第十八章:伝統演劇
>>[中国京剧] 京劇

 京劇のくま取り

 京劇のくま取りとは、役者が顔面に特殊な絵の具で彩色し、キャラクターの性格、人柄、運命を表すことを指す。一般的に、赤のくま取りは忠勇な正義者、黒は中性で勇ましく智恵のある人、緑は同じく中性だが民間の英雄の現れで、黄色と白は凶悪で悪賢い悪役を表す。金と銀は神秘の現れで、神や妖精をそれぞれ現す。 

 京劇の役柄

 京劇の役柄は、大きく「生」「旦」「浄」「丑」という四つに別けられる。

 老生 小生 老旦

 青衣 武旦 文丑

 また、それぞれ以下のように細かく分かれる。

 「生」:「老生」(中年男性、もしくは帝王、貴族など)、「小生」(青年男子)。

 「旦」:「青衣」(中年女性、普通は貴族の夫人やお嬢さん)、「武旦」(立ち回りのできる女性)、「花旦」(若い女性。召使などの女性)。

 「浄」:各種のくま取りの役柄をさし、性格、人柄もしくは容貌の変わった男性。

 「末」:「老生」の類に入るが、年齢が一段と上にあり、考え方があやふや、寂れた老人の役で、化粧時に、鼻柱に小さな白粉をつける。

 「丑」:浪人、もしくは機敏でユーモアに富んだ民間の義士を指す。

 京劇の歴史

 「東方のオペラ」といわれる京劇は、生粋な中国文化の一つで、北京で生まれたことからその名が付いた。

 京劇には200年余りの歴史がある。その由来はいくつかの古来の地方劇に遡り、中でも、とりわけ、18世紀に流行っていた中国南方の地方劇「徽班」の影響が大きい。1790年、最初の徽班が上京し、皇帝の生誕祝賀公演に参加した後、いくつもの徽班が相次いで上京した。徽班は流動性が強く、他の芝居の演目や表現方法を吸収するのに長けていた。当時から北京には数多くの地方劇が集まっていたため、上京した徽班は、他の地方劇を積極的に取り入れ、その芸術性が著しく向上された。その後、19世紀末~20世紀始め、数十年をかけて京劇が形成され、中国最大の演劇文化となった。

 京劇の演目はたいへん豊富で、役者の人数もかくのごとく、劇団の数や観衆の数などのいずれも中国で一番の影響力を持つ。

 京劇は「唱」(歌い)、「念」(読み上げ)、「做」(演技)、「打」(立ち回り)、「舞」(踊り)を一体に、決まった型を通して物語を展開し、人物を描写する総合的演劇芸術である。京劇の役柄は主に生(男性)、旦(女性)、浄(男性)、丑(男性も女性も兼ねる)の四つに大別される。このほか、脇役の役柄もある。

 くま取りは京劇の中で最も特色のある芸術である。役柄の忠誠心と不忠、美しさと醜さ、善良と邪悪、貴さと卑しさは、いずれもくま取りにより表現することができる。例えば、赤は忠誠心の強い人、紫は智者、剛毅な人、黒は正直で、尊い人格を持つ人、白は忠誠心に欠け、残酷な人、青は気が強く、勇ましい人、黄色は凶暴な人、金と銀は主として神、仏、幽霊、妖精に使われ、金の顔面と体でその虚無感を表す。

>>[中国地方戏] 地方劇

 黄梅劇 

 黄梅劇はもともと「黄梅劇」もしくは「采茶劇」と呼ばれ、18世紀末、安徽省、湖北省、江西省の隣接地帯で生まれた民間芝居である。その中の一流派が安徽省懐寧県を中心とした安慶地区に拠点を移し、地元の民間芸術と結びついた。彼らは現地の方言で歌い、独自の特徴を形成して、「懐腔」もしくは「懐調」と呼ばれた。これがつまり、今日の黄梅劇の前身である。

