第二十一章:世界遺産

竜門石窟

 竜門石窟は中国中部河南省洛陽市南郊外12.5キロのところに位置し、竜門峡谷の崖の両側にある。両側の山が対峙し、伊水川は崖の真中を流れていることから、初めは『伊門』という名前が付けられ、唐代以降『竜門』と呼ばれるようになった。ここは交通の要所で、風景が美しく、気候が温暖で、文人墨客が好む地であった。良質の岩石は彫刻に適し、古代の人々はこの地を選び、石窟を開削した。

 竜門石窟は、甘粛省の敦煌莫高窟、山西省大同の雲崗石窟と共に、「中国の三大石刻芸術の宝庫」と称されている。竜門石窟は、北魏孝文帝(471年―477年)の時代に開削され、400年余をかけて完成され、1500年の歴史を持つ。南北の長さは約1キロで、石窟が1300ヵ所余、窟壇が2345個、石碑などの彫刻が3600余、仏塔が50余、石仏が9700体余ある。賓陽中洞、奉先寺及び古陽洞が最も代表的なものである。

 賓陽中洞は、北魏時代(386年―512年)の石窟で、24年間で完成された。洞内には大仏像が11体ある。本尊は釈迦牟尼像で、顔が端整で、表情が優雅で、北魏中期における石刻芸術の傑作だと言う評判がある。本尊の前に二頭の石獅子がある。釈迦牟尼像の両側には弟子が二人、菩薩が二体ある。洞中には、多くの菩薩と弟子の石仏があり、天井には飛天仙女が彫りこまれている。

(図:賓陽中洞)

 奉先寺は竜門石窟の中で最大の洞窟で、長さと幅はそれぞれ30m余り、唐代(618年―904年)の石刻芸術の風格を代表した。奉先寺の彫塑群は優れた芸術作品と言える。その内、盧舎那仏像が最も代表的な芸術作品とされている。高さ17mの盧舎那仏像は、顔がふっくらとし、目が秀麗で、表情が優雅で落ち着いている。本尊の両側には菩薩、天王、力士と供養人がある。

 古陽洞は、竜門石窟の中で一番早く開削されたもので、内容が最も豊富で、北魏時代のまた一つの代表的な洞窟である。洞内には、ぎっしりとした小仏壇、石仏がきちんと並べられ、仏壇と石仏には、彫刻者の名前や彫刻の年月及びその由来が刻まれてあり、どれも北魏の書道や彫刻技術を研究する上で最も貴重な資料です。中国の書道史における一里塚と称した『竜門二十品』の殆どが古陽洞に集中している。『竜門二十品』は、竜門石窟の石碑彫刻による書道技術の精華である。

 竜門石窟では、宗教、美術、書道、音楽、服飾、医薬、建築及び内外の交通に関する実物や資料が大量保存されている。竜門石窟は大型石刻芸術の博物館とも言える。

 竜門石窟は2000年11月30日、世界の文化遺産として「世界遺産リスト」に登録された。世界遺産委員会は、「竜門地区の石窟と仏壇は、中国北魏後期から唐代(493年―907年)における規模が最も大きい、最も優れた造形芸術を表した。これら仏教をテーマとする芸術作品は、中国の石刻技術の最高レベルを示した」と語った。

 

峨眉山と楽山大仏

 峨眉山は「大光明山」とも呼ばれ、中国西部四川省中南部に位置し、最高峰の万仏頂は海抜3099mである。峨眉山は、素晴らしい自然風景と神話のような仏教の安楽な邦土があることから、内外によく知られ、また美しい自然景観と悠久な歴史的文化が溶け合っており、「峨眉天下秀」と称えられている。

 峨眉山は様々な自然要素の集中地区にあり、生物の種類は豊富で、特有な生物種類も多く、亜熱帯地帯の植物体系は完全な形で保存されており、森林カバー率は87%に達している。峨眉山地区には高等植物が242科、種類が3200余、中国の植物総数の十分の一を占め、中には、峨眉山地区にしかない植物が100種類余を数えている。また、珍しい動物が多く生息し、その種類は2300種類余りあり、世界の生物区系などを研究する上で重要な地区だ言える。

 峨眉山は、中国の四大仏教名山の一つである。仏教の普及、寺院の建造などは峨眉山に多くの神秘な色彩を添えた。宗教文化、特に仏教文化は峨眉山の歴史文化の主体となり、すべての建築、仏像、法器および礼儀、音楽、絵画などには、いずれも宗教文化の息吹が感じられている。峨眉山には寺院が沢山あり、報国寺、万年寺など『金頂山八大寺院』が最も有名である。

 楽山大仏は、峨眉山東麓の栖鸞峰に鎮座し、昔、「彌勒大仏」、「嘉定大仏」と呼ばれ、唐の玄宗開元元年(713年)から建造し、90年間かかって完成された。仏像の後ろには山があり、前には川があり世界で現存されている最大の石刻坐仏である。この彌勒大仏は顔の表情が厳かで、高さが71メートルに達した。その彫刻は非常に精巧に施され、仏像の全身の比例は均衡が取れ、気勢は雄大であり、繁栄した唐代の文化の素晴らしさをよく体現した。仏像の南北両側の石壁には唐代の石刻の仏壇90余りが納められ、中には優れたものが少なくない。

 峨眉山(楽山大仏を含む)はその特殊な地理的位置、素晴らしい神秘な自然景観、典型的な地質地貌、よく保護された生態環境、特に世界の生物区系結合部に位置し、豊富な動物と植物資源に恵まれれいる。峨眉山には絶滅の危機に瀕した珍しい動物の種類が多い。2000年近くの間に、仏教を主な特徴とする文化遺産が作りだ出された。峨眉山の美しい自然と文化遺産は、歴史、美術学、科学研究、科学の普及及び観光の面で極めて高い価値があり、全人類共同の富である。

 峨眉山と楽山大仏は、1996年、ユネスコによって「世界の文化と自然遺産」に登録された。世界遺産委員会は、「紀元一世紀に、四川省にある風景が美しい峨眉山の山頂では中国初の仏教寺院が落成された。その周辺に、他の寺院が相次いで建立されたことに伴い、ここは仏教の主要な聖地の一つとなっている。数世紀以来、大量な文化的財産が積み重ねられ、最も有名な楽山大仏である。それは、八世紀に石岩に彫刻されたもので、岷江、大渡河と青衣江という三つの川の合流地点を眺望しているようだ。71mもある仏像の高さは世界最高だ。ここでは、亜熱帯地帯植物や針葉林などの植物がよく見られ、樹齢が1千年を超えた樹木もある。

 

雲崗石窟

 雲岡石窟は中国北部山西省大同市西部16kmのところにある武周山の南麓に位置している。石窟は北魏興安二年(453年)から開削し始められ、大部分の石窟は北魏がその都を洛陽に移す前に(494年)完成し、石仏の彫刻は正興時期(520年から525年まで)続けられた。石窟は山に沿って開削されたもので、東西に延々約1km伸びている。その気勢は雄壮で、彫刻の内容は豊富多彩である。現存された主な洞窟は45ヵ所、大小仏壇は252ヵ所、石仏は5100体を超え、その内、最大の石仏は高さが17mで、最小のものはわずか数cmしかなかった。洞窟には菩薩、力士、飛天の姿が生き生きとしている。仏塔の柱の彫刻は精巧に施し、秦、漢時代(紀元前の221年から紀元220年まで)の現実主義的芸術の風格を引き継ぎ、また、隋、唐時代(581から907年まで)のロマン主義のものを切り開き、甘粛省の敦煌の莫高窟、河南省の竜門石窟と共に『中国の三大石窟群』と呼ばれ、世界にもよく知られた有名な石刻芸術の宝庫の一つでもある。

 雲岡石窟の石仏彫刻の気勢は雄壮で、彫刻の内容は豊富多彩であり、造形は生き生きとしており、5世紀における中国の石芸術のベストだと称され、中国古代の彫刻芸術の宝庫だとも見られている。開削の時期を見ると、早期、中期、後期に分けられ、異なる時期の石窟の石仏はそれぞれの特徴を持った。早期の『曇曜五窟』は、最初に著名な僧侶曇曜の指揮の下で、彫刻されたものである。道武帝以後の北魏時代の五人の皇帝の容貌に基づいて真似にして作ったの『曇曜五窟』の気勢は、壮観で、純真、質朴の西域の情緒を持った。中期の石窟は精巧に施し、細かく彫刻され、その装飾の模様は華麗で、北魏時代の芸術風格を示した。後期の石窟の規模は小さいであるが、石仏の姿勢は痩せ、全身の比例が均衡がとれ、中国北方の石窟芸術の手本である。このほか、石窟で現存された音楽をしたり、踊りをしたり、また、雑技をしたりした人物の彫刻も当時流行された仏教思想の体現であり、北魏時代の社会生活の反映でもある。

 雲岡石窟は、インドおよび中央アジアの仏教芸術が中国の仏教芸術に発展させる歴史を生き生きとして記録し、仏教の石仏が中国の民族的特徴を反映している。各種の仏教芸術の石仏は雲岡石窟で仏教芸術を集大成したものとなったから、形成された『雲岡パターン』は、中国の仏教芸術発展の転換点となった。敦煌莫高窟や竜門石窟の中の北魏時代の石仏は、いずれもある程度で、雲岡石窟の影響を受けた。

 雲岡石窟は、中国の特徴を持つ石窟芸術の開始である。中期の石窟にある中国の宮殿式建築彫刻及びこれを基礎に発展してきた中国の特徴を持つ仏像壇は、後の世紀に、石窟寺の建造で幅広く活用された。後期の石窟の全体の配置と装飾模様は、濃厚な中国式の建築と装飾風格をよりよく展示し、仏教芸術の『中国化』の一層の深化を反映した。

 雲岡石窟は、2001年12月、ユネスコによって『世界の文化と自然遺産リスト』に登録された。世界遺産委員会は、「山西省の大同市にある雲岡石窟は、5世紀から6世紀にかけた中国の優れた仏教石窟芸術を代表した。その中、『曇曜五窟』の配置や設計は厳密で、一体化され、中国仏教芸術の初めてのピーク期における経典的傑作であった」と評価した。

 

周口店『北京猿人』遺跡

 周口店の『北京猿人』遺跡は、北京市西南部48kmの房山地区周口店村の竜骨山に位置している。この地区には山と平原があり、東南部は、華北地区の大平原で、西北部は、山間地区である。周口店付近の山間地区は石灰岩で、水力の影響で、多くの異なる天然洞窟が形成された。山間地区の山頂には、東西の長さが140mの天然洞窟があり、『猿人洞』と呼ばれた。1929年、この洞窟で古代人類の遺跡が始めて発見され、『周口店第一地点』と称せられた。

(図:周口店『北京猿人』遺跡)

 周口店遺跡は、華北地区の重要な旧石器時代の遺跡で、そのうち、最も有名な遺跡は『周口店第一地点』で、すなわち『北京猿人』遺跡である、この遺跡は1921年、スウェーデンの地質学者であったアンタ-ソン氏が始めて発見したもので、その後、多くの学者は、この遺跡の周辺に対して発掘を行った。1927年、カナダの学者ブダソン氏は、周口点遺跡に対して本格的な発掘を行うと共に、この遺跡で発見した猿人の3枚の歯を『中国猿人北京種』と正式に命名した。1929年、中国の考古学者斐文中氏は、発掘の中で『北京猿人』の初の頭蓋を発見し、世界の注目を集めた。

 周口店遺跡の発掘は80年間あまり続けられ、現在、科学的考古作業は依然として進められている。『周口店第一地点』遺跡で40m以上のものを発掘したが、洞窟で堆積されたものの半分しか占めていない。周口店第一地点で発見された火を使った遺跡は、人類が火を使った歴史を数10万年繰り上げた。この遺跡で、五つの厚い灰燼層と三箇所の灰の堆積ものおよび生(なま)の時焼いたと思われる大量の動物の骨が発見された。灰燼層の最も厚いところは6mに達した。これらの遺跡は北京猿人が火を使うことができるだけでなく、火種を保存する方法も覚えたことを物語っている。遺跡で数万件に上った石器が出土され、これらの石器の原料はいずれも遺跡の付近で取られたもので、小型の石器の数と種類は一番多い。早期の石器は粗雑で、形が大きく、叩き切る石器である。中期の石器は形が段々小さくなり、先のとがった刃物が大量作られた。後期の石器は小型化になり、石錐はこの時期の石器であった。

 出土された物が立証されたように、北京猿人は、凡そ今から70万年前から20万年前までは周口店辺りに住み、狩猟を主とする生活をしていた。北京猿人は古猿人シナントロプスからホモサピエンスに進化した中間段階における原始人類であった。この発見は、生物学、歴史学および人類の発展史における研究できわめて重要な価値を持っている。

 北京猿人やその文化の発見と研究によって、19世紀ジャワ人が発見されて以来、『直立歩行人』が一体、猿人であったか、それとも、人であったかどうかという半世紀近くの間に残された疑問が解決された。事実が立証されたように、人類の歴史の夜明け時代、人類の体質形態、文化の性質から社会組織までなどの面で『直立歩行人』の段階が確かにあり、彼らは『南猿』の後輩で、ホモサピエンスの祖先であった。『直立歩行人』は、猿人から人類までの進化過程における重要な中間環節にある。今までに、「直立歩行人」の典型的形態は依然として周口店北京猿人を標準としており、周口店遺跡は依然として同じ時期に発見した古人類の遺跡の中で、その資料が最も豊富で、最も系統的、最も価値のある一つである。ユネスコ世界文化遺産機構によって、周口店北京猿人遺跡は1987年12月に『世界の文化と自然遺産リスト』に登録された。世界遺産委員会は、「周口店『北京猿人』遺跡の科学的考古作業は依然として進められている。現在までに、科学者はすでに中国猿人が北京猿人に属した遺跡を発見した。中国猿人は約更新世中期、いわゆる旧石器時代に生活をしていた。また、各種の生活用品および紀元前1万8千年から紀元前の1万1千年にさかのぼる新人類の遺跡に遡ることが出来る。周口店遺跡は太古時代アジア大陸の人類社会でまれに見る歴史的証拠であるだけでなく、人類の進化過程をも反映した」と評価した。

