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>>[节日民俗] 祝日の民俗
中国の春節
西洋人にとってのクリスマスと同じように春節は、中国人にとって一年の中で最も重要で盛大な祝日である。時代の移り変わりと共に、春節の内容は変わり、人々の春節の祝い方も変わってきた。しかし、中国の人々の生活と意識における春節という地位に取って代わるものは無いだろう。
春節はすでに4000年の歴史があり、当時は春節と言わず、日にちも決まっていなかった。紀元前1000年の当時、人々は春節を「年」と言った。年は当時豊作の意味だった。豊作をの時は「有年」、或いは「大有年」と言われた。
民間の風俗によると、春節は旧暦の12月23日から正月の15日の元宵祭りまでの、約3週間にわたり、12月30日の大晦日と正月の一日を最も盛大に賑やかに過す週間がある。
春節を迎えるため、全国の都市と農村では、様々な準備が行われる。農村では、その準備は12月になると始まる。農家は汚れを落とし、新しい年を迎えるため、大掃除を行ったり、布団をきれいに洗ったりするほか、市場からお菓子や肉や果物などを買い付ける。町では、各文化部門や、芸術団体が豊富多彩な文芸出し物を用意したり、テレビ局は新年番組を作ったり、各公園は縁日の準備をする。このほか、各店は各地から祝日用商品を調達する。統計によると、春節期間中の消費は中国人一年間の消費の3分の1以上を占めるということだ。
各地には、春節を過す伝統的な習慣がいろいろある。しかし、南北を問わず、大晦日の夜は、一家団欒で、食事をする習慣がある。南の方では、大晦日の食卓には十数種類の料理が出るのだが、その中、豆腐と魚は欠かせない。それは豆腐の腐と魚の発音は「富裕」つまり裕富と同じからだ。北方では、大晦日の夕食を食べた後、一家全員が揃って日本の年越しそばと同じように、年越しの餃子を作る。大晦日、人々は眠らずに旧い年を送り、新しい年を迎える慣わしがある。昔から、春節を祝い邪悪なものを追い払うため、爆竹を鳴らす習慣があるが、ここ数年、安全と汚染防止のため、北京と一部の大都市では、爆竹を鳴らすことが制限された。春節=一日になると、人々は新年の挨拶を交わし、町では年始周りの人で賑わう。
各地では地方劇や映画が上映されたり、獅子舞やヤンコ踊りなどが披露されたりする。様々なイベントが開催され、いたるところ楽しい祝日の雰囲気に満ち溢れる。
春節を祝うために各家庭は對聯や年画を貼ったりする。
生活レベルの向上に伴い、春節の過し方も変化しつつあり、海外旅行も一種の新しい流行となっている。
清明節
中国では、毎年、暖かい春が訪れ、花が咲き、万物が生き生きとしだす時、伝統的な節句「清明節」を迎える。
清明は暦の上では、24節気の一つで、日にちは4月の上旬である。この日になると、人々は祖先を祭ったり、お墓参りをしたり、郊外へ遠足に行ったりする。
一部の地方では、清明節を『鬼節』と言う。清明節の前後にどの家もお墓参りをし、祖先を祭る。お墓の雑草を取ったり、新しい土を添えて、蝋燭と線香を立て、紙銭を焼いたり、祈りを捧げる。
清明節の起源は漢の時代で、明の時代になると墓参りの習慣はピークに達した。紙銭を焼くだけでなく、多くのお供え作ってお墓の前に供えて祀った。
清明節の墓参りの風習は今日にも残されてきた。しかし、形式は簡単になり、家族のほか、人々は集団で、革命烈士の墓地へ花輪や花束と松の枝を捧げて、哀悼の意を表すのだ。
