第十九章:ネット博物館

>>[中国古代書画の鑑賞]

 仇英と『桃源仙境図』

 仇英(1493-1560):字は実父。号は十洲。江蘇省太倉県の出身。ペンキ工匠の出身で周臣に絵画を学び、山水、人物、仕女などが巧みでした。

 『桃源仙境図』は、絹本で青緑色。人世から遠く離れた隠居生活を描いています。峰が重なり合い、高く遠く、奥深く、ひっそりしている感じです。山間に雲や霧が立ちこめ、仏閣が隠れては、また現れる。近くの川と木造橋、まれに松がねじ曲がり、景色は上品で、人間の仙境を表しています。芸術表現の上では、輪郭が精工で、細かい部分もはっきりと描いています。人物を主に描き、色彩を多く使って、更に人物を際立たせています。これは画家が人物画や山水画に深く精通していることを表しています。

 唐寅と『ロバ乗り帰宅図』

 唐寅(1470-1523年)は明時代の書画家、詩人。字は伯虎、号は六如居士。呉県(今の蘇州)人。詩を長じ、絵画も巧み。晩年仏教を信じていました。

 『ロバ乗り帰宅図』は絹本で、淡白な色使いが特徴です。画には珍しい峰と雑木、山のくぼみにある人家、谷川と急流が山谷に流れ、緑木は風にゆらゆらと揺れています。ロバに乗って山道を歩き、奥山にある草堂へ向かっています。前景には、山の前に深い谷間や木造の橋があり、一人の木こりが焚き木を担って橋を渡っています。芸術表現の上で、山と石には水がかかり、非常に潤った感があります。また、画家は自ら「乞求無得束書帰、依旧騎馿向翆微。満面風霜尘土気、山妻相対有牛衣。呉郡唐寅詩意図」と題しました。この絵は、唐寅の絵画の特色が現れているということです。

 

>>[中国古代彫塑の鑑賞]

 跪射俑

 (秦の兵馬俑二号坑から出土)

 撃鼓説唱俑

 (後漢の時代、四川省成都から出土)

 銀虎

 (戦国時代、陝西省神木から出土)

 千手観音

 (明の時代、山西省平遥双林寺から出土)

 馬踏飛燕(馬、飛燕を踏む)

 (甘粛省後漢墓から出土)

 原始舞踊紋彩陶盆

 これは1973年に青海省大通県孫家寨から出土された陶器の盆である。盆の内側には舞踏図案が三組描かれています。これは約5000年前のもので、現在、最も古い原始舞踊図案です。

 

>>[中国の重大な考古発見]

 中国古代の「シルクロード」

 2000余年前に中国で始まった貿易の古道「シルクロード」は世界的に有名で、中国と欧州・アジア・アフリカ諸国間のかけはしとして、東方と西方の物質や文明の交流に重要な貢献を果たしました。

 「シルクロード」は、中国古代に中央アジアを経由して南アジア、西アジアおよび欧州、北アフリカに通じる陸上の貿易交流の道です。多くの中国産シルクと絹織物がこの道を経由して西に運ばれたため、「シルクロード」と呼ばれるようになった。「シルクロード」は、紀元前1世紀の中国漢代に形成され、当時の「シルクロード」は、南への道は西、現在のアフガニスタン、ウズベキスタン、イラン、最も遠いエジプトのアレクサンドルシティーにまで通っていました。もう一つの道は、パキスタン、アフガニスタンのカブールを経てペルシア湾に通じていました。カブールから南だと、現在のパキスタンのカラチに通じ、海路を経てペルシアとローマなどにも通じました。

 紀元前2世紀から「シルクロード」に沿って、西から東まで、四大帝国、すなわち欧州のローマ帝国、西アジアのパルティア(Parthia,イラン古代奴隷制国家)、中央アジアのクシャン(Kushan,中央アジアおよびインド北部を支配下に置いた帝国)、東アジアの中国漢代がそこに並んでいました。「シルクロード」の形成により、これらの古代文明が互いに直接交流し影響し合うようになり、その後も、いかなる文明の発展も相対孤立するものではなくなりました。

 「シルクロード」の複雑な道を通して、東西は頻繁に往来するようになりました。中国古代文献の中に記載された多くの「胡」という字のある植物、例えば、「胡桃」、「胡瓜」、「胡椒」、胡羅卜(ニンジン)」などは、多く西側から伝わったものです。7世紀から9世紀までの唐の時代、「シルクロード」は最も盛んで、中国と西側諸国との交流は最も繁栄していました。西側の珍しい禽獣、珠玉宝石、香料、ガラス製の容器、金銀通貨および西アジアと中央アジアの音楽、踊り、飲食、ファッションなどが次々と中国に伝わりました。それと同時に、中国の物産と技術も「シルクロード」を経由して世界各地に伝えられました。例えば、シルク、農業と養蚕、紙、印刷術、漆器、磁器、火薬、羅針盤などは、世界文明に重要な貢献を果たしました。

 物質貿易を行なうと同時に、「シルクロード」を経由する文化交流も非常に活躍していました。世界3大宗教の一つである仏教は、西漢(前206-220)の末年に、中国に伝えられました。3世紀に発見された新疆のキジル(克孜尓)千仏洞には、現在、1万平方メートル近くの壁画があり、仏教がインドから中国に伝えられたルートを記録しています。推測によると、仏教はインドから「シルクロード」を経て、新疆のキジル、それから甘粛省の敦煌、また中国内地に伝わりました。「シルクロード」に沿って残された仏教石窟、例えば敦煌莫高窟、洛陽の龍門石窟などは、東方と西方の芸術風格を融合しており、「シルクロード」での中国と西方の文化交流を証明するものです。また、現在、世界文化遺産にも指定されました。

 9世紀以降、欧州とアジアの政治、経済の情勢の変化は、特に航海技術の進歩に伴い、海運での貿易の役割は日増しに著しくなり、この伝統ある古い陸路での貿易は次第に衰えました。10世紀の中国宋代の時、「シルクロード」は貿易のやりとりとして利用されることは少なくなったということです。

 「シルクロード」という古い路は、長く、そして歴史も古い。また、世界文明でも重要な役割を果たしました。ここ数年来、ユネスコ・国連教育科学文化機関が発起した「シルクロードの新研究計画」には、東方と西側の対話と交流を促進するため、「シルクロード」を「対話ロード」と称するようになったとされています。

 麦積山石窟と洛陽の龍門石窟

 麦積山石窟は中国北西部の甘粛省天水県の東南から45キロ離れた山間部にあり、高さは150メートルあまり。歴史文献の記載によると、麦積山石窟は後秦(約前3世紀ごろ)の時代から掘り起こされ、その後、高さ30メートルと70メートルの崖に仏像を彫り始めたということです。

 この仏窟は幾重にも重なり合い、上下に乱れていて、とても威厳があります。麦積山石窟には現在、北魏、西魏、北周、隋、唐、五代、宋元、明、清などの各時代の洞窟が194個、泥人形や石の彫刻が7000点あまり、壁画が1300平方メートル現存しています。洞窟の中に、人間とほぼ同じ大きさの彫像があり、極めて生活感あふれる作品です。端正で重々しい仏や、菩薩、弟子などの彫像もあります。経書を読んでいるもの、話し合いをしているもの、喜びに満ち溢れたもの、手招きしているものも。また、敬虔な少年と天真爛漫な子供の彫刻もある。高さ約16メートルの阿弥陀仏から、10センチぐらいの彫像まで、いずれも精巧で細かく、生き生きとしています。多くの彫像は、神を人格化し、生活の色合いが濃く、見るものに親近感を与えます。これらの彫像は、中国の仏教史、歴史学、考古学、民俗学の研究に重要な実証をもたらしました。麦積山洞窟は、奥ゆかしい森林地帯に隠されているため、歴代の戦争の崩壊と人為的な盗みから免れ、非常によい状態で保存されています。

