初めて火を起こした燧人
中国の神話や伝説には、知恵と勇気と強い意志で人々に幸せをもたらす英雄が多い。燧人もその一人である。大昔、人々は火の存在を知らず、使い方も勿論知らなかった。夜になると人々は身を寄せ合い、真っ暗闇の中で野獣の吼える声におののき、寒さと恐怖の中で過ごしていた。また、火が無いため食べ物を生で食べるしかなかったことからよく病気になり寿命も短かった。
当時、伏羲という神様が人間のこんなにも苦しい生活を目の当たりにして悲しく思い、人間に火の使い方を教えようとした。伏羲が神通力を使い森に雨を降らせたので"ガガ―ン"という音と共に雷が木に落ちて燃え上がり、瞬く間に大火となった。これに人々は驚き四方八方に逃げた。やがて雨が止み夜になると大地は濡れて冷たくなった。戻った人々は燃えている木々を見て驚きを隠せなかった。この時ある若者が、野獣たちの声が消えていることに気づいた。彼は"獣たちはこの光るものを恐れている"と考え、勇気を出して自ら近づいてみると、その光るものは暖かかった。そこで彼は興奮し「みんな早く来い!この光るものは怖くないぞ。これはみんなに光と温もりを与えてくれるぞ!」と言った。この時人々は、近くで焼け死んだ獣を見つけたが、なんとその焼けた肉からはいい匂いがしていた。そこでみんなは火を囲み、焼けた獣肉を分けて食べ、初めて火を通したものの美味しさを知った。こうして初めて火の大切さを知った人々は、火が消えないように枝や薪を集め、毎日代わる代わる見守った。しかしある日、番をしていた者が眠ってしまい枝が燃え尽き、火が消えてしまったので、人々はまた暗闇と寒さの中の生活に戻り辛い日々を送っていた。
この様子を空から見ていた伏羲は、最初に火のありがたさに気付いた若者の夢の中に現れ「遥か遠い西に遂明という国があり、そこに火の種がある。その火種を取ってくればよい」と教えた。夢から覚めた若者は、その教え通りに、遂明国に火を探しに行くことを決意した。
こうして若者は山を越え川を渡り、森を通って、やっとの思いで遂明国に辿り着いた。しかしそこには日差しが無く昼と夜の区別も無く、有るのはただ暗闇ばかりで火などどこにも無かった。若者は失望し"遂木"という大きな木の下に座り込み休んでいた。すると急に目の前で何かが光り、周りを明るく照らした。若者が立ち上がりその光を探すと、遂木にとまっていた何羽かの大きな鳥が、くちばしで枝を突付く度に木から光が放たれるのを見た。そこで若者が遂木の枝を折り、小さな枝と大きな枝を擦り合わせると小さな火花が出た。若者が様々な枝を互いに擦り合わせ摩擦を続けると、遂にその枝から煙が出始め、やがて炎が燃え上がった。若者は喜びのあまり涙を流した。
それから若者は故郷へ帰り、火の種を作る方法をみんなに教えたので、その時から人々は、暗闇や寒さ、おののきの暮らしから解放された。その後若者は、勇気と知恵が認められ首領となり"燧人"と名付けられた。この"燧人"とは火を取る者という意味である。
尭と舜王位を譲る
中国の長い封建王朝の歴史では、帝位は必ずその息子が継いでいた。しかし中国の神話では、最初に相次いで王位に着いたのは尭、舜と禹であり、この3人には血縁が無い。つまり、品行と才能を兼ね備えた者が推薦されて帝位を継いでいたのだ。
伝説では尭は中国最初の帝である。彼は年を取ったので後継者を探そうと考え、各部落の首領を集めて自分の考えを伝えると、放斉という者が「御子息の丹朱は物分りの良い方なので、帝の座に就くのに相応しいのではないでしょうか」と進言した。しかし尭は「駄目だ。息子には品がなく争いを好む」と、これを退けた。そこで「では水利を治めている共工という者はいかがでしょう」と、もう一人が言うと尭は「共工は話し上手であるし、見かけは礼儀正しそうだが内心は醜い。そういう者は信用できない」と首を横に振った。結局最後まで結論が出ず、尭は後継者を探し続けた。
その後しばらくして、尭はまたも首領を集めて相談した。今度は、何人もの首領が一般人である舜という若者を推薦した。これに尭は頷きながら「おお!私もその者の噂を知っているが、もっと詳しく聞かせてはくれないか?」と言った。そこで首領たちは色々と話し始めた。舜の父は非常に愚かな人間で、瞽叟(目が見えない年寄りのこと)と呼ばれ、また母が早くに亡くなったため、継母に育てられるも虐げられて暮らした。やがて継母が弟の象を産んだが、象はひどく傲慢に育った。しかし父の瞽叟はこの弟を可愛がった。舜はこんな境遇で育ちながらも、自分の父や継母、それに弟にも優しかったことから、みんなは舜を褒め称えた。この話を聞いた尭は、まず舜の人格を確かめようと考え、自分の二人の娘、娥皇と女英を舜に嫁がせ、食糧の蔵まで建ててやり、多くの牛や羊を与えた。舜の継母と弟はそれに嫉妬し、瞽叟と計らって舜を何度も殺そうとした。
ある日、瞽叟は蔵の屋根を修理するために舜を屋根に上がらせ、舜が梯子で屋根に上がったのを確かめると、下で梯子に火を着けた。舜は火の手を見て逃げようとしたが、既に梯子は焼けて無くなっていた。そこで舜は身につけていた2つの日除け用の笠を両手を広げて持ち、翼を広げた鳥の様に屋根から飛び降り軽々と着地し怪我一つしなかった。しかし瞽叟と象は諦めず、今度は舜に井戸さらいをさせた。舜が井戸に下りると、瞽叟らはすぐに大量の土と石を井戸に投げ落とし舜を生き埋めにしようとした。しかし舜は井戸の中で横穴を掘りそこから脱出しまた無事に家に帰ることができた。
象は、舜が助かったことを知らず得意になって家に戻り「これで兄は死んだに違いない。この方法を考えたのは俺だ。さあ、今から兄の財産を分けよう」と瞽叟に言い、舜の部屋に向った。しかし部屋に入ると舜が座って琴を弾いていたのだ。これを見た象はうろたえながらも恥ずかしそうに「ああ、兄さん心配しましたよ」と言った。
一方、舜は何事も無かった様に「いいところに来たね。ちょっと忙しいので、丁度お前に助けて欲しいと思っていたところだ」と答えた。その後も舜はこれまで通り両親と弟に優しくし、瞽叟と象もその時から舜を陥れることを考えなくなったという。これを始終見ていた尭は、舜が優れた品行と才能を持っていることを確信し帝の座を彼に譲ると決めた。このように帝位を譲ることを、中国の歴史学者は"禅譲"と呼んでいる。
舜は帝の座に就いてからも勤勉で倹約に努め、庶民と共に働いたので大衆から信頼された。それから何年か経ち尭が亡くなった。そこで舜は尭の息子の丹朱に帝位を譲ろうとしたが、みんながこれに強く反対した。舜は年を取ると、また同じ方法で品行と才能を備えた禹を後継者に選んだ。
後の人々は、尭、舜、禹の時代には、利益争いや権力争いが無く、皇帝も大衆も皆、質素で幸せに暮らしていたとしている。
5つの神山の物語
人類の開祖である女媧は人間を造ってから平穏無事な日々を送っていた。しかしある日、天と地が激しくぶつかり空に大きなヒビができた。そして大地も激しく燃え始め、熱い炎が地心から燃え上がって森林を焼き尽くし、大水が淵の底から噴き出して山を覆った。化け物、妖怪、凶悪な獣などがこの機に乗じて残虐を尽くし、人類は塗炭の苦をなめていた。
女媧は人類に助けを求められたので、まずは化け物や猛獣を殺し、次に大水による災いを無くし、最後に天のヒビを繕うというとてつもない仕事にとりかかった。
女媧は各地から蘆の枝を集めヒビのある所に持って行き、それを空と同じ高さまで積んでから空と同じ色の青い石を探した。地上にある青い石が足りないため、仕方なく白、黄色、赤と黒の石を積み上げた蘆の枝の上に乗せた。そして地心から出た炎が消えない内に、一本の大きな木で蘆の枝に火を着けると、その火は宇宙全体を明るく照らし、青い石を始め五色の石も焼かれて赤くなった。そして石は徐々に溶けてゆき、シロップのように空のヒビの割れ目に流れ込み、蘆の枝が燃え尽きる頃、空の大きなヒビは塞がれた。
しかし壊れた天と地を女媧がなんとかしたが、元の状態には戻らなかった。西北方向の空は少し傾いてしまい、太陽と月は自ずとそちらに近づいた。また東南方向の大地には深い穴が残り、全ての川の水は東南方向へと流れ、そこに大量の水が溜まり海となったのである。
渤海の東側には底が見えぬ大きな溝"帰墟"が有った。地上の水も海の水も、全てここに流れ込んで来る。しかし"帰墟"の水は増えも減りもせず、常に同じ状態を保っていたので、水が溢れ出して人間を溺れさせることはなかった。
"帰墟"の中に5つの神の山"岱興""員嶠""方壷""瀛洲""蓬莱"が有った。それぞれの山の高さは3万里(1.5万キロ)あり、山と山の間は7万里(3.5万キロ)であった。頂上には、玉石を彫り付けた柵に囲まれた黄金造りの宮殿があり、中には大勢の神が住んでいた。ここの動物はすべて白く、また珍しい木が沢山生えていた。その果実はいずれも玉石や真珠で出来ていて美味しく、しかも人間が食べれば不老長寿になるものだった。神達は皆、真っ白な服を纏い、背中に小さな翼が有った。彼らはいつも海の上や青空の下を鳥の様に自由に飛び回って5つの山の間を行き来し、親類や友を訪ねて楽しく幸せな日々を送っていた。
ところがこんな幸せの中にも1つの小さな悩みがあった。実はこの5つの山はいずれも海に浮かんでおり、大風が来ると山は所々に流されるのだ。こうなると山々の行き来は大変不便なものになった。そこで彼らは使いの者を選び、天帝に陳情した。また天帝も、山々が天の果てまで流され神達が住まいを無くすことを恐れていたので、海の神である"禺強"に命じ15匹の大きい亀に5つの山を背負わせることにした。そこで各山を1匹の亀が背負い、その左右に2匹を待機させ、6万年ごとに山を背負うのを交代させることにした。こうして山は安定し神たちは大喜びした。ところがある年"竜伯国"という巨人の国から一人の巨人が帰墟にやって来た。巨人の体は神の山と同じ様に大きく、その巨人は釣竿を使って次から次へと、山を背負っている大亀を海から釣り上げると亀を背負って自分の国に帰ってしまった。亀を失った2つの山"岱興"と"員嶠"は、北極まで風で流され海の底に沈んでしまった。その山に棲んでいた神達は慌てて立ち退いたが、荷物を背負ったまま空を彷徨い、大粒の汗が流れ落ちるほど疲れ果ててしまった。