清明節は大地が春を迎える季節で、人々は祖先を祀るほか、郊外へ遠足に行ったりする。これは「踏青」と呼ばれている。清明節の前後、女性達は野良で自生する野菜を取って、餃子や、饅頭の餡にする。新鮮で、美味しいものである。一部の女性は、野生の小花を摘み取って、髪に挿す習慣もある。
この他、凧揚げをしたり、ブランコにのったりする慣わしがある。
清明は、春の田畑を耕す季節に当たる。これについて多くの諺がある。例えば、「清明前後、種瓜種豆」と言う。それは清明節の前後に、瓜や豆の種を植えるという意味だ。また「栽樹莫要過清明、種上棒槌也発青」と言う。これは清明の前は樹を植えるのに一番良い季節だと言う意味だ。
端午節
中国では、旧暦の5月5日は「端午節」である。端午節は春節や中秋節と共に中国の三大節句となっている。
端午節の端という字は初という意味で、午は5の意味で、暦の上では5月は午月とも言う。このことから5月5日は端午とも言う。
端午節の起源については色々ある。民間では端午節は古代の詩人屈原を記念するためのものだと言われている。紀元前3世紀の楚国には屈原問という詩人がいた。楚国が敵に打ち破られた後、屈原は世をはかなんで、汨羅川に身を投げた。この日が5月5日だった。以来、この日になると、人々は竹筒にお米を入れて、川に投げ、屈原を偲んできた。その後、竹筒にお米を入れるものが粽に変わった。
粽を食べるのは端午節の重要な習慣である。粽は葦や竹の葉っぱで餅米を包んで作ったものだ。この粽は親戚や友達を訪ねるときのお土産でもある。
端午節の食品は粽のほか、地方によって塩水で漬けた卵や雄黄酒もある。これらのものは邪気を避けると言われている。
端午節になると、どの家でも門の前に蓬など薬草を飾る。初夏になると雨が多く、虫が繁殖を始め、人々は病気にかかりやすいので、この薬草は病気予防のためである。そして、この日、各家庭では、五色の糸で香袋をつくって、子供に身につけさせる習慣もある。これは吉祥の意味がある。
長江下流地区ではこの日、竜船つまりペーロン大会が行う習慣も有る。
乞巧節―七夕
中国では、旧暦の7月7日は伝統的な節句、「乞巧節」で、七夕とも言う。この日、伝説では牽牛星と織姫星が年に一度、会う日になっている。
大昔、空は澄み切った海のように広がり、一つの雲も無かった。天帝はそれを寂しく思って、自分の7人の娘に空のために衣装を作るよう命じた。それで、7人の娘が織った布地の色は白いもので、地味なものだった。7人の姉妹の中、7番目の末娘は真面目で、花園を散歩した時、七色の花が咲いていたのを見て、摘んで帰えり、その花で糸をきれいに染めた。その甲斐あって、やっと色鮮やかな布地を織り出すことができた。6人の姉達破はそれを見て、器用だと誉めた。そこで皆で平日は空に白い衣装、雨の日には灰色の衣装を纏わせ、朝晩は色とりどりの衣装を纏わせることにした。これを天帝が知り、たいそう喜び、7番目の娘を織姫とした。
織姫は毎日、布を織る合間に地上の人間のを眺めて、楽しんでいた。その中の1人の若者に目が留まった。この若者はいつも、一人ぼっちで野良仕事をしていた。休憩する時は、そばにいる牛と話をしていた。それを見た織姫は可哀相に思っていた。この若者こそが、牽牛なのです。
ある日、牽牛の飼っている牛は「明日は7月7日で、天帝の7人の娘は地上に降りて、水浴びをする。その時、織姫の服を隠せば、織姫はあなたの妻になるのだ」と牽牛に言った。この話を聞いて、牽牛はやって見ることにした。7月7日、牽牛は川辺の葦が生える影で待っていた。しばらくすると、空には七つの色あざやかな雲が漂い、その上には7人の仙女が立っていた。仙女たちは川辺に降りて、服を脱ぎ、川に飛び込んだ。すると、牽牛は織姫の服を抱えて、一目散に家に帰った。慌てていたので、葦の出した音に仙女たちは驚き、それぞれ自分の服を纏い天宮に戻った。ただ7番目の織姫は自分の服を見つけられず、どうしたらよいのか分からず、その場に立ち尽くした。それを見て、牽ている若者を見ながら、羞じらいながら頷いた。