 

麗江古城

 麗江古城は、中国西南部雲南省麗江ナーシ族自治県に位置し、宋代末から元代初期(紀元13世紀後期)に建設されたものです。麗江古城は、海抜2400余mの雲南•貴州高原にあり、面積は3.8平方キロ、昔からよく知られる市場と重鎮です。現在、6200世帯があり、人口が25000人、その中少数民族ナーシ族の人口が最多。住民の30%は今も銅や銀を用いて工芸品を作るほか、毛皮、皮革、紡績および醸造業を主とする手工業と商業に従事します。

 麗江古城の道路が山に沿い川の両岸にあり、彩色の石で敷き詰められていることから、雨季は泥んこにならず、乾季は埃が立ちません。図案は自然で古朴で、町の雰囲気とよくマッチしています。古城の中心にある四方街は町のシンボルです。

 麗江古城内にある玉河には354を数える石橋が架けられてあり、一平方キロ当たり93の橋があると言う計算になり、その中、鎖翠橋、大石橋、万千橋、南口橋、馬鞍橋、仁寿橋などが最も有名で、明と清の時代に立てられたものです。

(図:麗江古城)

 麗江古城内にある玉河には354を数える石橋が架けられてあり、一平方キロ当たり93の橋があると言う計算になり、その中、鎖翠橋、大石橋、万千橋、南口橋、馬鞍橋、仁寿橋などが最も有名で、明と清の時代に立てられたものです。

 麗江古城内にある木府は、昔土司木氏の役所で、元代(1271年―1368年)の時代の建物で、1998年再建された後、博物院に改名された。木府の敷地面積は約3ヘクタール、中には、大小の部屋が162あり、歴代の皇帝から授けられた11の扁額が掲げられ、木氏家族の盛衰の歴史を反映しています。

 城内にある福国寺の「五鳳楼」は、明代万暦29年(1601年)に立てられたもので、高さ20mです。建築物の形が飛んできた五匹の鳳凰とよく似ているため、「五鳳楼」と呼ばれました。楼内の天井には、様々な図案が描かれ、漢民族、チベット族、ナーシ族などの建築芸術風格を受け継ぎ、中国古代建築の中でまれに見るもので、典型的なモデルとされています。

 白沙民家建築群は、麗江古城以北8キロのところにあり、宋代における麗江地区の政治、経済、文化の中心地でした。建築群は南北線上にあり、中心には梯子型の広場があり、4本の道は整然として東西南北という四つの方向に延びています。白沙民家建築群の構築と発展は、その後の麗江古城の科学的配置に基盤を築いたと見られています。

 束河民家建築群は、麗江古城西北部4キロのところにあり、周辺の小さい町の一つとされ、建築群の配置は入り混じっていて趣があり、「四方街」と似ています。「青竜」川は建築群の中心を貫き、川に架けられた青竜橋は明代(1368年―1644年)に作られたもので、麗江古城内の最大のアーチ型の石橋です。

 麗江古城は長い歴史を持ち、自然で古朴であり、漢民族、ペー族、イ族、チベット族などの民族の精華を受け継ぎ、ナーシ族の独特な風格を持ち、中国の建築史と文化史の研究にとって重要な遺産です。麗江古城は、豊富な民族の伝統的文化を持ち、ナーシ族の繁栄と発展を具現し、人類文化の発展を研究する上で重要な歴史資料でもあります。

 麗江古城は高い総合的な価値を持つ歴史的文化都市で、地方の歴史的文化と民族の生活、風俗習慣、人情などを集中的に反映し、当時の社会進歩の特徴をも反映しています。麗江古城は重要な意義を持つ少数民族の伝統的居住区で、都市の建設史と民族の発展史の研究に貴重な資料を提供し、貴重な文化遺産です。

 麗江古城は、1997年12月ユネスコによって、「世界の文化と自然遺産」に登録されました。世界遺産委員会は、「麗江古城は経済、戦略的要地を、険しい地勢と一体化させ、古朴の風情を完全に保存しています。古城の建築は各民族の文化特徴を融合させ、世界によく知られています。麗江古城はまた、古い供水システムを持っており、縦横に入り組んでいるこの供水システムは今でも、重要な役割を果たしている」と評価しています。

 

黄山

 中国には、「五岳より帰り来たれば、山を見ず、黄山より帰り来たれば、五岳を見ず」という諺があります。即ち黄山に登る前に、中国の最も特徴のある最も有名な五つの山、東岳泰山、西岳崋山、中岳嵩山、南岳恒山、北岳衡山を遊覧した後、天下のすべての山を遊覧しなくてもいいということです。しかし、先に黄山を遊覧したら、この五つの山岳を遊覧する必要が全くないと言うことですから、黄山が持つ奇観とすばらしさが分かります。

 黄山は、中国安徽省南部黄山市に位置し、南北の長さが40キロ、東西の幅が30キロ、面積が1200平方キロで、風景区に画定された地区の面積は154平方キロに達しています。黄山は山が高く重なり合い、険しい峰が林立し、谷が深いです。気候の温差が垂直に変化し、降雨が充分で、湿度が大きいことから、霧と雲海が多いというのが黄山の特徴です。

(図:黄山迎客松)

 黄山は、「天下の有名な風景は黄山に集まる」と古来の文人たちに絶賛された名山であり、とりわけ、奇松、奇石、雲海、温泉「四つの絶品」で、その名が天下に知られています。奇松は、最も奇妙な景観で、百年以上の樹齢を持つ黄山の松の木が1万株もあり、これらの松は峰や谷にあり、強い生命力があると見られています。そのうち、玉女峰の麓にある迎客松は黄山のシンポルです。奇石は黄山のどこにも見られ、様々な形をし、大きいものは林のように聳え立っています。黄山の気候の温差は垂直に変化しており、一年のうち200日以上を霧と雲海に覆われ、この雲海は様々な素晴らしい景観を呈しています。黄山の温泉は、水が澄んで、飲むことも、沐浴することもできるということです。

 黄山の自然環境の条件が複雑で、生態環境のバランスがよく取れ、原生植物が自然に分布しいます。黄山では、現在沼沢一ヵ所と湿地一ヵ所が保存されてます。森林カバー率は56%、植生カバー率は83%に達しました。有名なお茶「黄山の毛峰」や有名な漢方薬「黄山の霊芝」が国内外によく知られています。古木が多い黄山はまた珍しい動物が生息する理想的な場所です。

(図:黄山の曇海)

 黄山は、美しい自然景観に恵まれているだけでなく、奥深い中国文化をも備えています。歴史上数多くの詩人や画家及びその他の芸術家たちは黄山を訪れ、黄山の素晴らしさを讃える数え切れない優れた芸術作品を作りました。中国歴代の詩人、李白、賈島、范成大、石濤、龔自珍らも黄山を讃える作品を作ったことがあります。その作品は2万点以上あると言われています。

 中国古代の伝説上の軒轅皇帝はかつて黄山で修行し、つい仙人となったということです。現在、このような伝説とかかわりのある多くの峰、例えば軒轅峰、浮丘峰及び煉丹峰など残されています。黄山はまた、宗教、特に道教と密接な関係を持っています。

 黄山は、1990年ユネスコによって、『世界の文化と自然遺産』に登録されました。世界遺産委員会は「黄山は中国の文学芸術史に広く讃えられる有名な山で、その美しい自然風景に恵まれた名勝地を訪れる国内外の多くの観光客、詩人、画家及び写真家にとって魅力ある場所だ」と評価しました。

 

万里の長城

 『世界の七つの奇跡』の一つとされる万里の長城は、世界で建造の時間が一番長く、工事規模が最大である古代の軍事防御施設であり、その雄大な城壁は東から西へ山々を越え、砂漠を突きぬき、中国北部の地に延々と7000キロ以上も続く。万里の長城は1987年ユネスコによって『世界の文化と自然遺産』に指定された。

 万里の長城の築造は紀元前9世紀から始まり、当時、政権を握った中原地区の支配者は北方民族からの侵入を防ぐため、境界にある関所、狼煙台、あるいは城堡を城壁でつないで、長城を形成させた。春秋戦国時代まで、各諸侯国は覇を唱え戦争を頻繁に引き起こしたことから、相手を警戒するため境界付近の山脈を利用して長城を築造した。 

 紀元前221年、秦の始皇帝は中国を統一した後、北方の蒙古大草原の遊牧民の侵入を防ぐため、各諸侯国がそれぞれ築造した長城を繋げ、東が遼寧省から西が甘粛省まで全長5000キロに達した。秦の後、漢と明の時代にも1万キロ建造した。2000年余りの歴史の中で、各時期の支配者はそれを元にして修築を続け、全長5万キロを超え、地球を一回りすることができる長さとなった。

 現存された長城はほとんど明の時代(1368年から1644何まで)築かれたものである。万里の長城は西が甘粛省の嘉峪関から東が東北地区の遼寧省の鴨緑江の川辺まで、九つの省や直轄市、自治区を経て全長7300キロで、人々に万里の長城と呼ばれ、月から見える唯一の建造物とされる。防御施設であった万里の長城は山を抜け砂漠や草原、沼沢を越え、通った地形がきわめて複雑である。

 長城の城壁はほとんどがレンガで造られ、石積みを施したところもあり、また地形によって自然の断崖を利用した所もあり、重要な場所は内外両面を硬いレンガで覆いかぶせたこともある。城壁の大部分は山の一番高い所にあり、最高14メートル、平均は約7.8メートルで、城壁には百ヵ所もの険しい関所、何千何万もの見張り台やのろし台がある。これらのものを城壁とつなげた万里の長城は起伏する地形を一層雄大で、素晴らしい芸術的魅力を持たせている。今日最も壮観な北京西北部の八達嶺付近にある長城は、その高さが9メートル、幅は上部4.5メートル、10人の隊列が横並びに移動でき、底部9メートルにもおよび、上には凸字形の女垣を築き銃眼を開いた。八達嶺にある長城はきわめて上質のレンガで特に強固に築造され、最も完全な形で保存されている。

 万里の長城は極めて高い歴史的文化と観光の価値を持っている。中国には「長城に上らなければ、好漢とはいえない」という言葉がある。現在よく保存されている長城には、北京にある八達嶺、司馬台、慕田峪、長城の東端にある「中国の第一雄関」と呼ばれる山海関、及び甘粛省にある嘉峪関などがあり、いずれも有名な長城遊覧の景勝地として知られ、国内外の観光客を引き付けている。

 万里の長城は中国古代の何千何万もの勤労者の知恵と汗で作られ、中華民族の精神のシンポルとなっている。1987年に、八達嶺長城は「世界の文化と自然遺産」に指定された。

 

敦煌莫高窟

 中国西北部にある敦煌莫高窟は世界で現存する規模が最も大きく、保存が最もよい仏教芸術の宝庫である。1987年、敦煌莫高窟は、ユネスコによって「世界の文化と自然遺産」に登録された。世界遺産委員会は、「敦煌莫高窟は彩色塑像と壁画で世界によく知られ、千年に亘って続いた仏教芸術を示した」と高く評価しました。

 中国西北部甘粛省敦煌市郊外には、「鳴沙山」という山がある。鳴沙山の東麓の絶壁の上に、南北全長約2キロの山腹に五段階に分けて数え切れない石窟が掘られた。これは世界で有名な敦煌莫高窟です。

 莫高窟の開削は、前秦の建元二年(366年)から始まり、歴代の王朝の修造を経て洞窟の数は絶えず増え、七世紀唐の時代に、莫高窟には1000個の洞窟があった。従って、莫高窟は「千仏洞」とも呼ばれていた。洞窟には、大量の彩色塑像と壁画がある。敦煌莫高窟は、古代シルクロードの交通の要所に位置したことから、東西の宗教、文化および知識を融合しあう接点でもあった。外来の様々な文化芸術と中国の各民族の芸術が融合された莫高窟は、豊富多彩な芸術風格を持った。これによって、芸術宝庫と言われた莫高窟は素晴らしい景観を呈している。

 歴史の移り変わりと人的破壊にあったにもかかわらず、莫高窟には今尚500の洞窟があり、5万平方メートルの壁画と2000体余りの彩色塑像が保存されている。その塑像の姿は各種各様で、服飾や表現の手法が異なり、各時代の特徴を反映した。莫高窟の壁画も壮観で、これらの壁画を繋げると、30キロ近くに及ぶ画廊が出来上がるようになる。

 壁画には、仏教に因んだ題材が最も多く、人々が祭っているさまざまな仏や菩薩、天王および説法像などがあり、そのほか、仏教の経典にちなんだ各種の連環画、経変画、インド、中央アジア、中国での仏教に関する伝説の物語、歴史的人物と関わった仏教史跡画、供養する人たちの画像および昔の民族の神話を題材とした各種装飾の図案がある。各時代の壁画はその時代の各民族、各階層の社会生活、古代建築、造型および音楽、舞踊、雑技などを反映し、中国と外国との文化交流の歴史をも記録した。従って西側の学者は、敦煌の壁画を「壁上の図書館」と称する。