天帝はこれを知って激怒し"竜伯国"の者が二度と問題を起こさないようにするため、その巨大な体を小さくした。また残りの3つの山は亀の背の上にあったため事なきを得て、今でも中国東部沿海に高くそびえ立っているという。
盤古の天地開闢の物語
伝説によると太古の昔、天と地は分かれておらず宇宙全体は一つの大きいタマゴのようだったという。その中は混沌として真っ暗で、上下左右や東西南北の区別は全くつかなかった。しかしこのタマゴの中には一人の偉大な英雄が有った。それが天地開闢の盤古である。盤古はタマゴの中で1万8千年もの間育まれ、遂に目覚めたのである。盤古が初めて目を開けた時、周りは真っ暗で息ができないほど暑苦しかった。これに怒った彼は殻の中で、手にしていた大きな斧を力一杯振った。すると耳をつんざくような大きな音がして、タマゴが木っ端微塵に砕け、中の軽くて澄んだ物は上に昇って天となり、重くて濁った物も徐々に沈んで大地となったのである。
天地を開闢した盤古は喜びを感じだ。しかし天と地がまた一つに戻ってしまうのを恐れた彼は頭で天を支え、足で大地を踏みつけ、変幻自在の神通力を使って体をどんどん大きくしていった。毎日彼が一丈(3.3m)成長すると、それに連れて空も一丈高くなり、大地も一丈厚くなっていった。そして1万8千年を経て盤古は雄々しい巨人となり、その身長は9万里にものぼった。その後またも数え切れないほど長い年月が経つと、天と地は安定しもう、一つには戻らなくなった。その様を見た盤古は安心した。ところが、この天地開闢の英雄は既に気力を無くし、自分を支える力を全て失ってしまい、巨大な体はついに崩れて倒れてしまった。
盤古の臨終の際に全身に大きな変化が起こった。彼の左目は真っ赤な太陽に、右目は銀色の月に、最後に吐き出した息は風と雲に、最後に発した声は雷に、そして髪と髭はきらきらと光る星に、頭と手足は大地の四季と高い山に、血液は川や湖に、筋骨と血脈は道に、筋肉は肥えた土地に、皮膚と産毛は花草や樹木に、歯は金銀銅鉄の金属や玉石の宝に、汗は雨と甘露にそれぞれ変わっていった。こうして世界ができたのである。
女媧の人間創造物語
古代ギリシャの伝説ではプロメテウスが人類を造ったとされている。古代エジプトの伝説では、人類は神に呼ばれて生まれたとある。しかしユダヤ神話では、人類を造ったのはヤーウェであると伝えられている。では中国の古代神話の中で人間はどのように生まれたのか?それは"女媧"という人間の体と龍の尾を持ったの女神の功である。
伝説によると大英雄の盤古が天地を開闢して以来、女媧は天と地の間を旅してまわった。当時、地上には既に山や川、草木や鳥、獣、虫、魚などがいたが、やはり人間がいないため活気が無かった。ある日、女媧が荒れ果てた大地を歩いていると、ふと強い孤独感をおぼえた。そこで彼女はこの世にもう少し活気のあるものを増やそうと考えた。
女媧は大地を奔り樹木や草花を愛したが、それより彼女が惹かれたのは生気にあふれた鳥、獣、虫、魚などであった。しかし彼女は、盤古の創造は不完全であり、その動物たちの知力も高くないことを感じ、今有る如何なる生き物よりももっと優れた命を造ろうと考えたのだ。
女媧は黄河に沿って奔り、川面に映った自分の美しい姿を見てこらえきれない喜びをおぼえた。そこで彼女は川床の柔らかな泥で自分の姿を真似て泥人形を造り始めた。女媧は利口な上に器用なので、ほどなくして沢山の泥人形を造り上げた。この人形達はほとんど彼女と同じ姿をしていたが、竜の尾の代わりに両手に習って両足を付け加えた。そして人形たちに息を吹きかけて活力を吹き込んだところ、この小さな人形たちは"命"を持つようになり、まっすぐ立って歩き、言葉を話し、賢いものとなった。女媧は彼らを"人"と名付けた。つまり人間である。また、その中の一部に陽性の気を注ぎ込んだ。それは自然界で争いを好む雄性の要素で、その"人"たちは男となり、残りの"人"は自然界では柔順な陰性の要素とされる雌性の気を注ぎこまれ、女となったのである。そしてこれらの男と女たちは女媧を囲んで踊り歓呼して、大地に生気を添えた。
また、女媧はこの人間を大地にいっぱいにしようと考えたが、すでに随分と疲れていたため、彼女はある早道を思いついた。女媧は一本の藁の縄を川底の泥に浸け漬け込んで、縄の先が完全に泥に包まれるまで回した。そして縄を上げて地上に振ると、所どころに落ちた泥は一人一人の人間となった。こうして女媧は大地に行き渡るほどの人を造ったのである。
大地に人類ができると、女媧の仕事は終わったように見えた。しかし彼女には新たな悩みが有った。どうすれば人間を生存させ続けられるのか?人間は所詮いつかは死んでしまう。もし死んでしまったら、その後にまた新たに作らなければならない。そうなると手間がかかるので、女媧は男と女を見繕って、子孫の繁殖と子育ての責任を人類自身に任せた。こうして人類は長く繁栄し続け、毎日増え続けている。
牽牛と織女の物語
牽牛という、貧乏だが楽しく暮らしている独身の男がいた。彼は一頭の老いた牛と共に暮らし、その他の財産といえば一つの鋤だけであった。牽牛は毎日畑で働き、帰ってからも自分で料理や洗濯をしなければならず苦しい日々を送っていた。ところがある日、奇跡が起こったのである。
この日、牽牛が野良仕事を終えて家に帰り戸を開けると、部屋の中はきれいに片づけられ洗濯もきちんと終り、おまけに食卓には温かくて美味しそうな料理が置かれていた。驚いた牽牛は、「まさか神様がここに来られたのか?」
と思い不思議でならなかった。
そして、このようなことが何日も続いた。牽牛は、とうとう真相を突き止めようと決めた。ある日、牽牛はいつもの通り朝早く出掛けたが、すぐに家の近くに身を隠しこっそり見張っていると、しばらくして一人の美しい女性が現れた。その女性は家に入ると甲斐甲斐しく家事を始めたのだ。これを見た牽牛は我慢出来ずに飛び出していって、「お嬢さん、どうして家事を手伝ってくれるのですか?」と尋ねた。女性は驚いて顔を赤らめながら小さな声で答えた。「私は織女と申します。貴方の辛い生活を見てお手伝いしようと思ったのです」これに大いに喜んだ牽牛は、勇気を出して「私の妻になってくれないか?一緒に働いて暮らそう」と申し出た。織女はこれを快諾した。こうして牽牛と織女は夫婦となったのである。それからは牽牛は毎日畑で働き、織女は家で機を織りながら家事をこなし幸せに暮らした。
それから数年が経ち、二人は男の子と女の子の2人の子供に恵まれ、家族4人で楽しく過ごしていた。
ところがある日、空が不意に曇り出し疾風が吹き荒れると、天の2人の神将が牽牛の家へやって来た。この時になって牽牛は初めて、織女が天帝の孫娘であり数年前に家出していたことを知った。神将達はやっと探し出した織姫を無理矢理天に連れ帰ってしまったのである。
牽牛は、二人の幼い子供を抱きかかえ、空へと連れ去られてゆく織女を見つめながらひどく心を痛めた。そして彼は、必ずや天に行き妻を連れ戻すと誓った。しかし、普通の人間がどうやって天へ行くのかと牽牛が悩んでいると、これまでずっと黙っていた牛が口を開き「私を殺して、私の皮を纏えば空を飛ぶことができる」と教えた。
この話に牽牛は何度も首を横に振ったが、結局他に方法が無かったので、涙を飲んで牛の言う通りにせざるを得なかった。
こうして牽牛は牛の皮を纏い、二人の子供を天秤棒で担いで天の宮殿へと向った。しかし、身分の違いに厳しい天の宮殿では、ただの貧しい人間である牽牛に目をかける者など誰もおらず、天帝も織女と面会させることを断った。
しかし牽牛と子供たちが再三願い出たので、天帝は遂に織女との面会を許した。囚われの身となっていた織女は自分の夫と子供達に会うことが出来て喜びと切なさで一杯だった。やがて、天帝は改めて命を下し織女を連れ去った。悲しんだ牽牛は子供を連れてその後を追い、何回も転んでは立ち上がり必死に追い着こうとしたが、天帝の后が無情にも金の簪を使って大空に線を引くと、なんと広大な銀河が現れ牽牛と織女の間を塞いでしまった。こうして、牽牛と織女は銀河の両端に立ち、遠くから互いの姿を見ることしか出来なくなってしまった。
ただ、毎年旧暦の7月7日だけは牽牛と織女は会うことを許された。その時は、何千何万という大勢のカササギが飛び交い銀河の上にカササギの橋を作り、それを渡って2人が再会するようになった。
>>[寓話物語]
蛇足
古代、楚の国のある貴族が先祖を祭った後の礼として、手伝いに来てくれた客人達に一壷の酒を贈った。そこで、「皆で分けて飲むと足りないが、一人が飲めばまだ余るというもの。では、皆で地面に蛇を描き、最初に描き終わった者がこの酒を全部飲むということにしよう」と話が決まった。
やがて、一人の男が最初に蛇を描き終えた。男は酒を飲もうと酒壷を手にしたが、自分が一番早く描き終わったことを自慢したくなり「見ろよ、俺にはまだ蛇に足を添える余裕があるぞ」と言って蛇に足を画き加え始めた。
すると、その男が足を書き加え終わらない内にもう一人が蛇を描き終え、男の手から酒壷を奪い取り、「元々、蛇に足は無い。余計な事をしたな!」と言って一気に酒を飲み干した。蛇に足を書き加えた男は、自分が飲むべき酒を飲み損なったのである。
この寓話は、何をするにしても具体的な要求と明確な目標を持ち、しっかりした意志でそれを求め完成させるべきであり、勝利に酔うばかりでは必ず失敗を招いてしまうと人々に教えている。
和氏の璧
楚の国の卞和という者が山中で美しい石を見つけ、それを国王である厲王に献上した。そこで厲王はすぐに玉の職人にこれを鑑定させた。
しかし職人が「これはただの石ころにすぎません」と答えたので、厲王は卞和が自分を騙したと思い卞和の左足を切り落としてしまった。