 19世紀半ば、さらに「青陽腔」や「徽調」の影響を受け、正規の正本劇が生まれた。黄梅劇は地方劇の一つとして、徐々に世間から知られ、認可された。初期の黄梅劇は、歌と踊りを併用することが特徴で、ありのままの生活模写に力を入れ、特に決まった型はなかった。一部の芝居(例えば『天仙配』の「分別」というくだり)には立ち回りのしぐさもあったが、それは青陽腔や徽調の影響の名残であった。

 当時の黄梅劇の役者は、大部分が地元の農民もしくは手工業者で、服装や舞台用道具、楽器の銅鑼や太鼓も寄せ集めたもので、公演前に観衆から借用する時もあった。この段階までの黄梅劇は基本的に農村の労働者の娯楽や発散の場としての文芸にとどまっていた。

 黄梅劇の種類は主として「花腔」と「平詞」に別けられる。「花腔」は主に、小規模な芝居を指し、生活の息吹に富んだ民謡の味わいが取り入れられている。逆に「平詞」は正本劇の主要な節で、スケールの大きい叙述や叙情をよく用い、行雲流水のような豊富な味わいがある。

 黄梅劇の優れた演目には『天仙配』、『牛郎織女』、『槐蔭記』、『女附馬』、『夫婦観燈』、『打猪草』、『柳樹井』、『藍橋会』、『路遇』等がある。

 昆劇

 昆劇はかつて「昆山腔」(略して「昆腔」という)、「昆調」、「昆曲」、「南曲」、「南音」、「雅部」などとも呼ばれていた。一般的に言えば、芝居の節回しの部分は主に昆山腔と呼び、演奏、とりわけ舞台を離れた時の清唱(扮装やしぐさをせずに、歌だけの部分)は主に、昆曲と呼ばれた。「昆劇」は表現芸術としての演劇を表現する時の総称である。

 昆劇は明の隆慶、万暦時代から、清の嘉慶初年(1570-1800)まで、230年余りにわたって興隆し、中国の演劇界に強い影響力を持っていた。これは昆劇が最も輝かしく、最も成果を上げていた時期でもあり、それは素晴らしい繁栄ぶりだった。当時、新作劇も相次いで送り出され、その芸術性が日増しに成熟し、役者の役柄分担も益々細分化していった。公演形態から見れば、長編の伝奇ものから単独の一幕の劇(折子劇)が現れてきた。「折子劇」は本編から独立した短編劇で、まとまりのない場面は削られ、面白いくだりを重点的に充実させた、生き生きとした芸術性で、昆曲の発展に新しい息吹をもたらした。ここから「生」、「旦」、「浄」、「丑」などの役柄の演技を中心に、観衆が何度見ても飽きを感じさせない「応工劇」の名作が生まれた。

 昆曲の演目はたいへん豊富で、脚本が優雅で美しく、文学性が高い。脚本を読むだけでも、多くの唄いの文句は婉曲で深みのある詩歌そのもので、美しさの享楽である。明と清の時代において、音声を主体とする演劇の中で、昆曲は最も多くの作家と作品を有する芸術だった。その発声と発音は中国語の四声を重んじ、形式、韻律、拍子をかたく守り、唄い方はまろやかで美しい上、抑揚があり、緩やかである。昆曲の調子は中国古典文学の中の「曲牌体」を採用し、すべての演目はすべて一連の「曲牌」からなっている。昆曲は完備した表現システムがあり、その演じ方は強い舞踊性を持ち、また、歌とも密接に結びついているため、歌、舞踊、台詞、動作を一体にした総合的な芸術形態である。中国における演劇の文学、音楽、舞踊、美術及び演じ方のしぐさ、型、伴奏のつけ方など、いずれも昆曲の発展過程で成熟し、改善されたものである。

 昆曲の成長はつまり、中国の演劇の成長過程であり、それは京劇、川劇、湘劇、越劇、黄梅劇など多くの演劇の形成と発展に直接的な影響を与えた。人々が昆劇を「百劇の元祖」と呼ぶ理由でもある。