 1900年、敦煌莫高窟では、大量の経文を保存した洞窟が偶然に発見され、「蔵経洞」と呼ばれた。長さと幅がそれぞれ3メートルであるこの「蔵経洞」には、漢語、チベット語などの文字で書かれた経典、古文書の巻物類、絹や紙、麻布に書かれた仏画類、拓本などまれに見る文化財などが5万件に上り、年代は、紀元4世紀から11世紀にかけ、その題材は中国、中央アジア、南アジア、欧州などの地域の歴史、地理、政治、民族、軍事、言語文字、文学技術、宗教、医学、科学技術などすべての分野に及び、「中古時代の百科全書」と称された。

 蔵経洞発見後、世界各国の「探検家」が群がってやってきた。20年も経たないうちに、これらの「探検家」は前後として4万件に及ぶ経書や珍しい壁画、塑像などを盗み出し、莫高窟に巨大な災難をもたらした。現在、イギリス、フランス、ロシア、インド、ドイツ、デンマーク、韓国、フィンランド、アメリカなどの国では、敦煌莫高窟の文化財が収蔵され、その数は蔵経洞にある文化財の三分の二に相当する。

 蔵経洞の発見と同時に、中国の一部学者は敦煌書籍を研究し始めた。1910年中国では、敦煌を研究する著作が初めて出版され、「世界の著名な学説または学派」と称される敦煌学が生まれた。数10年来、世界各国の学者は敦煌芸術に極めて大きな興味を持ち、これを研究している。中国の学者は敦煌学研究の面で大きな成果を収めた。

 敦煌莫高窟が中国文化の宝である。中国政府はずっと敦煌文化財の保護を非常に重視している。敦煌莫高窟を訪れる国内外の観光客がますます多くなっていることから、文化財を保護するため、中国政府は莫高窟と向かい合っている三危山の麓に敦煌芸術陳列センターを設置した。ここ数年、中国政府は中国のお金2億元を拠出して「デジタルフィクション莫高窟」の設置準備作業に用いる。紹介によると、この「デジタルフィクション莫高窟」は、観光客に真の莫高窟の洞窟に入った感覚を持たせると共に、洞窟内の建築や彩色の塑像、壁画などすべての芸術品を本物のようにはっきりと見せることができる。専門家たちは「デジタルフィクション莫高窟」の設置は壁画への損害を避け、敦煌文化財の記録と保存にも役立つ」と語っている。

 

孔廟、孔府、孔林

 孔子は、中国における最も偉大な思想家、政治家、教育家であり、儒家学派の創始者でもある。孔子の故郷は中国東部山東省の曲阜である。曲阜には、孔子を祭る廟とされる孔廟、孔子の住居とされる孔府、孔子一族の墓地とされる孔林があり、「三孔」と総称され、古跡と文化財として国内外によく知られている。

 孔廟は,中国第一廟と称され、中国の歴代封建王朝が孔子を祭る最大の場所であった。孔子が亡くなった翌年の紀元前478年に春秋時代の魯国の王であった哀公は、孔子の三つの古い住居を廟に改造し、毎年孔子を祭った。その後、孔子が創立した儒家文化は中国の正統的文化となり、また、歴代の王朝は孔子の子孫を地域支配者とも言える候に取り立てたので、孔廟は拡張され続け、18世紀初期、清朝の雍正皇帝が孔廟に対し大規模な修築と拡充を行ったことによって、孔廟は今に見る大規模な古代建築群となった。

 孔廟は、その大部分が明と清の時代のもので、南北の長さは約1000m、総面積は10万平方メートルに達し、殿堂や楼閣など各種建物は500近く数えられ、その規模が北京の故宮に次ぐ古代の建築群であり、また中国古代大型祖廟建築のモデルでもある。

 孔廟の主要建築物は、南北の中軸線に配置され、付属の建築物は左右を対称に分布し、周りは赤レンガの壁で囲まれている。中軸線に配置された主要建物には、大成殿の他、圭文閣、十三御碑亭、杏壇などがある。正殿である大成殿は、歴代の皇帝が孔子を祭った場所であり、宋の崇寧2年(1103年)に建立され、明の弘治12年(1499年)に再建された。大成殿の周りの廊下には直径1m近く、高さ6mの10本の竜の彫刻を施した柱が立てられている。このような柱はここと北京の故宮にしか見られない。大成殿には先祖の位牌や神様の像および孔子の塑像などが祭られている。圭文閣は孔廟内の最も古い建築物で、宋の天嬉二年(1018年)に建てられ、初めは「蔵書楼」と呼ばれ、金の明昌二年(1191年)に立て直された後、圭文閣と改名された。大成殿の手前には杏壇がある。それは孔子が72人の弟子に講義を行った場所で、後の人が杏の木を植え、亭を築きたので杏壇と名づけられた。

 孔廟の境内には石碑が林立し、古いのは前漢時代のものから、新しいのは中華民国のものまでがあり、全部で2000を超え、中国の有名な碑林の一つである。また、歴代の皇帝が書いた碑は50余である。これは孔子が封建社会における崇高な地位を持ったことを充分に示した。

 孔府は孔廟の東側にあり、宋の至和二年(1055年)に衍聖公に封じられた孔子の第46代の孫、孔宋順から第77代の孫、孔徳成までがそこに住んでいた。現在の孔府の面積は5万平方メートル近くに達し、中には500軒近くの建物と九つの庭園があり、前半部は役所で、後半部は住宅と応接間で、一番後ろは庭園である。孔府では明の嘉靖13年(1534年)から1948年までの文書9000巻余が保存され、珍しい貴重な歴史的文化財が多く収蔵されている。

 孔林は孔子とその一族の専用墓地で、世界で歴史が一番長く、規模が最も大きい、また最も完全に保存さている一族の墓地であり、周りは7キロあまりの塀が築かれ、面積は約二平方キロで、2万本の樹令千年の樹木で覆われている。歴代に建てられた楼亭や坊殿、石碑、石刻が密生した樹林の間に見え隠れている。現在孔林には歴代の3万6000以上の石碑が立てている。孔林のほぼ中央には高さ6.2メートルの孔子の墓があり、その両側には息子孔鯉と孫孔伋の墓がある。

 孔林は中国歴代の政治、経済、文化の発展および葬儀と埋葬の風俗の移り変わりに対する研究にとって大きな役割を果たしている。

 孔廟、孔府、孔林は世界の豊富な文化遺産であると同時に、価値ある自然遺産でもある。「三孔」に植えられている約1万7000本の古木は古代の気候と生態学を研究する上での貴重な材料となっている。1994年孔廟、孔子邸、孔林はユネスコによって 「世界の文化と自然遺産」に指定された。

 

平遥古城

 中国北部山西省に位置する平遥古城は1997年にユネスコから「世界の文化と自然遺産」に指定された。世界遺産委員会は、「平遥古城は、中国に現存する最も完璧な古城で、中国歴史の発展の中で、優れた文化、社会、経済及び宗教発展の姿を示している」と評価した。

 平遥古城は、紀元前9世紀前後に建造され、明代の洪武三年(1370年)に拡張工事が行われ、ほぼ四角形の城壁に囲まれており、面積は2.25平方キロである。現在の平遥古城の主要建築物とその枠組みは600年余り前のもので、城壁や町、民家、店舗、お寺などがよく保存されており、数千年来の漢民族の伝統的な文化思想を体現し、明や清(1359年から1911年)の時代の建築物を集めた歴史博物館と言える。

 平遥古城の城壁は、2800年前から建造されはじめたが、当時は粗末な土壁であったが、1370年にレンガで立て直され、現在に至っています。城壁の全長は6000m以上、高さは12mである。城門は東西が二つずつ、南北が一つずつ、全部で六つの門があり、どの城門も外に突き出て、内外二つの門があり、亀の形をしているため、「亀城」とも呼ばれた。南北の二つの門は、亀の頭と尻尾で、東西の四つの門は四本の足で、南北の内外の二つの門は直通し、亀が首を外に伸ばしているようであり、おまけに南門の外に井戸が二つあり、それが亀の目にたとえられている。北門の外門は東に曲がっているため、亀の尻尾を東の方のふっているように見える。中国の伝統的文化で亀は長寿の象徴である。このほか、六つの城門には、いずれも高くて大きな城楼があり、高さが7m近くもある四角の角楼で、ほぼ50m置きに城台が一つあり、城壁の上には見張り台が72ヵ所あり、城壁の上の外側に凸凹状の低い壁もある。

 城壁に囲まれた町の中では、高さ20mの壮麗な『市楼』を中心に、大通り四本、曲がりくねった狭い道が72本縦横に交差している。町の中にある4000軒余の古い民家のほとんどは、明と清の時代に立てられたもので、すべて青いレンガと灰色のかわらで造られた四合院で、壁の高さは七、八mに達し、地元の特色が目立ち、そのうち400ヵ所はよく保存され、いままで漢民族が住んでいる地区でよく保存された完璧な古代住民住宅群である。町の中にはまた、規模の異なるお寺や老舗もあり、明と清の時代の繁華街の姿を表している。

 平遥古城には多くの文化財や古跡がある。例えば城外にある北鎮寺の万仏殿は、中国における三つ目の古代木造建築物で、1000年余の歴史を持ている。殿内には紀元10世紀の精緻な作りの彩色塑像があり、中国早期の彩色塑像芸術を研究する手本である。また、紀元6世紀に造られた双林寺の中には10余の大きな殿堂があり、これら殿堂の中には13世紀から17世紀までの彩色の泥人形が2000余置かれ、中国古代の彩色塑像芸術の宝庫と呼ばれた。そのほか、古城の内外では、古代の石碑が至る所に見え、1000ヵ所も数えられている。

 平遥古城は、中国の近代金融史上における特殊な地位を持っており、1824年、中国初の近代銀行の形を備えた『日昇昌』銭荘はここに建てられ、為替手形で伝統的な現金支払い制度を改めた。その後『日昇昌』銭荘の業務は中国だけでなく、日本、シンガポール、ロシアなどの国にも広げられ、『天下第一号』と称された。『日昇昌』票荘の誕生によって、平遥県の金融業が急速に発展し、当時中国の銭荘業務額の半分を占め、中国金融業の中心となった。平遥古城内の西大通りは100年余り前の金融街で、現在も依然として店が立ち並び、商売が盛んになり、嘗ての『日昇昌』銭荘もこれらの店の中にある。

 長い歴史を持つ平遥古城は、今でも極めて大きな魅力を持っている。嘗ての城壁は、平遥県を、風格のまったく異なる二つの世界に分けている。城壁の内側には600年前の町並みや店舗、市楼がそのまま残され、城壁の外側は近代的で、新しい町である。

 

秦の始皇帝と兵馬俑

 中国西部陝西省西安市郊外の驪山にある秦の始皇帝の陵墓は、世界で規模が一番大きく、構造が最も奇抜で、内容が最も豊富な皇帝墓の一つである。副葬坑の一つである兵馬俑坑はエジプトのピラミッドと同じように有名で、世界の第八奇跡だと称されている。

 秦の始皇帝は(紀元前259年から紀元前210年まで)中国封建社会の初の皇帝であり、中国史上争議のある歴史的人物であった。周りの諸候国を全て征服し、中国史上広大な国土と数多くの民族を持ち、中央権力を握った封建王朝を築き上げた秦の始皇帝は社会、経済、文化の発展を促す一連の措置を講じ、例えば、通貨、文字、度量衡(さし、ます、はかり)を統一し、また、北部の少数民族からの侵犯を防ぐため万里の長城を構築した。秦の始皇帝は中国史上における有名な政治家であったが、非常に残虐で、贅沢三昧の暮らしをする人物でもあり、人々の思想を禁固するために『書籍を焼き、学者を穴埋めにする』という野蛮な行為を行い、つまり、彼の支配思想にそむく書籍を焼き、自分の支配を維持するため、意見の食い違いを持つ学者を穴埋めにした。秦の始皇帝は政権の座についた時期、国民に苦労を掛け、人民の財物を無駄にして、自らのために陵墓と阿房宮など豪華の宮殿を建造した。秦の始皇帝は即位後まもなく、陵墓を建造し始め、中国を統一した後この工事を一段と拡大し、職人や服役者を70万人駆り集め40年近くの歳月を費やしてその陵墓を建造した。

 秦の始皇帝の陵墓は面積が56平方キロで、陵墓の土台の部分は四角形に近い形をし、南北の長さは350m、東西の幅は345m、高さは76m、ピラッドの型となっている。中国考古学者の調査と発掘を通じて、陵墓の周辺には副葬坑があり、副葬坑と陵墓を建造した関係者の墓が500ヵ所あることが分かった。副葬坑には銅製の車馬坑、馬厩坑、兵馬坑などがある。兵馬坑は陵墓の東1.5キロのところにある。兵馬俑坑は、1974年地元の農民が井戸を掘った時偶然に見つけたものである。第一号兵馬俑坑の面積は134260㎡あり、その中には、武士陶俑500体、木造戦車18台、陶馬100匹余が出土された。兵士陶俑の高さは実物と同じくらいで平均高さ1.8mで、同じ顔をしたものが一つもなく、まさに精緻を極めた芸術品でもある。第二号坑の面積は約6000㎡、陶俑と陶馬は合計1300体余、戦車が89両あり、歩兵、騎兵、戦車もある。第三号坑の面積は約376㎡で、地下の大軍を統師する指揮部であり、武士俑68体、戦車1両陶馬4匹ある。この軍陣配列は全体として秦の軍隊の編成の縮図であると言われている。