 河南省の龍門石窟は、河南省洛陽市から南へ13キロの伊川両岸に位置しています。景色が美しく、寺が建っており、従来から詩人や観光客がよく訪れる場所です。龍門石窟は北魏孝文帝が洛陽に遷都する(494年)前後に発見され、四百年あまりの大規模な建設を経ています。山中にある洞窟は、蜂の巣のように数多く建造され、合わせて2300の洞窟、10万点あまりの彫像、題字と碑文が3600余点、40の仏の塔があります。石窟の中にある壁画には、仙女たちが描かれており、流れる雲のなかで自由に飛ぶ姿や、果物を手に空を飛び、踊り、歌を歌い、花を散らしている姿をしています。その様子はとても軽やかで、表情が優雅であると賛美されています。

 これらの古代の芸術家が制作した豊富多彩な芸術彫像は、中国の古代歴史と芸術の研究において重要な資料です。龍門石窟の中の古陽洞は、北魏孝文帝が洛陽に遷都する(494年)前後に建造されたもので、龍門石窟が最も早い洞窟です。石窟の中は精巧で華々しい仏像がたくさんあり、その表情は敬虔で、生き生きとして真に迫っており、北魏石窟芸術の研究にとって珍しく、貴重な資料です。題字の書法が質朴であり、書法歴史研究にとって珍しい、とされています。また、賓陽洞は500年から掘り始めはじめ、24年間を経て523年に完成したものです。洞窟内の主仏のシャカムニ像とその弟子や菩薩の彫像などは、顔が痩せ、衣服の折りが整っており、緊密で、北魏彫像の芸術的特色を表わしています。

 曾侯乙墓及び編鐘

 古本の記載によると、中国古代の統治階層は、音楽を非常に重視し、詩は人々の精神に影響を及ぼし、礼儀を知ることは、人々の行為を規範化することから、国にとって美しい音楽があることは、隆盛のシンボルだと主張しています。よって、その音楽が良いかどうかで国の盛衰が判断できるのです。1978年、中国中部の随州市の墓から大型な青銅編鐘が出土し、国内外で注目されました。この発見は実物から典籍の記述を立証し、人々が中国古代の社会文明を理解することに新しい証拠をもたらしました。

 1978年2月、湖北省随州市郊外の工事現場で、普通の土とは異なる「暗色土」が突然発見されました。「暗色土」とは、地層の中で積って埋蔵された人類活動の遺跡を指すものです。このことは考古においての新たな発見となりました。東西長さ21メートル、南北広さ16メートルの古墓が発掘されました。墓室を開けると、巨大なうわ柩の上に大きい板石47枚がかぶさっており、この板石を重機で吊り移動してみると、深さ約3メートルの水溜りがあり、水面の上には柩木が浮かんでいました。考古学者は水をくみ上げながら、柩木をきれいに整理したところ、世界を驚かせる文物が現れました。さらに発掘し整理すると、中には合わせて1500万件余りの文物が出土し、青銅器、楽器、兵器、車馬器具、金器、玉製の器具、竹製の器具なども出土しました。多くの器物は造型が奇異で、形象は迫力があり、紋飾りは華やかで美しく、非常に豪華でした。すべての文物の内、最も注目されたのは65件の青銅器編鐘です。

 これらの編鐘は、今までに発見されたものの中で、最も大きな古代楽器であると同時に、青銅の鋳造工芸や楽器のすぐれた技術を併せ持つ、すばらしいものでした。編鐘は形状によって、大小と音の高低の順序で8組に分けられ、その内、最大の鐘は高さ153.4センチ、最小のものは高さ20.4センチ。その全体の重さは2500キログラムに達していました。これらの編鐘は、銅と木を混同した3階立ての鐘棚にかかっており、鐘の上に古い篆書銘文が合わせて2800字余り彫られています。その音を測ると、1つの鐘は2つの音質を出すことができ、音律も正確で、音色が美しく、今日でも各種の曲調を演奏することができるということです。

 考証によると、この古墓は、戦国時代の曾国の貴族である曾侯乙の墳墓であると専門家は認定しました。曾侯乙とは、文字から解釈すると、曾国の「乙」という名前の王侯だという意味です。墳墓の中の銘文や炭素14による測定に基づいて、専門家は、この墓の主人が埋葬された年代は紀元前400年ごろだったことを知りました。

 曾侯乙墓は、地下水の下にあるため、埋葬後まもなく、地下水が墓内にしみ込んで、副葬品が長年にわたって水中に浸食されていましたが、このことから墓内の宝物が墓盗者に盗まれなかった、ともいわれています。

 曾侯乙墓の発掘が終了した後、地元政府は専門の博物館を設立しました。そこに墓内から出土した文物を収蔵・展示し、「曾侯乙墓の遺跡」を復元し、「編鐘陳列館」を設けました。また、編鐘を使っての楽隊を組織し、人々に昔の音楽を伝えています。 

 殷墟と甲骨文字

 中国の文明は数千年の歴史があり、地下に残された文物はとても豊富です。20世紀に考古学が西方から中国に伝わって以来、中国では多くの重要な考古発見がありました。

 中国中部の河南省安陽市には、面積が約24平方キロの都城廃墟があり、それが世界的に有名な殷墟です。記載によると、紀元前14世紀、商王の盤庚は都城を山東省の曲阜からここに遷都し、三百年近くの間、商王朝の政治、文化、経済の中心でした。紀元前1046年、周の武王は、商の最後の帝王の紂王に勝ち、商王朝が滅亡した後、廃墟となりました。商王朝は又、殷王朝とも称されるため、ここは「殷墟」と呼ばれています。

 殷墟の発見と発掘は20世紀において中国で最も重大な考古発見です。1928年から発掘して以来、ここからは甲骨文字、青銅器などを含む大量の文物が出土し、甲骨文字の発見は世界考古史上でも大きなことです。

 甲骨文字は、亀の甲羅や動物の骨に刻まれる古い文字です。商の時代、国王は物事を行う前に必ず占いを行い、甲骨は占い時の用具でした。

 甲骨は使用される前に加工する必要があります。まず、甲骨の上の血肉を除いた後、滑らかに磨く。その後、その裏面にくぼみを掘る。これらのくぼみは順序に排列し、占い師、あるいは祈祷師が自分の名前、占う期日、質問したい内容などを甲骨の上に刻み、その後は火の元でそのくぼみを焼く。くぼみは熱を帯、ひびが入る。その時にできた裂け目を「兆」と呼びます。祈祷師は、これらの裂け目の方向を分析し、占いの結果やその占いが当たるかどうかを甲骨の上に刻む。占いが当たったら、これらの占い言葉が刻まれている甲骨は、官僚の保存書類として保存されました。

 現在のところ、殷墟から合わせて甲骨を16万片あまり発掘されました。その内、あるものは完全でしたが、あるものは文字のないかけらだけでした。発掘した甲骨上の文字は合わせて4000字余り。その内、約3000字を学者たちが考証し研究しましたが、学者たちの解釈で一致したものは1000字余りです。その他は読み取れない、あるいは解読不明でした。しかし、この1000余りの文字を通して、商王朝の政治、経済、文化など各方面の大体の状況が分かったということです。

 甲骨文字を研究する上で最も早い著作は、1913年に出版された劉鄂氏の『鉄雲蔵亀』。また、中国の有名な歴史学者兼作家である郭沫若氏は、1929年に『甲骨文字研究』という本を出版しました。現在、中国の甲骨文字研究で権威があるのは北京大学の裘錫圭教授、中国歴史研究所の李学勤教授らです。

 殷墟で発見された商の甲骨のほか、ここ数年の考古の中で、さらに早い西周時代の甲骨も発見しました。ただ、これらの甲骨に刻まれた文学は非常に少ないため、商の甲骨のようには重要視されていません。殷墟発掘の重大な意義は甲骨だけではありません。70年余り、考古学者は殷墟から、宮殿や廟の建築群の遺跡が50カ所余り、王陵が12カ所、貴族や民間人の墓が数千カ所、祭祀坑1000カ所、手工業工房5カ所、車馬坑30カ所余り、及び大量の青銅器、玉製の工芸品、陶器、骨製の器具などを発掘し、中国古代社会の形象を展示しました。

