に張り、バチで打ち鳴らす。中国では太鼓の種類が非常に多く、舞踊用に腰につける太鼓(腰鼓)、大太鼓、同鼓、花盆鼓(両面に牛革を鋲で張った太鼓。植木鉢のように上部が大きく下部が小さい)などがある。

 腰鼓の胴は真ん中が太く、両側が細い筒の形をしている。両面に牛の皮、或いはロバや馬の皮が張られ、太鼓を体に固定するため胴の片側にある二つの輪がヒモでつながっている。四つのサイズがあり、音の高さの差はなく、はっきりとした音が出るのが特徴。民間のヤンコ踊り(豊作を祝う踊りとして中国北部の農村に古くから伝わる民間舞踊。ドラや太鼓に合わせて踊る簡単な踊り)の伴奏にもよく使われるなど、踊り手の道具でもある。叩く時は、腰鼓を斜めに腰に掛け、両手でバチを持って鳴らす。