厲王が亡くなった後、武王が即位した。卞和がまたも、かの石を武王に献上したところ、武王もやはり玉の職人に鑑定させた。しかし職人はかつての職人と同じ判断を下した。そして武王も卞和が自分を騙したと考え、今度は彼の右足を切り落としてしまったのである。
そして武王が亡くなり文王が後を継いだ。卞和はかの美しい石を抱えて楚山の麓で三日三晩、目から血が出るまで泣き続けた。これを知った文王はすぐに部下を遣って「世の中で両足を切り取られた人はお前だけではない。なのに、どうしてそんなにも泣くのか?」と訳を聞いた。
すると卞和は「私が悲しいのは足を失ったことではなく、宝の玉をただの石ころだと言われ、誠実な人間が嘘つきにされたことです。それが何よりも悲しいのです」と答えた。これを耳にした文王は、またも玉の職人に、かの美しい石を念入りに鑑定させたところ、遂にこの石が世にも珍しい秘宝の玉だということが分かり、この玉を「和氏の璧」と命名した。
この寓話は作者の韓非が、自分の政治的主張が国に認められず自分が排斥されたことを卞和の扱いに喩え、その悔しさを表している。しかしこの物語からはもう一つ深い意味を悟ることができる。それは、玉の職人は玉を知るべく、国を治める者は人を知るべく、そして宝を献上する者はその宝のためにあらゆる犠牲を惜しむことはないということだ。
膏肓(体の奥深いところ)に入る
ある日、名医の扁鵲が国君の蔡桓公に謁見して、側でしばらく観察した後、「陛下の皮膚には軽い病がありますので、早く治さないと毒が体内に入る恐れがございます」と申し出たが、蔡桓公はこれには耳を貸さず、「私に病などはない」と気にも留めなかった。これを聞いて扁鵲は仕方なく下がったので蔡桓公は側近に「医者というものは、体が丈夫な人間に病にかかったと嘘ぶき褒美をもらうのだ」と言った。
そして10日が過ぎ、扁鵲がまた蔡桓公に謁見し「私がお見受けするに、陛下の病はすでに筋肉に達しておりますので、早く治さなければ更に重くなることでしょう」と勧告した。しかし蔡桓公の機嫌を損ねたのか、相手にされなかったので彼は仕方なくまた下がった。
またも十日が過ぎ扁鵲が謁見し、「私がお見受けするに陛下の病はすでに胃腸にまで至っております。いち早く治さなければ、病はもっと重くなりますぞ」と諫めたが、またしても蔡桓公に無視されてしまった。
それから10日後、扁鵲は遠くから蔡桓公の姿を見つけると、すぐに逃げるように去っていった。そこで蔡桓公が部下を遣って「どうして何も言わずに行ってしまったのか?」と聞いてみた。
すると扁鵲は「皮膚の病なら煎じ薬や熱罨法で治せます。また病が筋肉に入っても、針灸でまだ治せるというもの。更に胃腸にまで達してもいくつかの煎じ薬を飲めば治りますが、病が体の奥深いところに入ってしまうと医者の力では治せなくなり、どうなるかは死神だけが決めることでございます。今、陛下の病はすでに骨髄にまで達しており、私にはどうすることもできません。」と答えた。
5日後、蔡桓公は全身が痛み始めたので、すぐ部下を遣って扁鵲を探したが、すでに扁鵲は身を隠した後で、やがて蔡桓公は病死してしまった。
この物語は、人の過ちや欠点などは適時直すべきであり、もし見ぬ振りをして放任し続ければ、小さな過ちは必ず大きく、軽い問題は必ず重くなり、いつか取り返しのつかぬ事態を起こしてしまうことを人々に諭している。
鄒忌、美を競う
斉の宰相である鄒忌は優々たる美男子だった。ある朝、彼は身支度を整えてからしばらく鏡で己の姿を眺めた後、「私と城北に住む徐公とはどちらが美男子か?」と妻に聞いた。これに妻は「あなたの方がずっと美男子ですよ。徐公などは足元にも及ばないわ」と答えた。
実は城北に住む徐公も、斉では1、2位を争う有名な美男子であった。鄒忌は自分が徐公よりも美男子であるということが信じられず、今度は「お前から見て、私と城北の徐公とはどっちが美男子かな」と妾に聞いてみた。すると妾は「徐公よりあなたの方がずっと美男子ですわ」と答えた。
翌日、客が訪ねてきたので鄒忌はまた「私と徐公のどちらが美男子ですかな?」と聞くと、来客は「徐公は貴方には及びませんよ」と答えた。
そしてある日、城北から当の徐公が鄒忌を訪ねて来たので、鄒忌は徐公と対面し、その顔立ち、姿、仕草をじっくりと観察して自分は徐公ほど美男子ではないことを深く悟り、徐公が帰った後にまた鏡で自分の姿を眺めて自分が徐公にはとても及ばないことを一層痛感した。
その日の夜。鄒忌は床に伏して真剣に考えようやく答えを得た。「妻が私の方が美男子だと言ったのは、私のことを愛しているからだ。妾が私の方が美男子だと言ったのは、私を恐れているからだ。そして客が私の方が美男子だと言ったのは、私に頼みごとが有ったからだ。つまり私は徐公よりも美しくはないのだ」こうして鄒忌は事の一切を悟ったのである。
この寓話は、人は己を知るべきであり、自分の身近な人の言葉や、自分に下心が有る人のおだてを簡単に信用してはならないと諭している。
井の中の蛙
ある浅い井戸に一匹の蛙が住み着き、楽しく日々を送っていた。ある日蛙は、東海からやってきた一匹の海亀に「ここは毎日楽しいぞ!遊ぶ時は柵の上を跳びまわり、休みたければ井戸の壁の欠けた瓦で休み、泥を踏んでも足を取られるまでは沈まない。それに、私はこの溝の水を独り占めしているから、跳びたい時に跳んで休みたい時に休めるんだ。本当に素晴らしい!お前さんも井戸に降りて見物して行かないか?」と自慢した。
そこで海亀は右足を井戸に踏み入れようとしたが、まだ左足を入れてもいない内に、もう右足が挟まってしまった。仕方なく海亀は井戸に降りるのを止め蛙に言った。「遥か千里というと遠いと思うだろう?だが、それは海の広さには敵わない。千尋といえば高いが、海の深さはそれでは表せない。夏の禹時代にものすごい洪水が有り氾濫したが、海の水は少しも増えなかった。また、商湯時代に8年の内7年は日照りに襲われたが、海の水は少しも減らなかった。久遠なる海はどんなに月日が流れても変わらず、どんなに雨が多くとも海面は高くならないんだ。これこそが東海に住む一番の楽しささ!」
海亀の話を聞いた蛙は内心不安になり、それまでの大きな目は輝きを失い、自分の存在がいかに小さいものだったかとつくづく感じた。
この物語は、少しばかりの見識や功績で、喜んだり自惚れてはならないと人々に忠告している。
>>[名勝物語]
五台山の伝説
中国には五台山、峨嵋山、普陀山、九華山という仏教の四大名山がある。伝説によれば、この4つの山はそれぞれ仏教の四大菩薩である文殊、普賢、観音と地蔵のそれぞれの修業の地である。そうした事から、各山は悠久たる仏教文化の歴史を持つと同時に中国の観光名所ともなっている。
五台山は中国山西省に位置し、5つの峰に囲まれていることからその名が付いた。この5つの峰の頂上はいずれも平らで広く、東台、西台、南台、北台、中台と呼ばれ、これを合わせて「五台」と呼んでいる。五台山の海抜の高さは華北地区で最高である。
昔、五台山は五峰山と呼ばれており気候が非常に悪かった。冬は滴る水が氷るほど寒く、春は大風が吹いて酷く荒れ狂い、夏は耐え難い蒸し暑さに見舞われる。おかげで地元では作物の栽培などが全く出来なかった。ある時、文殊菩薩が伝教のためにこの地にやって来た。苦しむ人々を目の当たりにした文殊菩薩は、ここの気候を変えようと決意した。東海の竜王のところに「歇竜石」という石が有り、その石は乾燥した空気を湿らす力を持っていると知った文殊菩薩は、老いた和尚に姿を変えて歇竜石を手に入れるべく東海に向かった。
東海へとやって来た文殊菩薩は、竜宮城の外に有る大きな石を見つけた。まだその石に近づいてもいないというのに、既に正面から吹いてくる冷たい空気を感じ取っていた。文殊菩薩が竜王に会って来意を話すと、竜王は申し訳なさそうに「他の物なら何でもお貸ししますが、あの歇竜石だけはお貸しするわけには参りません。あれは私達が何百年もの年月を費やして海の底から運び出した物です。竜の子たちが毎日仕事から汗まみれで帰った後、あの涼しい石の上で休んで英気を養っているのです。もしあの石を渡してしまえば、竜の子たちは休む場所を失ってしまいます」と断った。そこで文殊菩薩は自分は五峰山の和尚で、人々を苦しみから救うために助けを求めに来たのだと話した。
それを聞いた竜王は、内心では歇竜石を貸したくはなかったが、正面から文殊菩薩の願いを断りたくもなかった。そこで、この老いた和尚一人ではあの石を到底運べまいと踏んで「では、こうしましょう。歇竜石は非常に重いですが、もし誰の手も借りずにあなただけで石をお持ちになれるのなら差し上げます」と答えた。菩薩はこれに礼を言って、石に近づき呪文を唱えると巨大な石はあっという間に小さな石ころに変わり、文殊菩薩はその石ころを袖に入れて飄然と去って行った。これを見た竜王は目を丸くして驚き、悔やんでも悔やみきれなかった。
やがて文殊菩薩が五峰山に戻ったとき、空には焼け付くような太陽が昇り、長年の日照りで乾き切った大地は裂け、人々は深い苦しみに包まれていた。そこで文殊菩薩が歇竜石を谷間に置くと突然奇跡が起こった。五峰山はあっという間に涼しい天然の牧場と化したのだ。こうしてこの谷間は清涼谷と命名され、人々はここに寺を建て清涼寺と名づけ、五峰山の名も清涼山と改名した。今でも五台山は清涼山という別名をもっている。
五台山は国定の風景観光地であり、仏教を背景にした多くの人文景観と、珍しく美しい自然の景色が有る。全観光区には42ヶ所もの古い寺があり、そのうち南禅寺と仏光寺は唐代のもので、中国に現存する最も古い木造の建築物として1200年もの歴史を持っている。これらの寺院は、中国の古代宗教と宗教芸術の発展の歴史を表しているほか、古代の建築芸術の功績をも物語っている。更に五台山には至るところに不思議な形をした峰や岩があり、全てが植物で覆われ頂上には万年雪が有ることから、夏でもかなり涼しく素晴らしい避暑地になっている。
西湖の物語
中国東部の杭州にある西湖は、その美しく魅力的な景色で古くから内外の観光客を引き付けている。14世紀にイタリア人旅行家のマルコポーロが杭州に来たとき「ここに来た人は誰でも、自分が天国にいるように感じる」と西湖を絶賛した。