 西夏王陵考古

 中国西北部の寧夏回族自治区にある西夏王陵の発見は20世紀において、中国での大発見の一つで、中国少数民族考古史上で重要な地位を占めています。

 770余年前、中国には3つの王朝があった。それは、中原にあった漢族政権の「宋」、東北地方にあった女真族王国の「遼」、及び西北にあったタングート(党項)族王国の「大夏」すなわち「西夏」である。

 西夏は独立した王国として、独自の言語と文字があります。不幸なのは、1227年、蒙古のジンギスカンの大軍が西夏王朝を攻め落とした後、西夏のタングート人を殺傷し、西夏王朝もほとんど破損され、この地方で輝かしい西夏王朝が後人に残した謎となったのです。

 1970年代初め、西夏王陵遺跡は偶然に発見されました。その後30年間に、中国の文物考古学者は、西夏王陵に対して数回の調査、測図、発掘を行い、西夏王陵の分布及び構造を知ることができました。

 西夏王陵全体が約50平方キロの荒漠に建てられ、皇帝陵を中心とした園林9ヶ所、高官と貴人の墓250ヶ所余りがあり、中国既存では最大規模で、地面遺跡が最も完璧に保存された帝王陵園林の一つであり、北京の明朝の十三陵と規模が相当しています。9ヶ所の皇帝陵はいずれも、独立した完璧な建築群であり、北に座り南に向け、長方形を呈し、荘厳で慎み深く穏やかであり、とても雄大です。

 3号陵園は敷地面積が最も広く、最も完璧に保存された陵園です。専門家は、この3号陵園の主人が西夏の開国皇帝の李元昊の墓と確認し、西夏王陵に対する考古も主に、3号陵園の発掘を中心としていました。

 西夏王陵の中の陵塔は「東方金字塔」と称されています。陵塔は、この陵園の西北コーナー、墓室の真後ろに位置し、構造は八角形の台になっており、上部は層々に内側に収め、階段形を呈し、最大直径は約34メートルで、塔の土台の上が果たして7階か5階かなのか、今のところ確認できないません。塔は西夏陵園で重要かつ特別な建築であり、中国の他の陵墓にはないもので、西夏貴族の特別な埋葬習俗を反映しています。

 2000年4月30日、考古学者は3号陵園を発掘した際、その東北角に1体の造型が完璧な人面鳥身の「鳥人」像を発見しました。専門家によって、この「鳥人」像は、仏教の経典の中に記載されている迦陵頻伽で、迦陵頻伽はサンスクリットの音訳で、漢語は妙音鳥と訳されました。ヒマラヤ山中の鳥であり、奇妙な声を出します。仏教の「極楽世界」の鳥であり、仏教建築の装飾とみられています。

 西夏王陵は現在、14万件の瓦や200件の建築装飾品及びその他の文物を出土しています。専門家は「西夏陵園は中国古代漢民族の皇室陵園の長所をとり入れたと同時に、仏教建築の影響を大いに受けており、漢民族の文化と仏教文化及びタングート族文化の三者を融合している。中国の古代陵園建築の中で独特な風格のある建築形式となっており、中国の陵墓発展史上で重要な地位を占めている。ここから出土した大量の文物は、その豊かで西夏歴史文化の古さや重大な文物価値及び独特な建築構造から、西夏の歴史文化の特徴を集中的に反映し、人々に偉大な西夏文化の宝庫を示している」

 陝西法門寺考古

 中国陝西省扶風県にある法門寺はお釈迦様の真身舎利を安置しているところで有名です。1987年4月、中国文物関係者は法門寺仏塔を再建する時、偶然に塔の下に地下宮殿を見つけ、そこに所蔵された文物は世界を驚かせ、秦の兵馬俑坑に継ぎ、陝西省でのもう一つの重大な発見と言われています。

 法門寺は西安市の西から120キロの扶風県にあり、中国の北魏時代(約499年ごろ)に初めて建造されました。7世紀の唐代はその隆盛期であり、唐王朝政府は大量の人力と財力を払って、法門寺を増築し、最終的に24ヶ所の庭園からなる広大な寺院となりました。寺院内の僧侶は5000人余りに達し、当時の首都地区で規模最大の寺院でした。

 仏教の経典によると、古代天竺(インド)国のアショカ王が仏法を発達させるため、お釈迦様の真身舎利を分骨して、世界各地で84000基の仏塔を建てたそうです。中国では19基が建てられ、法門寺はその中の一つです。

 塔の下に珍しく貴重な「仏指舎利」を納める寺として名をはせ、有名な仏教寺院となりました。中国の古書の記載によると、唐王朝の8人の帝王は何回も、仏骨を皇居に迎えて供養し、多くの宝物を法門寺の地下宮殿に賜って奉納していました。その後、戦争や地震などの原因で、法門寺の盛況はなくなったということです。

 1981年、数百年を経て、13階建ての法門寺仏塔は大雨で崩壊しました。1987年、陝西省は法門寺考古チームを組織して塔基に対しての復旧作業を行い、1113年間眠っていた唐時代の法門寺地下宮殿は再び人の目に触れるようになったのです。

 法門寺地下宮殿は長さ21.4メートル、面積は31.48平方メートル。その中には道、高台、トンネル、前室、中室、後室の6部分を含んでいます。中に多くの唐時代の文物が収蔵されており、仏指舎利と舎利を迎えるために奉献した金銀器、珠玉、ガラス器、陶磁器及び絹織衣装などの宝物は、約900件。特にそこからお釈迦様の真身舎利が出土したことで、この地下宮殿が秦の兵馬俑に継ぎ、もう一つの重大な考古発見と称され、仏教界や世界文化史上の大きな発見となりました。

 仏舎利のほか、法門寺地下宮殿の絹織物は、中国の甘粛省敦煌の蔵経洞に継ぎ、唐時代に出土したシルクの数や種類は最も多く、価値が最も高いもので、中国唐時代の絹織物の宝庫と称されています。考古資料によると、法門寺地下宮殿に収蔵された絹織物は工芸が非常に精緻で、縫い目に使われた金糸の平均直径は0.1ミリで、最も細い糸は0.66ミリで、髪の毛よりも細いということです。地下宮殿の中にあった籐製の箱のなかに入った絹織物は、厚さは23センチでしたが、780畳みに達していた。

 また、法門寺地下宮殿から眼を奪うばかりに光り輝く金銀器とガラス器を約100件出土しました。また、長い間伝承が絶えた16件の秘色磁器(宮中のみ使用された色の磁器)は、中国の専門家に衝撃を与えました。この秘色磁器は唐時代の宮廷の専用磁器であり、制作工芸は早くから伝承が絶え、その実物も中国の史書の中に言及したことがあるだけで、後人は見たことがなかったからです。記載によると、この秘色磁器は上薬がすぐれていることから、茶碗の中に水を盛る感じであり、いつも透明できれいな様を呈しているということです。

 法門寺地下宮殿から出土したこれらの宝物を保護し、展示するため、地元に博物館を設立しました。また、中国の文物保護専門家はドイツの考古学者と協力して、地下宮殿から出土した絹織物に対して技術の高い保護を支持しました。2002年、地下宮殿に所蔵されていた仏舎利は台湾地区に迎えて供奉され、1カ月余りで、延べ400人近くが参拝したということです。

 三星堆遺跡考古

 中国は国土が広いため、古代では、部族として小さな国が多く存在していたことがあります。今の四川省は、古代の蜀国の所在地であり、1970年代にここで発見された三星堆文明遺跡は世界を騒がせました。

 四川省広漢市内にある三星堆遺跡は、今から5000年ないし3000年の古代蜀国の遺跡です。1929年の春、地元の農民は田畑を耕していたしていた時、偶然に精美な玉石器を発見しましたが、玉石は古代蜀国の地域的特色が濃く、人々の注目を浴びました。同時に3000年も眠っている三星堆の文明が蘇ったのです。1986年、考古学者は大型な祭祀坑2ヶ所を発掘し、精美で珍しく貴重な文物1000件余りが出土し、世界を驚かせました。精美で神秘な文物が多く出土したことで、一連の歴史の謎となったわけです。