 豫劇

 「河南梆子」、「河南高調」とも呼ばれた。初期は、役者は地声で歌い、歌いだしと歌い終わりは裏声で「オー」(漢字では「謳」でその音を表現する)と声を高めることから、「河南謳」とも呼ばれた。

 河南梆子は豫西(河南省西部)の山間地帯で公演する時に、山の麓で土のステージを作っていたため、「靠山吼」とも呼ばれた。また、「豫劇」という新中国が設立後に使われ始めた呼び名もある。豫劇は河南、河北、山東、山西、湖北、寧夏、青海、新彊など十いくつの省と自治区で流行り、中国で最も影響力のある演劇の一つである。

 豫劇は明の末から清の初めに生まれ、初期は伴奏としぐさのない歌がメインで、農民から深く愛好され著しい発展を遂げた。豫劇の起源は定かではなく、定説はないが、明の末の秦腔と蒲州梆子が河南に伝わった後、地元の民謡と小唄を結びつけてから形成された説と北曲弦索節から直接発展してできたという説がある。

 豫劇が形成された後、主として四つの流派が現れた。開封周辺の祥符節、商丘周辺の豫東節(東路節とも言う)、洛陽周辺の豫西節(又は西府節もしくは靠山簧)及び漯河周辺の沙河節(又は本地梆)である。歌い方は主として慢板、二八板、流水、飛板などに別けられる。主な流派は豫東節と豫西節に別けられ、豫東節の男声部は甲高く、激越で、女声部は元気が良く躍動に富み、喜劇的な表現に長けている。豫西節の男性部は荒涼としていて、悲壮感があり、女声部は徘徊していて、玉を転がすようで耳に心地よく、悲劇に長けている。

 豫劇の主な伴奏楽器は板胡、二胡、三弦、琵琶、笛、笙、ソーナーなどがある。中でも、梆子(拍子木)の拍子が軽やかで楽しい。

 豫劇は歌を特徴とし、物語の重要な場面になると、往々にして長めの歌で表現し、独特な芸術的な魅力がある。豫劇のスタイルは先ず、情熱と奔放な男らしさに富み、気勢が雄大な場面の表現に長け、強大な感情の度合いを持っていることに現れる。その次は地方の特色が濃く、質朴で分かりやすく、本来の姿が保たれた農民の生活に近い。そして、リズムが鮮明で、強烈で、矛盾や衝突が激しく、ストーリーがよくまとまっていて、キャラクターの個性がはっきりとしている。

 河南梆子には元々女優がなかったが、1927年以後には、常香玉、陳素貞、馬金鳳、闫立品、崔蘭田などの五大名優及びその流派が徐々に現れた。常派は激昂、奔放で、陳派は明快、清新で、馬派は剛健で明るく、崔派は深みがあり、含蓄で、闫派は細やかで婉曲であった。現在、この五大流派の弟子たちが国内に散らばり、その伝統を受け継いでいる。

 豫劇の伝統的な演目は1000本余りあり、その中のかなりの部分が歴史小説と物語に由来している。封神劇、三国劇、瓦崗劇、包公劇、楊家将劇と岳家将劇などがあり、そのほか、かなりの部分は婚姻、愛情、倫理道徳の芝居である。中華人民共和国が建国後、現実生活を表現する近代劇と新編時代劇が数多く現れ、豫劇事業に新たな発展をもたらした。例えば、『朝陽溝』、『小二黒結婚』、『人歓馬叫』、『不運なおじさんの結婚』、『試夫』、『紅果、紅了』などである。

 今日でも、豫劇は相変わらず多くの民衆に好まれているが、その発展には深刻な問題もある。例えば、観衆の人数が減り、劇団の生存状況も困難である。役者も含めた作り手が端境期にあり、文化と芸術素質が時代のニーズとの大きな開きもある。豫劇の特徴と発展の方向性は、理論上の把握に欠けていることもあり、その継承と改革は厳しい状況に追い込まれている。

