第十六章:古代名人

>>[古代帝王]

 堯と舜

 4000年あまり前、古い華夏族が形成されていく過程で、中華民族に相次いで現れた偉大な人物は堯、舜、禹である。

 堯は華夏民族の始祖・黄帝の子孫で、天性聡明、仁愛なる人物であったので多くの人々に尊敬され、16歳にして部落の首領に推挙された。堯が帝位についてから、才徳ある人材を登用し、氏族を団結させた。すべての文官と武官の仕事を監督し、賞罰が厳正だった。また各部族間の関係をとりもち、庶民の生活を安定させた。国は穏やか、政治は清明、世相は和やかだった。

 堯の時代に初めて暦法が制定され、労働者は暦法に基づいて時機を失うことなく季節ごとの農事に励んだ。堯の時代は農耕文化が飛躍的に発展した時代でもあった。

 堯の時代は洪水に悩まされた時代であり、人間の生活に深刻な影響を与えていた。堯は各部落の首領の意見を聞き入れ、鲧に治水を命じた。

 堯が即位してから70年に後継者選びが始まり、各部落の首領は一様に舜を推挙した。これを受けて堯は舜を試してみることにした。

 堯は「五典」、すなわち父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝という五つの美徳を以って人民の行為を指導するよう舜に求めた。人民は喜んで従った。堯はまたすべての文官と武官の管理と政務の処理を命じた。さらに国都の4つの門で、謁見に来た諸侯への対応をさせ、最後に堯を一人で山麓の森林へ行かせ大自然を体験させた。

 3年の期間を経て堯は帝位を舜に譲った。

 舜は生産を大いに発展させ、水路を整備した。舜の時代に農業技術と工業技術は共に飛躍的に発展した。国を治める面で、舜は庶民と苦楽を共にした。庶民たちの衣食問題を解決するだけでなく、国事を批判することで処罰を受けることも撤廃した。この時代に庶民の生活は安定し、礼儀が重んじられた。政治は明朗であり、物質は豊富で、政治、生産、芸術いずれも輝かしい時代であった。その後、舜は帝位を治水で成功を収めた禹に譲った。

 堯と舜は聡明な人や才能のある人を選んで重要な仕事を任せた。心を広くもち高尚な徳行が後の世まで伝えられている。

 大禹

 4000年前の黄河流域は大洪水が頻繁に起きる地域であった。大禹は、洪水を治めたことにより大衆からの信望が厚かったため、当時の華夏族の首領・舜は帝位を大禹に譲った。大禹治水の物語は後世にまで伝わっている。

 堯帝の時代、川は氾濫し、農作物は浸水被害をうけ、家屋も倒壊した。人々は高い所へ行かざるを得なかった。堯は部落会議を開き、洪水をなんとか治めようと話し合い、鲧に治水を命じた。しかし9年後、鲧は塞ぐという方法で洪水を治めようとしたがこれに失敗したため、堯帝のあとを継いだ舜帝に殺されてしまった。舜帝は鲧の息子である禹に治水を命じた。禹は水路を整備し、川の水を海へ流す方法をとった。禹は庶民と同じように懸命に働いた。自分の家の前を通っても寄ることなく仕事に没頭した。治水の過程で、禹は多くの測量道具と製図方法をあみだした。

 30年間の努力を経て、ようやく水を海に流すことに成功した。土地はまた農作物を栽培できるようになった。この治水の功績を讃えるため、禹は後に大禹と呼ばれるようになった。

 専制主義中央集権国家の创立者—秦始皇

 秦の始皇帝は秦の初代の皇帝であり、本名を政と言う。戦国時代の末期、秦は最も実力を持った国で、六国を統一する条件を備えていた。即位当初、政は幼かったため、秦の朝政は当時の宰相・呂不韋の手に握られた。紀元前238年、政は自ら国事を行い、呂不韋にかわって尉繚、李斯などを登用した。紀元前236年から紀元前221年にかけて秦は韓、魏、楚、燕、趙、斉を滅ぼし、諸侯割拠の戦国時代を終結させ、中国の最初の統一多民族の専制主義中央集権国家・秦を成立させた。

 紀元前221年、政は自らを始皇帝と称し、全国範囲で分封制、すなわち貴族世襲支配を廃止し、郡県制を実施した。また皇帝の直接統治の下、中央から郡県まで官僚機構を設けた。秦の従来の法律法令を基礎に、六国の法律条文を参考にして、統一した法律を制定した。六国貴族を関中、巴蜀に移住させ、その勢力が再び力を持たないようにした。また民間人の武器の所有を禁止し、手に入れた武器は没収し廃棄することを決定した。

 経済では農業を重視し、商業を抑制する政策を実行し、封建土地私有制を支援した。紀元前216年に土地私有制度が確立された。戦国時代の商鞅が制定した度量衡を基準とし全国の度量衡制度を統一させた。更に全国の貨幣制度を統一し、全国の水陸交通を発展させた。

 文化思想では、秦で使用されていた文字を基に小篆を制定し、全国に広めた。

 始皇帝は即位後、蒙恬将軍を派遣し匈奴と戦い、戦国時代の秦、趙、燕3カ国の北部の長城を一つにつなげ、臨洮(今甘肃岷县)から遼寧省東部までの万里の長城を修築した。長城の修築は北方の匈奴の侵入を効果的に防ぐことができ、秦王朝の統治を一層強化し、国境の安定を守ることができた。百越地区を占領した後、桂林、象郡、南海などに郡を置いた。秦の末までにその数は36ヶ所から40ヶ所に拡大された。

 紀元前210年7月、始皇帝は病死した。

 劉邦

 劉邦は西漢(紀元前206年~220年)の初代皇帝であり、中国史上において平民出身の皇帝2人のうちの1人でもある。劉邦は農家の出で、秦の地方の小役人だったが生産的なことは何もしなかった。服役中の人々を逃がしてしまったため自らも芒、碭山に逃げた。。紀元前209年、劉邦は故郷で農民反乱・陳勝・呉広の乱に呼応した。その後、劉邦は軍を率いて秦の首都・咸陽を征服し、秦は滅亡した。劉邦は秦の苛酷な法を廃止し、「殺人犯は死刑、傷害犯と強盗は処罰する」という法律を定め庶民に歓迎された。

 それから劉邦はもう一つの反秦軍・項羽の軍隊と4年間にわたる楚漢戦争を繰り広げた。紀元前202年、劉邦の軍隊30万人が項羽を包囲し、項羽は自ら命を絶った。紀元前202年、劉邦は山東で帝位につき、漢を建てた。

 劉邦が天下を取る過程で、最も危険にさらされたのは鴻門の宴だ。その時、項羽の軍事勢力は劉邦より遥かに強く、項羽は劉邦を殺そうとしていた。劉邦は策士・張良とともに項羽の軍隊の駐屯地・鴻門に入り、項羽に和議を求めるが、宴会前に項羽の策士・範増は項羽に劉邦を殺すよう進言した。この計画を実行するために宴会中に範増は項羽の従弟の項荘に剣舞を命じ、項荘は舞いながらチャンスをうかがい劉邦を殺そうとしたが、この緊迫した状況の中、張良は急いで劉邦の衛兵・樊噲に剣と盾を持たせ軍門の衛士を突き倒して宴会場に突入させた。劉邦は厠へ行くふりをして樊噲に護衛されながら自分の軍に戻った。残った張良は項羽に「沛公は酔ってしまい挨拶が出来なかったので、項王に白壁一対を、範増に玉斗一対を奉ずるように私に命ぜられた」と伝えた。これが歴史に残る有名な鴻門の宴だ。劉邦は逃げた後、大軍を率いて項羽を打ち負かし、漢王朝を建てた。

 劉邦は王位についた後、一連の生産回復・発展政策を講じ、また奴隷を釈放し、軍人を除隊させ、賦役を免除した。秦の軍に用いられた功績によって住宅と田地を授ける制度を引き続き実行した。

 秦が滅亡した後、中国北方地方の少数民族である匈奴はたびたび漢の辺境に攻めてきた。紀元前200年、劉邦は自ら軍隊を率いて征討したが、匈奴の軍隊30万人に包囲された。幸い危険を脱したがその後、漢は匈奴に和親政策を講じ、双方の関係を緩和させた。