 三星堆文化の奇特なところは、ここから出土した数多くの青銅面であることです。中国中部の河南省からすでに、鼎、盆など、多くの精美な青銅器が出土しましたが、面は出土しませんでした。三星堆遺跡から出土した青銅面のほとんどは眉が太く、目が大きく、鼻が高く、口が大きく、あごはほとんどありません。その表情は笑っているようで、笑っておらず、怒っているようで怒っていない。詳しく見ると、これらの青銅面は両耳の上にそれぞれ小さな穴がひとつあります。この種の面は、顔の形が今の地元の人間と大きな差があるため、専門家もこの面が代表する意味が分からないということです。

 また、三星堆遺跡から、細くて高い青銅で鋳造した人像も出土しました。この人像は、容貌が青銅面の特徴と同じで、燕尾服のような長衣を着ていて、はだしで高い土台の上に立っています。銅像の高さは約170センチ、世界に既存する最も高い青銅像です。銅像の両手は、片手が高いところ、もう一方が低いところにあります。物を握る様をしていますが、出土した時は、手の中には何も握っていませんでした。専門家は、この銅像の表情や手まねから、一般人と異なる祈祷師、あるいは神のようであり、銅像のいた場所は祭祀場だったようだと推測しています。

 面と銅像のほか、金杖、青銅の「神の木」、象の歯なども出土しました。金杖は長さ1.42メートル、精美で神秘な紋飾、向かい合っている2羽の鳥、背が向かい合っている魚、魚の頭部や鳥の首のところに矢のようなものが刻まれ、神秘に満ちた笑顔の人頭像も刻まれています。また、青銅の「神の木」の高さは4メートル近くあり、9本の枝に分けられ、枝の上にはいずれも1羽の鳥がいる。研究によると、これは一般の鳥ではなく、太陽を代表する神の鳥だということです。

 専門家は研究の中で、三星堆から出土した多くの青銅器は、古代蜀国文化の跡が著しいだけでなく、西アジアと、その他の地域の文化の特徴も見られるとしています。特に青銅彫像、金杖などは世界で有名なマヤ文化、古代エジプト文化と非常に似通っています。このほか、祭祀坑から出土した70の象の歯などから見ても、三星堆にある古代蜀国は当時、周囲の国家ないし、より遠い地方との間にも商品の交流があったことがわかります。一部の陶器グラスがヨーロッパで同期に出土したグラスと外形が極めて似ていることから、三星堆青銅器は西アジア、近東、ヨーロッパなどの外国文化の影響を受けた可能性があることが分かりました。三星堆から出土された文物は、中国考古学、美学、歴史学などの分野を解明するきっかけともなりました。

 明祖陵考古

 中国の歴代帝王陵墓の中で、明時代(1368—1644年)帝王の陵は最も揃っていて、その内、明祖陵は「明時代の第1陵」と称されています。明祖陵は明王朝の開国皇帝の朱元璋が、その祖先のために建造したものです。朱元璋(1368—1398年に在位)は中国の歴史上で、異彩を放った皇帝です。貧しい農民の家庭に生まれ、生計のために地元の寺に出家して僧侶となりました。その後、朱元璋は元王朝(1271—1368年)に反抗する農民蜂起に参加し、勇敢でよく戦い、謀略に富んでいたため、だんだんと才能が現れ、一般の兵士から農民蜂起軍の指導者となりました。1368年、朱元璋は帝王と称され、最終的に中国を統一しました。

 朱元璋は皇帝となった後、自分の祖先を祭るために、専門的にその祖父、曽祖父(祖父の父)、高祖(祖父の祖父)のために衣冠陵墓を建造しました。衣冠陵墓とは、その名の通り、死者の衣装と帽子を埋葬する陵墓のことを指していますが、明祖陵は朱元璋の祖父の実際の埋葬地でもあります。

 明祖陵は中国の東にある盱眙県内の古い泗州城に位置し、中国の第4大淡水湖の洪澤湖の東岸に近隣しています。明祖陵を建造するため、前後して28年の時間を払った。史料の記載によると、明祖陵は元々城壁が3重、金水橋が3基、殿堂、あずまや、役所部屋などが1000部屋もあり、その規模は広大で、偉大さを感じます。明祖陵は今でも、南北長さ250メートルの墓に通じる道を保留しています。この陵墓の南は墓の入り口で、北は玄宮、すなわち朱元璋の祖先を埋葬する地下宮殿です。墓に通じる道には、等間隔で21対で42の石像が置かれており、その石像はいずれも重さが数トンあるということです。

 1680年、明祖陵は大洪水の中で洪澤湖の底に沈み、「水中皇陵」となりました。その後、1963年、洪澤湖は深刻な干ばつに遭い、明祖陵が初めて発見され、多くの大型石像が水面に現れました。これらの石像は、麒麟、雄獅子、鞍のある馬及び馬を引っ張っている侍従、文臣武将、宦官などの形に刻まれています。その高さは、いずれも3メートル以上にあり、重さは10トンほどあります。陵墓の地上殿堂はすでに崩壊しましたが、地下部分はよく保存されており、しかも副葬した文物も豊富です。

 陵墓は現在まだ、小さい池の中にあり、水面から下へ見ると、墓の石門が見えます。しかし、不思議に感じさせるのは、池の中の水を吸い上げきれないことです。専門家は「墓が長年水中に沈み、空気に触れなかったため、よりよく保存されたのである」としている。

 1963年、洪澤湖の深刻な干ばつの後、1993年と2001年に、洪澤湖は再び干ばつに遭った。特に2001年の干ばつで、明祖陵の外壁が1178メートル露出し、これまでの干ばつに比べても、より深刻な露出でした。また、明祖陵がある古い泗州城は当時、非常に繁栄していたが、1963年の干ばつで、その古い城壁及び一部の建築物の壁の土台も露出しました。その地上建築はすでに崩壊したが、その規模と繁栄跡が依然として見られます。古い泗州城は、洪水で壊滅的に破壊されることなく、その後は年々、泥や砂が沈殿して溜まっていきました。一部の専門家は「古い泗州城は一旦、水中から露出すると、元の様子に戻りやすい」としています。イタリアのポンペイ城が火山の噴火で地下に埋められ、発掘された後、世界を驚かせたことから、専門家は「両者は似通っている」とみており、古い泗州城を「中国のポンペイ城」と称しています。

 明孝陵考古

 明時代(1368—1644)の開祖、朱元璋の自らの陵墓である明孝陵は世界で最も大きい皇陵群の一つです。

 朱元璋(1368—1398年在位)は中国の歴史上、奇才のある皇帝で、貧しい農家に生まれ、生計のために地元の寺で出家して僧侶になった。その後、朱元璋は元王朝(1271—1368年)に反抗する農民蜂起に参加し、勇敢でよく戦い、謀略に富んでいたため、次第に才能を発揮し、一般の兵士から農民蜂起軍の指導者となりました。1368年、朱元璋は帝王と称し、最終的に中国を統一しました。

 朱元璋は在位期間中、自分の陵墓を建造し始め、前後して25年をかけて、息子が皇帝に即位する際、完成した。朱元璋は首都を中国東部の南京に定めたため、明孝陵は南京の郊外に設置され、明時代の16の皇陵の内、北京に置かれなかった唯一の皇陵です。記載によると、明孝陵の城壁の円周は長さ22.5キロメートルで、当時の都の城壁の3分の2に相当し、規模の大きさがわかります。明孝陵は600年に亘って風雨に侵害され、戦争で破壊され、現在、木製構造殿堂はすべて破壊されました。しかし、陵墓に残された石質の基盤は、依然として当時の規模をはっきりと見ることができる。明孝陵は、後の他の明皇陵の分布や建築形式と同じですが、それらの陵墓より遥かに大きいことから、後の各皇陵が明孝陵を手本にし、建造されたのがわかります。明孝陵の分布は、歴代の王陵とは異なり、墓に通じる神道はまっすぐではなく、曲折なものです。専門家はこれを解釈できないということです。朱元璋が通常と異なる個性を示すため、別の考えを出したのだという専門家もいるし、ただ墓に通じる道を奥に延ばした、という専門家もいます。