 文化財保護技術や陵墓に対する保護技術などの原因によって、現在、中国は秦の始皇帝陵墓を発掘するつもりがない。ここ数年、陵墓の副葬坑内に5万件余の重要文化財が出土された。

 1980年に発掘された二台一組の大型彩色絵が描いてある銅馬車は装飾が最も華麗で、本物と全く同じである。この二台の銅馬車は、それぞれ3000以上の部品で作られ、そのうち、金、銀製品は1000点以上である。秦の始皇帝陵墓は当時秦の王朝の再現であると見られている。1987年『世界の文化遺産リスト』に登録された。

 

故宮

 故宮は、北京市中心部の北側にあり、紫禁城とも呼ばれ、明や清朝の皇帝が居住する王宮であり、世界に現存する規模が最も大きく、最も整っている古代の木造建築群である。1987年故宮はユネスコに「世界の文化遺産のリスト」に登録された。

 故宮は、明の永楽4年(1406年)から建造を始め、14年かかって完成した。24人の皇帝が故宮で即位し、政務を行った。規模が大きく、風格が美しく、建築芸術が優れた豪華な故宮は、世界に稀に見る宮殿である。故宮の面積は72万㎡、南北の長さは約1000m、東西の幅は約800m、殿、宇、楼閣は999ほど軒あり、建築面積は約15万㎡である。周りには、高さが10m、全体の長さが3400mにも及ぶ赤い色の城壁があり、城壁の四隅にそれぞれ一つの角楼が配置されている。城壁の外には、幅52mの護城河という堀がある。

 城内は南の外朝と北の内廷に区分され、外朝の中央部には、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が並び、東には文華殿、文淵殿など、西には武英殿、南薫殿など多くの殿と門が配置されている。太和殿、中和殿、保和殿は三大殿といわれ、皇帝が権力を行使し、盛大な典礼を行う場所である。

 故宮の中心にある太和殿は中国の現存する最大木造建築で、白い石で作られた高さ8mの基壇に建てられた太和殿は、その高さ約40mで、故宮では最高の建築物で、殿の真中には金色に塗られた竜が彫刻された玉座が置かれ、玉座の後ろには金色に塗られた竜の絵を描いた木製の屏風が配置され、玉座を囲んだ6本の柱には彫刻された竜の模様があり、皇帝の権力の象徴である。太和殿の三層の基壇には1千個余の蛟の頭(角のない竜、空想の動物)が配置され、排水の施設でもある。豪雨が降る時、蛟の頭から水が出るという景観が見られ、雄壮そのものである。

 太和殿の裏にある中和殿は、皇帝が重要な式典に出席する時、休憩し、朝拝を受ける場所である。一番北にある保和殿は、宴会を催し、殿試(科挙試験)を行う場所である。

 保和殿の裏は内廷で、皇帝が政務を取り扱い、皇帝と皇后、妃や女宮、王子と王女が住み、遊び、神を祭るところである。内廷の主体建築には、後三宮と言われる乾清宮、交泰殿、坤寧宮および両側の12の内院があるほか、寧寿宮庭園、慈寧宮庭園、御庭園という三つの庭園があり、王族が遊ぶところである。

 故宮は封建王朝の礼儀制度、政治的規範および論理に基づき建造されたものである。その全体の配置、規模と建築の形や色、装飾、陳列などは皇帝の絶大な権力を象徴するものであった。

 史書の記録によると、故宮には大量の文化財が保存され、100万点余に上ると言われ、中国文化財の総数の6分の1を占めている。1980年中国政府は、地下倉庫を100箇所建造し、殆どの文化財を地下倉庫に収めた。故宮は中華民族の輝かしい文化の象徴で、中国の伝統的かつ悠久な文化を反映したものである。故宮は580年余の歴史を持ち、大部分の建築は老朽化し始め、ここ数年、故宮を訪れる内外の観光客数は1000万人に上る。故宮をよりよく保護するため、中国政府は2004年から故宮を修繕し始め、工事は20年かかるということである。

 

天壇

 天壇は、北京市南部に位置し、明の永楽18年(1420年)に建造され、明、清(紀元1368年―1911年)二つの王朝の皇帝が毎年天と地の神を祭り、五穀豊穣を祈る場所で、中国で現存する規模最大の壇廟建築である。面積は故宮(紫禁城)より5倍となり、270万㎡である。天壇の最南の壁は四角形で、地を象徴し、最北の壁は半円型で、天を象徴する。天壇は内壇と外壇の二つの部分に分かれ、主な建築物は内壇にあり、南には圜丘壇、皇穹宇があり、北には祈年殿、皇乾殿がある。

 圜丘壇は祭天壇とも称され、天壇の重要な建築物で、露天の三段階の円型石壇で、どの階段の石壇の周りにも柱がある。圜丘壇は皇帝が冬至の日、天を祭る式典を行う中心場所である。式典を行う場合、壇の前に大きな提灯が掲げられ、中には1mほどの蝋燭がある。

 圜丘壇の北にある皇穹宇は、皇帝の位牌を祭る円型の小宮殿で、その周りには円型の高い壁がある。これは有名な回音壁である。

 天壇の主体建築である祈年殿は皇帝が五穀豊穣を祈る場所で、直径32m、高さ8m、三段からなる漢白玉石の上に建てられている。祈年殿の宝頂は金メッキが施され、屋根には藍色の瑠璃がわらが葺いてある。28本の柱によって支えられている大殿は彩色絵が描かれている。

 天壇には、圜丘壇と祈年殿の他、斉宮(皇帝が天を祭る前に沐浴して、精進料理を食べ休憩の場所)、皇乾殿、神楽署、具服台、宰牲亭、神厨などの建築物がある。

 天壇は1998年にユネスコに『世界文化遺産のリスト』に登録された。世界文化遺産委員会は、「天壇は中国が現有する最大の古代祭祀用の建築群であり、中国の建築史における重要な位置を占めるだけでなく、世界建築芸術の貴重な遺産でもある」と述べました。

 

ポタラ宮

 ポタラ宮は、中国西部チベット自治区ラサ市の紅山にあり、規模が雄大で、世界の屋根にある真珠と称され、チベット族建築芸術の傑出した代表であり、中国の最も有名な古代建築の一つでもある。

 ポタラ宮は、チベット族歴代のダライラマが政治や宗教活動を行い、住むところで、チベットで現存する最大の古代高層建築物である。文献の記載によると、ポタラ宮は、紀元7世紀の吐藩王ソンツァンカンポが紅山に建造し、部屋数が約1000あり、当時紅山宮と呼ばれ、吐藩王朝の政治中心であった。紀元9世紀吐藩王朝が解体され、チベット族住民は長期に亘る戦乱状態に陥り、紅山宮は次第に破壊されていった。1645年から、ポタラ宮はダライラマ5世によって再建され、その後、歴代のダライラマも手入れをしたり、拡大したりして、現在の規模となった。   

 ポタラ宮は外観を見ると、麓から頂上まで全部13層からなり、高さは110mとなっている。ポタラ宮は石と木材で建造され、壁は全部花岡岩で、一番厚いところは5mもあり、地震を防ぐために壁内に鉄液を注いだ。装飾品としての金頂や金幢などは古代の高層建物の落雷問題をうまく解決した。

 ポタラ宮は、主に東の白宮(ダライラマの住居))真中の紅宮(仏殿と歴代のラマの霊塔殿)と西にある白い僧室(ラマと僧侶の住む部屋)からなっている。紅宮の前には『晒仏台』という壁があり、仏教の祝日になると、仏像が施された大絨毯がこの壁に掲げられる。山の中腹にある主体建築の前に1600㎡の広場があり、祝祭日に式典が行われる場所である。

 紅宮は、ポタラ宮の主体建築で、歴代ダライラマの霊塔殿と各仏殿である、ダライラマ5世の霊塔殿は一番豪華で、高さが15m、台基が四角形で、天井が円形となっており、塔座、塔瓶、塔頂に分かれる。ダライラマ5世の屍骸は香料、紅花などを使い塔瓶に保存されている。霊塔を包む金箔の重さは3724キログラムあり、1500個に上るダイヤモンド、赤と緑の宝石、翡翠、瑪瑙などの貴重な宝石が嵌め込まれ、塔座には、各種宝器、祭器などが置かれている。西大殿は5世ダライラマ霊塔殿の享堂で、紅宮の中の最大の宮殿である、中には高さ6m余の48本の木造の柱があるほか、大量の木材で彫刻された仏像、獅子、象などの動物が置かれている。ポタラ宮にある大小の殿や堂、玄関の間、回廊などには壁絵が描かれ、これらの壁絵の内容は極めて豊富で、歴史的人物を描いた物語、仏経による物語を現したものがあり、建築、民族風情、体育、娯楽などを表した絵もある。1万点近くの軸物絵と石彫、木彫、塑像などの価値が極めて高い芸術品が収蔵されたほか、チベット族絨毯、陶器、玉製品など大量のチベット族の伝統的な芸術品がよく保存されている。芸術性の高いこれら文化財は1000年余に亘って、チベット族が漢民族などの民族と友好往来、文化交流を行う悠久な歴史を反映した。ポタラ宮の構築配置、土木工程、金属精錬、絵画、彫刻などはチベット族を主体として、漢民族、蒙古族、満州族など各民族の職人の優れた技術とチベット族の建築芸術を体現した。

 1994年、ポタラ宮は、ユネスコに『世界の文化遺産のリスト』に登録された。

 

世界文化遗产(新增)

 1、明・清朝の皇帝陵墓群:明顕陵、清東陵、清西陵、明孝陵、明十三陵、盛京三陵

 明顕陵は、湖北省鐘祥市から東へ7.5㎞離れた純徳山に位置しており、明の嘉靖帝の父である恭叡皇帝と母である章聖皇太后の合同葬墓である。明の正徳14年(1519年)に創建され、面積183haの陵墓は、中国南中地区で唯一の明の皇帝陵墓であり、単体の皇帝陵の面積としては明代最大である。特に「一陵両塚」(一つの陵に二つの墓)という建築デザインは歴代の帝王陵墓において、極めて稀なものである。

 清東陵は、河北省遵化市の西30㎞の馬蘭峪にあり、北京天津、唐山と承徳の真ん中に位置する。北京から東へ150㎞、唐山から北へ100㎞、承徳から南へ100㎞離れている。ここには580余りの建築物がある。順治帝、康熙帝、乾隆帝、咸豊帝、同治帝5人の皇帝のほか、孝荘文皇后、西太后などの皇后や妃161の陵墓があり、中国文化の貴重な宝物である。

 清西陵は、北京から西南へ約120㎞、河北省易県から45㎞離れた永寧山山麓に位置する、清の時代の皇帝陵墓群のひとつである。河北省遵化市の東陵とそれぞれ北京の東西2ヶ所に作られたため、西陵と呼ばれる。ここには、雍正帝、嘉慶帝、道光帝、光緒帝四人の皇帝や皇后、側室、王子、姫など76人が14の陵墓に眠っている。そのほか御用寺院である永福寺が建てられた。景色は美しく、静かな環境を持ち、規模が大きく、建築デザインも整った典型的な清の建築群である。

 明孝陵は、明朝の開祖朱元璋と皇后馬氏の合同陵墓である。世界で最も大きい皇陵群の一つ。南京の東にある紫金山の南麓に位置し、東にある中山陵や南にある梅花山とも近い。また、明代の陵墓の代表として、明の最高レベルの建築や彫刻芸術を代表し、明、清の500年あまりの皇帝陵墓の建造に影響を与えている。北京、湖北、遼寧、河北などにある明清の皇帝陵墓は全て明孝陵の規模や構造、様式を基に造られたため、明孝陵は「明清皇帝第一陵墓」と言われている。2003年7月、パリで開かれたユネスコの第27回世界遺産委員会で、世界文化遺産に登録された。

 明の十三陵は、北京市昌平区天寿山の麓にある40k㎡の小さな盆地に位置する。総面積120k㎡、連山に囲まれ、風光明媚なところである。南に正門があり左右には長さ40㎞の壁が巡らされ、陵園を取り囲んでいた。しかし、現在はほとんど崩れ落ち、残壁がわずかに見られるだけになっている。各陵墓は全て北に山、南に水を配している。ここは、地上の長陵と地下宮殿の定陵が一番有名。

 敷地面積10haの「長陵」は、十三陵を代表する最大規模の陵墓である。永楽7年(1409年)に建造され、天寿山の主峰南麓に位置している。その「祾恩殿」は、明の皇帝陵の中で唯一、今に残る陵殿である。大殿(本堂)の幅66.5m、奥行き29.12m、高さ25.1m、総面積は1956㎡。

 その後、建造された明の献陵(仁宗)、景陵(宣宗)、裕陵(英宗)、茂陵(憲宗)、泰陵(孝宗)、康陵(武宗)、永陵(世宗)、昭陵(穆宗)、定陵(神宗)、慶陵(先宗)、徳陵(慕宗)など十一陵が長陵の両側にそれぞれ位置している。

 これら明の皇帝の陵墓は面積、建築風格は異なるが、建物の配置や、規模、構造はほぼ同じで、断面は長方形になっており、後ろ側には円形(または楕円形)の宝城(墓穴の盛り土)がある。建物は石橋から順にそれぞれ陵門、碑亭、棱恩門、棱恩殿、明楼、宝城などとなっている。2003年7月ユネスコの世界文化遺産に登録された。