>>[戏曲故事] 演劇の物語

 『趙氏孤児』

 中国の春秋時代(紀元前8世紀から紀元前5世紀)の物語。

 並立した諸侯各国の中に、晋の国があった。晋国には、朝廷に忠誠を尽くす文官の趙盾と、趙盾と不仲で、彼の殺害を企みつづけている武官の屠岸賈という二人の大臣がいた。

 屠岸賈は智恵を絞って、策略を設け、趙盾を陥れた。晋国の国王は計略に騙され、趙盾を奸臣だと信じ、その家来を含めた一家300人余りを処刑してしまった。しかし、趙盾の息子の嫁・庄姫は王女だったため、処刑を免れ、皇居に拘禁された。

 身ごもっていた庄姫は、皇居で男の子を産み「趙氏孤児」と名づけた。彼女は息子に趙家の仇を討ち、恨みを晴らすことを期待していた。しかし、屠岸賈は姫に子どもが生まれた事を知り、皇居の門を封鎖して、生後30日たった後、赤ちゃんを殺して、将来の災いを根絶しようとした。

 趙盾には程嬰という医者の友人がいた。彼は姫の病気を診療するふりをして、趙氏孤児を薬箱にこっそりと隠し、皇居から連れだそうとした。皇居の門まで来た所で、守備にあたっていた韓厥将軍に見つかってしまったが、韓厥は趙盾一家をたいへん同情していたため、程嬰と赤ちゃんを逃がし、自ら剣を抜き自害した。

 屠岸賈は孤児が救出されたと知った後、三日以内に孤児を引き渡されなければ、晋国の一歳未満の嬰児を全員殺すと命令を出した。

 趙盾のもう一人の友人・公孫杵臼と対策を講じた程嬰は、彼らの中の一人が命を惜しまず、赤ちゃんを連れて自首することで、趙氏孤児及び晋国のすべての嬰児を救うことができるという結論に至った。

 丁度、程嬰には趙氏孤児と同じぐらいの赤ちゃんがいた。程嬰は苦痛をこらえて、我が子を公孫杵臼に渡し、屠岸賈に「公孫杵臼が趙氏孤児を連れ出した」と密告をした。これにより公孫杵臼と傍の嬰児が処刑された。

 屠岸賈は趙氏孤児を殺したと思い込み大喜びした。彼には息子がいなかったため、密告をした程嬰の息子(趙氏孤児)を義理の息子とみなし、武術を授けた。晋国の人は皆、程嬰の密告により趙氏孤児が殺害されたとばかり思い、彼を恩知らずだと罵った。これに対し程嬰は弁解もせず、恥を忍んで重責を担い、趙氏孤児を育てていた。

 十五年後、晋国のもう一人の忠臣・魏絳が辺境の関所から戻ってきた。彼は趙氏一族が殺害されたことや、程嬰が孤児を密告したことを耳にし、怒りのあまり程嬰を思いっきり殴った。

 程嬰は殴られても、ずっと黙りつづけた。魏絳が殴れば殴るほど、彼は魏絳が趙盾を愛し、趙家のあだ討ちに協力してもらえると思ったのだった。

 程嬰は魏絳の忠誠心を確認した後、自分は我が子を犠牲にし、公孫杵臼が命をもって趙氏孤児を救った一部始終を魏絳に伝えた。

 それを聞いた魏絳はただただ感動し、趙氏孤児のあだ討ちを助けると心に誓った。

 家に帰った程嬰は、昔の出来事を絵に書き、孤児に伝える。孤児はこれではじめて自分の身の上を知り、仇を討ち、恨みを晴らそうと決心するのだった。

 『鎖麟嚢』

 昔、登州というところに薛という裕福な商人がいた。

 彼の娘は湘霊といい、一家の宝物だった。湘霊が大きくなり、お嫁に行く年になると、両親はたくさんの嫁入り道具を用意して、母親は娘のために「鎖麟嚢」を仕立ててやった。

 「鎖麟嚢」とは、美しい図案を刺繍した布の袋で、中には珠玉がいっぱい入っていた。言い伝えでは、花嫁が鎖麟嚢を持ち合わせると、聡明で、玉のような男の子が早く授けられると言われていた。