 陵墓に通じる神道は四方城から始まりました。四方城は石碑の亭であり、頂上の部分はすでに破壊され、下の四方の壁だけが残っています。四方城内に石碑があり、碑の上に刻まれた文章は、朱元璋の息子が自ら書いたもので、文章は合わせて2746字で、朱元璋の功績と徳行を記述しています。神道の真中の区切りの両側には向かい合って獅子、駱駝、象、馬など6種12対の動物の石像が排列されています。北に曲がると、神道にはそれぞれ4対の武将の石像があり、これらの石像は巨大で、明時代の石刻の芸術的で貴重な宝物です。

 最も神秘的なのは、朱元璋とその皇后を埋葬する地下宮殿です。地下宮殿がある法宝城と宝頂は明孝陵の中心部です。宝城は1100メートルの高い壁に囲まれていて、平面から見ると不規則になっており、直径は約400メートル。宝頂は宝城に囲まれていて、外から見ると巨大な円錐形を呈しており、最も高いところは海抜129メートル。地下宮殿の具体的な位置がどこなのかについて、これまでいろいろな説があります。伝説によると、墓盗みを防ぐために、埋葬する際、真偽が識別できないよう、本物と偽物を13の城門から同時に出棺し、しかもすべて同じ形にしました。朱元璋は、南京ではなく北京に埋葬されたと言う人もいます。よって、朱元璋が南京に埋葬されたかどうかは、数百年来の謎となっていました。1997年から、地元の文物部門は磁性探測や衛星による定位測定などのハイテクを駆使し、地下宮殿周り2万平方メートル余りの地域に対して探測分析を行ない、2万余りのデータを得て、地下玄宮の位置が判明し、朱元璋の陵墓を確認しました。この作業を行なった専門家は「私たちは精密な磁性探測技術を使って、朱元璋が地下数十メートルの所に埋葬されていることを確認した。しかも、この地下宮殿はよく保存されていて、地下宮殿が盗まれるという噂を払しょくしたのである」と述べました。

 明孝陵は歴代皇陵と比べて、多くの違いがあります。今回の探測を通じて、この陵墓の参道が曲がっていることがわかりました。しかも、地下宮殿の中軸ラインから逸脱しています。陵墓がなぜこのようになったのか、今のところ、はっきりとは分かりません。しかし、この種の建築形式は、その後の明皇陵の建築に深く影響しました。例えば、北京の明十三陵で発掘された定陵の参道の入口は左側に偏り、明孝陵の参道とちょうど相反しています。今回の探測で、考古学者は、明孝陵がある山の表面は少なくとも60%は人工的に建造されたものである、としました。例えば、宝頂の上に多くの大きい丸石が整然と排列されています。研究分析から、これらの大きい丸石は、当時建造者が両手で低いところから運んだものとわかりましたが、これは建造の美学の要求に合うし、雨さらしや盗難を防ぐためでもある。また、驚くべきことに、明孝陵前の動物石像の多くは、なんと今から3億年前の古生物化石なのです。地元の銀鉱の高級技師がこれを発見しましたが、この結論はすでに多くの専門家の認可を得ました。この技師は22匹の動物石像の上から、海藻類、珊瑚類などの化石を見つけ、その内、肉眼で見えるものもあれば、顕微鏡でなければ見えないものもあります。この考古発見によって、明孝陵の神道の石刻は、その歴史価値や芸術価値、科学的な価値が認められました。

 2003年7月3日、パリで開かれたユネスコの第27回世界遺産大会で、明孝陵は、北京の明十三陵と共に、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。

 明十三陵考古

 明十三陵の由来はクーデターと関係があります。明の初代皇帝の朱元璋は、中国東部の南京に都を定め、朱元璋の死後、皇位を孫に継がせようとしたが、その四番目の息子の朱棣は皇位争いのために内戦を起こし、最終的に皇帝になった。南京が陥落された後、朱元璋の孫は行方不明となり、今でも歴史上の懸案だったのです。朱棣は即位した後、南京は不安定だと思い、都を北京に移しました。朱棣の在位期間中、自分のために陵墓の場所を選び、最終的に北京西北郊外の景色が美しくて守りやすく、攻撃されにくいことから、自分の陵墓にし、しかも「長陵」と名づけました。1409年に建造をはじめ、明が滅亡した1644年まで、200年余りに亘って、13人の皇帝がここに埋葬され、明時代皇帝の陵墓群となったため、「十三陵」と称されています。

 十三陵は明孝陵と大体同じであり、陵墓の中軸ラインで帝王の「尊厳」を示している神道があります。正門の前に高い石製の鳥居があり、すでに450年余りの歴史があります。この石製の鳥居は、完璧に保存されており、すべて巨大な白色の美石で建造され、その上の彫刻は精美で、明清時代以来、めったに見られない石製の鳥居形です。

 この門から遠くないところに、この陵園の正門である大宮門があります。この正門は陵園の門戸であり、以前皇帝が陵を祭る時通らなければならない道だったのです。大宮門から、山川の地勢に沿って、長さ約40キロメートルの陵園をめぐる城壁や10ヶ所の要道があります。各要道には、強力な軍勢を設置し、陵墓を守備していました。十三陵の各陵墓にはいずれも監、園、衛などの名があります。「監」とは陵を管理する役員や宦官が住むところで、「監督」は陵墓の祭祀事務を専門的に管理することから、陵墓の付近に建築されていましたが、現在ではいずれも村となっています。「園」は園丁が住むところで、果物と野菜を栽培し、陵を祭ることに用いられます。「衛」は軍隊がいるところで、陵墓を守備するために設置されたものです。

 皇帝たちは、恒久的に自分の陵墓を保存するため、多くの神話を作りあげただけでなく、墓を極めて厳密に封じました。そのため、各陵墓の地下宮殿は終始、神秘なベールで覆われました。十三陵の中の定陵は、これら陵墓の中で最も神秘的で、特に、その地下玄宮は長い間人々に知られていませんでした。1956年5月、中国の考古学者は定陵地下宮の発掘を開始。定陵地下宮は総面積1195平方メートル、前、中、後、左、右の5つの殿堂から連なっており、全て石で構造されています。霊柩車が地下宮に運ばれる時、地面を損わないために臨時に敷設した厚い木の板は、今でも前殿から後殿までの地面に残されています。中殿には白色の美石の玉座が3つ。後殿は玄堂と称され、地下宮の主な部分です。正面の柩床の上には、3つのうわ柩が置かれている。そのうち、真中のうわ柩は特に大きいが、これは皇帝朱翊鈞の柩で、その左右に2人の皇后のひつぎがあります。また、そのまわりには26の副葬の箱、玉石、染付磁器など。定陵の発掘に従って、珍しくて貴重な文物が3000点余り出土されました。その内には、きらびやかで色彩が多様な織物や衣装、精巧で立派な金をちりばめた装身具もありました。また、まれに見る金器、玉製の器具や工芸品、磁器などもあり、これらは明時代の工芸の研究にとって貴重なものとなっています。

 満城漢墓と金縷玉衣

 中国の西漢時代(前206年―紀元8年)、人々は、玉が人の死体の腐敗を防ぐことができると信じていました。従って、皇帝や貴族らは死後、鎧に似た「玉衣」に包まれて埋葬されます。この玉衣は、様々な玉を金の糸で繋ぎ合わせて作ったもので、「金縷玉衣」と呼ばれています。1968年、ある考古学者が中国北部の河北省の満城県で、初めて完璧に保存された珍しい文物を発掘しました。

 満城漢墓は北京から200キロ余りの河北省満城県にあり、西漢時代の諸侯国の中山国王劉勝とその妻の竇綰、彼ら二人の墓です。史書の記載によると、劉勝は前154年に中山国の国王に即位し、42年間在位した中山国の第1世代の国王です。