 盛京三陵とは、遼寧省瀋陽市郊外に位置する清の福陵、清の昭陵と撫順市新賓県の清の永陵という3つの皇帝の陵墓である。2004年ユネスコの世界文化遺産に登録された。明、清の皇帝陵墓の重要な一部分である盛京三陵は、建築様式や規模、構造、祭儀の制度、陵墓管理の制度などが受け継がれている。同時に、盛京三陵は東北少数民族出身の皇帝の隆盛になっていく過程の産物でもある。当時の民族の考え方、審美、建築レベル、風習などのメッセージも多く含まれている。

 明、清王朝の皇帝陵墓群には、陵墓、宮殿、寺院などがあり、風水学、建築学、美学などが具現化されている。また、建物がよく保存され、皇帝陵墓のありのままの姿を反映している。陵墓の所在地、企画、配置などに中国伝統の風水、天と人が一体になるという宇宙観が表現されている。建築の規模や質に関しては、壮大かつ広く、精美で、皇帝の至上の権力、権威、威風が十分表されている。

 明、清王朝の皇帝陵墓群の礼制は封建社会の葬儀制度の最高レベルを代表するとともに、数千年に及ぶ封建社会の宇宙観、生死観、道徳観と風習を代表しており、古代建築の精髄とも言える。また、明、清王朝の皇帝陵墓群は伝統文化の伝承者でもあり、とても重要な歴史的、芸術的、科学的な価値がある。

 ユネスコは、「明、清王朝の皇帝陵墓群は風水に従って、所在地を選び、多くの建築物を巧妙に地下に造り、自然条件をも変えることができものである。伝統の建築、装飾の思想を代表し、中国500年余りの世界観と権力観を説明している」と評価している。

 

2、高句麗王城、王陵及び貴族の古墳群

 高句麗王城、王陵及び貴族の古墳は、主に吉林省通化集安市と遼寧省本渓市桓仁県に分布している。高句麗は前漢(紀元前206-25 年)から隋、唐(581-907年)にかけて、中国北東部に現れた多大な影響力を持った辺境民族で、その活動地域は五女山城、国内城、丸都山城など40を越え、現在は多くの遺跡が残されている。そのうち14 の古墳が王陵で、残りの26 の古墳が貴族の墓でこれらは高句麗文化に属する。

 高句麗政権は、中国東北地域における影響力の大きい少数民族政権のひとつであり、北東アジアの歴史において大きな役割を果たした。集安、桓仁は、高句麗政権初期と中期の政治、文化、経済の中心地であり、高句麗文化遺産がもっとも集中している地域である。

 高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙(チュムン)により建てられたとされる。初期の都は紇昇骨城である。これは、現在中国の五女山城である。五女山城は紀元前34年に建てられ、北方の少数民族が山城を構築する伝統を継承したが、場所の選択、城壁の作り方、石の加工などにおいて、今までと違う独特なところがある。このため、東北や北東アジア地域の山城建築の代表的なものになり、古代東北民俗建築史上、一里塚的な意義を持っている。

 西暦3年高句麗は丸都山城に遷都、その後、平城の国内城に移り、427年平壌に再び遷都した。この425年間、国内城は高句麗の政治、経済と文化の中心であった。国内城は鴨緑江の中流の右岸にある通溝平原に位置し、中世期における北東アジア地域の城跡のうち、石の城壁を持つ数少ない城跡のひとつである。平壌に遷都した後、国内城は「別都」と呼ばれた。

 丸都山城は集安城の北にある山の上に位置し、国内城の守備施設であるが、都としても利用された。高句麗の歴史上大きな役割を果たした。国内城と互いに依存しあう丸都山城は、世界王都建築史上の新しい様式である。丸都山城は紀元前3年から建造され、全体的に布石が完備され、大型宮殿を中心に建てられた山城王城である。西暦342年、燕王慕容皝が大挙して高句麗に攻め入り、丸都を襲い、高句麗に壊滅的な打撃を与えた。

 現在の集安市近辺には、約7000基の古墳が見つかっている。そのうち高句麗の王族・貴族の陵墓群として世界文化遺産に登録されたのは、太王陵、将軍塚、千秋塚など12の大王陵と、将軍塚の陪冢や角抵塚、舞踊塚、五(かい)墳など26基の貴族墓である。特に後者の貴族墓には、壁画古墳が14基含まれている。好太王碑は、高句麗の第19代の王である好太王の業績を称えた石碑である。好太王は広開土王碑とも呼ばれ、付近には陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、合わせて広開土王陵碑とも言われる。碑は、高さ約6.3m・幅約1.5mの角柱状の石碑である。碑文は純粋な漢文での記述となっている。

 2004年7月、高句麗古墳群は文化遺産に登録された。

 

3、マカオ歴史市街地区

 400余年の歳月をかけ、中国文明と西洋(ポルトガルがメイン)文化が融合してきた澳門の8つの広場と22ヶ所の歴史的、宗教的建築物が、「マカオ歴史市街地区」として2005年に7月に世界文化遺産に登録された。マカオ歴史市街地区は、中国国内に現存する最も古く、最大の規模を持ち、最も完全に保存された東西の建物が並存するエリアである。ここは、東西の文化交流の産物で西洋的な建築物や文化が、中国の伝統的建築物に囲まれ、人々の生活空間の中で完全な形で保存されている、世界でも類を見ない歴史の街である。 16世紀の半ば、国際貿易の新しい情勢に基づいて、明はマカオ半島の南西部をポルトガル人をはじめとする外国人が定住し、貿易を行う貿易拠点とした。マカオは中国の主な対外港として発展し400年来、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランス、イタリア、米国、日本、スウェーデン、インド、マレーシア、フィリピン、朝鮮、アフリカなどから来た人が持ってきた、異なる文化、職業、技術、風習を融合させ、マカオ歴史市街地区にで建物、教会を建て、道路を整備し、砲台や墓などいろいろものを作った。

 外国人の定住に伴い、それぞれの伝統建築がマカオに運ばれてきた。これによって、マカオは近代西洋建築物が中国に伝わった第一ステーションとなった。特にポルトガル人がマカオで建てた建物は、本土との密接な関係を表してる。事実上、ルネッサンス時代後の建築様式やデザインは、アジアのその他の建築要素と合わせて、マカオで新たな変化を生み、独特な建築様式になった。

 四百年あまりの歴史の中で、中国人とポルトガル人は「マカオ歴史市街地区」に、異なる生活エリアを建てた。これらのエリアにはマカオの東洋式と西洋式の建築の特色が見られる他、両国人民の異なる宗教、文化および生活習慣の融合と相互尊重が認められる。このような包容的な雰囲気は、マカオのもっとも特色のあるところであり、価値のあるところである。

 世界遺産として評価された理由は、中国領土内に現存する最も古く、完璧に保存されている中国と西洋の建築物の融合があり、約400年に渡る東洋と西洋文明の交流点として認められたことだと言われている。世界でも類をみない異文化共生の地として世界遺産に登録された。

 

4、安陽殷墟

 殷墟(いんきょ)は、中国河南省安陽市に位置する古代中国殷王朝後期の遺構。洹水南岸に位置する小屯村北東部が宮殿などが位置する殷都の中心だったと考えられ、周囲からは工房跡なども発掘されている。洹水北岸の武官村一帯には歴代の王墓が存在し、13の大規模な墳墓が発見されている。紀元前14世紀の末期に商王の盤庚がここに遷都して以来、商の紂王の時代に滅びるまで、8世12人の王を経て273年間都が続いた。殷墟の発見と発掘は20世紀において中国での最も重大な考古発見である。2006年7月13日に世界遺産に登録された。

 殷墟は中国の歴史上、文献で記載され、考古学や甲骨文字で証明されている初の都の遺構である。紀元前1300年盤庚がここに遷都して以来、紀元前1046年に国が滅びるまで、小辛、小乙、武丁、祖庚、祖甲、廩辛、康丁、武乙、文丁、帝乙、帝辛、計8代12名の国王が273年間統治した。洹水が流れる殷墟は当時の政治、経済、軍事、文化の中心であった。商が滅びた後、殷墟も廃墟になった。

 1928年発掘開始以来、殷墟から110あまりの宮殿宗廟遺跡、12基の王陵遺跡、洹北商城遺跡、甲骨の洞窟などが発掘された。これらの宮殿宗廟の建築は黄土、木材を主な建築材料とし、土の土台の上に建てられ、中国宮殿の特色を持ち、古代早期の宮殿建築の先進レベルを代表している。

 そのほか、殷墟から数が驚くほどの甲骨文、青銅器、玉器、陶磁器、骨器などの文物が発掘された。殷墟の規模、面積、宮殿の広さ、文物の質、量から、3300年前の商の都の風貌を知ることができる。当時は中国ないし東方の政治、経済、文化の中心であることが分かった。

 世界遺産に登録された理由は、中国の王朝で最も古いとされているのは夏で、その次が殷となっていた。この殷墟の発見により、それまで文献の上だけの存在であった殷という王朝が実際にあったことが確認さた。このことから殷墟は2006年に世界遺産に登録された。

 

5、開平楼閣と村落

 開平は中国で有名な華僑のふるさとであると同時に、楼閣の故郷でもある。19世紀の末ごろ、米国、カナダは排華法案により排華政策を実行し始め、中国人労働者が帰郷して現地で土地と家を買い、家庭を持つことが強要された。19世紀末から1920年代終わりに、米国、カナダ両国の経済の急速な発展に従い、中国人労働者の収入と開平華僑による送金額が増加し、開平に多数の楼閣が建造される経済的条件が整った。

 その特色は中国と西洋を折衷した外壁を持っていることで、古代ギリシア、古代ローマとイスラムなどの建築様式も結合し多様性に富んでいる。また、集落防衛の為、銃眼がある。建築材料によって石楼、泥楼、磚楼(煉瓦造り)とコンクリート楼に分けられ、コンクリート楼が最も多い。機能によって集合住宅、居楼と刻楼に分類すると、居楼が最も多い。これらの楼閣は華僑洋館とも呼ばれる西洋風の高層建築で、中国の伝統と西洋の建築意匠が見事な融合を見せている。現存の高層楼閣は1833棟にのぼる。

 歴史学者の研究によれば、開平は低地にあり、しばしば洪水に見舞われていたため、被害防止のために村民たちが協力して閣楼を建て始めたという。開平に現存するもっとも古い迎竜楼は、かつてノアの箱舟のような役割をもっており、2度村民たちの命を救った。清の光緒九年(1884年)、開平は大水害に見舞われ、多くの村の家が水没したが、三門里村は迎竜楼が村人を守り全員無事であったという。1908年の洪水でもふたたび村民は楼閣に避難し、救われた。

 また、閣楼が建てられた主な理由は匪賊から身を守るためであるとも言われる。開平の建物はその役割によって3種類に分けることができる。ひとつは更楼で、パトロールや村外のようすを知るための建物で、さらに匪賊から身を守るためのトーチカの役割を果たす。衆楼は、村民が共同で建築した住居で、避難所でもあり、部屋の多くは村民が購入している。居楼は村民が各自自費で建てた家族の住まいで、食糧庫と快適な生活空間をもつ。この3種類の建物はすべて匪賊侵入防止の役割をもつ。開平の楼閣は材料、様式のうえでそれぞれ異なるが、すべて窓が小さく、門や窓は鉄の柵で覆われ、壁が厚く、壁に銃を打つための穴があいている。一般的に屋上に見張り台があり、各種機械や発電機、警報機、サーチライトや石、ドラなどの防衛機材が備え付けられている。2007年に世界遺産に登録された。

 

6、福建土楼

 2008年7月6日、カナダのケベックで行われた第32回世界遺産委員会で、46の福建土楼が世界遺産に登録された。これらの福建土楼は、初渓土楼群、田螺坑土楼群、河杭土楼群、高北土楼群、華安県の大地土楼群、洪坑土楼群、衍香Yanxiang楼、懐遠楼、振福楼、和贵楼などがあり、福建省南西部の山岳地域にある。

 宋元の時期に見られ始めた福建土楼は、明の末、清、中華民国の時代になり、繁栄を遂げた。46の土楼のうち、一番古いものと一番新しいものは共に初渓土楼群にある。集慶楼は、この土楼群の中で最古最大の円形土楼で、1419年、明の永楽帝時代に建てられた。同心円状に2棟の円形土楼が建てられており、内側は1階建て、外側は4階建てで、階段は72か所あり、それぞれの階に53ずつ部屋が作られている。土楼は地震対策、防火、獣や外敵の襲来に備えて造った大規模な山岳民家建築で、素材は土や石、木材などで、冬は暖かく夏は涼しい。中には生活に必要なものがすべて揃っており、1つの村のようである。100世帯以上が一緒に住むこともあり、外との接点を持たずに数カ月籠城できたといわれる。

 永定湖坑鎮の環極楼は、1693年に建てられたものである。最大の長所は耐震性が強いことである。1918年に永定でマグニチュード7の大地震が発生し、環極楼の正門上方の3、4階の厚い壁に長さ3m以上、幅約20cmのひびが入った。しかし、地震の後、この円形の建物は求心力と構造の牽引作用により、割れ目は意外にもだんだんと縮まり、わずか1本の細長いひびしか残らず、建物の主体は無事で、依然として高くそびえ立っている。

 土楼の命名にも意味がある。朝日が東側から昇るという意味で名づけた「東昇楼」、主人の名前から命名した「振福楼」、あるいは地形から命名した「望峰楼」などがある。

 土楼の歴史は村、家族の歴史と同じで「天、地、人」三方が一体になるもののようである。1960年代以降、伝統的な土楼はほとんど建設されないようになった。しかし、現在も福建の西と南には数万の土楼が残されている。