その晩、牽牛と織姫は牛に見守られ結婚した。それから2年間が経った。織姫は1人の男の子と1人の女の子を産んだ。牽牛は農作業に励み、織姫は機織をして、幸せな生活を送っていた。
あっという間に7年間が過ぎた。天上の1日は地上の1年に当たる。天帝は7人の娘と7日間に一度会うことだが、織姫が天宮に戻らず、凡人と結婚したことを知って、腹を立てた。丁度、7月7日の日、天帝は神将を派遣して織姫を天上に戻した。牽牛は悲しみ、2つのカゴに子供二人を担いで、織姫を追いかけた。それに感動した牛は自分の角を舟に変え、牽牛と二人の子供を載せて天上に向った。それを見た天帝は空にさっと手を出して線を引いた、すると、激しく波立つ天の川が織姫と牽牛の間に現れた。この時、何処からかたくさんのカササギが飛んできて、天の川の上にカササギが橋を架けて、橋の上で牽牛と織姫を会わせた。天帝も仕方なく、それから毎年、旧暦の7月7日の夜、二人がカササギの橋の上で会うことを許したそうだ。
その後、7月7日は女の子が織姫に機織を教えてもらう日にもなり、この日、娘たちは色とりどりの糸を7本の針にスムーズに通せるならば、器用な娘になると言われている。また、その日の夜、葡萄棚の下では、牽牛と織姫が話している声が聞こえるそうだ。
重陽節
中国では、旧暦の九月九日は重要で伝統的な節句の1つ「重陽節」である。この日になると、人々は菊を観賞したり、山に登ったり、『花糕』と言うお菓子を食べたりする慣わしがある。
重陽節はと名づけられたのは、昔、九と言う数字は陽数で、九月九日は二つの九が重なっているからである。また、この重陽節について次のような伝説がある。紀元前三世紀の時、費長房と言う神通力を持つ人がいた。桓景と言う若者はこれを知って、尊敬し師として仰いだ。ある日、費長房は「九月九日の日にお宅の一家は大きな災難に見舞われるだろう」と桓景に言った。それを聞いた桓景は跪いて師に助けを求めた。費長房は「九月九日に貴方は赤色の布でいくつかの袋を作って、中にシュユを入れて、腕にまとい、そして、菊の花が入ったお酒を持って、一家揃って、丘などの高いところへ行き、そこで酒を飲んだら、この災いを避けることができる」と言った。桓景は師の言う通りにした。すると、一家はこの日、高い丘で無事に過ごすことができた。夜になり、家に帰ると、家の家畜は全部死んでいた。それからもう二千年以上経ったが、重陽節に高いところに登ったり、シュユをつけたり、菊の酒を飲んだりする習慣は残った。
重陽節にはまた、お餅を食べる習慣もある。中国語では「糕」と言うがその発音は高いと同じで、つまり向上や繁栄の意味が含まれている。このお餅は『花糕』とも言う。もち米や粘りのある粟の粉で作ったこの餅の上に棗と小さな五色の旗を飾る。
昔から、重陽節には長寿を祈る意味も含まれている。重陽節の習慣は、人を長生きさせることができると思われているからだ。
現在、人々は重陽節に高いところに登る習慣を保っている。店はこの日、『花糕』を売る。ここ数年、九月九日は『老人節』となった。
>>[民间习俗]民間習俗
冬至
暦の上では、冬至は24節気の1つであり、伝統的な節句でもある。冬至という節気は2700年前の春秋の時代に遡ることができる。