 漢高祖12年、劉邦は英布叛乱を征討した際、流れ矢に当たり亡くなった。

 明太祖朱元璋

 朱元璋(1328年~1398年)。字は国瑞、本名は朱重八、後に朱興宗と改名し、紅巾軍に参加する頃に再び朱元璋に改名した。漢族。明王朝の初代皇帝で、漢高祖劉邦に次いで平民出身で全国を統一した皇帝でもある。濠州鐘離(今安徽省鳳陽県)に生まれる。1368年から1398年まで在位、年号は洪武だった。

 朱元璋は1328年(元末の天順帝天暦元年)9月18日丁未時に四男として生まれる。父親は朱五四、母親は陳氏、原籍は泗州盱眙にあった。

 朱元璋は幼い頃、地主のために牛を放牧していた。至正4年(1344年)に淮河北部は干ばつに見舞われ、朱元璋の父、母、兄が相次いで死去したため、朱元璋はやむを得ず皇覚寺という寺に身を寄せ、托鉢僧となった。寺に入って2カ月足らずで、凶作のため寺には収入がなくなり、住持は僧侶を解散させた。朱元璋は淮河流域で勧進の旅を続けながらかろうじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。25歳の時、韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を寄せた。郭子興が亡くなった後、朱元璋は郭子興の軍を統率することになり、小明王韓林児の左副元帥に任ぜられた。その後軍功により出世し、至正16年(1356年)呉国公に崇められ、至正24年(1364年)、呉王を名乗った。

 洪武元年(1368年)、多くの農民蜂起軍を打ち破り、残存勢力を平定した後、南京で帝王と称し、国号を大明、年号を洪武とした。洪武元年、諸将領を公侯に封じた。初期は5人の大将、1人の大臣を開国の元勲にした。李善長を韓国公、徐達を魏国公、常遇春を鄭国公、李文忠を曹国公、馮勝を宋国公、鄧愈を衛国公とした。その後、胡大海を越国公、戦死した丁徳興を済国公、湯和を信国公、馮国用を郢国公とした。

 康煕帝

 康煕帝は清の第4代皇帝であり、清が北京に都を定めた後の第2代皇帝である。諱は玄燁、廟号は聖祖、諡号は仁皇帝。年号は康煕で、康は穏やか、煕は栄えを示す。すなわち万民が無病息災であり、栄えるという意味である。

 康煕帝は8歳で即位、14歳で親政した。統一された多民族国家の護衛者で、清の繁栄の基盤を定め、康(煕)乾(隆)盛世を切り開いた。

 玄燁は順治11年3月18日(1654年5月4日)に北京の紫禁城景仁宮で生まれた。順治帝の3番目の子である。母は孝康章皇后佟佳氏。康煕61年11月13日(1722年12月20日)北京暢春園清渓書屋にて崩御、69歳であった。在位は61年と10ヶ月(1661年2月5日―1722年12月20日)で中国歴史上で在位時間が最も長い皇帝である。

 中国大陸と台湾などの歴史学界及び教科書では一般に、康煕、雍正、乾隆の時期を合わせて康(煕)乾(隆)盛世或いは康(煕)雍(正)乾(隆)盛世と呼ばれる。

 康煕8年(1669年)、康煕帝は時々、少年近衛兵を招集して宮中で相撲をさせるなどして過ごしていたが、5月16日(6月14日)に突然、輔政大臣のオボイを捕らえた。大臣たちはオボイの30もの罪状を並べ立て、一族もろとも殺すよう求めたが、康煕帝はオボイのこれまでの功労を考慮して死刑ではなく終身刑とした。しかしオボイの弟、甥、腹心、部下たちを殺した。残ったもう1人の輔政大臣のエビルン(遏必隆)は長年オボイと手を組んでいたため太師、一等公の職を奪われた。こうして康煕帝は完全に朝廷の政権を取り戻し、真の親政を行うようになった。

 康煕12年(1673年)、康煕帝は三藩を廃止することを決めたが、平西王・呉三桂がこれに反対し清に反旗を翻した。他の二藩も相次いで呼応した。三藩の乱は最終的に康煕20年(1681年)に鎮圧された。国家はこのため大きな損失を受けたが、清の統治も維持された。康煕帝は安渓大学士・李光地の意見を取り入れ、鄭氏政権からの降将施琅を福建水師提督とし1683年に出兵して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。

 1690年から1697年まで、ジュンガル部のガルダン・ハーン(噶爾丹)を数回打ち負かした。これは「ガルダン・ハーンの3回征戦」と呼ばれる。ヤクサ戦役で、康煕は黒竜江の将軍サプス(薩布素)を派遣して帝政ロシアの黒竜江への侵略を駆逐し、ヤクサ城(今ロシア連邦のスコボロジノ)とネルチンスクを取り戻した。康煕は北京の東北にある熱河に避暑山荘を建て、モンゴル部、チベット部、カザフスタン部などの王侯貴族が拝見する場所とした。これが清がやたらと皇室園林を建造するようになったきっかけである。

 在位期間中、康煕は三藩を平定し、台湾を取り戻したほか、帝政ロシアの拡大を食い止め、ジュンガル部に自ら出征し康(煕)乾(隆)盛世を切り開いた。賢明な皇帝であり、偉大な政治家でもあった。当時、大清の領土は東は大海から、西は葱嶺まで、南は曾母暗沙(中国領域最南点にあるサンゴ礁)まで、北は外興安嶺まで、西北はバルハシ湖まで、東北は樺太島までとなり、陸地の総面積は1300万平方キロに上った。大清帝国は当時世界で領土が最も広大かつ人口が多い国であり、経済が最も繁栄した国であった。

 

>>[古代政治家、思想家]

 孟子

 孟子は中国戦国時代(紀元前5世紀~紀元前3世紀)の偉大な思想家であり、中国の主流学説である儒教思想を代表する1人である。

 孟子の名前は軻と言い、紀元前4世紀に実在した邹の国(現在の山東省邹城市)の人である。言い伝えでは孟子は魯国の貴族・孟孫氏の末裔だと言われている。孟子が生きた時代は、百家争鳴の時期だった。孟子は儒教思想の創始者である孔子の思想を継承・発展させ、完全な思想体系を打ち出し、後世に極めて大きな影響を及ぼしたことから、孔子に次ぐ「亜聖」と称えられている。

 孟子は孔子の「徳を以って治める」という思想を受け継いだ上、さらに仁政学説にまで発展させ、その政治思想の中心とした。孟子は「親しい人を大切にすること」と「年寄りの長所を認めること」を原則として政治にとりいれ、それによって、階級間の矛盾を緩和させ、封建統治者の長期的な利益を維持しようとしていた。

 孟子は一方で、統治者と被統治者の階級を厳格に区別し、「頭脳労働の人は人を治め、肉体労働の人は他人に治められる」と主張し、昔の周の国を模して、天子から庶民までの等級制度を制定した。もう一方で、統治者と被統治者の関係を親と子の関係にたとえ、統治者は両親のように人民の苦難に関心を寄せ、人民は自分の両親に接するように統治者に親しく仕えるべきだと主張している。

 孟子の思想は後世の中国歴代社会の政治や思想、文化、道徳伝統などに大きな影響を及ぼしたが、当時、孟子の学説は権力者には認められなかった。

 孟子はかつて「士」の身分で諸侯を遊説し、自分の「仁政」論を推し進めようとした。梁(魏)国、斉国、宋国、縢国、魯国に行ったことがあるが、当時、これらの大国はいずれも富国強兵に力を入れ、暴力的な手段による統一を企んでいた。孟子の仁政学説は「時代遅れ」とされ、なかなか現実のものとする機会を得られなかった。しかしその過程で、孟子もはっきりと個性を表した。孟子は統治者を軽視し、権勢を軽蔑し、戦乱をなくし、民衆を苦難から救い出すことを願った。そして各国の君主と交流を持った際にも終始、剛直で大胆溌剌な態度を変えなかった。