 

7、五台山

 山西省の東北部の五台山は、華北地域の奥地に位置する中国四大仏教名山の1つである。地上に現れた地殻の異なる地層の岩石層と地質構造が広大な面積を形成している。また、中国大陸の基礎部の地質構造と地質構成の状況を完全に示しており、世界で知られている25億年以前の古い地層構造を持つ最高の山脈である。五台山は高くて平な面、よく発育した氷河地形、独特な高山草原などの景観だけでなく、第4紀氷河およびきわめて大きな浸食力によってできた「竜蟠石」(うずくまる竜のような石)、「凍脹丘」(厳寒で氷が膨れ上がって盛り上がった丘)など氷と関係がある地形の奇観を目にすることもできる。

 五台山の一番低い海抜は624m、一番高い海抜は3061mである。

 五台山には奇妙な自然景観がたくさんあり、そのうち「円虹」が一番といわれる。普通の虹は雨の後に現れ、弧状だが、五台山には雨が降らなくても虹が見える。しかも円形のものだ。もっとも奇妙なのは、七色の円から、動物、鳥、仏様などの模様が見られる。物理、地理、気象などの要素が絡み合ってでできた奇妙な自然景観である。

 五台山は、五つの峰に囲まれていることから、この名がついた。この五つ峰の頂上はいずれも平らで広く、東台、西台、南台、北台と中台と名がつけられ、これを合わせて「五台」と呼んでいる。

 また、五台山は四川省の峨嵋山、浙江省の普陀山、安徽省の九華山と共に仏教の四大名山と呼ばれ、中でもその長い歴史や規模の大きさから、四大名山のトップと言われている。唐代から7つの王朝の異なる風格の寺院68ヶ所が現存しており、仏教の変化と発展を物語っている。

 山内に北魏の時期に大浮図寺と呼ばれる寺が建立され、それ以後、多数の山岳寺院が建立された。最も繁栄した時期には、300以上の寺が林立していたといわれる。その後、三武一宗の廃仏および自然災害による破壊などにより、1956年頃にはあわせて124ヶ所しか残らなかった。なお、仏教の青廟と、ラマ教の黄廟と寺院には2つの種類がある。青廟99ヶ所、黄廟は75ヶ所が残る。

 五台山には文化遺産、人的景観があるだけでなく、美しい自然景観もある。崋山の険しさや黄山の奇観はないが、蘆山の雲霧と雲海があり、他にはない仏光がある。五台山は毎年9月に初雪が降り、4月に雪解けを迎え、盛夏は涼しく爽やか。春と秋の旅行でもセーター、パッチは必要。ベストシーズンは夏。

 ここにある南禅寺は現存する世界最古の木構造建築の1つ。仏光寺は東方最古の真珠と称されている。五台山のシンボル的な建築である大白塔は元代最高の覆鉢式塔(仏舎利塔)である。五台山風景区は山々が重なり合い、樹木が生い茂り、夏になると花が咲き乱れるが、山頂の氷は千年融けない。景色が素晴らしく、気候も爽やかなため、古来より避暑地となっている。

 

8、登封「天地の中央」

 登封「天地の中央」史跡群は種類がとても多く、歴史が長く、内容が豊富で、影響も深い。これらの史跡群は中国古代の礼制、宗教、学校などの建築の代表であり、先祖たちの宇宙観と審美を物語っている。

 世界遺産を構成する登録資産は、河南省鄭州の登封市に残る太室闕と中岳廟、少室闕、啓母闕、嵩岳寺塔、少林寺常住院、少林寺塔林と初祖庵、会善寺、嵩陽書院、周公測景台と観星台の8ヶ所11項目である。

 周公測景台と観星台は、中国の科学技術史に関わる施設である。周公測景台は、「測影台」とも表記され、影の長さを測るもので、一種の日時計である。伝説では、周公が天地の中心を定める時に日陰の長さを測ろうと設置したのが最初とされる。現存するものは周公の業績を偲ぶ形で723年に天文学者によって設置されたもので、中国の天文観測施設としては現存最古である。

 嵩岳寺塔は、嵩山の太室山南麓に残る嵩岳寺の仏塔で、中国に現存する煉瓦塔としては最も古い。北魏の時代には皇帝の離宮だった建物が520年に仏教寺院となり、同じ年に仏塔も建てられた。

 少林寺は北魏の孝文帝が跋陀のために命じて、495年に少室山五乳峯に建てさせた仏教寺院で、527年に渡来僧菩提達磨が禅宗を創始してからは禅宗の祖庭として知られるようになった。現在、少林寺建築群には清の時代の建物が30軒あまり残されている。五百羅漢、少林拳譜などの壁画をはじめ、たくさんの文物が残されている。

 塔林は少林寺の僧たちの墓所であり、世界遺産に推薦された時点で241基もの墓塔が林立していた様からその名がある。建築と彫刻の点から高く評価されており、中国塔林芸術博物館と言われるhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%8C%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E7%99%BB%E5%B0%81%E3%81%AE%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E7%BE%A4 - cite_note-Shorinji-17。

 初祖庵は、初祖すなわち菩提達磨が壁に向かって座禅したと伝えられる場所に残る建築群である。大殿は木造で、河南省に現存する木造建築の中で傑作の1つして挙げられている。

 会善寺は、少林寺、嵩岳寺、法王寺とともに嵩山の四大寺院の1つである。北魏時代の離宮を起源とする。明や清の時代に何度も改築されているが、正門をはじめとする8件の構造物には、元朝の様式が残されている。

 嵩陽書院は、北魏の時代に建造された嵩陽寺を起源とし、それから何度も改称されたあと、宋の時代に現在の名称となり、当時は儒教を講ずる四大書院の1つに数えられ名を知られていた。

太室闕、少室闕、啓母闕は東漢時代の西暦118年に建てられた。現存する中国最古の宗教的構造物となっている。四面に様々な文物を題材にとった浮き彫りがある。それらが漢代の習俗に関する史料となるだけでなく、複数の書体によって刻まれた銘文は書法の変遷に関わる資料ともなっている。

 中岳廟は秦代に創建された「太室祠」が前身になったと伝えられる道教の廟で、漢の武帝の時代に大規模な拡張が行われた。国内に残る道教宗教建築では最大規模とも言われる。

 「天地の中央」史跡群には漢、魏、唐、宋、元、明と清の複数の王朝の建物があり、中原地域において2000年にわたる建築史であり、歴史的、芸術的な価値を持つ。

 また、ここは中国古代の宇宙観を体現し、中国伝統の天文や皇帝の権利と融合し、建築、芸術、宗教などに大きな影響を及ぼしている。

 

9、西湖(杭州)

 杭州は、人間天堂(人の世の天国)と言われ、その美しい山水で有名。元の時代、イタリアの有名な冒険家マルコ・ポーロは杭州を「世界でもっとも美しく華やかな都市」と評価している。

 市の中心地である西湖は、杭州の西に位置し、昔、武林水・西子湖などと呼ばれた。三方を山に囲まれ、湖の面積は約6.5k㎡。南北の長さは約3.2㎞あり、西東の幅は約2.8㎞。山紫水明が西湖の基調であり、山水と文化の融合が西湖の名勝を格調高くしている。2011年6月の第35回世界遺産委員会で世界文化遺産として登録された。

 21世紀の始め、内外の旅行客を夢中にさせる「一湖二塔三島三堤」という300年前の西湖の全景図が人々の前に現れた。一湖は西湖、二塔は保塔と雷峰塔、三島は三潭印月、湖心亭と阮公墩、三堤は蘇堤、白堤と楊公堤を言う。"蘇堤"と"白堤"は、昔杭州の役人として赴任してきた白楽天と蘇東坡が造ったといわれている。今ある堤は当時のままのものではないが、西湖を代表する景観であることに変わりはない。白堤は、京劇白蛇伝の白素貞が入水したといわれる伝説があるほか、西湖にまつわる伝承は多い。

 湖は一周15㎞、平均水深が2.27m、水の容量は約1429万㎥。蘇堤と白堤が水面を里湖、外湖、岳湖、西里湖と小南湖5つの部分に分けている。そのうち外湖の面積が一番大きい。景観には山一つ(孤山)、堤二つ(蘇堤、白堤)、島三つ(阮公墩、湖心亭、小瀛州)と湖五つ、西湖十景からなっている。

 西湖十景は南宋の時代に形成され、主に西湖の湖畔に分布しているが、湖上に存在しているものもある。蘇堤春暁、曲院風荷、平湖秋月、断橋残雪、柳浪聞鶯、花港観魚、雷峰夕照、双峰挿雲、南屏晩鐘、三潭印月の十景は、それぞれが特長ある景勝地で、それらがともに融合し、その結果、杭州は内外を問わず、観光客をひきつけているのである。

 

10、元の上都遺跡

 元上都遺跡は、内蒙古自治区シリンゴル盟正藍旗から東北へ20㎞離れた金蓮川草原に位置し、灤河の北岸にあるので、「灤陽」、「灤京」とも呼ばれた。

 元上都は世界の歴史上、最大の帝国であるモンゴル帝国(元)の首都で、13世紀に元の太祖ジンギスカンの孫フビライが中国北方の草原で建設し、元大都(現在の北京市)と共に元の二都となった。13-14世紀、世界と中国に大きく影響する重要な事件は上都で発生し、中国や世界の歴史にも大きな影響を及ぼしている。1260年、フビライは上都で即位し、4月に中書省という部署を作り、ここで全国の政務を統括した。これによって、「省」は地方の行政地域の名称となり、現在も使われている。

 元上都の主要な役割は、元朝皇帝の避暑地となることであった。毎年、春分に皇帝は大都を発って上都に向かい、秋分になると大都に戻った。元の時代11名の皇帝のうち、6人がここで即位していることからも、上都の重要性が分かる。

 元上都はモンゴル民族がモンゴル高原を統一した後、建てられた最初の草原の都であり、元の政治、経済、文化の中心である。フビライは、ここでの統治を基に、統一した政治基盤を固めていき中国歴史上300年あまりの政治的割拠が終了した。元上都は、統一した多民族国家の誕生と発展を物語っており、大きな意義がある。

 1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことによりヨーロッパ人にその存在が知られるようになった。西洋ではザナドゥ(Xanadu)とも呼ばれる。

 元上都遺跡の周辺地区からは一連の付属文物が発掘されている。元上都の遺跡は広い草原の上にあるため、元が滅びた後、人的破壊がなかったため、地下に埋蔵された文物がとても豊富である。現在発掘された主な文物は石の彫刻品、陶磁器、金貨などで、金貨には「大元通宝」、「大観通宝」、「天下太平」などがある。

 2012年6月、ユネスコ世界遺産委員会は元上都を世界遺産に登録した。元上都遺跡は草原にある都の遺跡として、文化の融合を展し、北アジア地区の遊牧文明と農耕文明の衝突や融合を証明している。

 

11、紅河ハニ棚田

 紅河ハニ棚田は、雲南省南部紅河南岸の哀牢山中にあり、元陽県を中心に紅河県・緑春県・金平県など複数の県に及び、総面積約54000ha(総面積16603ha)で、最大標高1800m、最大勾配75度の斜面に広がる世界最大の棚田群である。国連食糧農業機関(FAO)により世界農業遺産にも認定されている。

 この世界一の棚田を8世紀頃から1300年かけて築き上げたのは、少数民族・ハニ族の人々である。他民族に追われ奥深いこの地にたどり着いた彼らは、気の遠くなるような労力で山肌を耕し、豊富な経験を積み、独自の灌漑技術と農法を磨いてきた。森や霧など自然を巧みに利用した棚田は、1つの巨大な循環システムでもある。

 ハニ棚田のハニ族は海抜800mから2500mの山に住んでおり、農業に従事している。中でも、稲文化が特に発達している。また、ハニ族は棚田とそれに関する伝統の全てを守っている。村落のもっとも神聖な場所、「寨神林」は村人たちが「寨神」(村の神様)の祭祀を取り行っているところである。この場所は、1000年以上の活力を保っている。ここの人々は伝統的な暮らし方を維持しており、衣服は青色が多く、男子は黒色の頭巾を被る。

 世界遺産委員会は、森や霧など自然を巧みに利用しハニ族が作り上げた棚田は、一つの巨大な循環システムでもある。この文化景観区には82のハニ族の集落が存在する。特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例と評価している。

 

1、九寨溝

 九寨溝は青蔵高原の東南側、尕爾納峰の北麓にあり、標高は2000m~3160mの間で、世界の高地寒冷のカルスト地形に属する景勝地である。また、白水溝の上流である白河の支流であり、「九寨溝」の名もチベット人の村(山寨)が9つある谷であることから付けられた。総面積は約620k㎡で、52%が原生林に覆われており、ヤダケや様々な珍しい草花が生い茂っている。そのほか、パンダ、キンシコウ、クチジロジカなど、多くの野生動物も広く生息している。独特な青い水、流れる水、鮮やかな林、雪山、チベット風情という5つの景観が内外に知られており、「夢の仙境」、「童話の世界」と讃えられる。九寨溝は岷山山脈に「Y」字状に分岐している日則溝と則査窪溝、樹正溝の三大溝からなる。見所は主に、樹正区、日則区、長海区、宝鏡崖区に分けられている。