中国語では、至は極点という意味だが、「冬至」の意味は寒さが極点に達した意味ではなく、太陽の位置を言う。一年中で昼間が一番短く、夜が一番長い日となる。また、冬至の後は日毎に日が長くなる。昔、冬至の日から5日間に渡って皇帝は、大臣達と音楽を楽しんだ。また、庶民も家で楽器を演奏したりする慣わしだった。この日、皇帝は天文暦法の分かる人を呼んで来て、暦法を確認する。同時に天を祭る式典を行なう。世界でも良く知られている北京の天壇は皇帝が冬至の日に天を祭る場所だった。
昔、「冬至」の日に冬を祝う『賀冬』という賑やかな行事を行なった。この日の朝、人々は早く起きて、綺麗な服を着て、互いに挨拶をする。冬至はまた「交九」とも言う。つまり、冬至の日からの81日間を9つの9日間に分けて数えることだ。この81日間が過ぎると、寒さが去り、天気が暖かくなり、桃の花が咲くと言う。民間には次のような「九九歌」が伝わっている。「一九ニ九不出手、三九四九氷上走、五九六九沿河看柳、七九河開、八九燕来、九九消寒」。
民間では、また冬至に「消寒図」を描く習慣がある。つまり各家庭では、冬至に81の梅の花びらの絵を一枚の紙に描いて、冬至の日から、毎日一つずつそれに色をつけて消してゆき、春が来るのを楽しみにすると言う風習がある。この図は「九九消寒図」と言う。
かまど祭り
二千年余り前から、中国では、旧暦の12月23日にかまどの神を祭る習慣がある。
かまどの神は天上の玉皇大帝が各家に派遣した官吏で、毎年、師走の23日に天に登って、その一家の1年間のよしあしを玉皇大帝に報告する。このため、人々はかまどの神様のごきげんをとるため、それを祭るのだ。これについて、多くの物語が伝わっている。
昔、張生と言うお金持ちがいた。彼の妻である丁香は綺麗で、優しい人だ。夫婦は仲が良くて、睦まじい生活を送っていた。
ある日、張生がよそへ商売に行った時、海棠と言う綺麗な女性と出会い、とても好きになって、海棠を嫁にした。家に連れて来ると、海棠は妻の丁香が自分よりスマートで、正式な夫人であることを知り、嫉妬し張生に丁香を家から追い出させた。
それから、張生と海棠は毎日食べたり、遊んだりするばかりだった。それで、2年も経たないうちに家の財産を全て使ってしまった。海棠は貧乏になった張生を嫌い、他人の嫁になった。一人ぼっちの張生は乞食になった。ある日、寒さと餓えに耐えられなくなり、金持ちの家の前で倒れた。この家の女中は彼を支えて部屋の中に入れた。この家の夫人は彼を見て、びっくりした。この夫人は丁度2年前、張生に捨てられた丁香だった。張生は恥ずかしくて、穴があったら入りたいぐらいだった。何処に隠れたらいいのか、分からなくて、慌ててかまどの中に潜り込んで、焼け死んでしまった。丁香はこれを見て悲しみと怒りが極まり、まもなく死んでしまった。玉帝はこのことを知って、張生が自分の誤りを認識したと思い、かまどの神様に封じたそうだ。
昔、人々はかまどの神が、玉帝の前で自分の家の悪いことを言わないよう、台所に供えているかまどの神の前に麦芽で作った粘りのある飴を供えた。これで、かまどの神の口を貼り付けようとしたのだそうだ。
中国の婚俗
中国は国土が広く、悠久な歴史を持ち、婚姻の習俗は時代の移り変わりに伴い、変化しつつある。しかし、盛大に、賑やかに、めでたく祝う雰囲気は変わらない。