西湖は中国東部の浙江省の中心地の杭州市にあり、三方は山に囲まれ、湖が非常に美しい。著名な詩人、蘇東坡と白居易の名を借りて命名された2本の長い堤、白堤と蘇堤は緑色の錦の帯の様に波の上に浮き上がり、その上を歩けば色鮮やかな花々と遠くの湖、そして山を臨め、一足ごとに風景が変わる楽しさを堪能できる。西湖の四季折々の景色は人々の心を和らげてくれる。これらの景色は歴代の多くの文人を陶酔させ、感動した彼らは西湖の美しさを思う存分詠んだ。唐代の著名な詩人、白居易は「杭州を離れぬ理由は、半分はこの湖があるからだ」という意味の詩を作り、西湖に対する陶酔振りを表した。また宋代の詩人、蘇東坡は、西湖を古代の四大美人の一人である西施に喩え「晴れた光の中にあるも良し、雨に煙るもまた良し。西湖を西施に喩えれば、薄化粧も厚化粧も全て良し」と詠んでいる。西湖といえば、人々は内外で有名な「西湖十景」を思い浮かべるだろう。それは、蘇堤春暁、曲院風荷、平湖秋月、断橋残雪、柳浪聞鴬、花港観魚、三潭印月、雷峰夕照、南屏晩鐘と双峰挿雲の十景である。
また西湖に関しては様々な美しい伝説もある。例えば「断橋残雪」の中の断橋は、中国で誰もが知っている伝説《白蛇伝》の中で白娘と許仙が出会った場所である。
それによると、ある白蛇が1000年の修練を終えて、美しくしとやかな娘に変身し、もう1匹の青蛇も500年の修練を経て若さ溢れる娘に変身した。ある日、2人が西湖の断橋に遊びに来たとき、人込みの中から白娘は眉目秀麗な書生を見つけ一目惚れした。そこで小青がいくらか魔法を使い大雨を降らせた。書生の許仙は傘をさしながら船に乗りに湖辺にやって来て、大雨に降られ足止めされていた白娘と小青に出会った。許仙は傘を彼女たちに貸し、自分は大雨に打たれていた。優しくて初心な許仙を見た白娘は彼に一層惚れ込み、許仙もまた美しい白娘に愛を覚えたのである。その後、小青の取り持ちで2人は夫婦となり西湖の傍に1軒の薬屋を開いて人々の病を治しながら平和に暮らした。ところが金山寺の法師・法海は、白娘を人間世界に災いをもたらす妖怪だと見て、許仙に白娘は白蛇の化身だとこっそり告げ、それを確かめる方法も教えた。許仙は半信半疑であったが、端午の節句の日に邪気払いのために黄酒を飲む習慣があることを利用し、法海に教わった方法で白娘に強引に黄酒を飲ませようとした。その時既に白娘は身ごもっていたが、夫の勧めをついに断り切れず黄酒を飲んでしまい、元の白蛇の姿に戻ってしまった。これに驚いた許仙はショックで死んでしまった。そこで許仙を救うべく、白娘は身ごもった体で、人を蘇らせる霊芝を手に入れるため遥か1000里の昆侖山へ向い、霊芝の番人と激しく戦った。番人は白娘の愛に感動し霊芝を白娘に渡した。こうして生き返った許仙は、妻の白娘が心底自分を愛していると分かり、夫婦の絆はより一層深まったのである。
しかし、法海はそれでも人間世界に暮らす白娘を許さなかった。彼は許仙を欺いて金山寺に来させ出家を迫った。怒った白娘と小青は許仙を救出すべく、水族の兵を率いて金山寺を攻め立てた。彼女たちは絶えず魔術を使って大水で金山寺を沈ませようとした。これが有名な「水漫金山」である。一方、法海も負けずに大いに魔術を使ったので、出産を間近に控えた白娘はとうとう法海に敵わず、小青に掩護されてなんとか逃げ出した。そして彼女が断橋まで逃げてきた時、丁度、金山寺から逃げ出した許仙と偶然に出会った。許仙と白娘はこの災いから逃れた後、最初に出会った場所で再会したのだ。2人は、これまでの多くのことを思い出し抱き合って泣いた。その後白娘が息子を産み落とすと、また法海がやって来た。彼は無情にも白娘を西湖の傍にある雷峰塔に封じ込め、西湖の水が枯れ雷峰塔が倒れない限り永久に人間世界に戻れないよう呪いをかけた。
それから長い年月が流れ、更に修練を積んだ小青は再び西湖へとやって来た。彼女は法海に打ち勝って西湖の水を空にし、雷峰塔を倒して遂に白娘を助け出したのである。
白娘と許仙の西湖での出会い、そしてその後の物語は観光客に感銘を与えた。西湖は、その地を訪れた人々の忘れられない場所になっている。
ラマ教ゲルク派(黄教)の寺院~雍和宮~
北京市内には多くの特色ある古代建築があるが、漢、蒙古とチベットの3つの民族の特色を併せ持つ古代建築は雍和宮だけである。
雍和宮は内外でも知られたチベット仏教の寺院で、敷地面積6万㎡、1000余りの部屋がある。雍和宮は清の康煕帝が1694年に、四男・胤禎のために建立した邸宅だったが、1723年に胤禎が即位して雍正帝となってからは宮殿に移ってしまい、その後は雍和宮の半分を行宮とし、残る半分をチベット仏教ゲルク派に与えゲルク派の寺院とした。
ゲルク派はラマ教の一派で、その創設者ツォンカパ(別名ロサンタクパ1357~1419)は8歳で出家し17歳でチベットに向かいラマ教を研究した。後のチベットでは執政教派となり、この教派のメンバーが黄色の帽子をかぶっていたことから黄教とも称された。彼は黄教の改革に大きく貢献した。後のダライとパンチェンはその愛弟子である。
雍和宮の文物と古代建築は多く、中でも有名なのが"三絶"と呼ばれる文物で、その一つが法輪殿の後殿にある五百羅漢山だ。この山は高さ4m、長さ3m余りで紫檀の香木で出来ている。遠くから見ると静かな山や谷があり、青く茂った松、こじんまりした宝塔、古びた東屋、洞窟、そして曲がりくねった道が連なり、石の階段や小さな橋を見ることができる。その彫刻は素晴らしく、山や丘の立体感を巧みに表し、岩や洞窟のある場所には500の羅漢が浮彫りにされている。いずれも小さいが、1つ1つが生き生きとした造型と彫刻技術を組み合わせた珍品といえる。悔やまれることに、歴代の戦乱を経た中で現在ではこの山には499の羅漢像しか残っていない。
"三絶"の2つ目は、万福閣の弥勒菩薩像だ。万福閣はまたの名を大仏楼といい、雍和宮で最大の建築物である。高さは30mで三重造りの屋根は全て木造建築である。外観は3階建てだか、中に入ると天井の高い造りとなっていて、中央には世界でも有名な白檀香木で出来た弥勒菩薩がある。この菩薩像は高さ26mうち8mは地下、残る18mが地上の部分で、直径8m、重さ約100tという世界最大の1本の木から作られた彫刻像である。1979年に修繕された際、地下に埋まっていた百壇香木の部分が発見されたが、200年もの歳月を経ているとは思えないほど堅くしっかりしており、中国の古代芸術家の技術とその文物保護レベルの高さを痛感できる。
"三絶"の3つ目は照仏楼内の旃壇仏で、これは銅で出来た釈迦牟尼像である。像の後光と仏壇は楠で作られ、その彫刻技術は圧巻である。仏壇は天井までの2階分の空間にあり、夕暮れになると金色に輝く像が光背に映り、それが周りに反射して長明灯の明かりと交わって堂内を更に明るくする。仏壇は2本の金の竜を施した柱で支えられ、梁には金箔が施され、上部を99匹の竜が取り巻いている。ある者は首を上げて爪を伸ばし、ある者は天に昇る状態にあり、いずれも素晴らしい出来栄えである。
この"三絶"以外にも、雍和宮内の建築物とその装飾には特色がある。例えば、法輪殿は十字形になっていて、最上の部分はチベットの風格である5つの金塔になっている。濃厚な民族色が伺え、漢民族とチベット族の文化芸術が交わった結晶といえよう。また、文碑に書かれた4つの碑文は、清の皇帝が撰集した「ラマ説」で、ラマ教の謂れと清朝政府のラマ教政策が記され、漢字、満州語、蒙古語、チベット語の4つの言葉で綴られており、民族の団結を象徴している。雍和宮は1981年に一般公開されて以来、毎年100万人もの内外観光客が訪れている。現在の雍和宮は仏教の聖地であるばかりか、漢民族、満州族、蒙古族、チベット族の文化芸術の宝庫にもなっている。
応県の木塔
中国各地には1万に上る仏塔がある。中国仏教の源はインドにあるが、中国仏教の建築様式は中国の伝統的楼閣の建築様式を取り入れ、色々な名塔が生まれた。
中国北部の山西省にある仏宮寺の釈迦塔は通称、山西応県の木塔と呼ばれている。この塔は1056年の遼の時代から建造が始まり140年後に完了した。この木造の塔には高さ4mの土台の上に70m近くの塔が建てられ、底部の直径は30m、塔全体は3000m3ものチョウセンマツが使われ、重さは約3000tである。
この木塔の構造は、漢(紀元前206~西暦220)、唐(618~907)以来の民族の特徴である重ね様式を採用しており、設計全般は科学的で緻密、そして完璧な構造である。平面八角形を呈し、外から見ると五層だが、一層毎に暗層が付いているので実際は九層である。そして、どの層も外と中には2本の丸い柱があり、各層の外部には24本の柱、中には8本の柱が付いている。その合間に多くの斜めの支え木、梁、角材などがあり、異なる方向に向った複雑な構造をなしており、全体的には八角九層である。頂点は八角形で、尖った鉄刹が立ててあるが、この鉄刹は仏教の世界を象徴している。また蓮の花型の坐台は、相輪(塔の崇高さを表す)、火焔と宝瓶、宝珠からなる。塔のどの層の屋根の下にも風鈴が吊るしてあり、そよ風が吹くと清らかに鳴り響く。この木塔は荒野にありながらも細やかに作られ、古風でありながら優雅さを保っている。
木塔はこれまで900年あまり多くの地震などに耐えてきた。史書によると、木塔が出来てから300年後にマグニチュード6.5の地震が起き、余震が7日間続いた。この時、他の建造物は崩壊したのにこの木塔だけは残ったとある。ここ数年、応県一帯で大きな地震が起きたため木塔は揺れ動き、かの風鈴も鳴り響いたものの木塔は壊れなかった。また、近代の軍閥間の戦争でも、木塔は200発もの砲撃を受けたが全般的な構造は破壊されていない。中国では多くの古代の高塔が雷によって崩壊したが、この木塔だけはかなり大きな雷でも無事であった。では、何故この木塔はこれまでの災害を耐え抜き壊れずにいたのだろうか?