 嫁入りの日、湘霊はきれいな花かごに乗り、行列はたいへんな賑わいぶりだった。途中、突然雨が降り出したため、嫁入り行列は近くの「春秋亭」で雨宿りをした。

 そこへ、もう一つの花かごがやってきた。小さくて古くなった花かごで、花嫁は中でしきりに泣いていた。

 湘霊は理由を尋ねさせた。その趙守貞という娘は、母親を早くになくし、老父と寄り添いあって暮らしてきた。家が貧乏で、嫁入り道具もないことで人に笑われることを心配し、また、離れ離れになる父親を世話することがいないことを考えて、泣いていたのであった。

 湘霊は哀れんで、たいへん同情していた。裕福な家に生まれ育った彼女は、世の中に、趙守貞のような貧しい人がいることを知らなかった。どうすれば助けることができるのかと思った時に、花かごに置かれた「鎖麟嚢」が目に入ったため、それを趙守貞に贈らせると、雨が上がった道を、名も告げずに出立した。

 六年後、登州は洪水に見舞われ、旦那や息子と離散した湘霊は、一人で莱州に流れ着き、偶然に子どもの時の乳母に出会う。彼女はその紹介で、地元の富豪・盧氏の家に子守として雇われ、5歳になる盧氏の子・天麟の世話をすることになった。

 天麟は湘霊によくなついた。

 ある日、湘霊が天麟と鞠を投げて遊んでいたところ、鞠が裏庭の楼閣に入ってしまった。湘霊が楼閣に上って鞠を探していた所、きれいな刺繍を施した袋が目に入った。よく見たら、それは数年前、自分が趙守貞に贈った鎖麟嚢であった。鎖麟嚢を目にして、家族と離れ離れの自分の身を思い出し、彼女は感極まって慟哭してしまった。

 慌ててた天麟はそれを母につげた。

 天麟の母はあの日貧しくて泣いていた趙守貞だったのだ。彼女は盧氏に嫁ぎ、鎖麟嚢の珠玉を元手に財をなし、徐々に裕福になっていた。恩を忘れないためにと彼女は裏庭に楼閣を作り、鎖麟嚢をそこ掛けていたのであった。

 事情を問い天麟の子守があの日の恩人である事を知り、趙守貞は湘霊を上客として歓待する。

 そして、まもなく湘霊の夫や子も見つかり、一家は団円、湘霊と守貞は姉妹のちぎりを結んだのであった。

 『四郎探母』

 10世紀から12世紀にかけて、中国の東北地方に、「遼」という少数民族の政権があった。「遼」は中原地方の「宋」の政権に何度も進入し、両国の間に戦いが絶えなかった。

 宋の国に、「楊家将」という、代々武術を習得する家系があった。父親の楊令公、母親の佘太君を始め、8人の子息も皆勇ましく、戦に長け、数多くの手柄を立てていた。

 ある時、遼国が謀略を設け、和議のため、宋国の皇帝を遼国に迎えると招いた。宋は遼の本当の意図が見抜けなかったため、楊家の長男を宋の皇帝と偽り、他の七人の兄弟と共に遼国に行かせた。

 一行は遼軍の待ち伏せに遭い、楊家の兄弟三人が戦死した。四男の四郎は遼軍の虜にされたが、苗字を「木易」に変え、遼軍の目をごまかした。

 遼国の女帝である蕭太后は木易の風貌と武芸を気に入り、彼に娘の鉄鏡公主を嫁がせた。

 こうして「木易」に改名した楊家の四郎は、遼国女帝の娘婿となった。彼は皇女と仲むつまじく暮らし、息子を一人もうけた。しかし、彼が宋国の楊四郎だとは誰一人知らなかったのだった。

 宋と遼の戦いは絶えることなく、15年後、遼国は再び大挙して宋を襲った。楊四郎と鉄鏡公主も蕭太后とともに、先陣に立った。

 宋は四郎の弟である六郎を元帥とした兵を派遣し、抗戦に当たった。四郎の母親、佘太君も糧秣を運送するため、戦場に来ていた。

 四郎は母親と弟が戦場にいることを耳にし、たいへん懐かしく思った。宋の陣営へ母親を訪ねに行きたかったが、軍令で、遼国皇帝の許可を意味する手形・令箭がなければ、誰一人、関所から出ることは許されなかった。