中国の古代では、結婚には6つの儀式が行なわれた。これは「六禮」といわれる。例えば、納彩・結納、親迎などの儀式だ。若者が気に入った娘がいれば、仲人を娘の家へ行かせて、婚約を結ぶ。この時、男の方は仲人にだけではなく、相手の女性の家にも贈り物をあげるわけだ。女性は結婚するまで、婿と一度も会わないこともある。現在では、女性の方は両親や先輩に伴われて、男性の家へ行って、相手側の情況を見ることができる。こういう時、女性の方は男性の家で、食事をすることに同意すれば、男性のことを気に入ったと言うことになる。
婚約を結ぶことは最も重要な儀式だ。これは民間でのやり方だが法律の役割も果たしている。婚約をする時、ほとんど男性の方から女性の方に結納品を送るのだ。また、気に入った男女は互いに指輪を交わして、証にするのだ。指輪の形は丸くて、古代の象形文字の中で、恒久の意味を表すからだ。伝統的な観念では、婚約は途中で破ることは出来ず、他人が異議を唱えることもできない。婚約は法律的な効力を持つものだと認められている。結婚式は一連の儀式の中で、最も複雑で賑やかなものだ。
結婚式の日、ほとんどの花嫁は吉祥つまり、めでたいことを表す赤い服を着る。現在では、白いウェイティングドレスを着る人もいる。花嫁は実家を離れる時、涙を流して、実家との別れを惜しむ。花婿の家に着いたら、結婚式は本番に入る。一部の地方では、花婿の家の庭に入る時厄除けの火鉢をまたぐ。そして、禮堂に入って、天地と舅、姑を拝した後、互いに拝し、夫婦固めの盃を交わす。これで正式に結婚式を済ませ、その後新婚の部屋に入る。
結婚式の披露宴に参加することは、喜びのお酒、「喜酒」を飲みに行くといわれている。披露宴では花嫁は自らお客さんに酒を注ぎ、歓迎の意を表す。新婚部屋は「洞房」と言う。披露宴の後の新婚の夜、親友や未婚の男女達は新居へ行って、ドンチャン騒ぎをする慣わしがある。
>>[饮食民俗] 飲食の民俗
中国人のお茶を飲む習慣
中国ではお茶を飲む歴史は四千年余り遡ることができる。お茶は中国人の日常生活に欠かせないものである。中国では昔から薪、米、油、塩、醤油、酢、お茶は日常生活に欠かせないものとされている。お茶は人々の生活で重要な位置を占めている。また、中国人はお茶でお客さんを招待する習慣もある。お客さんが来ると、まずいい香りをするお茶を点て、飲みならが話をする。これは愉快なことだ。
話によると、紀元280年前、中国の南方には呉という小さな国があった。国王は大臣を宴会に招待する時、よく酔うまで酒を飲ませた。大臣の中に、酒に弱い韦昭という人がいた。国王は酒の変わりに彼にお茶を飲ませたのだ。それで文人墨客の間で、お茶で客を接待することがはやった。唐の時代になると、お茶を飲む習慣が定着するようになった。茶を飲む習慣は仏教ともかかわりがあるそうだ。紀元713年から741年間の間、寺院では、和尚と信者達が座禅する時、よく眠くなったのだ。これを見て、1人の年長の和尚が彼らにお茶を飲ませた。すると皆、元気が出たのだ。この方法はまもなく、各地に広がった。これと同時に金持ちの家では、お茶を飲む専用の茶室が設けられた。
紀元780年ごろ、唐の時代の陸羽はお茶の栽培や製造、飲み方について中国初の系統だった本『茶経』を書いた。
中国では、お茶はすでに一種の文化となっている。人々は茶を淹れることや飲み方を一つの芸術にしている。昔から今日まで、各地ではいろんな風格をもつ茶室や茶屋が建てられている。北京の繁華街「前門」の周辺に茶室が多く並んでいる。ここで、人々はお茶を飲みながら、出しものを観賞したり、ゆったりと休憩することができる。南方では、自然の風景が美しい場所に露天の茶室が良く作られている。観光客はここでお茶を飲みながら一服することができる。