 劉勝の墓は独立した山の上に建てられ、山全体が墓となっています。墓には多くの異なる洞窟があり、寝室、居間、音楽室などが含まれ、墓全体が豪華な山の宮殿のようです。

 それらの構造から見て、劉勝の墓はよく考慮されて設計されたもので、工事は困難を極め、規模は広大でした。岩石質の山で厖大な墓を掘り起こすには、近代的な施工方法でも100人で1年間の時間を費やさなければ完成しません。

 劉勝の墓からは数多くの副葬品が出土しました。これらの副葬品の中で、陶器が最も多く、次は銅器、鉄器、金銀器の順です。その中で最も著名なのは世界で知られる「金縷玉衣」です。

 「金縷玉衣」はいずれも、長方形、方形、梯形、三角形、四辺形、多辺形などの玉からなり、玉の角に穴をあけ、黄金の糸で綴っています。玉衣は頭部、上着、ズボン、手袋、靴の5つに分けられてあります。頭部の内側に目の覆い、鼻を覆うもの、耳を覆うもの、口を覆うものが付いており、腹部には生殖器を覆うための小さな箱や肛門をふさぐものがついている。これらはいずれも、玉で作ったものである。玉衣の全長は2メートル近く、計2498個の玉からなり、金糸は約1100グラムです。

 学者の研究によると、玉衣の製作過程はとても複雑で、まず、大塊の玉を切り、人の体の各部分の異なる形によって薄く磨き、その後、これらの玉の角に穴をあける。推測によると、玉の上の一部分磨かれた部分は0.3ミリほどで、穴の直径は1ミリしかない。その技は繁雑で精密度が高く人々を驚かせています。

 劉勝と同様、竇綰の墓からも「金縷玉衣」が出土し、この玉衣も頭、上着、ズボン、手袋、靴の5つに分かれています。劉勝の墓と竇綰の墓から出土した「金縷玉衣」は完璧に保存されており、中国考古史上初めてセットとなる玉衣で、人々は漢の時代の玉衣の形と構造を知ることができました。

 精巧な金縷玉衣のほか、劉勝の墓から、金、銀の医療用の針や「医工」という字が刻まれた銅製の盆が出土し、中国古代の針灸術と医学史の研究における重要な資料となっています。また、この墓から出土した銅製の水時計は今までに出土された中でも年代が最も古いもので、中国の天文学の歴史研究にとって重要なものとなっています。劉勝がいつも身につけていた剣は何度も繰り返し鍛造され、その表面は化学的処理を経て作られ、中国古代の錬鉄技術の傑作とも言われています。

 満城漢墓は1988年、中国政府から全国の重点文物保護単位と定められました。  

 貴州赫章古墓群で古代夜郎国をさがす

 「夜郎自大」(身のほどをわきまえず尊大ぶる)(漢代に、現在の貴州西境にあった夜郎国の王が漢国の使者に漢と夜郎国とどちらが大きいかと尋ねた故事による)という成語は、中国では有名です。この成語は2000年あまり前、中国西南部にある夜郎国のある故事からできたものです。夜郎国はかつて、貴州高原で100年間、繁栄していました。その後、流星のように消えてなくなってしまいました。今世紀初め、中国の考古学者が貴州の赫章で発掘した古墓群は、初めて夜郎国の神秘的な姿を人々に見せることとなりました。

 2001年9月、中国西南部の貴州省赫章県可楽郷で、古代夜郎国の108の墓を発掘されました。これは古代夜郎国に関する考古の中で、副葬品の出土が最も多かったもので、古代夜郎国の文化や夜郎国の歴史を研究するのに重要な意味を持っています。従って、今回の考古発見は2001年度「中国の十大考古発見」にランクされています。夜郎国は、中国西南地域でより強大な少数民族政権であり、前3世紀から紀元1世紀までの間200年間も存在していました。前2世紀、西漢の有名な史学家、司馬遷が漢朝の使節に伴い、中国西南部の各少数民族国に行った。司馬遷が著した史書『史記・西南夷志』の記載によると、西南各部族の中で、勢力が最も大きいのは夜郎であり、軍隊を有していました。川では、あちこち夜郎人の船が行き来し、非常に繁栄していました。夜郎国王は西漢の使節と話し合った際、使節に「漢と夜郎国はどちらが大きいか」と尋ねました。当時、漢朝は中国の大部分の地域を統治していました。一方、夜郎国はへんぴな山間地帯にあり、夜郎国王はお互いの実力に大差があることを知らずにいたのです。それから、「夜郎自大」がむやみに尊大ぶることを意味する成語となり、笑い話として今まで伝えられてきました。同時に、2000年あまり前に夜郎国が存在していた証拠にもなっています。

 夜郎国は、魅力的な夜郎文化を育んできました。夜郎国が消えた後、行政区が変わり、民族が遷移し文献資料が不足して夜郎国の歴史はあいまいな面があり、中国少数民族の古代史の中でも疑問な点が多かったということです。夜郎国の大部分の領域は、今の貴州省境界内にあります。貴州省赫章県内で絶えず発掘された秦の煉瓦と漢の瓦から、いずれも当時の夜郎国の盛況ぶりを推測することができます。赫章県可楽郷で発掘された墓の群れからは、夜郎国独自の埋葬習慣がわかり、2001年度の「中国の十大考古新発見」となりました。

 赫章県可楽郷で発掘された墓は密接に分布しています。しかし、一つ一つの墓は規模がそれほど大きくありません。一般的に長さ3メートルに満たず、幅も1メートルしかありません。しかし、埋葬方法はとても奇特です。一番多いのは「頭を被せて埋葬する」方法です。これは、太鼓形で銅製の釜(釜:古代の炊事道具、鍋に似る)を死者の頭に被せて埋葬します。その他では、銅釜を死者の足に被せ、顔に銅の洗(一種の洗面用具)を覆うものもあります。また、銅洗を足の下に敷き、腕の傍らに銅洗を横にたてるものもあります。「頭を被せて埋葬する」方法や、これらの特別な埋葬方法は、中国の他の地域では見られないものです。これは夜郎民族特有の埋葬方法と言えます。専門家は、この「頭を被せて埋葬する」方法は、夜郎人の魂への崇拝や釜、太鼓、洗などの用具への崇拝を反映しているとみています。また、このような独特の葬儀と宗教観に対して深く研究する必要があるとみる専門家もいます。

 可楽郷の墓から出土された青銅器は、貴州省の青銅文化の空白を埋めただけでなく、その濃厚な民族特色もほかと異なり研究価値があります。例えば、太鼓形の釜、青銅戈、青銅剣などは、その造型が独特で、その他の地域でこの造型の青銅器は見られない。夜郎国の青銅文化は独特ということがわかります。赫章県可楽郷で発掘された、これらの墓は文字で夜郎国が歴史上存在していたという痕跡を記録し、これにより、2000年前に消えたこの古代国家が初めて、その糸口を見せたのです。専門家は、より謎を解明する鍵は可楽郷の墓の中に隠れているかもしれないとみています。

 磁器と中国

 英語のChinaは「中国」「磁器」両方の意味を持っています。中国は昔から、「磁器の国」と言われますが、中国は磁器と一体どんな関係があるのでしょうか。

 考古資料からすると、磁器の前身は原始の青磁であり、陶器から磁器への段階の産物でもあります。磁器の特徴を持つと同時に、原始陶器の痕跡も残っています。中国最古の原始青磁は、今から約4200年前、山西省夏県の竜山文化遺跡で発見されたものです。

 中国の真の磁器は、東漢の時代(紀元23年~220年)に発見されたものです。まず南方の浙江省で発見され、その後、磁器の製造技術は南方から北方に伝わりました。その中で最も大きな発展は、白磁の誕生です。白磁は青磁から発展したもので、両者の区別は台、釉の中に含んだ鉄の量が異なることにあります。陶土に含んだ鉄の量が少ない場合、その台の色は白色を呈し、鉄の量が多い場合、台の色は比較的に暗い色合い、灰色や浅い灰色或いは濃い灰色を呈します。磁器そのものの発展からは、単一色の釉磁器から彩色磁器へ発展することがわかります。その大多数の彩色磁器はいずれも白色を地として、その他様々な色で彩られています。よって、白磁の出現は磁器の発展にきわめて大きな影響力となったのです。