 孟子は晩年、教育に力を尽くし、弟子と一緒に『孟子』七篇を著作した。この本には主に孟子の談話のほか、他の学派の代表的な人物との弁論などを記録している。孔子に次いで儒教の巨匠として儒教思想に対する継承と発展を反映している。全書は力強さと豊かな感情を持ち、明確に道理を説き、順を追って反駁している。過激な言葉やユーモラスな風刺、激しい罵りも見られる。したがって2000年余りたった今でも、人々は孟子の激しい情感と素直な個性を感じ取ることができ、偉大な思想家のイメージをいきいきと思い浮かべることができる。『孟子』の魅力はつきることなく、現在も経典として尊ばれている。

 孔子と儒家思想

 中国の伝統文化を語る時、欠かすことのできない人物がいる。それは孔子である。1970年代、アメリカのある学者が人類の歴史上で重要な影響を持つ100人を選出した際、中国の孔子をイエスや釈迦などに次いで、第5位に選んだ。一方、中国人にとっては、孔子の影響力は最も大きい。すべての人は多かれ少なかれ孔子学説の影響を受けていると言えるだろう。

 孔子は中国儒学の創始者である。2000年来、中国では儒教思想の影響は政治、文化などの面だけでなく、中国人の行動と思考にも及んでいる。儒教思想を中国の宗教思想としてみなす外国の学者もいる。実際には儒教はただ中国古代に流行った諸学派の1つ、一種の哲学思想であり、宗教ではない。ただし儒教は中国の2000年にわたる封建社会の中で、正統な思想として位置づけられ、長い間その地位を独占していた。

 孔子の思想は中国文化に深い影響を及ぼしただけでなく、アジアの一部の国にも影響を与えた。今日も、華僑をはじめ中国人の海外進出によって、孔子の思想の影響力は世界に広がっている。

 孔子は紀元前551年に生まれ、紀元前479年に死去した。古代ギリシャの有名な学者アリストテレスより100年あまり早い。孔子はまだ3歳の時に、父親に死なれ、その後、母親と共に現在の中国東部の山東省に定住した。孔子の名前は孔丘と言う。「孔子」は尊称である。昔の中国では、苗字の後に「子」という字をつけることで、その人物への敬意を表したのである。

 孔子が生きた時代は中国では春秋時代である。その時期、統一した国家体制が破壊され、数多くの諸侯国が現れた。孔子は魯の国に生活していた。魯の国は当時最も文化が発達した国であった。

 孔子の学説が現れた当初、すぐには主流思想とはならなかった。紀元前2世紀、当時の中国はすでに強大で統一した中央集権の国であった。統治者は孔子の理論が封建社会の安定維持に役立つことに気づき、国の正統的な学説思想として定めた。

 『論語』は孔子の言行を記したものである。内容は主に孔子の語録とその弟子たちとの会話録である。昔の中国ではこの本は経典として尊ばれていた。普通の平民であれば、この本の思想を自分の生活の規範としなければならなかった。また出世しようとする人もこの本の真髄をよく理解しなければならなかった。昔の中国では「『論語』半冊で天下を治める」という言い方があった。つまり『論語』にある半分の理論を覚えることができれば、国を治める十分な才能が備えられるという意味である。

 孔子の学説は内容が非常に豊かで、今でも高い価値を持っている。『論語』の中の一部の言葉は、今日、中国人がよく用いる俗語になっている。例えば、子曰く「三人歩けば、必ずわが師あり」。これは人それぞれが長所を持っていることから、お互いに学ばなければならないということを教えている。

 道家思想の創始者―老聃

 老聃は姓は李、名は耳で、「老子」と呼ばれる。その出生と死去の年月については不詳だが、春秋(紀元前770~紀元前476年)末期楚の国の人だということがわかっている。言い伝えによると老聃は背が高く、福耳、大きな目、大きな額と厚い唇という顔をしていたそうだ。老聃は書物を管理する周の「守蔵室之史」という職務を務めたことがある。そのため、非常に豊富な知識を持ち、当時から名声は大きかった。儒教の創始者・孔子も若い頃にわざわざ老聃を訪ね、周の時代の礼儀などについて教えを請うた。後に、周王室が日々衰えていくのを目にした老聃は当時の都・洛陽を後にした。途中、函谷関を通りかかった時、代表作の『道徳経』上下篇を著作した。その後、牛の背に乗り国境を出た。行き先は誰も知らなかった。60歳まで生きていたという説もあるし、200歳まで生きたという説もあるが、かなり長寿であったと言われている。これは老聃が雑念を払い欲を捨て、道徳の道を修行し続けたことに深く関係している。

 『道徳経』は『老子』とも言われる。全書合わせて5000字を超え、内容が豊富で、中国の重要な古代文化遺産である。老聃は素朴な唯物論の思想家であり、「道」を哲学の最高の型とする第一人者である。「道」はもともと人の歩む道で、四通八達の意味を持っており、当時の人に「法則」の意味で転用されている。老聃は自然の変化と人間の関係をよく観察した上で、「道」に新たな意義を与えた。老聃は「道」は非常に現実的・具体的であり、すべての具体的な事物が生まれる最終的な源であると主張している。

 老聃は『道徳経』で万物流転の法則を述べた。福と禍は相互に転化できるものとし、禍は福を育み、福には禍の芽生えがあると主張した。老聃は更に事物の量の累積による質の変化という点に注目し、「小さな種が大木に育ち、ばらばらの細かい土も高い土台を築くこともできる。困難に負けず、小さな努力かを蓄積すれば、最終的には困難を克服し、偉大な事業を成すことができる」と説いた。

 老聃は戦争に反対し「軍隊があるところにはイバラが生え、大きな戦が終われば、必ず飢饉が起こる」と主張した。また統治者の度を超えた重税にも反対した。

 老聃の哲学思想は中国の哲学史上において重要な地位にあり、その政治思想は後の先進的な思想者や空想的社会主義の改革者にも大きな影響を与えている。

 

>>[古代科学家]

 祖沖之と円周率

 円周率の値を求めることは非常に重要かつ困難な研究課題である。古代中国では多くの数学者が円周率の計算に挑み、紀元5世紀に祖沖之が収めた成果は円周率計算において大きな飛躍と言える。祖沖之は中国古代の偉大な数学者であり天文学者である。祖沖之は紀元429年に建康(現在の江蘇省南京市)に生まれた。生家は代々天文と暦法の研究をしてきた家で、小さい頃から数学と天文の知識に触れる生活を送っていた。紀元464年、35歳の時に円周率の計算にとりかかった。

 昔の中国では、実際の暮らしの経験から円の周長は「円の直径のおよそ3倍」としている。ただし、いったいどれほの差があるのかについては意見が一致しなかった。祖沖之より先に、中国の数学者・劉徽は円周率計算の科学的方法―「割円術」をあみだし、円に内接する正多角形の周長で円の周長に近づき、この方法によって、小数点後の4桁まで計算した。祖沖之はさらに研究を重ね、繰り返して演算し、円周率を小数点後の7桁(すなわち3.1415926と3.1415927の間)まで突き止めたほか、円周率の分数形式の約率も得た。祖沖之はいったいどんな方法でこの結果を出したのか、今ではそれを知ることはできない。もし劉徽の「割円術」のやり方で求めようとするならば、円に内接する正16000多角形まで計算しなければならないのである。一体どれほどの時間と努力を費やしたのであろうか。

 祖沖之が計算した円周率と等しい値を外国の数学者が得たのは、それから1000年後のことである。祖沖之の優れた貢献を称えるため、一部の外国数学者は円周率の記号 πを「祖率」と読むべきだと提案した。円周率計算のほか、祖沖之は息子と共に非常に巧みな方法で球体体積の計算問題を解決した。当時彼らが採用した原理は、西側諸国でカヴァリエリの原理と呼ばれるものであるが、祖沖之から1000年後にやっとイタリアの数学者・カヴァリエリによって発見された。祖沖之親子による発見を記念し、この原理は「祖原理」とも呼ばれている。

 薬物学者―李時珍

 中国の伝統的な漢方医は悠久の歴史を持ち、数多くの有名な漢方医を輩出している。16世紀の明の時代、李時珍という有名な薬物学者が『本草綱目』と名づけた薬典を編纂し、これが中国医薬史上における経典となった。