実は、この木塔の科学的な設計と構造がものを言ったのだ。例えば、耐震力が強いのは、多層様式を用いていて、現代建築に見られる多くの手段が用いられている。また、柔軟性の有る材料を使っているため、外部からの強い作用があっても変形しにくく、ある程度の原型を回復する能力を持っている。しかも組み立て構造の各節目にはいずれも凸部と凹部の結合方式を利用し、一定の柔軟性を持っている。木塔の4つの暗層は塔全体の構造を強化していて、塔の大量の枡形は弾力を持った節目の如く、外部からの強い圧力も軽減できるので非常によい耐震性がある。また、この塔が雷に打たれても破壊されなかったのは、頂上の長さ14mの鉄刹が、装飾だけでなく避雷針の役目を果たしているからである。また塔の周りの8本の鎖は雷による電流を地下に導く。このような避雷装置があったからこそ、木塔はこれまで壊れずに済んだのである。
応県の木塔は世界でも保存度が一番良く構造は巧妙で、外観は最も壮観な古代の高層塔である。この塔は、中国の古代の職人たちによる構造、力学、耐震、避雷の偉大な成果の賜物と言える。
ポタラ宮の物語
神秘な青海チベット高原に、世界で海抜が一番高く最大規模の宮殿式建築群がある。それは雄大で壮観なチベット仏教の宮殿式建築、ポタラ宮だ。
ポタラ宮は西暦7世紀に、吐蕃のソンツェン・ガンポが唐の文成王女を妃に迎えるため建てたもので、"プトロ"または"プト"と訳され、元は観音菩薩が住む島とされたので"第二の普陀羅山"とも呼ばれている。ポタラ宮はラサのポタラ山に建てられ、海抜は3700m、敷地面積は36万m2で、紅宮を中央に、白宮がその前に左右に向けて建造され、紅と白が混じった数層の非常に壮観な建築群である。
ポタラ宮の中央、つまりポタラ山の最高点はソンツェン・ガンポの修行室だ。ここは岩洞式の仏堂で、中には、ソンツェン・ガンポ、文成王女、ネパールの赤尊王女とソンツェン・ガンポの大臣ルトンツァンなどの塑像が安置してある。これは7世紀の吐蕃時期の貴重な芸術品である。
ポタラ宮はチベット仏教の典型的な宮殿建築だが、漢民族風の彫刻技術も有している。これは1300年前に、漢民族とチベット族が親戚関係を持った時に残されたものだ。
7世紀当時のチベットは吐蕃王朝時代にあり、王のソンツェン・ガンポは勤勉に執政に努め民を愛し、吐蕃は日増しに強大になっていった。彼は、中原地区の唐王朝と友好関係を築き、中原の進んだ技術と文化を導入するため唐の文成王女に求婚することを決めた。そこで使者のルトンツァンが土産物を手に唐の都・長安に来たところ、唐の周辺の幾つかの国も才色兼備な文成王女を娶るため使者を派遣して来ていることが分かった。そこで、唐の太宗帝は3つの問を出し、全て答えられた国に王女を娶らせることにした。
その最初の問題は、庭に上下の太さが同じ10本の材木がある。さて、どちらが根の部分でどちらが先端部分か。賢いルトンツァンは木を水中に放り込み、深く沈んだ方が根の部分だと答えた。根の部分は密度が濃く重いので沈み易いからだと答えたのだ。
そこで太宗帝は2つ目の問として1つの玉を取り出した。その玉の真ん中には、9つの小さな穴が空いており、その穴は全て玉の中で迷路の様に繋がっていた。太宗帝は使者たちに、「この玉の穴に細い糸を通してみろ」と言った。使者たちは、目を細めて玉の穴に細い糸を差し込んだりしていたが、ルトンツァンだけは違った。1つの玉の穴の口に蜜を塗り、糸で腰を縛った蟻に蜜の匂いを嗅がせ、玉のもう一方の穴の口から中へ入れたところ、蟻は蜜の匂いがする方向へと穴の中を進み、最後には玉のもう一方の口に出てきたのだ。こうしてルトンツァンは又、勝ったのだった。
太宗帝は今度は第3問として、100匹の母馬と100匹の子馬を一緒にし、どの子馬がどの母馬から生まれたのかを当てさせた。使者たちは、馬の毛色、顔かたちなどを基に色々と工夫したが、いずれも駄目であった。ところがルトンツァンは母馬と子馬を分けて馬小屋に入れ、翌日に母馬を1匹ずつ放したところ、子馬は自分の母が出てきたのを見て一目散に駆け寄り乳を飲んだので、暫くして全て見分けがついた。
ルトンツァンが全ての問いに見事に答えたのを見た太宗帝は、最後にもう1問出した。それは、500人もの宮女の中から誰が文成王女か当てるというものであった。実は使者たちは誰も文成王女を見たことが無かったので困り果てた。ところがルトンツァンは、文成王女が独特な香水を愛用しており、蜜蜂がこの香水の匂いを好むと聞いていたので、王女を当てる時にこっそり数匹の蜜蜂を持って行き、500人の宮女を前にそれを放したところ、案の定蜜蜂は文成王女の元へ飛んでいった。こうしてルトンツァンは、またも勝ったのである。これを見た太宗帝は、こんなに賢い大臣を遣わせている国王ならば必ずや英明であると信じ、文成王女をソンツェン・ガンポに嫁がせることにした。
山西の懸空寺
通常、寺は平地に建てられるものだが、中国北部の山西省には崖に建てられた寺がある。それが有名な懸空寺だ。山西省北部の大同市付近にある懸空寺は1400年前に建立され、中国に唯一残された、仏教、道教、儒教を一体化させ独特の寺だ。この寺は元は"玄空閣"と呼ばれていた。"玄"とは中国の道教の教理から出たもので、"空"は仏教の教理から来ており、後に懸空寺と改名した。その名の由来は、寺全体が断崖に引っかかっているということ、また、この状態を表す"懸"と"玄"が中国語で同音であることから来ている。
中国の多くの建築の中でも懸空寺は非常に不思議な建築である。この寺は峡谷の小さな盆地内に有り、両側は100m以上もある絶壁で、懸空寺は地上50mの地点にへばりつくように空中に引っかかっている。遠くから見ると、重なる殿閣を10数本の細い木が下から支えているのが見え、寺の上には大きな岩が突き出ているので、あたかも落ちてくるように見え観光客を驚かせる。この懸空寺には大小40の部屋があり、楼閣は桟道で繋がれている。桟道を渡る時、落ちるのが恐くて思わず息を殺し忍び足になるが、ギシギシという音がしても懸空寺は決して落ちはしない。
この懸空寺の建築的特色は、古代の断崖に引っかかるように建てられているため、上の突き出た岩が傘の役目となり寺を大雨から守り、高い場所にあるので洪水が来ても浸水することはない。また懸空寺の周りの山々も強い日差しを遮る効果があり、夏の日照時間はわずか3時間である。懸空寺が、木造であってもこれまで1400年もの間風化に耐え、良い保存状態を保てて来た理由がお解りだろう。
建築的特色で次に挙げられるのは懸空寺の"懸"という点である。多くの人はこの寺は10数本の木が支えとなっていると考えているが、実は寺を真に支えているのは、断崖に深く差し込まれた横木の梁であり、これらの梁は地元の特産であるツガの木を材料にしたものだ。桐油につけてあるのでシロアリに食われる心配はなく防腐作用もある。このほか、懸空寺のすぐ下の立木も重要な役割を果たしている。これらの10数本の木はいずれも細かく計算された上で、懸空寺を支え、寺の高さのバランスをとる役目を果たしている。
もう一つの特色は巧みだという点だ。寺の建立の際に立地条件や、断崖絶壁の自然的配置、必要とされる寺の各部分の建築的特徴に基づき、巧みに設計されている。例えば、この寺の最大級の建築である三官殿は崖に空間を作る構想を応用し、前の部分を木造に、後ろの部分は絶壁に多くの穴を開け殿堂を広くした。懸空寺の他の殿堂は小型で巧みに出来ており、殿内の各塑像も小さ目に作られている。殿堂の分布はユニークで、崖の斜面に沿って相対的に造られ、桟道に入ると迷宮に迷い込んだような感じを覚える。
さて、どうしてこんな断崖絶壁に寺を建てたのだろうか?実は、懸空寺の下に重要な道が通っていたので、ここを通ってやって来る信者の参拝に便宜を図るため崖に寺を造ったのだ。また、下に流れる川が大雨の度に氾濫したが、これは金の竜の祟りだと当時の人は考えたため、仏塔の変わりにこの寺を建てて竜を退治しようと考えた。そこで断崖絶壁にこの寺を造ったのだ。
懸空寺の桟道の岩壁には、その建造技術を称える"公輸天巧"という四文字が彫ってある。公輸とは2000年前に生きた職人・公輸般のことで、彼は中国で認められている建築師の祖だ。この四文字は、「公輸般のような天才職人だけがこのような建築物を作り出せる。」という意味である。
>>[成語物語]
『小時了了』
紀元前6世紀に生きた孔子は、中国史上で有名な思想家・教育家であり、彼の創立した儒家の学術は後の中国文化の重要な部分となった。長い封建時代に、支配者たちは皆、儒家の思想を正統なる思想とみなしていたので、孔子一族は名望のある家系とされた。孔子の直系の子孫の中には有名な人物が多く、彼の12代目の子孫である孔融もその一人である。次の「子時了了、大未必佳」(子供の時賢いからといって、大人になってから必ずしも有能になるとは限らない)の故事は孔融に関するものだ。
これは中国古代の著名な逸話集《世説新語》に載っている。
孔融は2世紀の漢代の優れた博学者である。彼は家庭環境のお陰で、幼い時から賢く言葉使いが巧みで、幼くしてその名を知られていた。
孔融が10歳の時、父親が洛陽の行政長官である李元礼を訪ねるというので、父について行った。李元礼は有名な学者であるが、傲慢なことでも知られていた。もし訪問客が無名の者であれば、屋敷の門番たちはその者を容易には通してくれなかった。