 四郎が苛立ち、鬱々としている様子が皇女の目に入り、彼女は再三その訳を彼に尋ねた。

 四郎は初めて、皇女に一部始終を告白し、宋の陣営に入り、母親を訪ねたいことをつげ、皇女の助けを求めた。

 彼を愛する皇女は母親から令箭を盗んでくることを快諾したが、四郎が宋の陣営から戻ってこないことを心配した。そこで、四郎は彼女に一晩で必ず戻ってくると誓った。

 皇女は幼い子どもをつれて、太后を尋ねた。子どもをわざと大声で泣かせ、太后が急いであやしている隙に、タイミングを見計らって、皇女は子どもが令箭をおもちゃにしたいと言っていると告げた。孫が可愛い太后は、令箭を子どもに渡し、翌日返すよう皇女に申し付けた。

 四郎は令箭を手に、関所を出て、宋の陣営に入った。弟の六郎に会い、15年前に戦場ではぐれた事を思い出し二人は抱き合って大声で泣いた。

 その後、四郎は母親を訪ねた。白髪になっていた老母は長年、生死の消息もつかめなかった息子と再会し、驚きと喜びに溢れた。二人は朝までたくさんの話をした。

 夜が明け、四郎は母との別れを惜しみながらも、遼の陣営に戻っていった

 四郎は、遼の陣営の関所を通過する時に女帝の娘婿だとばれ、蕭太后のところへと連れて行かれてしまう。

 太后は自ら選んだ娘婿が宋の武将だとは夢にも思っていなかった。ましてや、その四郎の無断な行動に自分の娘までが手助けをしたと知ると激怒し、四郎を直ちに処刑するよう命じた。

 鉄鏡公主はあわてて息子を抱いてかけつけ、助命を嘆願した。

 太后はようやく四郎を許し、彼に家に戻り、母親を訪ねにいくことを許したのだった。

 『牡丹亭』

 昔、南安県の太守・杜宝には杜麗娘と言うたいへん美しく、聡明な娘がいた。

 杜宝は娘のために先生を招き、中国古代の詩歌集『詩経』を学ばせた。

 杜麗娘と一緒に読書をしていた召使の春香は、遊びに夢中で、よく授業をさぼって外へ遊びに行っていた。

 当時の封建社会は女性に対してたいへん厳しく、少女の婚姻はすべて両親により決められていた。嫁ぐ前に、一度も主人の顔を見たことがない人もいた。麗娘は『詩経』をよく読んでいたため、古代の詩歌に描かれた男女が自由に恋しあう生活に憧れていた。

 ある麗らかな春の日、春香は「家の裏に綺麗な花園があるよ」と麗娘を誘った。

 幼くから封建的礼儀と道徳をかたくなに守り、毎日閨房や書斎に閉じこもり、刺繍をしたり、書を読んだり書いたりして過ごしてきた彼女は、一度も外へ出て遊んだことはなかったが、この日は、春香に誘われて、こっそりと花園へ遊びに行った。

 花園の景色のそれは美しいこと。柳の木には緑が吹きかえり、池の辺には苔が生え、牡丹が満開で、色とりどりの花が美しく咲き乱れていた。ウグイスは梢で歌を歌い、遠くにはうっそうと樹木が茂っている山がかすかに見えた。

 美しい春の景色を目にした麗娘は、毎日のわが身を哀れに思い、自分の青春もこの大自然の春景色と同じく、美しいけれど、瞬く間に褪せてしまうものだと嘆いた。春景色は一番美しい時に、眺めてくれる人がいなければ、どんなに美しくても役に立たないと物の思いに更けた麗娘は、物悲しさから抜け出せず、ふさぎこんで閨房に戻り、眠りについた。