 李時珍(1518年~1593年)は湖北省蘄州市の出身である。蘄州はたくさんの薬材が採れるところであった。李時珍は医者の家に生まれ、小さい頃から自然に強い興味を示し、いつも父親といっしょに山で草薬を採集し加工までしていた。医療行為を行う中で、李時珍は先人が書いた薬典『本草』の信頼性に疑いを持ち始めた。一部の分類ははっきりせず、列挙されている一部の薬効には確実性が薄く、迷信や間違いなども混じっていた。これらは民衆の健康ないし命にかかわる重大事であると考えた李時珍は、新しい薬典を編纂するという使命感を持った。1522年、35歳になった李時珍は『本草綱目』の編纂に力を注いだ。

 この新薬典編纂のため、李時珍は800種あまりの医学関係の本とその他の書籍を読んだうえに自ら集めた資料をもとに、薬典の大幅な修正を3回も行った。編纂には家族も協力し息子や孫、それに弟子たちもみんな校正や清書、挿絵などを手伝った。30年あまりの努力を経て、1578年、李時珍はようやく後世に伝わる大著『本草綱目』を完成させた。

 『本草綱目』の文字数は合わせて190万字あまりで、16部、60類、50巻に分けられ、1892種類の薬物と1万1000あまりの処方が収められた。見やすいように各種薬物の複雑な形態を描いた1000枚を超える挿絵も入っている。『本草綱目』の成果はいくつもある。まず収蔵された薬物を新たに分類した。例えば草類や動物類の薬物に対し科学的な分類を行った。しかしヨーロッパの植物分類学者は1741年に初めて同様の分類を行った。李時珍より200年ほど後のことである。また『本草綱目』は先人の多くの間違いや信頼にかける表現を修正したほか、新たに発見した薬物や薬物の効能などを追加した。このほか、李時珍は昔の医学の本に見られる迷信的な言い方を批判した。李時珍が生活した時代には道家思想が流行っており、不老不死のための丹薬作りが吹聴されるなど医学分野においてさまざまな迷信が広がっていた。李時珍は素朴な唯物主義的観点で、科学と対立するような表現を批判した。

 

>>[其他]

 王昭君

 中国の歴史を見てみると中原の漢民族が中央政権を握り、周辺の少数民族の地方政権との対立が絶えなかった。対立解消のために常に戦争がおき、戦争を終結させ平和を手に入れる方法の1つとして政略結婚が利用された。王昭君の物語もそのうちの1つである。

 紀元前1世紀頃、中国は漢の時代であった。西南の少数民族の匈奴(前209年~前174年)は内戦が起こり政権は分裂した。5つの単于(単于は部落の首領)は互いに攻撃し、最後に2人の単于が残った。この2人は互いに相手が中央の漢と手を結ぶことを怖れていた。その時、呼韓邪という単于が自ら漢朝の都であった長安へ赴き漢の皇帝に忠誠心を示した。皇帝はこれを熱くもてなし、別れの際にはたくさんの食糧を与えたほか軍兵を帰路の護衛につけた。漢の支援を得た呼韓邪はとうとう匈奴を統一した。

 漢朝との友好を維持するために、紀元前33年、呼韓邪は3回も長安を訪れ、皇帝の娘を嫁にもらいたいと申し出た。皇帝は要求に応じる態度を見せたが、自分の血をひく娘を匈奴に渡したくはなかった。そこで皇帝は後宮の女官たちに「匈奴へ嫁にいくならば、その者をわが娘とする」と伝えた。

 王昭君はこの話を聞き、自分の将来の幸せ、また漢と匈奴の2つの民族の平和のために、匈奴の妻になることを自ら申し出た。皇帝はこれを非常に喜び、長安で呼韓邪と王昭君の婚礼を行うことにした。

 王昭君は匈奴で一生を送り、漢の文化を匈奴に伝えた。彼女の子女もその遺志を継ぎ、両民族の友好関係に力を尽くした。現在、中国の内モンゴル自治区フフホト市にある"昭君墓"は、古代の匈奴の人々が王昭君を記念するために建てたものである。1000年来、王昭君の物語は中国史上の美談として中国の詩、演劇、小説などの伝統的な題材となり世に広まった。

 兵家の元祖―孫武

 孫武(孫子とも言う)は紀元前6世紀に生まれた中国の偉大な軍事家で、その著作『孫子兵法』は、中国古代において最も名高い軍事理論の名作であり、世界に最も影響を与えた兵法書でもある。孫武は、古今東西の軍事家が崇拝した兵家の元祖である。

 『孫子兵法』は13巻合わせて6000字ほどのものだが、孫武の軍事思想の体系を体現している。後世、世界古典第一の兵書、兵学の聖典と評された。この本が述べている兵法の思想と哲学思想は軍事、政治、経済などの幅広い分野で利用された。

 玄奘

 中国で誰もが知っている小説『西遊記』は、4人の仏教徒の弟子がインドにお経を取りに行く物語である。旅の途中、彼らは多くの危険に遭いながら、たくさんの妖怪や鬼、怪物を打ち負かし、ついに成功を収めるのである。この小説の主人公の1人、唐の三蔵法師のモデルとなったのは、中国古代の著名な文化の伝達師である玄奘和尚である。

 玄奘は公元600年の唐時代に生まれた。幼い頃から頭が良く、当時一種の流行でもあった仏教をこよなく愛していた。玄奘は11歳ですでにお経を読み、13歳の時、当時の文化要地であった洛陽で出家した。その後全国各地の師を訪ね、仏経理論の研究に努めた。18歳の時には仏経界でその名が知られるようになっていた。彼はインド仏教学にある「経蔵」「律蔵」「論蔵」を精通したことから、人々から「三蔵法師」という名で呼ばれるようになった。

 公元627年、玄奘は唐の都であった長安、現在の西安を出発し、インドのナーランダに向けて旅に出た。ナーランダは仏教の最高学府で、当時すでに700年以上の歴史があり、インド仏教学の権威、また世界各国の仏教徒が目指した場所と言える。

 1300年以上も昔、人類は地理に対する知識を持たず、交通の便もよくない情況のなか、徒歩で中国中部からはるか彼方のインドまで行くことは、きわめて困難なことであった。途中、荒れ果てて人気のない砂漠や原生林を通るだけでなく、中国北西部の雪山も越えなければならないのであった。このような困難にも関わらず、敬虔な仏教徒であった玄奘は最後には苦しみや危険を乗り越え、公元629年の夏、インド北部に着いた。その後インド中部に入り、仏経の6大聖地を訪れた。

 公元631年、玄奘はインドのナーランダで勉強を始めた。彼はそこで5年間学び続け、経典をあまねく読んだ。その後6年をかけてインド各地を遊学した。その間、10人以上もの仏教学の師に学び、多くの深い境地を得て当時一流の仏教学者の1人となった。そして全インドの仏教理論大会をとりしきる身分にまでなり、あらゆる仏教徒の問いに答えた。彼はインドにいた当時から仏教界での名声は高かった。

 公元643年の春、玄奘は長年かけて集めた仏経と仏像を手に帰国した。当時の中国の皇帝、唐太宗は人を派遣してこれを迎えた。玄奘は、皇帝に役人になるよう求められたがこれを断り、長安の弘福寺に移り住んだ。唐太宗の支持の下、彼は各地の高僧、学者を集め大規模な経典の翻訳の場を作り、19年に及ぶ経典の翻訳作業を始めた。

 玄奘の業績は人々の注目を集め、歴代の文人の心情やインスピレーションを呼び覚ました。唐の時代から文人たちは芸術的手法で、彼の業績を神格化し、宋の時代には『大唐三蔵取経詩話』が出版された。その後、明の時代に小説『西遊記』が出され世に広まったのである。1000年以上経った今でも、彼の物語は人々を魅了し続けている。

 鑑真

 鑑真は中国東部・江蘇省揚州江陽県の出身で、仏教徒の家庭に生まれた。西暦708年、21歳の時、長安で受戒し正式に僧侶になると、その後40年にわたり、読経や寺院・仏像の建立に携わった。彼が授戒した僧侶の数は4万人を超え、中には著名な高僧となった者もいる。中国東部における授戒大師と称えられ、その地位は非常に高かった。