 紀元十世紀から十三世紀初めまでの唐、宋の時代、中国の磁器製造の技術は引き続き発展し、唐三彩は、この時期に生まれた彩色の陶磁工芸品です。唐三彩は主に、台の上に彩色釉を塗り、火であぶる際に化学変化が起きたものです。唐三彩は中国固有の絵画、彫刻などの工芸美術の特徴を生かし、一つの器の上に同時に赤、緑、白の3つの釉色を使って高温で焙った後、三色の釉色は互いに入り交じり、三つの色はより多くの色彩に変化します。これが唐三彩の釉色の特徴です。

 明(紀元1368~1644年)、清(紀元1644~1911年)両時代は中国の磁器生産の真っ盛りの時期です。南方の都市景徳鎮が「磁器の都」として確立されたことにより、景徳鎮の磁器焼き窑が数百年にもおよび明、清両時代の磁器を支配し、これまでにも、中国の最高級磁器は依然としてここで制作されたものです。中国の磁器を外国へ輸出したのは8世紀から始まり、それに先立ち、有名な「シルクロード」はすでに中国と外国の商業貿易及び文化交流の場でした。8世紀に入った後、磁器の海外での販売に伴い、中国は「磁器の国」として世に知られるようになりました。

 中国磁器は主にアジア地域に向けて輸出していました。17世紀に入り、西欧の皇室と宮廷で中国の磁器を収蔵する傾向がみられるようになり、ポルトガルが新しい航路を切り開いた後、ヨーロッパ社会でも磁器は最も貴重な土産品となりました。この時期に、ヨーロッパで流行っていた芸術の風格、ロココ調は、生き生きとして、優美、精巧、自然を特徴とし、その提唱された芸術作風は中国芸術の精緻、やわらかい、繊細、優雅と道は違うが、帰着するところは同じで、これは磁器を含む「中国の風格」を持つ品物がヨーロッパで流行るきっかけとなりました。17世紀、中国は毎年約20万件の磁器を輸出し、18世紀になって多いときには毎年約100万件も輸出された。中国の磁器は全世界に輸出し、世界的な商品となった。「China」という言葉も中国磁器がイギリス及びヨーロッパ大陸に流出したことにともない、磁器の代名詞となり、「中国」と「磁器」の二つの意味を持つ言葉となったのです。ところで、この変化は最終的にいつ確定されたのかについて、今のところはっきりしていません。しかし、肯定できるのは、中国の古代磁器の輝かしい成果やこれによって切り開いた磁器の伝播ルートに基づき、中国独特の品物が世界の人々に愛されるようになったということです。

 湖南長沙の馬王堆漢墓

 1970年代に、中国南部の長沙で馬王堆漢墓が発掘され、中国ないしは全世界を驚かせました。この墓から出土した完璧な形で保存されていた婦人の死体は、世界で初めて発見されたミイラである。この女性の死体は2000年余りの間埋葬されてきたが、まだ生きているのと同じような弾力ある肌を保っていることから、とても謎めいています。同時に、馬王堆漢墓から、完璧に保存された極めて珍貴な文物が大量出土されており、古代中華文明の珍貴な宝とも称されています。

 中国南部の湖南省長沙市の東郊外には、民間の間で、ここには大きい墳墓があると伝えられてきました。ある者が、馬という姓の王侯がここに埋葬されていると言いふらしたことから「馬王堆」と呼ばれるようになったということです。また、ある伝説では、ここには古代長沙王の母が埋葬されていると言われ、それによりいくつかの奇妙な物語が伝えられています。1970年代に至って、思いがけない発掘から、この伝説中の墳墓の主人が確定されました。1971年、長沙の馬王堆で労働者が地下室を掘っている時、偶然にこの墓が発見されました。墓穴があけられた後、その墓の底や、うわひつぎの中に、厚さ1メートル余りの白い練り固めた泥をいっぱい埋めていました。その白い泥の下には木炭が一面に敷かれていました。木炭がとられた後、ひつぎとうわひつぎが露出しました。その上には数十枚の竹で編んだ蓆で覆っており、出土した時、竹の蓆は色が浅黄色で、つやがあり新品同様でした。しかし、出土してわずか十数分間の間でこの蓆は黒くなりました。墓の中には4重の棺があり、一番外の大きい棺は長さ約7メートル、幅は5メートル、高さは3メートルでした。

 棺とうわ柩を開けると、棺の中の婦人のミイラがとても生き生きとしていることに驚かされました。この死体の外観は、完全な形で、顔のつくりもはっきりとしていて、髪もつやがあり、指と足の指紋もはっきりと見えました。肌は潤いがあり、弾力もある。また、四肢の関節も動かすことができる。解剖の結果、その内臓器官も完全に保存され、のどから胃にかけて100余りの瓜の種が連なって残っていたということです。つまり、この婦人は、瓜が実る季節に瓜を食べている最中に亡くなったことがわかります。墓の中に「妾辛追」という名前の章があり、考証によると、この婦人は前2世紀ごろに埋葬され、前漢初めの長沙国宰相利蒼の妻で、名前は辛追ということです。

 「生きている死体」の発見は、世界でセンセーションを巻き起こしました。関係部門の統計によると、馬王堆の女屍が出土した後、短期間で長沙市の訪問者数が5万人も増加しました。辛追の墓の発掘後2年の間に、その付近でまた2つの大型漢墓が発見されました。1つは辛追の夫長沙国の宰相利蒼の墓、もう1つは彼らの息子の墓とみられています。この3つの墓は総合して「長沙馬王堆漢墓」と称されています。長沙馬王堆漢墓から出土された文物は、非常に豊富で、着物、食品、薬剤、漆器、木俑、楽器、陶器、帛画(絹に描いた絵)及び大量の帛書(絹地に書いた文・書簡)や竹簡、木簡(古代、字を書いて手紙の代わりに使った木の札)が出土されました。これらの文物は極めて高い芸術性と実用性があり、非常に貴重なものとされています。その内、出土した1400点の絹織物は「人を驚嘆させる前漢のシルクの宝庫」と称されています。無地の紗のひとえの着物2点があり、長さ1メートル、袖が2メートル、その重さはわずか28グラムで、あわせ式の着物は、畳んだら片手で握ることができるということです。古書の中に出てくる「薄さはせみの抜け殻如し、軽さは煙霧の如し」のような感じで、当時中国の紡績技術がすでに非常に高いレベルに達していたことの現れです。その他、出土した帛書と竹簡と木簡は、世界で最古の天文著作「五星占」、「天文気象雑占」だけではなく、中国最古の医薬著作「脈法」、「五十二病方」などもある。馬王堆漢墓から出土した帛書の数も非常に多く、内容もとても豊富です。

 長沙馬王堆漢墓の発掘は、中国の考古界に大きな影響を与えました。専門家は、この墓で最も価値があるものは、完全に保存された女性の遺体、その女性の品物や帛書、竹簡と木簡であるとしています。この3つの中でも1つだけでも発見があると考古学上貴重な発見と言われています。しかし、この墓からこの3つが共に出土されたということは、中国の考古学史上、唯一無二と言われている。そのことから、長沙馬王堆漢墓の発掘は人々に「20世紀中国と世界の最も重大な発見の一つ」とされています。

 敦煌莫高窟

 中国北西部にある敦煌莫高窟は巨大な芸術宝庫で、中国の4大石窟の中で最も大きく、最も充実している石窟です。中国1000年近くの石彫り芸術を反映し、世界で最も規模が大きく、最も完璧に保存されている仏教遺跡です。

 中国北西部の甘粛省敦煌市の郊外には、「鳴沙山」という山があり、この山の東の断崖南北2キロ近くのところで上下5階に分けられ、無数の洞窟となっています。これらの洞窟は上下に排列され非常に壮観です。これが世界で有名な敦煌莫高窟。