お茶の品種は非常に多く、北京の人はジャスミン茶、上海の人は緑茶を好んで飲んでいる。東南部の福建省では紅茶を飲むのが好きだ。一部ではお茶にいろいろな食べものを入れて飲む。例えば、湖南省の一部の地方では、お茶に塩や姜、また、炒めた大豆とごまを入れて飲む。このせいか、お茶を飲むことを食べる意味の「喫茶」とも言う。
各地ではお茶を飲む時、様々な礼儀がある。北京では、家の主人がお茶を淹れてくれたら、お客さんは立ち上がって両手で受け取り、有難うと言う。南の広東と広西ではお茶を受け取る時、お客さんは右手の指でテーブルを三回叩いて、感謝の意を表す。また、一部では、飲むとき、茶碗にお茶を少し残すと、また、注いでくれるが、全て飲みきると、もう結構だという意味になり注いでもらえないそうだ。
箸
世界では、物を食べるのに3つの方法があるそうだ。手で抓んで食べるのは40%ぐらい、ナイフやフォークで食べるのは30%ぐらい、残る30%はお箸を使う。
箸は中国語で「筷子」と書くが、箸は中国人の発明だ。箸の歴史は3000年余り前の殷商の時代に遡ることができる。当時、「筷子」と言わず、「箸」と言った。紀元6、7世紀の時、箸は「筋」と呼ばれた。「筷子」と呼ばれるようになったきっかけを言うと、長江以南では、「箸」は止まると言う意味が含まれる「住」と同じ発音をする。船頭はそれが気になって、それと反対の意味を持つ「快速」の「快」と呼ぶようになり、宋の時代になってから、ほとんど竹で作った箸の「快」に竹冠をつけ「筷子」となったのだ。
お箸の起源と言うと、昔々、人々は食べ物を焼いた後、食べ物が熱いので手で取ることができないため、地上から二本の小枝を拾って、それで挟んで食べ物を口に入れた、これで、手の火傷を防ぎ、食べ物も熱いうちにおいしく食べられるようになった。そして、箸が作り出された。形は簡単で2本の細い棒。棒の上はほとんど太くて四角の形をして、下の方は丸くて細い形をしている。箸が日本に伝わった後、日本人は小锥状の箸を作った。これで刺身や生物を取り易くなるのだ。箸の形は簡単だが、その材料は、2000年余り前から銅や象牙、銀、金、玉石などで作ったものがある。
一部の地方では、娘が嫁に行く時2つの茶碗と2対のお箸を赤い糸で縛ってを持って行かせる。これは、二人が今後一緒に生活することを表す。
多くの外国人は、中国人が巧みにお箸を使うことに惹きつけられている。西側ではお箸を使うことを教える訓練センターが設けられているそうだ。医学専門家は「箸を使うことで、体の三十余りの関節と50ヶ所の筋肉を働かすことが出来、また、手と頭の発育にも良いという。ところが、中国は箸の故郷とだが、世界初のお箸の博物館はドイツに建てられている。この博物館では、各国から集められた金や銀、玉石、獣骨などで作った1万対余りの箸が展示されている。
中国人の飲食習慣
中国には「薬補は食補にしかず」という諺がある。これは養生するには飲食に注意すべきだと言うことを物語っている。経済的に貧しくても、食事には気をつけている。経済的に恵まれた人は、更に飲食に注意している。こうして、飲食は人々の生活の各方面に広がり、社交食習慣、祭日食習慣、信仰食習慣、儀礼食習慣などが形成された。
社交礼儀食習慣は主に、親戚や友達の間に存在する。例えば友人或いは親戚に子供が生まれたとき時や新居に引っ越す時、贈り物を持ってお祝いに行くが、主人はおいしいものを作って、お客さんをもてなす。
各地で習慣が異なるが、お客さんをもてなす料理も様々だ。昔、北京では、うどんでお客さんを接待するのは、家に泊まってくださいと言う意味があった。お客さんが泊まったら、餃子を作って歓迎の意を表す。親戚や友人のところを訪ねるとき、8種類のお菓子を一箱に入れてお土産として持っていく。南方の農村では、お客さんが訪れたとき、まず、お茶を入れたり、お菓子を作くったり、或いは卵にお砂糖を入れて食べさせた後、料理を作ってもてなす。