 743年、日本人僧の栄睿と普照が揚州に赴き、日本で仏教を広めるよう鑑真に求めた。鑑真はこれを快諾し、航海の準備に入った。彼の呼びかけに対し、21人の弟子が随行したが、1回目の航海は政府の干渉を受け失敗に終わった。2回目の航海は、軍艦を購入し仏像や仏具、薬品、食料などを調達した。弟子をはじめとする随行人の数は85人となった。しかし中国大陸を離れてまもなく、嵐によって船が破損し、帰港を余儀なくされた。修理を終え3回目の航海を試みたが、沖合いで座礁しまたも失敗に終わった。

 3度の失敗にもかかわらず、鑑真はあきらめなかった。744年、彼は再び航海を試みたが政府の反対によって引き返すことになった。748年、61歳になった鑑真は楊州を出発し、4回目の航海を試みた。しかし台風に遭い、中国南部・海南島に流されてしまった。やっとのことで楊州に戻り、再び5回目の航海に出たが、これも失敗に終わった。この5回目の航海は損失も大きく、日本人僧の栄睿と鑑真の弟子である祥彦が相次いで病死した。鑑真自身も過労により両眼を失明した。

 それから5年の年月が流れ、66歳になった鑑真は失明という困難にも負けず再度日本へ向かう。753年10月19日、楊州を出発し12月20日、ついに日本の土を踏んだ。そして朝廷から庶民まで、熱烈な歓迎を受けた。日本の朝廷は鑑真をねぎらい、戒壇の設立と授戒を全面的に任せた。756年には大僧都にも任命した。かつてないほどの厚い待遇だった。その後、鑑真は弟子たちとともに唐律招提を建立した。現在日本では唐招提寺として親しまれている。763年5月、鑑真は76歳で円寂し日本で埋葬された。

 鑑真は日本で10年を過ごし日本文化の発展や中日文化交流に大きく貢献した。鑑真が日本へ来た頃、中国ではちょうど唐文化が繁栄していた。鑑真も来日の際、刺繍職人や画家、玉職人などを同行させ、絵画や刺繍、玉器、銅鏡などといった工芸美術の珍品や、大量の真筆法帖(ほうじょう)を持ち込んだ。鑑真が伝えた中国の文化と芸術は、日本の天平文化に影響を与えた。

 天平文化の核心にあるのは仏教文化だが、鑑真はこの仏教分野において、最も日本に貢献している。鑑真が中国流に建設した唐招提寺はその後の日本における仏教建築の手本となった。仏像製作でも、それまでの日本には銅鋳造や木彫の技術しかなかったが、鑑真の来日後は大きく変わり、唐の仏像のような写実主義へと向かう。また乾漆像は天平芸術のなかで最も誇れる芸術品となった。鑑真の死後に作られた鑑真像も乾漆像だが、この製造技術は鑑真の弟子たちが伝えたものである。

 また鑑真は中国医学を日本に伝えた。自ら光明皇太后の治療にもあたった。両眼を失明していたが、薬の知識は確かなものだった。

 鑑真は日本で過ごした10年間、中日人民の友好のために尽力し、中日文化交流史において大きな業績を残した。1973年、当時の中国の副総理・鄧小平が日本の唐招提寺を訪ねた際、寺の長老たちから「鑑真和尚座像を里帰りさせてはどうか」との申し出を受けた。1980年4月19日、鑑真座像は楊州で公開され人々から熱烈な歓迎を受けた。

 近現代革命家

 孫中山

 孫中山は1866年に広東省香山県で生まれた。本名は孫文である。孫中山は中国近代民主主義革命の先覚者で、中華民国と中国国民党の創始者、三民主義の提唱者である。早くからキリスト教会の教育を受け西側の世界への認識が高かった。広東語、普通語、英語、日本語が堪能であった。封建に徹底に反対する旗「共和を起こし帝政を終わらせる」を掲げた第一人者である。1905年に中国同盟会を創設し、1911年、辛亥革命後に中華民国臨時大総統に推挙された。1925年3月12日に死去。1940年、国民政府は孫中山を「中華民国の国父」と尊称することを全国に通達した。孫中山は世界にも尊敬される革命家である。中華民国には「国父」、中国国民党には「総理」、中国共産党には「近代民主革命の偉大な先導者」と尊称されている。

 1911年10月10日、武昌蜂起が起きた。孫中山はアメリカでこのニュースを聞き直ちに欧米各国で外交活動を展開して各国の支持を求めるなど努力した。同年12月25日に上海に帰国した。12月29日、南京で開かれた17省の代表会議で、孫中山は中華民国臨時大総統に推挙された。

 1914年7月、孫中山は東京で中華革命党を創設し、総理に推挙された。

 1915年10月25日、孫中山は宋慶齢と東京で結婚した。1917年9月1日、中華民国軍政府大元帥に選ばれた。1919年10月、中華革命党を中国国民党に改組し、1920年10月、陳炯明に対し広東軍を率いて広州を攻め取ることを求めた。11月、孫中山は広州に戻り、再び護法軍政府を樹立した。1921年5月、孫中山は広州で臨時大総統に就任し、正式に政府を樹立した。

 1922年6月、陳炯明が反乱を起こし、孫中山は広州を離れて再び上海へ赴いた。その後、孫中山は中国共産党とソ連の援助を受け、「聯俄・聯共・扶助農工」(ソ連・共産党と提携し,労農を扶助する)の三大政策を打ち出した。1923年初め、陳炯明を駆逐した後、孫中山は広州で再び大元帥府を建て、「孫逸仙博士代表団」をソ連訪問に派遣し、ソ連の政治と軍事面の顧問を広州に招いて中国の革命を支援してもらった。1924年1月、広州で中国国民党第1回全国代表大会を開き、党の政綱、党規約を可決し、三民主義を改めて解釈した。同時に黄埔軍官学校を創設し、革命の武装幹部を育成した。

 1925年3月12日、孫中山は北京で逝去した。1929年6月1日、その生前の願いによって陵墓は南京・紫金山の中山陵に移された。

 毛沢東

 毛沢東は湖南省湘潭県で生まれた。中国共産党、中国人民解放軍、中華人民共和国の主要な創始者と指導者である。1949年から1976年まで、毛沢東は中華人民共和国の最高指導者を務めた。毛沢東のマルクス・レーニン主義の発展、軍事理論に対する貢献、及び共産党の理論に対する貢献は毛沢東思想と呼ばれる。毛沢東の職務はほとんど主席と同様のものであるため、「毛主席」と尊称されている。毛沢東は世界の現代史の中で最も重要な人物の一人とみられ、米誌『タイム』も毛沢東を20世紀における最も影響力のある100人の1人に選んだ。

 毛沢東は1893年12月26日に湖南省湘潭県の農家に生まれた。1925年の冬から1927年の春まで、『中国社会各階級分析』、『湖南農民運動視察報告』などの著作を発表した。農民問題の中国革命における重要な地位と無産階級が農民闘争を指導することの重要性を指摘し、陳独秀の右派思想を批判した。

 国共合作が全面的に決裂した後、1927年8月の中国共産党中央の緊急会議で毛沢東は、「政権は銃によって取るものだ」、すなわち革命武力で政権を打ち立てる思想を提出し、中央政治局候補委員に選出された。会議後、湖南省、江西省の境地区で武装蜂起(秋収起義)を指導した。蜂起は失敗し、配下の蜂起部隊を率いて井岡山に入り土地革命を発動し、初の農村革命根拠地を創立した。1928年4月、朱徳が指導した蜂起部隊と合流し、工農革命軍(ほどなくして紅軍に改称)第4軍を創立し、党代表、前敵委員会書記に就いた。毛沢東を代表とする中国共産党の党員は中国の実際から出発し、国民党政権の統治が弱い農村で武装闘争を繰り広げ、農村で都市を囲い、最後に都市ないし全国の政権を打ち立てる道を切り開いた。毛沢東は『中国の紅色政権はなぜ存在することができるのか』、『小さな火花も広野を焼き尽くす(星星之火、可以燎原)』などの著作の中でこの問題について理論的に述べた。