しかし当時10歳の孔融は李元礼に、一人で会いに行きたいと思った。そこで李元礼の屋敷に行き、面会を門番に申し出たが、来客が子供だと見た門番は適当に彼を追い返そうとした。そこで考えた孔子融は「僕は李先生の親戚だから先生はきっと会ってくれるよ」と言った。
これを門番から聞いた李元礼は、自分にはそんな親戚はいないはずだと不審に思ったが、一目会ってみようと来客を通すよう門番に命じた。
孔融を見た李元礼が「君は私とどんな親戚関係にあるのか?」と興味深く聞くと、孔融は「僕は孔子の子孫で、あなたは老子の子孫です。天下の人たちは、孔子が礼儀について、かつて老子に教えを請うたことを知っています。この二人は師匠と弟子の関係ですから、僕とあなたは代々交際が有ったということでしょう?」と答えた。
実は中国史上、孔子の時代にはもう一人の有名な哲学者の老子がいた。老子の本名は李耼で、道家思想の開祖である。孔子は自分が分からない問題を見つけては謙虚に李耼に尋ねたという。
孔融がこう答えた時、丁度、陳韙という者が訪ねてきた。陳韙も当時は名の有る学者で、その場にいた他の客人が孔融の言ったことを陳韙に聞かせた。すると陳韙は「小時了了、大未必佳」と言った。つまり、子供の時賢いからといって、大人になってから必ずしも有能になるとは限らないという意味だ。すると利口な孔融はすぐに「陳さんは小さい頃は、さぞ賢い子供だったのでしょう」と反駁した。それは、今の陳韙は無能な人間であるということを意味した。これには陳韙も言葉に詰まってしまった。
この他「孔融、梨を譲る」という故事も中国では広く知られている。それは、孔融は子供の頃、家族皆が梨を食べる時、彼は決まって大きな梨を年長の人に譲り、自分は小さい梨を取っていたことから彼の礼儀正しさを称えたものだ。
大人になった孔融は、博学で才能に富み地方の行政長官となった。しかし、その時既に国は分裂し始め、歴史上の「三国時代」が幕を開けていた。孔融は伝統的な学者で、常に時局に対する不満や不安を表明していたため、最後は中国史上で有名なもう一人の人物、曹操によって殺されてしまった。
「一たび鳴かば人を驚かさん」
紀元前9世紀から5世紀にかけてを中国では戦国時代と呼ぶ。この時期の諸侯国は数十にものぼり、各国は生き残るために正しく効果的な内外政策を実施することが重要となっていた。そこで国王に策を献ずることを専門にした策士という階級が生まれた。これら策士たちは、それぞれ哲学的思想や国を治める道理を持ち、意味深く活き活きとした例を用いて摂政者を説得し、自らの策を喜んで受け入れさせることを得意としていた。
この「一たび鳴かば人を驚かさん」という故事も、策士の淳于昆が国王に自らの策を受け入れさせた話である。
斉の威王は即位して間もない国王であった。彼は太子の頃から、賢く才能があった。文武の知識を懸命に勉強したほか、治国の政略をも研究し、即位したあかつきには斉の国を強大にしようと考えていた。しかし実際に即位してみると、国王の権威と楽しみは太子の時より遥かに大きいことが分かった。彼は毎日大臣たちにおだてられ、後宮に帰れば美女に囲まれながら最高級の酒や美食をむさぼる生活をし、太子時代の雄大な志を次第に忘れていった。
そしてあっという間に2年以上が過ぎたが、威王は相変わらず毎日酒と女におぼれ、国の政事などは全て大臣たちに任せっぱなしであった。そのせいで、政事は道を大きくはずれ、官吏たちは腐敗し、国力もどんどん弱まっていったため、多くの隣国が機会を狙っては斉へ攻め込むことを企んだ。誠実な官吏や百姓たちは非常に不安であったが、威王を怒らせて自分に災いが及ぶことを恐れて、王を諫めなかった。
淳于昆という策士がいた。彼は弁舌の才があり、言葉づかいも巧みで、よく興味深い隠語を使い人と意見を戦わせた。威王もよく隠語を用いて己の知恵を表すことを知った淳于昆は、威王を諫める機会をうかがっていた。
そんなある日、彼は威王に謁見する機会を得た。そして「王さま、なぞなぞを解いていただきたいのです」と切り出した。威王が「どんななぞなぞだ?」と聞いてきたので、淳于昆はすかさず「ある国に大きな鳥がいます。その鳥は宮廷に住んで3年も経つのに、羽を広げて飛ぼうともせず、声を出して鳴こうともせず、ただ目的もなく丸く縮まっているばかりなのです。それはどんな鳥なのか分かりますか?」と問うた。これを聞いて威王は、王として無為に日々を過ごしている自分のことを言われていると悟ったが、どうやって答えてよいものか迷った。しばらく考え込んだ威王は、「お前は知らないだろうが、その大鳥は飛ばなければそれまでだが、一たび飛べば必ずや高く空を飛ぶであろう。また鳴かなければそれまでだが、一たび鳴けば必ずや人々を驚かせるであろう。お前はただ見守っていればよい」と答えた。
それからというもの、威王は自らを改め奮起して世間を驚かせるようなことをしようと決心した。まずは国政を整え、全国の職に尽くす官吏を奨励し、腐敗や無能な官吏を厳しく罰した。軍事力を整え武力を強化させた。こうして斉の国は活気あふれる国へと生まれ変わった。これを見た斉の国を侵略しようと企んでいた国々も驚きを隠せず、「斉の威王は大鳥のように鳴かなければそれまでだが、一たび鳴けば人を驚かす」と称えたという。
後に「一たび鳴かば人を驚かさん」という言葉は成語となり、才能のある人が、その才能を一旦発揮すると、他人を驚かせるようなことを成し遂げることを指すようになった。
「百歩楊を穿つ」
中国の戦国時代には、多くの諸侯国が並存していた。各国には有名な人物がいて、これらの人物にまつわる物語も広く伝わっている。
秦の国の将軍である白起は、戦に非常に長けていた。彼が指揮をとった戦いは負けたことがなかったので、「常勝将軍」と呼ばれていた。ある年、秦の国王は白起に兵を率いて魏の国に攻め込むよう命じた。しかし逆に魏の国が秦の国の手に落ちれば、他の多くの国も反応する可能性があり、人々の間には不安が広がった。
蘇厲という策士がいて、魏の国を攻めないよう白起を説得するよう命じられた。そこで蘇厲は何とかして白起に会い、次のような故事を聞かせたという。
ある有名な弓の達人がいた。その名を養由基という。養由基は幼い頃から弓が得意で、100歩離れた柳の葉を射抜けるほどの腕を持っていた。また当時もう1人、潘虎という名の勇士がいた。彼もまた弓術に長けていた。ある日、2人が広場で互いの腕を競っていると、多くの人が集まってきた。的は50歩ほど離れた場所にあり、そこには木の板が置かれ、板の中央には赤い印がつけられていた。潘虎は弓を引き、一気に3本の矢を命中させたので、見ていた人々は喝采した。すると養由基は辺りを見渡し「50歩なんて近すぎだし、的が大きすぎる。100歩離れて柳の葉を射る勝負をしよう」と言い、100歩離れた柳の木を指差し、見ていた人に一枚の葉を選ばせ、赤い印をつけさせた。彼が矢を放つと、見事に葉の中心を射貫いた。これを見た人々は誰もが言葉を失うほど驚いた。潘虎は、己の腕がそれには及ばないと分かったが、養由基の矢が葉を射貫き続けるとも信じられず、木の所まで行き、新たに3枚の葉を選び番号をつけた。そして養由基にこれを順番に射るよう求めた。これを聞いた養由基は柳の木の下まで来て、葉の番号を確かめてからまた100歩離れて3本の矢を放った。矢は見事にそれぞれの番号のついた葉に的中した。これには周りの人々も大喝采。また潘虎も心服した。しかし周りの歓声をよそに「うん、100歩離れて柳の葉を射貫く腕があれば、私の指導を受ける資格があるということだ」と養由基の傍にいた1人が言い出した。「誰だ?生意気な」と怒った養由基は「どうやってこの私に弓を教えるというのか?」と迫った。するとその人は「教えるのは弓術ではなく、どうすれば自分の名声を守るかだ。もしあんたの力が尽きれば、或いはほんの少し腕が震えて的を外せば、あんたの百発百中という名声はひどく傷つくと考えたことがあるか?弓の達人なる者は、その名声を守らなければならん」と平然と答えたのである。
蘇厲はその故事を通して「常勝将軍と呼ばれているあなたですが、魏の国は必ずしも容易に落とせる国ではありません。もし戦に勝てなければ、自分の名声を傷つけることになりますぞ」という忠告をしたのである。これを聞いた白起は、自分の百戦百勝の名声を守るために、易々と出陣はしまいと考え、体の不調を口実に魏の国へ攻め込むことをやめたのである。
「五斗米のために腰を折らず」
陶淵明は中国古代の著名な文学者である。彼の詩は権力や富を軽視し、権勢に決して迎合しないという姿勢が書かれていることで知られている。
陶淵明が生まれたのは西暦365年。彼は中国で初といえる田園詩人である。彼が生きた時代は、政権が更迭し社会は不安定となり、人々は苦しい生活に苛まれていた。西暦405年、陶淵明は家族を養うため、家から程近い彭澤県で県令となった。ある冬、上官の命で一人の監視官がやって来たが、この監視官は下品な上に傲慢で、着任早々すぐ挨拶に来るよう求めた。
陶淵明は上官の名を盾に傲慢な態度をとる人間をひどく軽蔑していたが、命令とあっては仕方なく監視官に会う準備をした。そこで彼の秘書は「あの監視官は些細なことでも過酷な要求を出す人間ですぞ。ちゃんとした服を着て、丁寧な態度で臨んでください。でないと、あの監視官は上司にあなたの悪口を言うかもしれませんよ」と忠告した。まっすぐな性格の陶淵明はこれを聞いて我慢しきれず、「私は死んでも、わずか五斗米の扶持のために、あんな人間に頭を下げたくはない!」と言った。彼はすぐに辞表を出し県令の職を去った。働いたのはわずか80日あまりだった。その後は二度と仕官することはなかった。