 夢の中で麗娘は花園に戻っていった。そこで、彼女は柳の枝を手にした若い書生と出会う。書生は麗娘の美貌と聡明さに惚れ、乙女が青春をいたずらに送っていることを惜しんだ。麗娘は書生が自分の気持ちをよく理解してくれていると思い、心の中に、恋が芽生えた。花園の中では、花の神様が皆軽快に飛び舞い、麗娘と書生の愛を祝ってくれた。

 その時、彼女は母親に起こされ、夢から目覚めた。しかし、夢の書生を忘れる事ができず、彼女はもう一度こっそりと彼を探しに花園を訪れてみた。そこにある景色は夢のままだが、書生はそこにはいない。麗娘は彼を探しながら悲しくなり、閨房に戻ると病に患い、倒れてしまった。

 あの美しい春の夢を心にとめ、彼女は自画像を描き、春香に花園の山石に置かせた。彼女は息を引き取る間際に、両親に花園の大きな梅の木の下に葬り、石碑を建ててくれるよう頼んだ。

 それから、杜宝一家は遠くへ引っ越していった。ある時、ある書生がこの花園を通りかかり、病気に患ったため、付近の家で養生していた。書生の名は柳夢梅と言い、麗娘が夢の中で見た人だった。

 彼は病が少し回復したところで花園へ散歩に出かけた。不意に麗娘の自画像を拾い、どこかで会ったことのある美しい乙女だと思い、画を持ち帰り書斎にかけた。

 彼はその画を見れば見るほど、愛情が募り、毎日、生きた人間に声をかけるのと同じように、画に描かれた乙女に声をかけていた。

 一方、麗娘は死んだ後、その魂は花園にとどまっていた。彼女は柳夢梅が自分のことをこれほどにも一途に思い、心から好きになってくれている様子を見て、毎晩彼に会いに書斎に来て、朝になると花園に戻った。

 ある日、夢梅は麗娘に「どうすれば一緒にいられるの?」と尋ねた。彼女の「お墓をあければ生き返るわ」との答えに大喜びした彼は、鋤で墓を開けた。

 そうすると、麗娘は本当に息を吹きかえし、以前と同じように美しかった。

 こうして二人は幸せな夫婦に結ばれたのだった。

 麗娘は愛のために死に、また、愛のために生き返る、というロマンチックな物語は、多くの人を感動させた。

 『白蛇伝』

 昔々、峨眉山に千年以上にわたり修行をしていた白と青の二匹の蛇がいた。

 二匹は人の世の美しい景色にあこがれ、二人の美女に身を変えて、「白素貞」と「小青」と名乗り、有名な景勝地・杭州の西湖にやってきた。

 西湖の景色の美しいこと。二人が名所・断橋の傍に来たところ、突然、大雨が降り出したため、柳の木の下で雨宿りをすることにした。

 ちょうどその時、向こうから若い書生が傘を手に歩いてきたのだ。書生の名は許仙といい、お墓参りの帰りに、柳の木の下で雨宿りをする二人に出会った。彼は自分の傘を二人に貸してやり、船を呼びつけ、家まで送らせた。

 白素貞は許仙を好きになり、翌日、傘を取りに自分の家に来るよう頼んだ。

 翌日、許仙は約束通り、湖畔の白素貞の家に来てくれた。

 素貞は許仙の助けを感謝し、彼の身の上を尋ねた。許仙は、自分が幼くして両親と死別し、今は、姉の家に居候して、薬屋で奉公していることを伝えた。素貞はプロポーズをし、許仙は喜んで許諾した。小青が仲人になり、二人はめでたく契りを結んだ。

 結婚後、夫婦で薬屋を開いた二人。素貞は医学に精通し、毎日、苦労をいとわず、数多くの患者を診断していた。人々は素貞のことを信頼し、敬意を含めて、「白娘娘」と呼んでいた。

 ところで、鎮江の地には金山寺という寺があり、住職の名は法海と言う。彼は、素貞が千年以上修行した蛇の妖精だと見抜いた。彼は、妖精である以上、必ず人間に害を加えるのではないかと思い、許仙を素貞から離させようとした。