 莫高窟は紀元366年から形成されました。ある日、法号が楽尊という僧侶が敦煌にやって来て、鳴沙山の頂上にある金色の光の中の千万の仏を見て、心の中で、「ここはきっと聖地だ」と思ったということです。そして、崖の壁に初めて仏洞を彫りました。その後、歴代の建造を経て洞窟は絶えず増えていき、7世紀の唐の時代になって、莫高窟にはすでに1000余りの仏洞となった。従って莫高窟は「千仏洞」とも呼ばれています。

 莫高窟は古代建築、壁画、彫刻を一体とする芸術宮殿であり、各時代の人々は洞窟を掘る時、洞窟の内に多くの仏像を彫塑し、数多くの壁画を描きました。歴史の移り変わりを経て人為的な破壊を受けたにもかかわらず、今でも500の洞窟、約5万平方メートルの壁画と2000基余りの塑像が保存されています。その塑像、服飾と芸術は、それぞれは異なり、それぞれの時代の特色を反映しています。莫高窟の壁画は、壮観でこれらの壁画を一つ一つ連結すると、長さ30キロになります。

 敦煌莫高窟は中国の辺鄙な地域にあるため、百年もの間、人々の注目を集められませんでした。しかし、20世紀初期、その神秘な書庫の発見により、莫高窟の巨大で貴重な所蔵は世界を驚かせ、また、これにより中国近代史上で最も損失がひどい文物流失の災難に遭う。

 1900年、莫高窟を管理した王道士は積もった砂をきれいにした時、偶然に一つの密室を発見しました。この密室はその後「蔵経洞」と呼ばれる。長さ広さがそれぞれ3メートルの小さな洞窟内に、経文書、織繍、絵画、仏像の絹の幡(旗)、拓本などがいっぱいで、およそ5万点。これらの文物の年代は紀元4世紀から11世紀までで、内容は中国、中央アジア、南アジア、ヨーロッパなどの歴史、地理、政治、民族、軍事、言語文字、文学芸術、宗教、医薬科学技術など、あらゆる分野を含み「中古時代の百科全書」と称えられています。

 王道士は蔵経洞を発見した後、その一部の文物を持ち出して利益にしました。これらの貴重な文物が民間に伝えられたことで、世界各国の探検家が訪れるようになりました。当時の清政府は無能だったため、ロシア、イギリス、フランス、日本、アメリカなど国の「探検家」が、敦煌から4万巻の経書と大量の珍重な壁画、彫塑を盗み、莫高窟に巨大な被害をもたらしました。現在、イギリス、フランス、ロシア、インド、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、韓国、フィンランド、アメリカなどの国ではいずれも、敦煌の文物を収蔵しており、その総数は莫高窟蔵経洞の文物の3分の2をも占めている。蔵経洞の発見に従って、多くの中国学者は非常に困難な条件の下で、敦煌文書の研究をはじめました。1910年、中国ではじめての敦煌文書を研究する著書が出版され、「世界顕学」と呼ばれる敦煌学が創設されました。数十年来、世界各国の学者は敦煌の芸術に深く興味を示し、絶えず研究を行ってきました。中国の学者は敦煌学の研究面ですでに大きな研究成果を上げています。敦煌莫高窟は、中国文化の宝庫として、中国政府はその保護活動を非常に重視し、1950年、中国政府は莫高窟を初めての全国重点文物保護単位に指定し、1987年、ユネスコ・国連教育科学文化機関に世界文化遺産リストにランクされました。今、莫高窟の奥にある三危山の麓に、敦煌幻術陳列センターがあり、一部元の洞窟を模造し、洞窟内の文物を保護すると同時に、観光客の見学範囲も広がりました。海外の観光客から、「莫高窟は、世界で既存の最も偉大なる仏教美術の宝庫である」と評価されています。

 秦の始皇帝陵の銅車馬

 秦の始皇帝陵の兵馬俑が発見された後の1980年、中国の考古学者は秦始皇帝陵の銅車馬を発見しました。この発見もまた、世界を驚かせました。

 最も早くこの国宝を発見したのは考古学者の楊緒徳です。当時、楊緒徳は秦始皇帝陵から20メートルぐらいの場所でボーリングしていました。突然、7メートル深さから土と共に指ぐらいの大きさの金の泡みたいなものが溢れ出てきました。この金の泡を現場の指導者程学華に手渡すと、程学華は興奮し手が震えたということです。というのも、人々が一生懸命に探していた銅車馬でした。

 発掘作業は専門家の指導の下で行われ、1ヶ月を経て、地表から7.8メートルの深さに2台の銅車、8匹の銅馬、2人の銅の御者がありました。

 銅車馬が発見された後、その修復作業は秦始皇兵馬俑博物館で行われ、2年近くの修復を経て展示されました。銅車馬が展示されると、たちまち世界を驚かせました。

 銅車馬の大きさは実物の2分の1で、その設計、制作の精密さ、工芸の精緻はいずれも比べるものがないほどその工芸制作方法は今も応用され、あるものは今でもまだ謎です。  

 秦の兵馬俑がどのように制作

 1989年、中国社会科学院考古研究所の漢長安作業チームは西安市示央区六村堡郷の野菜畑でボーリングをしていた時、今から約2100年前の前漢の大型の兵馬俑を焼き上げる陶窯21箇所を発見しました。これは皇帝と政府のための副葬用の俑を製造する官僚の窯です。これらの製造所は規模が大きく、生産量も多い。その内、2箇所の陶窯にはまだ焼いていない俑がいっぱいありました。21の窯には、それぞれ350ないし400の俑もあり、このように21の窯から1回で7350ないし8400個の陶俑を焼き上げることができます。このような生産規模から見ても、秦と漢の兵馬俑が偉大であったことがわかります。

 現場から発掘された陶俑の実物により、兵馬俑の焼き方が分かります。陶俑は全部鋳型によって製造されました。これらの兵馬俑は焼く前に彩色をせず、焼いた後で白色の陶の衣服を描いていったのです。焼く時の兵馬俑の置き方は、頭を下に向け、足を上向きにして置きました。これは非常に科学的な置き方です。人体の上部は下部より重く、頭を下に向けて置くことで安定が取れ、かつ倒れにくい。これは、はるか2000年余り前に、わが国の労働者が重心の原理を身につけたことから用いたのです。秦の兵馬俑が発見された後、陶馬を模造した時、この方法を用いなかったため白地の足を下に向けに置いたことから倒れてしまいました。また、秦の時代、陶器製造者に俑の上に自分の名前を刻むよう要求しました。これは支配人が製造した陶俑の数と質を検査するためで、後に多くの製造者の名前が残されました。現在、はっきりと名前が残されているのは宮丙、宮疆など85人です。

 司母戊鼎はどのように製造されたのか?

 1939年3月、中国中部の河南省安陽武官村の北にある田畑から、世界最大の青銅器「司母戊鼎」が出土されました。この司母戊鼎は重さ875キロ、高さ133センチ、長さ110センチ、幅78センチで、これほどにも巨大で四つ脚がついた四角の鼎を一体何に使っていたのか、また、どのように製造されたのか・・・。専門家はすでに「司母戊」三文字の意味から、司母戊鼎は祭祀の器であることがわかったということです。考証によると、司母戊鼎は商の国王祖庚がその母親の妣戊を祭るために使ったものです。専門家は、巨大青銅器の製造は鼎の柄、鼎の本体、鼎の脚部分をそれぞれ鋳造し、その後各部分を接合して作ったと推測していました。しかし、最近、専門家の分析研究によって、司母戊鼎は依然として伝統的な手法で製造されていることがわかりました。この手法は鋳造前に、まず陶土で外側をつくり、それから各部分を組み立てていきます。本体、上部、底部分などに分けられます。司母戊鼎の脚は、全体の鋳型と一体となっており、鋳造する時、大型の熔炉を鋳型の鼎脚の外側に置き、熔炉の中の青銅が熔けた後、銅を三つの流し込み口から徐々に鋳型の中に流し込みます。鼎の本体が鋳造された後、その上で鼎の柄部分を流し込んで鋳造します。こうして、巨大な司母戊鼎が完成したのです。