官界を引退した陶淵明は、故郷で農業に励み、自給自足の生活を始めた。そして暮らしの中から、自分の帰結を見出し、田園を讃える多くの美しい詩歌を作った。彼は「暖暖たる遠人の村、依依たり墟里の煙」と農家のゆったりとした自由な暮らしを詠い、「家の垣の下に咲いている菊を摘んで立ち上がる」「ゆったりと南方の山を見るともなく眺める」と日々の労働の感慨を詠い、「豆を種う南山の下、草盛んにして豆苗稀なり」、「春作の苦を言わず、所懐に負くを常に恐れる」と農民の労作の辛さを詠った。
しかし、田園生活は楽しいばかりではなかった。働かなければ収穫はなく、天災や人災に遭えば、努力しても何の収穫も得られない。晩年の陶淵明の生活は貧しかった。また火事で財産を失ったことで、家族の生活は一層苦しいものとなった。そして63才の時、陶淵明は貧しさと病に苦しみながらこの世を去った。
陶淵明の最も大きな功績は、彼がその体験を基に、卓越した詩歌の才能を生かし、農業と田園をテーマにした詩文を多く書き残したことである。それまでの詩人たちの詩にはあまり登場しなかった畑、麻、鳥、犬などは、彼の詩によって、生き生きと表現され、また彼の大自然に対するこのような親しみこもった描写が人々を感動させた。
詩以外に、彼は多くの散文を残した。中でも最も知られているのは『桃花源詩並記』である。この作品は理想の社会を描いている。そこには動乱もなく、政権の交代もなく、王と臣との区別もなく、兵役や納税もなく、人々は豊かな素晴らしい暮らしをしている。彼は美しく優れた言葉で、この作品に尽きることのない魅力を与えた。後世、このような理想郷を「桃花源」と呼ぶようになった。
彼が県令の職を去ったことで、官界から一人の役人が消え、文壇に一人の文学者が生まれた。陶淵明の「五斗米のために腰を折らず」という故事は、中国の知識人たちの剛直な、そして決して権勢に迎合しない心意気を表している。また現在も日常生活の中で、己の気骨を以って、利益を得るようなことをしない姿勢を「五斗米のために腰を折らず」と言う。
「東方朔、長安にて昇格を求む」
東方朔は中国では誰もが知る昔の知恵者であり、彼に関する物語は広く伝わっている。
東方朔は紀元前3世紀の漢代の文人であり、その文章はユーモアに溢れている。彼はもともと帝都・長安で位の低い官吏であった。当時、皇室の馬の世話をするのは小人の仕事で、身分は低いが皇帝に近づく機会は多かった。これに目をつけた東方朔は、何とか皇帝の気を引き重用されたいと考え、ある策を思いついた。
ある日、東方朔は小人に「最近陛下は、お前たちのような者は背が低く、農耕しても力はなく、軍隊に入っても戦で負ける。また地方の役人になっても他人は従わない。だから、お前たちを生かしておくのは国の財物を無駄にしているだけだとして、小人を皆殺しになさるおつもりだぞ」と言った。それを聞いた小人が、恐怖のあまり泣き出したので東方朔が「ならばお前たちが殺されずに済む方法を教えよう」と言うと、その小人はたいそう感謝し、どんな方法かと聞いた。すると東方朔は「お前はすべての小人を呼び集め、陛下にお目にかかった時に土下座して、自分たちの背が低いことを許して頂くのだ」と教えた。果たして、皇帝が外出する際、すべての小人が集り土下座して許しを請うた。これには皇帝、わけが分からない。そこで小人たちは「陛下が私共を死刑になさるつもりだと東方朔が言いました」と言った。
不審に思った皇帝はすぐに東方朔を呼び、なぜそんな嘘を言って人を惑わしたのかと聞くと、東方朔は「大それたことを申しました私めは、死刑になるでしょうから、はっきり言わせていただきます。あの小人たちの背はとても低いのに毎月の一石の米と200銭の扶持をもらっています。しかし私めの背は2メートル近くありますのに、毎月の扶持は一石の米と200銭だけです。あの小人たちは、それだけもらえば腹が張るほど食べられますが、私めは飢え死にしそうなのです。これは不合理だと存じます。もし陛下も私めの申し上げたことが正しいと思われるなら、お改めになって下さいませ」と答えた。
これを聞いた皇帝は思わず大笑いした。見事に東方朔の目的は達成され、皇帝はほどなく彼を側近とした。これが東方朔の「長安にて昇格を求む」という説話である。
ほかにも東方朔に関する説話がたくさんある。
ある夏の日、東方朔と大臣たちが仕事をしていると、皇帝の世話役が珍しい野獣の肉を壷に入れ運んで来た。皇帝から賜ったものだと言う。当時の決まりでは皇帝の詔書を読み上げてから配るのであったが、東方朔はそれを待たずに勝手に肉を切り取り家に持ち帰った。これには大臣たちも驚き、そのうちの一人がこのことを皇帝に告げた。皇帝は彼を呼びつけ、理由を説明させた。すると東方朔は平然として、「あの肉は陛下が下さったものですから、詔書を読み上げるのは、時間の問題に過ぎません。私めがその前に肉を切り取って持ち帰りましたのは、私めの胆の太さを示しております。また切り取った肉もわずか一切れで、これは私めの廉潔さを示しております。そして私めが肉を持ち帰りましたのは、両親に食べさせるためであって、これは私めの親孝行なる行為を示すものでござります。としますと、陛下は果たして私の罪を問うことができますでしょうか?」と答えた。これを聞いた皇帝も、さすがに笑って許したそうだ。
「烽火で諸侯を弄ぶ 」
中国歴代の封建王朝では、王が国の最高支配者であり、至高無上の権力を持っていた。しかしそんな王でも国家権力を遊び道具とし、身勝手なことばかりしていると、いつかは必ず自らを滅ぼすことになる。
周の幽王は紀元前8世紀の周王朝の最後の王である。彼は暗君であり、国政などはそっちのけで、毎日後宮で美女たちに囲まれて暮らしていた。幽王は妃の中でも特に褒姒を可愛がり、彼女の願いならなんでも叶えてやっていたが、褒姒はいつも憂鬱な顔をしてめったに笑顔を見せない。そこで幽王は彼女を笑わせるため、色々とやってみた。しかし、そうすればするほど褒姒は悲しい顔した。これに幽王はひどく頭を痛めていた。
ある日、幽王は褒姒を連れて驪山の烽火台へとやって来た。幽王は烽火台を「戦が始まったことを知らせるために使う」と教えた。当時、国境から帝都の間には、一定の距離を置いて高い烽火台が作られ、日夜兵士を見張りに立てていた。敵が辺境に攻めてくれば、この烽火台にいる兵士がすぐさま烽火を上げて次の烽火台に知らせ、これによって辺境での出来事を帝都にいち早く知らせるのだった。そして帝都が危険にさらされた時も、周王朝に帰属する諸侯たちに知らせるために驪山の烽火台で烽火を上げて、援軍を求めるのであった。
幽王の説明を聞いた褒姒は、こんな古臭い土台が、遥か千里から援軍を呼べるとは信じられなかった。そこで幽王は褒姒を喜ばせるため、烽火台の兵士に烽火を上げろと命じた、烽火は次々と上がった。これを見た各地の諸侯たちは、それぞれ軍を率いて応援に向かった。
ところが各諸侯が必死に驪山まで来てみると、なんと幽王と妃が台の上で酒を飲んでいた。敵の姿などどこにもない。ただの戯れだと分かっても、諸侯たちは、相手が幽王なので怒ることもできず、ぶつぶつ言いながら兵を連れて帰っていった。これを見た褒姒は、いつも胸を張って堂々としている諸侯たちがすごすごと帰っていく姿がおかしく、微かに笑った。これを見た幽王は自分の愛する妃が笑ったので、大いに喜んだ。そこで諸侯たちが帰った後、幽王はまた烽火をあげよと命じた。再び諸侯たちは慌てて兵を率いやってきたが、またも幽王と褒姒に騙されたと知って顔をしかめた。その様子を見た幽王と褒姒は笑い転げた。このように、幽王は繰り返し烽火を上げさせ諸侯たちを弄んだため、ついに烽火が上がっても誰一人来なくなった。
のちに、幽王は褒姒を皇后に封じ、褒姒の息子を太子にするため、時の皇后と太子の位を返上させた。皇后の父である申の国王がこれを知り、娘がないがしろにされたことに激怒し、他の国と手を組み周を攻め込んだ。慌てた幽王は各諸侯からの援軍を呼ぶために、烽火を上げた。
しかしもう諸侯たちは幽王のことを信用しなくなっていた。いくら烽火が上がっても、応援に来る諸侯は一も人いない。こうして帝都はほどなく攻め落とされた。幽王は殺され褒姒は捕まり、周王朝は滅んだのである。
「韓信の股くぐり」
紀元前2世紀の秦王朝は、中国史上初めて統一を成し遂げた封建王朝で、中国の万里の長城はこの時代に造られた。しかし、親子二代の皇帝の暴政により、秦の支配はわずか15年で終わってしまった。秦の末期、各地で農民蜂起が起こり、多くの英雄が現れたが、その中でも韓信は特に名を馳せた軍事的統帥であった。
韓信は中国古代の有名な武将だが、幼くして両親を失い貧しい生活だった。戦で大きな手柄を立てる前は、商いもできず農業も嫌ったことから、貧しくいつも腹をすかしていた。ある日、彼は地元の小役人と知り合いになり、食事時にこの小役人の家へ行ってはただで飯を食わせてもらっていた。しかしこのような韓信を嫌っていた小役人の妻は、食事の時間を早めてしまった。韓信が飯を食いに行った時には、もう飯はなくなっていた。怒った韓信は、この小役人と絶交してしまった。