 ある日、法海は許仙に「あなたの妻は蛇の妖精だ」と告げたが、許仙はそれを信じなかった。法海は、五月五日・端午の節句の日に、素貞に雄黄の入れた酒を飲ませれば、彼女はもとの姿に戻るはずだと教えた。

 端午の節句の日、家々は邪気払いに雄黄酒を飲んでいた。蛇は雄黄酒が苦手で、素貞と小青はこれを避けるため、山中にしばらく入ろうかとも思ったが、許仙に疑われるのを恐れて、病気を偽っていた。

 一方、許仙は法海の話を信じてはいなかったが、皆が飲んでいる雄黄酒を素貞にも勧めた。素貞はやむを得ず一杯飲んではみたが、直ちに酔っ払い具合が悪くなった。許仙はあわてて素貞を支えて、帳の中で休ませて、酔い覚ましのスープを作り、ベッドまで持っていった。しかし、そこには妻の姿は見当たらず、代わりに大きな白い蛇が蟠っていたのだ。許仙はこれで気を失ってしまった。

 白蛇は目が醒めて、気絶した許仙を見てたいへん悲く思った。彼女は小青に許仙を託し、自分が仙山へ霊芝を盗みにいくことを決意した。許仙の命は霊芝でしか助けられなかったからだ。

 素貞はこの時、すでに身ごもって7ヶ月だった。仙山に到着後、素貞の動きは山護りの仙童にばれ、二人は激しく戦った。命をも顧みずに戦う彼女の姿を見て、仙山の主・南極仙翁は心が打たれ、霊芝を授けてやった。

 許仙は助かったが、心の中はあいかわらず怯えていた。そこで、素貞は白い帯を白蛇に変身させて梁に蟠らせ、許仙が見たのはこの蛇だと偽った。許仙はようやく妻が蛇の妖精だったことを疑わなくなり、夫婦は仲直りをした。

 しかし、負けず嫌いの法海は、再び許仙を金山寺にたぶらかし、家に帰らせないようにした。素貞と小青は彼を探して金山寺まで来たが、素貞はつわりの激しい腹痛によって法海に負けてしまう。

 彼女は許仙と初めて会った断橋まで逃げると、その情景に接して悲痛な思いになった。小青は許仙が法海の言うとおりに行動することを責め、素貞に許仙と分かれよう説いた。

 許仙は寺の小僧の助けにより、金山寺から逃げ出し、断橋で妻と再会する。素貞は自分が確かに蛇からの変身だとつげたが、許仙は妻の愛情の深さを悟り、人間であろうと蛇であろうと二人は共に白髪になるまで添い遂げることを心に決めるのであった。

 二人は家に戻り、しばらくした後、素貞には息子が生まれた。しかし、子どもの満一ヶ月を祝う日に、法海が再び姿を現した。彼は許仙の嘆願を顧みず、神の武将を遣い、素貞を西湖湖畔の雷峰塔に鎮めてしまった。

 峨眉山に逃げ帰った小青は、技を磨き、法海を破って素貞を救い出した。

 『貴妃酔酒』

 別名『百花亭』。

 ある日、玄宗皇帝は楊貴妃と百花亭で花見をすることを約束した。

 翌日、楊貴妃は約束通りに、先に百花亭に赴き、宴を用意して、皇帝の到来を恭しく待っていた。しかし、待てど暮らせど玄宗皇帝は姿を現さない。そこへ、皇帝は江妃の宮に行ったとの知らせが入ってくる。

 もともと度量が狭く、嫉妬深かった楊貴妃は、悔しさの余りに自害しようとまで思う。そもそも婦人は怨恨の情けを知る人ほど、その反動は大きいものだ。楊貴妃は心のやりどころもなく、一人、憂える心でお酒を挟むと、わずか三杯で酔っ払ってしまう。高ぶる気持ちを抑えることができず、彼女はその場に居合わせた太監の高力士と裴力士を誘惑する。

 しかし、次第に倦怠してきた彼女は、一人、自分の宮へと戻るのであった。