 九寨溝にある多くの湖沼は、水中に溶け込んでいる炭酸カルシウムの影響を受けている。太古の氷河期、水中の炭酸カルシウムは固まらず、水と共に流れていた。12000年前になると、気温が上昇し炭酸カルシウムが入った水は、障害物に当たるとそのまま付着していった。これが固まり年月が経つにつれて、いまの乳白色の棚田状の湖群をつくる堤防が形成されていった。これらが積み重なり、今の「海子」と呼ばれる「堰塞湖」になった。主に第4紀古氷河期に形成された九寨溝には、現在、大量の遺跡も残されている。また、石灰分の沈殿によって、湖底、堤防と湖畔に乳白色の結晶が見られ、その上に、雪水が流れ入り、階段状の湖に濾過され、水はより一層透明度が高くなっている。

 九寨溝の気候は過ごし易く、冬も風がなく、夏は涼しく、四季折々に美しいので、世界的に見て旅行に最適な観光地の1つである。美しく原始的である景色は、主に樹正区と則査窪、日則の両支流に分布しており、独特な高山湖沼と滝群から成る自然の景色は、湖沼、滝、川原、渓流、雪を頂いた峰、森林とチベット風情の集大成である。1992年に世界遺産に登録されている。

 

2、黄龍

 黄龍はアバ・チベット族チャン族自治州松潘県に位置する景勝地であり、九寨溝と隣接し、彩池、雪山、峡谷、森林という「四絶」で世界的に名高い。

 万年雪を頂いた岷山山脈の主峰になる雪宝鼎山の下方、標高3145~3578mのところに黄色の石灰華が3.6㎞に渡り流れ落ちている。この様子が、まるで黄色い龍が果てしなく続く草原から飛んできたように見えることから、「黄龍」と名づけられた。石灰華の層の上にある彩池は3400余りに達し、それぞれ水深や光線、見る角度などの条件の違いによって微妙に色合いが異なり、神秘的な美しさを見せる。この色彩鮮やかな彩池と合わせ、石灰岩から成る棚田のような池が連なり、しぶきが飛び散り、煌びやかな奇観を作り上げ、「人間瑶池(この世の仙境)」とも言われ、世界で最も壮観な石灰華奇観になっている。また、峡谷の間にある3400個以上の天然の彩池は、棚田のようで、大きいものは軽く5000aを超え、小さいものは、たらいや茶碗やコップのように小さく見える。池の淵はまるで黄玉で出来ているかのように非常に精巧で美しく透き通っている。華やかで、色とりどりの池の水は、様々に変化し、澄み渡り見るものをすがすがしい気分にさせる。

 地理的には、青蔵高原東部の端と四川盆地西部の山間部のつなぎ目にあたり、培江、眠江、嘉陵江という三大江の分水嶺である。北亜熱帯湿潤区と青蔵高原―川四湿潤区の境界気候帯に属しており、植生は中国東部湿潤森林区から青蔵寒冷高原亜高山帯針葉林草原低木区の過渡帯に属する。動物の類種も南と北の混在した区域になる。このように位置的に過渡状態にあるので、自然環境が複雑で、未解決の謎も少なくない。

 また、ここには世界でも稀に見る石灰華景観がある。黄龍の石灰華景観は種類が豊富で、自然の石灰華博物館とも言える。石灰華段丘は長さ3600mも連綿と続き、1つ1つは最も長いもので1300m、最も幅広いものは、170mのものもあり、世界的に見ても極めて珍しい景観である。

 さらに、中国最東部の氷河遺跡が残されている。標高3000m以上の黄龍地域には、第四紀氷河遺跡が幅広く残されており、中でも岷山山脈の主峰、雪宝鼎山には、種類が豊富で、分布が密集した遺跡がある。また、この地域には幅広い山が林立し、5000m以上の山も7つある。そのうち、宝雪鼎(5588m)、雪欄山(5440m)、門洞峰(5058m)の3つの山は、現代氷河を育んでいる。

 1992年12月にユネスコの世界遺産に登録された。世界遺産委員会は「黄龍風景区は、数多くの雪を頂いた峰と中国最東部の氷河からできた渓谷である。ここには、高山の景観だけでなく、様々な森林生態系、壮大な石灰岩構造、滝や温泉があり、更にパンダや四川省の疣鼻金糸猴を含む多くの絶滅危機種の動物たちの貴重な生息地でもある。」と評価している。

 

3、武陵源

 武陵源は中国の中部、湖南省の西北部に位置し、張家界森林公園、慈利県索渓峪自然保護区および桑植県の天子山自然保護区などの3つのエリアからなり、総面積約500k㎡の景勝地。武陵源はこの世でまれに見る砂岩の郡峰地形であり、風景区の中は、峡谷が縦横に走り、石や峰が高く聳え立ち、緑の木が生い茂り、動物が群れる、「大自然の迷宮」や「天下一の奇山」と讃えられる景色が広がる。

 ここは、億万年前、見渡す限りの大海だった。それが、長い時間をかけて、大自然による風雨の浸食が進み、やがて、今日の砂岩の郡峰という地形になった。いたる所に珍しい草花があり、常緑の松や柏は勢いよく伸び、日光が遮られ、奇峰奇岩が高く切り立ち、渓谷が取り巻き、絶壁には雲や霧がかかる。その価値ある自然の景観や豊かな原始的な野生植物などが、人を魅了する。この武陵源は奇峰、怪石、幽谷、秀水、石灰洞という「五絶」で世界に広く知られている。

 張家界は青岩山とも呼ばれ、中国で最初に指定された森林公園である。3000もある奇峰がそびえ立ち、その周囲はどれも、斧やなたで削られたような形をしているが、形は千差万別である。それぞれの奥深い谷間を縫うように、滝が一年中四季を問わず流れており、独特で美しい一幅の絵のような世界をつくり出している。主な観光スポットは、黄獅寨、腰子寨、袁家界、砂刀溝、金鞭渓。

 索渓峪は、かつて常徳慈利県に属していたが、1988年8月に大庸市武陵源区政府が成立され、武陵源の管轄になった。索渓峪の景観は山水に依るが、山紫水明だけでなく、険しい橋や奥深い洞窟なども素晴らしい。十里画廊、西海、百丈峡、宝峰湖、黄龍洞など観光スポットは200を越える。

 天子山は武陵源風景地の最高地点にあり、その主峰の高さは1250mもある。頂上から、周りの山の峰を見下ろすと、見渡す限りの雲海やなどさまざまな景観が楽しめる。「雲と霧」、「月夜」、「霞む太陽」、「冬の雪」という、四大自然奇観を観賞すれば、爽快な気分が味わえる。

 張家界、索渓峪、天子山はそれぞれ独自の特徴を持ちながらも、切り離すことはできず、互いに支え合い景観を作ってっている。この様にして、武陵源の「雄大、神秘的、急峻、純朴、重厚、秀麗、野趣」が一体化た力強く美しい自然景観が出来上がったのである。

 また、武陵源は植物の宝庫であり天然の動物園でもある。武陵源を覆う植生は中央アジアの北部広葉樹林に属し、森林率は95%以上となっている。原始二次森林には、1000種以上の植物があり、そのうち、木本植物は93科510種余りで、ヨーロッパ全体の倍以上の種類になる。有名な希少樹木としてイチョウ、ハンカチの木、紅豆杉、カヤなど190種類以上がある。

 更に、ここには優美な景色と色濃い民族風情が共存している。ここに住むトゥチャ族、ミャオ族、ペー族などの少数民族は長い歴史の中で、独特の伝統習慣を受け継いできている。

 1992年に、世界遺産名録に登録された。世界遺産委員会は「総面積26000haを超える武陵源は、奇観と雄大な景色を持っている。最も独特なものは3000を超える砂岩の石柱と砂岩の峰であり、その大部分は高さが200余mである。峰々の間を峡谷は縦横に走り、渓流、池や滝は至る所に存在する。この他、40余りの石でできた洞窟や2つの天然の石橋が存在している。魅力的な自然景観のほか、大量の絶滅に瀕する動植物がここに暮らしていることにより、世界の注目を浴びている。」と評価している。

 

4、三江併流

 三江併流は、金砂江(長江)、瀾滄江(メコン川)と怒江(サルウィン川)の3本の大河が、青蔵高原に源を発し、雲南省内を北から南へと山や嶺などを通りながら、170㎞以上平行に流れるが合流していないという世界においても珍しい自然地理景観である。その中、瀾滄江と金砂江との最短直線距離が66㎞、瀾滄江と怒江との最短直線距離は19㎞に足らない場所もある。

 三江併流は、4000万年前に形成された。インド亜大陸プレートとヨーロッパアジア大陸プレートが激しくぶつかり、横断山脈の急激な押し出し、上昇、切断を引き起こし、高山と大河が交差した結果、この地域は世界で最も豊富な地質地形の博物館となった。

 この区域内には雪山が横たわっており、標高の変化に伴い植物もも垂直分布である。760mの怒江干熱谷川から6740mの卡瓦格博(梅里雪山カワクボ)峰にかけて、高山峡谷、雪峰氷河、湿原高原、森林芝生、淡水湖、希有動物、貴重な植物といったものが集まっている。また、標高5000m以上で、それぞれ形が異なる雪山は118もある。雪山の周辺には、静かな原始林が林立し、氷の浸食による湖も多く広く分布している。標高6740mに達する梅里雪山の主峰である卡瓦格博(カワクボ)峰は万年氷河に覆われ、透明で澄んだ氷河は頂上から標高2700mの明永村森林地帯まで下っており、現在、世界で最も壮大で稀な低緯度低標高の季節風海洋性現代氷河である。千百年来、チベット族の人たちは梅里雪山を神聖な山と見なし、登山者は足を踏み込むべからずというタブーを厳守している。また、麗江老君山には中国で最大の面積で、完全な形を保ちながら発達してきた丹霞地形奇観が分布している。原始林の中のその様子は目を奪われるほど美しい。中には、紅色の岩石の表面に風の浸食により亀裂構造を形成したものも多い。

 この三江併流は、世界の生物遺伝子の倉庫と称えられている。この地域は第四紀氷河期の大陸氷河に覆われなかったことに加え、地域内の山脈がすべて南北方向であるため、最も豊富で集中したヨーロッパアジア大陸の生物群落になった。高等植物が210余種、1200余属、6000以上であり、中国の国土面積の0.4%しかを占めていないにもかかわらず、中国の高等植物と高等動物の種目はそれぞれ20%と25%以上を有している。現在、この地域に滇キンシコウ、カモシカ、ユキヒョウ、バングラディシュ虎、黒頸鶴など絶滅の危機に瀕する国家級保護動物77種類と禿杉、桫楞、紅豆杉など国家級保護植物34種が生息している。

 また、生息している生物も多く、例えば哺乳類動物173種、鳥類417種、爬虫類59種、両性類36種、淡水魚76種、蝶類昆虫31種がいる。これらの動物の総数は全中国の25%に達している。これは中国だけでなく、北半球ひいては全世界においても唯一である。

 更に、この地域は16の民族の集中居住地でもある。同時に世界でも稀に見える多民族、多言語、多宗教信仰と風俗習慣が共存する地域である。長期にわたり、三江併流地域はずっと科学者、冒険家と旅行者の憧れの地であった。彼らはこの地域の顕著な科学的価値、美学的意義と少数民族の独特な文化を高く評価している。

 美学的見地から見れば、金砂江、瀾滄江と怒江の平行に続く峡谷が、この地域の顕著な自然特徴を表している。この3本の大河は切断面がちょうどこの地域の境界の外側に位置し、大河の峡谷が主要な風景となっている。地域内では、どこでも高山を見ることができ、中でも、梅里雪山、白馬雪山と哈巴雪山は、壮観な空中風景の輪郭を作っている。閩咏卡氷河は人の目を引く自然景観で、標高は6740mの卡瓦吉布山から2700mまで続く。北半球において、このような低緯度(北緯28゜)にあることから、標高の最も低い氷河と言われている。他に優れている地形は、例えば、氷河岩溶(特に怒江峡谷の上方にある月山風景内の月石)とアルプス式丹霞風化層「亀の甲」などが挙げられる。三江併流の地域は世界的に見ても生物の多様性が最も豊富な地域であり、北半球生物景観の縮図でもある。この地域は中国生物多様性保護の17の重要地域のうちトップである。また、世界級の種の遺伝子倉庫と中国三大生態種の中心の1つである。

 2003年6月に世界遺産に登録された。

 

5、四川パンダ生息地

 四川パンダ生息地は四川省内にあり、卧龍、四姑娘山と挟金山脈を含め、面積は9245k㎡であり、成都市、雅安市、阿埧蔵族羌族自治州、甘孜蔵族自治州なども含まれる。

 四川パンダ生息地は保護国際(CI)が選定している全世界の25の生物、多様性エリアの1つである。ある意味、「生きている博物館」である。また、1万種を超える高等植物もあり、その他パンダやキンシコウ、カモシカといった希少動物も生存している。

 パンダの故郷である卧龍自然保護区は阿埧蔵族羌族自治州の汶川県内にある。上空から俯瞰すると、まるで青い龍が山を旋回しているように見えるために、卧龍と名付けられた。ここは地勢が高く湿潤なため、箭竹と桦橘竹の成長に非常に適する。これらはパンダの主食にもなり、ここがパンダの生存と繁殖に適した理想の地になった。卧龍は「パンダの故郷」「貴重な生物遺伝子倉庫」「天然動植物園」として国内外で知られている。

 四姑娘山は小金県と汶川県との境にあり、横断山脈の中に隣接した4つの山から成る。地元のチベット族の伝説によると、4人の美しい乙女がこの山に変わったと言うことから、この名が付いたと言われている。四姑娘山は険しく雄大で、各国の登山者を引きつけている。山の裾野に森林が茂り、緑のカーペットのように草が生え、澄んだ渓流が絶えず流れている。南ヨーロッパのような風景を呈していることから、「中国のアルプス」と言われている。ここには特殊な気候と顕著な垂直海抜があるために、動植物資源が豊富である。パンダの保護がメインである卧龍自然保護区及び米来羅紅葉風景区にも隣接している。