南方の福建省の泉州では、よく果物でお客さんを接待する習慣がある。北京では、お客さんを接待する時、食卓にはよく8品の料理を出す。最北の黒龍江省では、その料理の数は必ず偶数でなければならない。また、一部の地方では、その料理には魚は欠かせない。各地では、結婚披露宴が最も盛大なものだ。それに次いでお年よりの誕生日が賑やかだ。おとしよりの誕生日には長寿を象徴するラーメンとうどんを食べることがほとんどだ。
食事療法と薬膳
中国の古代では、大自然から採った野生の薬草を漢方薬にした。漢方薬は人々の飲食と密接にかかわっている。薬は食として、食べることができ、また食は薬の効果もある。それによって、食事療法と薬膳が形成された。民間には「薬補は食補にしかず」と言う言葉がある。昔から食補は人々に広く親しまれてきた。
医食同源の伝統の歴史は、周の時代に遡ることができる。古書には食事療法に関する論述が多い。唐の時代の医学者、孫思邈の書いた『千金方』と『千金翼方』には食事療法に関する専門的な論述があり、古代の食事療法の発展に大きな影響を与えた。
孫思邈は「健康を保つには合理的な飲食を基礎とする。薬を乱用してはいけない。医者がまず病気の原因をはっきりさせ、食事療法で治療し始め、効果がなければ、薬で治療することを主張している。中国の民間に伝わる食事療法と薬膳はいずれも孫思邈の食療法の観点からきたものだ。
孫思邈は100歳以上も生きた。この事実によって、当時の人々が孫思邈の食療法と養生の理念を心から認めるようになった。だんだん食事療法と薬膳は民間で健康を保ち、病気を予防し、治療するものとなってきた。
食事療法は食べ物を薬とすることだ。一般の野菜で病気を予防し治療できることは中国でよく知られている。例えば、風邪を引くと、新鮮な生姜を薄切れにして、それに短く切ったねぎの白い根と黒砂糖きびで作った砂糖を水に入れて煮て、沸いたら熱いうちに飲む。汗をかいて、治るのだ。この他、塩や酢、ねぎなどはそれぞれ、治療の効果がある。
花の種類は多く、北方では食用にできる花が100種類以上もある。また、植物の王国と呼ばれている雲南省では、食用にできる花の種類は260をも超えている。花を食べることは体に良いことだ。例えば、恋を象徴するバラの花は女性の生理や美容にも有益だ。
薬膳は薬を食べ物にして、病気を治すことだ。薬膳は古代から現在まで非常に人気がある。このため、薬膳のレストランはたくさん設けられてきた。薬膳の種類と言えば、おかゆやスープなどがある。例えば、山芋にハトムギや干し柿などをお米と一緒におかゆにすれば、子供の胃腸の病気を直すことができる。
中国の「食品衛生法」は、食品に薬品の添加禁止を明確にしている。これは薬膳と少し矛盾しているため、関係部門は数十種類の食品に添加できる漢方薬を指定した。例えば、棗や干した生姜、山揸、薄荷などだ。
中国の薬膳は国内だけではなく、国際市場にも進出している。例えば、菊酒やみかんの皮茶など、多くの外国人に喜ばれている。
中国三大祭りの食品―元宵(餡入りの団子)、粽、月餅
中国の伝統的な食俗は節句の中で、特に目立っている。旧正月の春節、端午節と中秋節は一年の中で最も盛大に祝う節句である。餡の入ったお団子・元宵や粽、月餅はこの三大節句の食品である。