 1934年10月、毛沢東は中国工農紅軍第一方面軍(紅一方面軍)の長征に参加した。1935年1月に中国共産党中央政治局が貴州で拡大会議、すなわち遵義会議を開き、毛沢東を代表とする新しい中央指導部を樹立した。10月、中国共産党中央と紅一方面軍が陝西省北部に着き、長征は終了した。12月、毛沢東は『日本帝国主義に反対する策略を論ずる』と題する報告を行い、抗日民族統一戦線の政策を述べた。1936年10月、紅軍の第一方面軍、第二方面軍、第四方面軍の三大主力が合流した。同年12月、周恩来らと「西安事件」の平和的解決を実現させた。これは内戦から第2回目の国共合作、さらに共同で抗日へと転換する枢軸となった。同月には『中国革命戦争の戦略問題』、1937年の夏には、『実戦論』、『矛盾論』を書いた。抗日戦争勃発後、毛沢東をはじめとする中国共産党中央は統一戦線における独立自主の原則を堅持し、民衆を動員して敵の後方で遊撃戦争を展開し、数多くの抗日根拠地を立てた。1938年10月、中国共産党第6期中央委員会拡大の第6回全体会議で「マルクス主義中国化」の指導原則を提出した。抗日戦争の時期、毛沢東は『持久戦論』、『共産党人(発刊詞)』、『新民主主義論』などの著作を発表した。1942年2月、共産党を指導して全党で整風運動を行い、主観主義と宗派主義を正し、全党にマルクス・レーニン主義の普遍真理と中国革命の具体的な実戦を結びつけた基本的方向を一層把握させ、抗日戦争と全国革命の勝利を勝ち取るために思想的基礎を定めた。1943年3月、中国共産党中央政治局主席に選挙され、5月、根拠地の軍民を指導して生産運動を展開し、深刻な経済困難を克服した。

 1945年4~6月、中国共産党第7回全国代表大会を主宰し、『聯合政府論』の報告を行なった。大会は「民衆を存分に動員し、人民の力を発展させ、共産党の指導の下で、日本の侵略者を打ち負かし、全国人民を解放し、新民主主義の中国を樹立する」という戦略を制定した。毛沢東思想は今回の会議で中国共産党の指導思想に確定された。毛沢東は中国共産党第7期中央委員会第1回全体会議から1976年9月9日に逝去するまでずっと中共中央主席を務めた。

 抗日戦争に勝利した後、蒋介石による共産党及びその武力を滅ぼそうとする企てに対して、毛沢東は「真っ向から対立する」闘争方針を打ち出した。1945年8月、重慶に赴き蒋介石と交渉を行い、国内平和を実現したいという中国共産党の願いを表明した。

 1946年夏、蒋介石が全面的な内戦を起こした後、毛沢東は朱徳、周恩来と共同で、中国人民解放軍を指導して積極的に防御し、優勢な兵力を集めてそれぞれ敵を殲滅する方針を実施した。1947年3月から1948年3月まで、周恩来、任弼時とともに陝西省北部に転戦し、西北の戦場と全国の解放戦争を指導した。1947年夏、中国人民解放軍は戦略を防御から進攻に転じ、毛沢東をはじめとする中国共産党中央の指導の下で、遼瀋、淮海、平津の三大戦役と1949年4月の渡江戦役によって、国民党政府を覆した。1949年3月、中国共産党第7期中央委員会第2回全体会議を主宰し、重要な報告を行った。会議は党の活動の重心を農村から都市に移し、党が全国で勝利した後の諸項目の基本政策を規定した。このほか全党は必ずや謙虚、謹慎、傲慢にならず、焦らずといった態度を保ち、刻苦奮闘の態度を保つよう呼びかけた。7月1日、『人民民主主義専政論』を発表し、人民共和国の政権の性質及びその対内、対外の基本政策を規定した。

 1949年10月1日、中華人民共和国が建国し、毛沢東が中央人民政府主席に当選した。1950年6月、中国共産党第7期中央委員会第3回全体会議を主宰し、国の財政状況の基本的な好転を求めるために闘争するという目標を提出した。10月、米軍が朝鮮民主主義人民共和国に侵入し、中国東北部の情勢まで脅かされ、毛沢東をはじめとする中国共産党中央は抗米援朝戦争を行うことを決めた。1950年~1952年、毛沢東の指導の下、土地改革、反革命鎮圧運動、民主改革運動を行った。汚職、浪費、官僚主義に反対する「三反」運動と賄賂、脱税、国家財産の横領、材料と手間のごまかし、国家の経済情報の窃取に反対する「五反」運動を実施した。1953年6月、毛沢東の提案に基づき、中国共産党中央は党の移行時期の総路線を発表し、社会主義工業化と生産手段私有制に対する社会主義改造を系統的に行った。1954年9月、第1期全国人民代表大会第1回会議は毛沢東が主宰して起草した『中華人民共和国憲法』を可決し、毛沢東は今回の会議で中華人民共和国初の主席に当選し、1959年4月まで務めた。

 1956年4月、談話「十大関係論」を発表した。この談話では中国の国情にふさわしい社会主義建設の道の基本を模索した。その後、中国共産党中央政治局拡大会議で、「百花斉放、百家争鳴(様々な文化を開花させ、自由に論争する)」という方針を提出した。9月、生産手段私有制の社会主義改造は基本的に終了し、中国共産党は第8回全国代表大会を開催し、「全国人民の主要任務はすでに力を集めて社会生産力を発展させることに変わった」と指摘した。しかし、この方針はのちに真剣には実施されず、一連の指導活動上の誤りと挫折をもたらした。1957年2月、毛沢東は談話「人民内部矛盾を正確に処理することに関する問題」を発表し、社会主義社会における敵と自分の間、または人民内部にある性質の異なる2種類の矛盾を正確に区別し、処理するという学説を提出した。

 周恩来

 1898年3月5日、周恩来は江蘇省淮安(今江蘇省淮安市淮安区)市駙馬巷に生まれた。原籍は浙江省紹興にある。家系図には祖先が宋代の学者・周敦頤であると記載されている。宝佑橋周氏(「老八房」とも呼ばれる)は周慶を始祖と尊び、周慶から数えて周恩来は18代目となる。

 1913年8月16日、周恩来は天津の南開学校に入学した。学校の創立者の厳範孫、張伯苓に「宰相の才」と見なされ、学費などを免除された。南開学校で当時このような待遇を受けた唯一の学生だった。青年時代の周恩来は颯爽とした男前で、南開では女性を演じたことがある。南開にいる間に、革命の伴侶ともなる妻の鄧頴超と知り合った。卒業の際、南開学校「卒業同級生名簿」の中で周恩来は「君性温和誠実、最富于感情、摯于友誼、凡朋友及公益事、無不尽力(性格は温和誠実で、情感に富み、友情に真摯で、友だちのことや公益のことならばいくらでも尽力する)」と評価されている。1917年から1919年まで、日本の明治法律学校(現在の明治大学)に留学した。1919年に帰国したが、まもなく五・四運動が勃発した。周恩来は積極的に参与し、運動の指導者となり、9月16日に覚悟社を創立し、『天津学生聯合会報』を編集し、ペンネーム「伍豪」で新聞に時評文章を発表していた。1920年11月7日、周恩来は水路でフランスへ赴き、働きながら勉強した。期間中それぞれフランス、イギリス、ドイツ・ベルリン大学で学んだ。パリで、同じく働きながら勉強する四川人の鄧小平と知り合い、一生の良い友・革命の同志となった。

 1934年、紅軍の長征が始まり、1935年1月中旬、貴州省遵義で政治局拡大会議を開いた。周恩来は遵義会議で毛沢東の指導を支持し、毛沢東が軍の権力を握ることに決定的な役割を果たした。遵義会議は毛沢東を中央政治局常務委員に選ぶことを促し、党と紅軍の方策決定に参加させた。長征が始まる前に設立した「三人団」を撤廃し、朱徳、毛沢東に軍事指揮を担当させ、周恩来を党内委託の軍事指揮上で最終決定を下す責任者にした。会議後、中央政治局常務委員会は遵義会議の決定に基づいて分担を行った。毛沢東の提案によって、張聞天は博古にかわり党内で責任を負うことになった。毛沢東は周恩来の軍事指揮上における協力者である。3月中旬、周恩来をはじめとし、毛沢東と王稼祥をメンバーとする三人軍事指揮グループ(新三人団)を設置し、紅軍の作戦の指揮権を持った。まもなく周恩来が重病にかかったため、次第に毛沢東が周恩来の代わりに指揮するようになった。