 挟金山は小金県の南部にあり、邛崍山脈の支脈であり、標高は4114mに達し、有名な国家級景勝地である四姑娘山に繋がっている。東は卧龍自然保護区に隣接し、総面積が20700ha、木城溝と木尓寨溝尓二つの原始生態区で構成されている。1869年にフランス人の伝道者で生物学者であるデビーが、初めて鄭池溝で天からの贈りもの―パンダを発見したことにより、一挙に世界に知られるようになった。挟金山森林公園は水源が豊富で、独特な景色を形成している。この渓流は交差しながら長く山々を流れており、まるで1本1本の銀色の糸のようであり、山の動脈のようでもある。

2006年7月に世界遺産大会で、四川パンダ生息地は、世界自然遺産に登録された。

 

6、三清山

 三清山は中国江西省上饒市玉山県と徳興市の境界に位置する、懐玉山脈の主峰で道教の名山である。名前は「玉京、玉虚、玉華という3峰が高く険しく並ぶ様子が、まるで、道教の三大神である始祖玉清、上清、太清が頂上に座っているように見えることから付けられた。3峰の中では玉京峰が最も高く、標高は1819.9mである。14億年間の地質変動や風雨の浸食で、世界でも独特な花崗岩峰林地形が形成されてきた。奇峰怪石、古木名花、流泉飛瀑、雲海霧涛が4つの自然絶景と称されてる。三清山はすばらしい自然風景と道教人文風景を特色としている。

 南北12.2km、東西6.3mで、荷の葉のように東南から西北へ傾いている三清山は、造山活動が多発し、かつ激しい場所だったため、断層が多く、山は隆起し、規則正しい岩石の割れ目が発達している。また、長期に渡る風化による侵食や重力の作用によって、奇峰が天をつき、幽谷が刃物のように鋭くなり絶景が形成されてきた。

 古木と名花が三清山の4つの自然絶景の中の1つであるように、ここは植物資源が特に豊かで、天然植物園もといえる。樹齢が数百年に達する木も多く、数千年に達するのも珍しくない。三清木、白豆杉、香果樹、華東黄杉、華東鉄杉、福建柏、木蓮、高山黄楊など希少な種類の木があり、高い経済価値だけでなく、高い鑑賞価値も備えている。

 また、ここは亜熱帯湿潤モンスーン気候に位置するため、原生林が青々と茂り、主に常緑針葉樹、広葉樹の天然混交林が形成され、大量の草木が保存されてきた。統計によると、薬用価値のある植物が349種類もあり、124科に属するという。

 懐玉山脈の山腹にあることから、訪れる人も少ない。これに加え、高い山と密な林、快適な気候が野生動物の生息、繁殖に良い自然環境となり、300種余りの動物が生息している。金銭豹、短尾サル、センザンコウ、ソウシチョウなど希少動物も少なくない。

 2008年7月に世界遺産に登録された。

 

7、中国丹霞

 中国丹霞とは、乾燥し且つ暑い気候の下で形成された赤い砂岩や礫岩から形成された、バラ色の雲や深紅の霞のような様々な赤い色が織りなす地形である。

 地質や地形学の面では、西太平洋活性大陸縁断裂陥落盆地に織り成す地形だと定義される。これらの沈積層は地域の地殻の隆起、激しい断裂、水による切断侵食、団塊運動、風化や侵食作用をへて群峰や切り立った崖や峡谷などの絶景を形成した。

 世界遺産入りしたのは湖南省の崀山、広東省の丹霞山、福建省の泰寧、江西省の竜虎山、貴州省の赤水、浙江省の江郎山など中国南部湿潤地域の6つの有名な丹霞地形景観区である。

 風景美学から見れば、リスト入りした中国丹霞地形は南部湿潤地域の青年期、壮年期、老年期それぞれの特色を代表的に表すものである。ばらばらの山や高原から形成された高く険しい青年期の峡谷、起伏に富んでいる壮年期の峰林、緩やかな老年期の山水と、いずれも美的なインパクトと印象的な視覚衝撃を与える。赤壁丹崖の崇高と急峻さ、景観の神秘と精巧さ、山水田園の雅とすがすがしさ、林と深い谷の幽玄と静けさ、霧に煙る様子の奥深さと幻想によって、中国丹霞は、世界でも特色のある自然地理現象であり、際立った自然美となっている。

 地球科学から見れば、地球大陸性地殻がある段階に到達後のシンボルである。中国の赤い地層は中生代末期に大規模的に形成されたもので、地球の中生代末期の大陸断裂陥落盆地の地質、古地理、古気候環境と言った情報を含んでいる。形成過程は、地球の中生代末期から新生代までの地球陸地表層システムの世界規模の変化と重大な事件を反映し、世界規模の変化の研究に対して大きな意義を持っている。

 生物や生態学面からみると、アジア東部の湿潤地域に位置し、世界生物地理系統の旧北区とインドネシア‐マレーシア区という2つのエリアの生物多様性を代表する地形である。世界野生動物基金の全世界200の生物地域の中の「中国東南部―海南湿潤林生態区」に属する。ここでは400種近くの絶滅危惧種が生息しているため、世界規模で野生動物の多様性と絶滅危惧種を保全すべき重要な地域でもある。

 2010年8月の世界遺産委員会で登録された。

 

8、澄江動物化石群

 澄江動物化石群の主要部分は、雲南省昆明の南に位置する玉溪市澄江県撫仙湖畔にある。海綿動物から脊椎動物、そして絶滅危惧種の代表的な動物化石であり、現在、世界で発見されている中で最も古く、最も完全に保存された多種類動物化石群といえる。はるか昔の5億3千万年前のカンブリア紀早期の海洋に生息していた動物が様々な姿で生き生きと完全に保存されている。

 この場所は、大昔、浅い海だったが、特別な自然条件と環境に恵まれ、世界でも稀で、貴重な化石群となった。

 現在までに発見された化石は合わせて120種類で、それぞれ海綿動物、腔腸動物、線形動物、鰓曳動物、動吻類、節足動物、腕足動物、軟体動物、肢節動物、脊索動物などの10種類と分類不明ものがある。この他、共生していた多種類の藻類もある。また、澄江動物化石群は大昔の海洋生物の実態を表しているので、脊索動物を含む大多数の生物に関する記録をカンブリア紀初期にまで遡ることができる。また、この化石群はカンブリア紀初期の生物の多様性を表しており、「カンブリア紀大爆発」という生物進化の謎を解く上で貴重かつ直接的な証拠を提供してくれる。これらのことから、この化石群は20世紀の最も驚くべき科学発見の1つと称され、澄江も「世界古生物の聖地」と呼ばれている。

 2012年7月の世界遺産委員会で世界遺産リストに登録された。これは、中国で最初の化石群の世界遺産で、中国化石類自然遺産の空白を埋めた。

 

9、新疆天山

 2013年6月、世界遺産委員会は、中国の新疆天山を世界自然遺産に登録した。

 天山は世界の七大山系の1つで、世界の温帯旱魃地域において最大の山脈であり、世界最大の東西縦断の独立した山脈でもある。世界遺産地の地域は、昌吉回族自治州のボゴタ、バインゴリン・モンゴル自治州の巴音布魯克と阿克蘇地区のポベーダ、イリ・カザフ自治州の喀拉峻—庫爾徳寧という4つからなっており、総面積は5759k㎡に達する。錫爾川、楚川、イリ川という新疆の三大河川の源もここにある。

 新疆はこの天山によって南部はタリム盆地、北部はジュンガル盆地と二分される。この2つの盆地は双子のように見えるが、自然の特徴は大きく異なる。タリム盆地は高い山にしっかり囲まれているため、乾燥していて砂漠地帯が多い。それに対し、ジュンガル盆地の北西部山地は、大西洋や北氷洋から湿った空気が流れ込む口があるので、適度な湿気もあるため草がよく育ち、牧畜業が発達している。有名なカラマイ油田もここにある。

 天山山系の中、標高5000m以上の峰は約10ある。そびえ立つ山々は一年を通じて雪に覆われ、遠くから眺めると、壮大で、荘厳かつ神秘的に見える。その中のボゴタ峰は標高5445メートルで、天山東部のボゴタ山の最高峰である。この峰の3800m以上の地域は一年中雪に覆われ、白一色なので、「雪の海」と呼ばれている。ボゴタの中腹、標高1900mのところに、「天池」という深さ90mの湖がある。雪解け水が湖に流れ込み、清らかで澄み切った湖面は、まるで鏡のようである。白い雪峰と湖に映る緑の杉によって描かれた一幅の美しい絵のような天池は、新疆の有名な観光景勝地となっている。

 天山山系は、一年中雪に覆われている峰が大多数ではあるが、3000m以下の場所には、豊かな動植物資源がある。アミガサユリ、ムラサキ草、ヒヨス、荆芥、ヒカゲツルニンジン、メハジキなど薬用植物は80 種類を数える。その他、珍しい動物も多く、山の峰と尾根や林、草むらが天然の生息地となり、カワウソ、タルバガン、アルガリ、雪豹、オオヤマネコ、天山鹿、天山カモシカなど法律で保護されている動物が生息している。

 世界遺産委員会は、「新疆の天山には、素晴らしい自然景色がある。また、熱さと寒さ、旱魃と湿潤、荒涼と優美、壮観と精緻と言った対照的なものが同時に存在し独特な自然美を作り出している。典型的山地垂直自然帯譜で、南北の斜面の景色の差異や植物の多様性はパミール-天山山地生物生態の進化過程を表している。そして、中央アジアの数多くの絶滅危惧種や特有種の最も重要な生息地であり、暖湿植物区系が乾燥した地中海植物区系に替わるこの地域での生物進化過程も明白に示している。」と評価している。

 

10、中国南方のカルスト

 中国南方のカルストは3億年前から50万年前に形成され、雲南省、貴州省と広西チワン族自治区に集中し、リハカルスト、石林カルスト、武隆カルストなど、5万k㎡に広がっている。カルストとは、石灰岩と白雲岩を始めとする炭酸塩岩の上に形成された地形である。

 雲南省のカルストは石林彝族自治区にあり、「路南石林」とも呼ばれる。石林は彝族の伝説の人物、アシマの故郷と言われている。石林カルストの「大小石林」と「乃古石林」は剣、柱や塔のような景観で世界遺産に登録された。ここは2億7千万年前、長い間の地質変化と複雑的な古地理環境の変遷を経て形成され、現在、極めて貴重な地質遺跡になっている。全世界のカルスト地形がここに集中しているかのように、世界にあるカルストの大部分の種類は、ここに含まれる。カルストで出来た石歯、峰叢、鐘乳丘、鐘乳洞、鐘乳湖、滝、地下河川は、巧みに配置され味わいがある。それは、また典型的な高原カルスト生態系であると同時に、最も豊富で立体的なパノラマでもある。また、石林に足を踏み入れると、タイムトンネルに身を置いたかのようで、自然の恵みと偉大な時の流れを満喫することができる。そして、太古の海底の迷宮を巡ると、険しい山やそびえ立つ石峰が、時には大勢の軍隊に、時には静かな古城に、またある時には鳥や獣や人間のように見え、生き生きとした景観を呈している。

 貴州省リハ県内にある樟江景勝地の「大小七孔景勝地」と「茂蘭国家レベル自然保護区」は円錐型のカルストの代表として世界遺産入りした。リハカルスト原始森林、水上森林と「漏斗」森林は、合わせて「リハ三絶」と呼ばれる。これらは、山の上、水の中など、それぞれ異なる空間で形成されてきたが、いずれも石の上に生まれ、脆弱なカルストの環境の中で育くまれたものである。それは、まさに人間が自然と調和した奇跡とも言える。漏斗森林とは、緑豊かなカルストの中の漏斗型のものを指す。樹木が密集し、周りを山々に取り囲まれた、その形は巨大な緑色の洞窟のようである。漏斗の底から円錐型の峰の頂まで150-300mの高低差がある。人気もなく、あらゆるものが原始の姿そのままで残っている。「水は石の上を流れ、樹は石の上に育つ」と言われる、「小七孔」の円錐型の森林は、リハ県のもう1つの見どころである。ここには、樹齢の100年以上のものも多く、その根は水に浸り、巨大な石に抱きしめられ、水に打たれながらも生き生きとしている。

 重慶市武隆区内の武隆カルストは天生三橋、箐口天坑、芙蓉洞という大きく3つの部分から成り、中には天生橋、天坑地縫、溶洞など立体的なカルスト景観がある。その中の芙蓉洞は大型の石灰岩の大きな洞窟で、全長2400m、広さ高さ共に30-50mある。洞壁には様々な巻曲石や方解石、石膏晶花など世界的に見ても珍しいものがある。武隆の天生橋風景区は、天竜橋、青龍橋、黒龍橋という3つの力強いアーチ型の石橋によって名を知られ、アジア最大の天然の橋群に数えられる。

 中国南方のカルストは2007年6月世界遺産に登録された。世界遺産委員会は、「カルストの特性と地形景観の多様性は世界で並ぶものがない。湿潤の熱帯から亜熱帯のカルストまでを代表できる顕著な見本であるため、普遍的価値もある。申請資料や専門家によると中国南方のカルスト、雲南石林は最高の自然現象で、カルストの最高の標本であり、石林のすぐれた見本で、カルスト地形のモデル地域でもある」と評価している。