旧暦のお正月―春節は、一年の中で最も盛大な祝日である。旧正月の15日の元宵節に食べる元宵は旧正月の食習慣の最後を飾る。この日、どの家も餡の入ったお団子の元宵を食べる。しかし、南方ではこの元宵を『湯圆』と言う。南北ではその作り方も違う。
北方では、まず、砂糖を入れたごまや落花生、小豆で作った餡子を丸くピンポンの玉のような大きさにして、少々水をつけて、お盆のようなもにもち米の粉を敷いて、卵より少し小さい団子なるまで揺がす。現在では人々は自分では団子を作らず、店で買って食べる。北京では『稲香村』と『桂香村』という老舗の元宵は最も人気がある。
南の方では、元宵節になると多くの家で、「湯圓」と呼ぶ元宵を作る。それは北方のものと、具の餡子はほとんど同じだが、作り方は違う。揺がすのではなく、皮を作って包むのだ。南の方では寧波の「湯圓」が有名。
元宵にしろ、「湯圓」にしろ、いずれもゆでて食べる。丸い形をしている元宵と湯圓は円満や団欒を象徴する意味がある。
粽は祝日の食品として、長い歴史を持っている。民間では、端午節に粽を食べるのは偉大な詩人・屈原を記念するためのものだと見られている。紀元前3世紀の頃、屈原の祖国・楚国が打ち破られた時、屈原は世をはかなんで旧暦の5月5日に川に身を投げた。その後、毎年、この日になると人々は粽を作って、屈原を偲ぶようになった。
粽は祝日の食べ物だけではなく、民間では、親友間の贈り物でもある。端午節になると、人々は粽をお土産に持って行き、挨拶を交わす。
旧暦の8月15日は中秋節である。この夜の月は一番丸いので、一家団欒の日とも言われる。中秋の日の夜、月を観賞する時、欠かせないのは月餅だ。丸い形をした月餅の表には伝説に出てくる仙女嫦娥の月に赴く様子と豊作を表す図が描かれている。
中秋節の夜、月が上ると、月餅や色々な果物をお月様に供える習慣がある。月を拝した後、人々は月餅を食べて、一家の団欒と円満を祈る。
中国各地で作られた月餅の味はそれぞれ違う。北京や蘇州、広東、潮州を代表とする味と種類の月餅がある。
その餡子はほとんど棗や小豆、蓮の実、果物などで作られている。
中国の餃子
餃子は中国文化の一部分であると言っても過言ではない。中国の伝統的な食品として、家族一緒に食べれば団欒を象徴するし、お客さんを接待すれば歓迎の意を表す。中国を訪れた外国人で、餃子を食べなかった人はほとんどいないはずだ。
餃子は小麦の粉で作った薄い皮に野菜と肉の具を包んで作ったものである。過去、餃子は祝日の食べ物として、特に大晦日の夜、各地の家の食卓に欠かせないものだ。
餃子の作り方は、その餡子は様々だが、野菜や肉、生姜、ねぎをみじん切りにして、調味料の塩、醤油、サラダ油或いはごま油などを入れて、良く混ぜる。
皮の作り方は、小麦粉に水を入れて、粘り強く捻って、暫く寝かせて、なじませる。そしてピンポンの玉より少し小さく均等にちぎり、麺棒で均一に薄くて丸く伸ばして、具を入れて包む。その形は、三日月のようにする。出来たら、鍋にたっふりと水を入れ、沸いたら餃子を入れて、ふたをして再び沸騰したら冷水を少し加える。これを2、3回繰り返す。そして、餃子が浮き上がってきたら鍋から上げる。餃子が鍋の底にくっつかないように注意しないといけない。そのために鍋に餃子を入れた後、1、2回軽くかき混ぜるとよい。
現在、都市部では自分で餃子を作ることは少なくなっている。ほとんど店から冷凍の餃子を買ってきて食べるか或いはレストランへ行って食べる。農村部でも、家族が一緒に集まって楽しく餃子を作る習慣は少なくなってしまったようだ。
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