 1945年、抗日戦争終戦後、周恩来は毛沢東に同行して重慶へ赴き、国民党と重慶交渉を行った。国共双方の関係が緩和し、周恩来は一度宴会で酒に酔ったことがある。重慶交渉で「双十協定」の達成を実現した。

 1946年11月、軍隊国家化と新政府構成などの問題で、双方の意見の食い違いは解決を見ず、国民党と共産党の和平交渉は失敗した。周恩来は南京から延安に戻った。1947年、国民党軍は陝(西)甘(粛)寧(夏)辺区を重点に攻撃し、一時延安を制圧した。周恩来は毛沢東と共に陝西北部に転戦した。1948年11月、中国共産党の部隊は戦略的反攻を展開し、周恩来は中央軍事委員会総参謀長代理を兼任し、毛沢東と共に遼瀋、平津、淮海の三大戦役を指揮した。林彪が東北戦場で抜きん出た成果をおさめ、遼瀋戦役の後に急速に山海関に進攻し、かつ天津を攻め落とした。東北野戦軍(すなわち第4野戦軍)は北平(北京)を包囲した。1949年4月、周恩来をはじめとする中国共産党代表団は、張治中をはじめとする南京政府代表団と北平で20日間にわたって和平交渉を行った。

 中華人民共和国建国後、周恩来はずっと国務院(1954年10月25日までは政務院と呼ばれた)総理を務め、かつ外交部長を兼任した。中国共産党と国家の日常事務を処理する一方、毛沢東と共に党の社会主義建設の路線、方針、政策を制定した。国民経済を発展する5カ年計画を自ら数回主宰、制定、実施した。

 在任期間中、周恩来は水利建設と国防科学技術事業の発展を支持し、葛洲ダム水利プロジェクトの建設を主宰した。また両弾一星(原子爆弾・水素爆弾・人工衛星)プロジェクトの総企画と総指揮も務めた。また統一戦線活動、知識分子活動、文化活動、軍の近代化建設にも特別に関心を寄せた。

 鄧小平

 鄧小平(本名は鄧先聖、後に鄧希賢と改名)は1904年8月22日、中国四川省広安県協興郷(現在の広安市広安区協興鎮)牌坊村に生まれた。中国共産党、中国人民解放軍、中華人民共和国の主要指導者の1人である。1977年、中国共産党第11期中央委員会第1回全体会議で、中国共産党中央委員会副主席と国務院副総理に復任した。1978年、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で指導者の地位につき、1978年から1983年まで全国政治協商会議議長、1981年から1989年まで中国共産党中央軍事委員会主席、1982年から1987年まで中国共産党中央顧問委員会主任を務めた。

 鄧小平は中国共産党または中華人民共和国の最高指導者の職に就いたことはない。1978年の第11期三中全会から1989年の第11期四中全会までの期間中、事実上の最高指導者に認められ、中国共産党党規約に盛り込まれ、確認された。死の間際(1997年2月19日)まで影響力を持ち続け、中華人民共和国政府の間では「マルクス主義者、無産階級革命家、政治家、軍事家、外交家、中国共産党2代目の中央指導グループの中心」と呼ばれている。

 鄧小平は「改革開放」と「一国二制度」を提案し、鄧小平の政治理念を中心にした中国共産党の理論は「鄧小平理論」と呼ばれる。鄧小平は「中国改革開放の総設計士」と称され、20世紀後期の中国人に大きな影響を与え、世界を変えた。1978年から1985年までの間に2度、米誌『タイム』の「パーソン・オブ・ザ・イヤー(Person of the Year)」に選ばれた。彼はかつて「私は中国人民の息子である。祖国と人民を深く愛している」と語った。

 近現代文化名人

 中国の「ミサイルの父」銭学森

 銭学森(1911年12月11~2009年10月31日)は浙江省杭州に生まれた。中国共産党の優れた党員、忠誠の共産主義戦士であり国内外でよく知られる優れた科学者でもある。中国の宇宙開発事業の先導者、中国「両弾一星」功勲賞章を受賞し、「中国の宇宙開発の父」、「中国のミサイルの父」、「中国自動化コントロールの父」、「ロケットの王」と呼ばれる。アメリカ・マサチューセッツ工科大学とカリフォルニア工科大学の教授を務めた経験を持ち、中国人民政治協商会議の第6期、第7期、第8期全国委員会の副議長、中国科学技術協会名誉議長、全国政治協商会議副議長を歴任した。上海交通大学図書館、西安交通大学図書館はいずれも銭学森の名前がつけられている。

 1956年、銭学森は銭偉長、郭永懐らと共に、中国科学院力学研究所を創立し、初代所長となった。同年10月、銭学森は命を受けて中国初のロケット・ミサイル開発機構を創設し、同機構(国防省第5研究院)院長に就任した。1958年から宇宙運搬ロケットの開発に着手した。

 1958年、中国科学院の同僚と共同で、中国科学技術大学の創立を提唱し、参与した。1959年8月に中国共産党に入党した。1960年、中国は「東風1号」短距離地対地弾道ミサイルの打上げに成功した。1965年、人工衛星プロジェクトが始まり、1970年4月、中国初の人工衛星「東方紅1号」の打上げに成功した。

 「ハイブリッド米の父」袁隆平

 「ハイブリッド米の父」と呼ばれる袁隆平は北京生まれで原籍は江西省九江徳安にある。現在、湖南省長沙に住んでいる。中国のハイブリッド米の育種専門家、中国工程院の院士である。現在、中国国家ハイブリッド米活動技術センターの主任及び湖南ハイブリッド米研究センターの主任、湖南農業大学教授、中国農業大学客員教授、国連食糧農業機関(FAO)チーフ顧問、湖南省科学協会副議長、湖南省政治協商会議副議長を務めている。2003年、中国のコメ作付面積の半分は既にハイブリッド米となっている。世界でも20%のコメ作付は袁隆平のハイブリッド技術を導入している。袁隆平は中国初の国家特等発明賞を受賞した。1999年、小惑星8117(1996SD1)は「袁隆平星」と命名された。2001年、国家最高科学技術賞を受賞した。2006年4月、アメリカ科学院外国人アカデミーに選ばれた。

 各界の人々は「貧乏と飢餓をなくすことこそ最もよい平和で、袁隆平は中国ないし世界の食糧事業に大きな貢献をした。言うまでもなくノーベル平和賞を受賞する資格がある」として、袁隆平をノーベル平和賞の候補者に推薦するよう中国政府に提案している。

 李小龍(ブルース・リー)

 李小龍(1940年11月27日~1973年7月20日)は武術の師匠で、UFC創始者、MMAの父、カンフー映画の男優賞受賞者、カンフー映画の創始者、截拳道(ジークンドー)の創始者である。中国武術の初の普及者であり、ハリウッドデビューを果たした初の中国人俳優でもある。李小龍は世界の武術とカンフー映画の発展を革命的に推進した。中国世界記録協会で「世界で映画ファンが最も多い武術家」に選ばれ、世界中に2億人以上のファンがいる。死後もその人気は衰えず、彼が出演した映画はいまだ全世界の中国人のみならず世界各地の人々に大きな影響力を持っている。

 彼が創造したカンフー(Kung Fu)という単語は英語辞典に盛り込まれた。アメリカ人は彼を「カンフーの王」、日本人は彼を「武の聖者」と呼んでいる。タイ人は彼を「アクションの至尊」、映画界は彼を「カンフー映画の帝王」と呼んでいる。

 李小龍の一生は短かったが、世界記録協会の多くの世界記録を生みまたは塗り替え、まぶしい彗星のごとく国際武術界の上空に輝いた。現代の組み打ち技術と映画演技芸術の発展に大きく貢献した。彼が主演したカンフー映画は国内外で大ヒットとなり、カンフーは世界に広まった。多くの外国人にとって李小龍のカンフーは中国武術のシンボルである。彼は「振藩国術館」を創立し、自らジークンドーを生み出し、33歳の一生における4本半の映画で不朽の東方の伝説を築き上げた。

 李小龍の名前は西側にも知れ渡っている。アメリカ、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、ロシア、カナダなどではいずれも、李小龍を専門に紹介するウェブサイトがある。李小龍が主役として出演した映画は今でも多くのDVD発行会社に「宝物」とされている。多くの電子ゲーム、Tシャツなどにも李小龍の姿を見ることができる。

 成龍(ジャッキー・チェン)

 成龍は香港特別行政区香港島で生まれ、原籍は安徽省蕪湖市にある。大中華区映画界のスーパースターと国際カンフー映画のスーパースターである。成龍は6歳の時、中国戯劇学校に入学して戯曲や中国武術を学び、後に映画界に進出した。次第に俳優、監督、プロダクションマネージャーと活躍の幅を広げていった。彼は周星馳、周潤発と「双周一成」と併称され、香港映画の興行成績を約束する人物となった。成龍はカンフー映画で知られ、数回も香港映画興行成績の記録を更新した。彼が主役として出演した映画の世界での興行成績は合わせて200億元を超え、これは中国人俳優としてはトップである。

 成龍が1994年出演した『紅番区(レッド・ブロンクス)』はアメリカで上映され、大ヒットをとばした。その上さらに1本目のハリウッド映画『ラッシュアワー』に出演した。これも高い興行成績を収め、米誌『タイム』にとりあげられた。成龍は、「ハリウッドは私に適さない。香港でこそ魚が水を得たように活き活きと活動できる」と話した。2007年に上映された『ラッシュアワー3』の興行成績は前回には及ばなかったが1億4000万ドルの興行成績をあげた。『ラッシュアワー』シリーズの3本の映画の北アメリカでの興行成績は合わせて5億ドルで、全世界での累計は8億3500万ドルに上った。これまでアジア俳優が主役として出演する映画では初の快挙となった。

 李連傑(ジェット・リー)

 李連傑、英語名はJet Li。シンガポール籍の中国人である。李連傑は李小龍、成龍に次いで国際映画界で影響力を持つ中国人アクション映画のスーパースターである。

 李連傑は北京市で生まれた。中国語アクション映画の有名俳優で「カンフーの皇帝」と称されている。1988年の『ファイナル・ファイター 鉄拳英雄』において監督デビューを果たした。1998年の『リーサル・ウェポン4』でハリウッド映画にデビューした。彼はチベット仏教の信者で慈善事業に熱心に取り組んでいる。2007年4月慈善組織「壱基金」を創設した。2011年、馬雲と共同で太極拳禅文化国際発展公司を創設し、太極拳文化の普及に努めている。

 劉翔

 劉翔は1983年7月13日に上海で生まれた。原籍は江蘇塩城大豊草堰鎮にある。華東師範大学卒の中国を代表する陸上競技選手である。五輪で金メダルを1個、世界選手権のメダルを6個、アジアスポーツ大会で金メダルを3個獲得した。世界記録を更新したことがあり、五輪110mハードルの金メダリスト、世界選手権優勝者であり世界記録を持つ選手である。同時に中国全国スポーツ大会で初めて3年連続で金メダルを獲得した陸上競技選手でもあり、「ハードルの王」と呼ばれる。

 2002年、劉翔は国際陸上競技連合会グランプリで、13.12秒で110mハードルの世界青年記録とアジア記録を更新した。同年、釜山アジアスポーツ大会で、13.27秒で金メダルを獲得した。翌年、世界選手権で銅メダルを獲得した。

 2004年8月27日、アテネオリンピック110mハードル決勝戦で、劉翔は自分の能力をいかんなく発揮し、3m近くの差をつけ12.91秒の世界タイ記録(コリン・ジャクソンが1993年に記録した)で金メダルを獲得し、オリンピックの記録を更新し、オリンピック男子陸上競技において中国初の金メダルをもたらした。

 姚明

 姚明は1980年、上海市徐匯区で生まれた。原籍は江蘇省蘇州市呉江区にある。アメリカNBA及び世界バスケットボールのスーパースター選手、中国バスケットボール史上において一里塚をたてた人物である。姚明は元は中国国家バスケットボールチームのメンバーで、中国プロバスケットボールリーグ(CBA)上海シャークスバスケットボールクラブと北米男子プロバスケットリーグ(NBA)のヒューストン・ロケッツに所属していた。姚明は中国で最も影響力のある人物の1人で、同時に世界で最も著名な中国人選手の1人でもある。NBA「オールスター」に7回選ばれ、米誌『タイム』に「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた。中国体育総局から「スポーツ運動栄誉賞章」、「中国バスケットボール傑出貢献賞」を授けられた。2009年、姚明は上海男子バスケットボールクラブを買収し、上海シャークスバスケットボールクラブのオーナーとなった。2011年7月20日、姚明は引退を発表し2013年、第12期全国政治協商会議委員に当選した。

 姚明は2002年のNBAドラフトで、ヒューストン・ロケッツに第1位に指名された。姚明は初めてのNBA試合でインディアナ・ペーサーズと対戦し、2リバウンドを獲得したが得点できなかった。その後、デンバー・ナゲッツとの試合で初めて得点した。最初の7回の試合で、姚明が出場した時間は平均わずか14分で、1回の試合につき4点を獲得した。11月17日にロサンゼルス・レイカーズとの試合で、9シュートと、フリースローの2シュートでいずれも得点し、合わせて20点を獲得した。NBAのデビッド・スターンコミッショナーは声明を発表し、彼を「競技場での統帥力、謙虚な態度、慈善事業への努力、ユーモアのある性格で、世界で広く愛される選手となった。中米両国のバスケットボールのファンに非凡な橋をかけた」と高く評価した。

 陳馮富珍(マーガレット・チャン)

 マーガレット・チャンは1947年に香港で生まれた。世界保健機関(WHO)の事務局長である。マーガレット・チャンは1973年と1977年に、カナダのウェスタンオンタリオ大学で文学学士と博士学位を取得し、1985年、シンガポール国立大学で修士コースを学び理学修士学位を取得した。1978年香港衛生署に入り、1994年6月に香港衛生署で初の女性署長となった。2003年8月に世界保健機関人類環境保護局局長に就任し、明らかな結果をおさめ多くの国から賞賛されている。現在、マーガレット・チャンは伝染病対策を担当する世界保健機関の事務局長を務めている。

 2006年11月8日、世界保健機関は、中国を代表して選挙に参加したマーガレット・チャンが事務局長に当選したと発表した。2007年1月4日に第7代事務局長に就任し、同機関の設立58年以来、この職に就任した初めての中国人となった。

 楊利偉

 楊利偉は中国の初代宇宙飛行士である。2003年10月15日、楊利偉は有人宇宙船「神舟5号」に乗って宇宙へ向かい、宇宙へ到達した初の中国人となった。

 2003年10月15日、北京時間午前9時、楊利偉が乗り込んだ神舟5号を載せた長征2号F型ロケットが酒泉衛星発射センターから宇宙に向けて飛び立った。打ち上げ前にどの宇宙飛行士が搭乗するかは公開されず打ち上げの前日にようやく報道陣に発表された。

 莫言

 本名は管謨業。1955年2月17日生まれ。原籍は山東高密にある。ノーベル文学賞を受賞した初めての中国籍作家である。莫言は1980年代に農村を題材とした一連の作品でその名が知られるようになった。作品は「郷土への懐かしさ、郷土への恨み」といった複雑な情感に満ち溢れていて、「ルーツを尋ねる文学」の作家とされている。小説『赤い高粱』は1980年代の中国文壇において一里塚となった作品で、およそ20言語で翻訳されている。2011年、2009年の作品『蛙鳴(あめい)』で茅盾文学賞を受賞した。2012年、「幻覚的なリアリズムによって民話、歴史、現代を融合させた」としてノーベル文学賞を受賞した。

 莫言は小学5年生の時、文化大革命で中退し農村で10年にわたって働いた。主に高粱、綿花の作付けをしたり、牛を放牧したり、草を刈ったりしていた。文化大革命の間、読む本がない時には『新華字典』までも読み、新しい文字を覚えるのを好んだ。その後、莫言の母親は隣家から範文瀾の『中国通史簡編』を買いとり、莫言はこの1セットの本で文化大革命の歳月を過ごした。しかもこの1セットの本を背負って故郷を離れ、外の世界へと出た。現在でも莫言は『中国通史簡編』が最も影響を与えた本だったと語っている。

                         (翻訳:王玉華)