韓信は空腹を満たすため、淮水という河で魚を釣っていた。洗濯をしていたある婆さんが、腹を空かしている彼の様子を見て、自分の弁当を彼に食わせてくれた。このようなことが数日続き、韓信はこれに感動して、婆さんに「いつかこの恩はちゃんと返します」と言った。ところが婆さんはこれを聞いて怒り出した。「あんたは男なのに自分すら養えないから、こうして飯をあげたんだよ。はなから恩を返してもらおうなんて思ってないよ」。
この言葉に韓信は顔を真っ赤にし自らを恥じた。そして、必ずや出世してみせると心に誓った。
韓信の故郷・淮陰には、彼を馬鹿にする若者たちがいた。ある日、そのうちの1人が、体が大きい上に剣まで身につけている韓信を、実は臆病者ではないかとみくびり、人通りの多いにぎやかな場所で彼の前に立ちはだかった。そして「お前に勇気があったら、この俺を切ってみな!臆病者なら、俺の股をくぐれ」と言った。これを見た人々は、この若者が韓信に恥をかかせようとしているのを知り、当の韓信がどう出るかを見守った。韓信はしばらく考えていたが、やがて黙ってその若者の股の下をくぐったので、野次馬たちは「こいつは臆病者だ!」と嘲り笑った。これがのちに伝わった「韓信の股くぐり」である。
実は韓信ははかりごとに長けた人物だった。当時、時勢が変わると見てとった韓信は、いつかは出世する道が開けると確信し、兵法を学び、武芸の修練に励み続けた。紀元前209年、各地で秦王朝に反抗する農民蜂起が起こり、韓信はそのうちのかなりの勢力を持つ蜂起軍に加わった。この蜂起軍の首領は、漢王朝の建国皇帝・劉邦だった。ところで韓信、当初は食糧と飼料を運ぶ係りを命じられ、志を得られず毎日くさっていたが、のちに劉邦の策士である蕭何を知り、いつも時勢や兵法を論じていたので、蕭何は韓信が非常に才能のある人間であることを悟り、ことあるごとに劉邦に彼を推薦した。しかし当の劉邦は韓信を重用しようとはしなかった。
そんなある日のこと、ここでは出世できないとあきらめた韓信は黙って劉邦の蜂起軍を離れ、他の蜂起軍を頼って行った。これを知った蕭何は、劉邦には黙って、韓信の後を追った。劉邦はこのことを知り、2人が逃げたと思ったが、数日後に蕭何が韓信を連れて戻ってきたので大喜びした。「蕭何や、どうしたのじゃ?」と劉邦は聞くと、蕭何は「あなた様のために人を追いかけていったのですよ」と答えた。「これまで逃げ出した武将は数十人もいたが、韓信だけを連れ戻したのはなぜじゃ?」。「これまで逃げ出したのは、そこらにいるつまらん人間ばかりでしたが、韓信は得がたい奇才ですぞ。天下をお取りなさるには、韓信以外に頼れるものはおらんでしょう」。自分が信じきっている蕭何がこう言うものだから、劉邦は「では、そちの下で武将をやらせよ」と言うと蕭何は「それだけでは、韓信は残りますまい」と勧めた。そこで劉邦は、「では、奴を大将軍にしよう」と言い、韓信は食糧飼料運びから一躍大将軍となった。その後、劉邦が天下を治めるに至るまで、勝ち戦を続け輝かしい手柄を立てたのである。
「粥を分けて漬物刻む」
范仲淹は中国史上、非常に優れた政治家そして文学者と言われている。政治家として卓越なる能力を発揮し多大な貢献をした。このほか文学や軍事でも非凡な才能を見せた。名著『岳陽楼記』に中の「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という名句は、後世の人々に愛され、広く詠まれている。ここでは彼の少年時代を紹介しよう。
范仲淹は西暦10世紀の宋代の人で、3歳で父を失い、家計はとても苦しかった。彼は10代で学問を求めて故郷を離れ、当時有名だった応天府書院に入った。貧しかった范仲淹は、十分な食事もできず、一日に一度、粥を口にすればいいという有様だった。朝早くお粥を煮て冷まし、固まったらそれを三食分に分けて、漬物を細かく刻んだものをのせ、これを一日分の食事にして凌いでいた。
ある日、范仲淹が粥を食べていると、ある友人が尋ねてきた。友人は彼が食べているものを目にし気の毒に思い、「何かうまいもの食べるように」と金を出した。ところが范仲淹は遠まわしにきっぱりと断った。そこでこの友人は、翌日たくさんの料理を持ってきた。范仲淹は仕方なく受け取った。
数日後、訪ねてきたその友人が、数日前に持ってきた料理に箸が付けられておらず、魚料理が腐っているのを見て怒り出した。「君は高潔すぎる。わずかな好意も受け取らないとは、友人として悲しいよ!」と言った。范仲淹はこれを見て笑いながら、「誤解しないでくれ。食べないんじゃない。食べる勇気がないんだ。食べてしまったら粥と漬物が喉を通らなくなってしまうよ。そう怒るなよ」と答えた。この答えに友人は感心し、ますます彼を尊敬するようになった。
その後、ある人が范仲淹の志を尋ねた。彼は「私の志は、優れた医者か、或いは立派な宰相になることだ。優れた医者は人の病を治せるし、立派な宰相は、国をしっかり治めることができる」と答えた。後に范仲淹は本当に宰相となり、宋代に名を知られる政治家となった。
范仲淹はまた、教育事業の振興と官僚機構の改革を治政の2本柱とし、全国に学校を作り、国が必要としている各種人材を育成した。彼は自らの行いをもって才能のある人物を指導した。後に知られる政治家と文学者・欧陽修、文学者の周敦頣、哲学者の張載などが彼の援助を受けている。
范仲淹は政務に追われながらも文学的創作に励み、多くの傑作を残している。また彼は浮薄な内容の作品を嫌い、文学と現実社会を結びつけ、社会の発展と人間の発展を促すことを訴えた。これは後世の文学の発展に深い影響を与えている。
「洛陽の紙価を高らしむ」
印刷業が発達していなかった時代、詩歌と文章は人の手によって書き写され伝えられていた。左思という文学者が素晴らしい文章を書き、それを貴族や富豪たちが争って書き写したため市場の紙の価格が高騰したことは、後に美談として伝えられている。
この物語の主人公・左思は西暦250年に生まれた晋代の文学者である。左思はいわゆる醜男で、幼い時には特に才能は見られなかった。書道と琴を学んだが、いずれも中途半端だった。それでも父の激励の下学問に励み、その結果素晴らしい文章が書けるようになった。
左思が20歳の時に、妹の左芬が宮女として王宮に入ることになり、一家で都の洛陽に移った。こうして左思は上流社会の文人らと接触する機会を得た。創作レベルもかなり向上し、ついに世に伝わる『三都賦』を書き上げた。
『三都賦』は左思が30歳の時の作品で、当時の文人・皇甫謐が序言を書き、張載が注釈を加えた。先に文人たちが読み回し、のちに貴族や富豪が争って、この作品を写し始めたので、洛陽の紙は品不足となり、値段も高騰したという。これがかの「洛陽の紙価を高らしむ」という話である。
では『三都賦』は一体どのような文章なのだろうか?賦とは当時の文体の一種である。この文体は対句で古典の文句を使い、字句の使用には修辞のきらびやかさが求められた。そして「三都」とは、晋の前の三国時代の蜀、呉、魏の都のことである。『三都賦』には「蜀都賦」、「呉都賦」、「魏都賦」が含まれ、当時のそれぞれの情勢、物産と制度を描いている。しかし、作品全般の成果は形式だけではなく内容にもある。左思はこの作品を完成させるため、多くの時間を費やして典籍を調べ、実施調査まで行い、描写するものには信憑性を求めた。そして資料が揃うと左思は家の中、庭、ひいてはトイレにも紙と筆を置き、ふと思いつくとすぐに記録し、10年の歳月をかけてこれを完成させたと言う。
『三都賦』は三国時代の社会生活を幅広く紹介し、また当時の皇帝から庶民までが注目する内容、例えば国の統一などの問題にも触れ、当時のみならず後世にも高く評価された。
一人の文人として左思は、この『三都賦』だけに頼ってその名を残したのではない。このほかに多くの詩歌、散文を書いている。中でも有名なのが、『詠史詩』である。彼はこの作品で、国と民を憂う己の思想を表し、後世の多くの人がこれに学んでいる。
>>[智慧物語]
「がま、竜と戯れる」
中国の後漢時代、都の洛陽付近の地区では頻繁に地震が起こった。史書によれば、西暦89年から140年までのおよそ50年間に、この一帯で起きた地震は33回にも上り、中でも119年に起きた2回の大地震の被害は十数の県にも及んだ。多くの建物が倒壊し、人と家畜が犠牲になったことから、人々は地震をひどく恐れるようになった。当時の皇帝は地震が起こるのは、神を怒らせてしまったせいだと考え、より多くの税金を庶民に課して、それを祈祷行事に注ぎ込んでいた。当時、張衡という科学者がいた。彼は天文、暦法、そして数学にも長けていた。彼は地震に関する迷信を信じず、地震は自然現象であるとした。地震に関する知識が足りないと感じた彼は地震の研究に力を入れ始めた。
張衡は地震が起きる度にそれを細かく観察、記録し、科学的手法で地震発生の原因を突き止めようとした。長年にわたって実験を繰り返した末、西暦132年に、ついに恐らく中国だけでなく世界でも最初の地震を予報する機械を作り出した。これを「地動儀」と言う。
この「地動儀」は青銅で作られており、丸くて大きな酒樽のような外観だった。直系は1メートルあり、中心に1本の太い銅柱が差し込まれていた。外部には8本の細い銅柱が付けられ、そのまわりを8匹の竜が囲んでいた。竜の頭は微かに上を向き、それぞれ東、南、西、北、東北、東南、西北、西南の8方向を指していた。そして一つ一つの竜の口には銅の玉がはめ込まれていた。竜の頭の下には、口を大きく開いた銅製のがまが置かれ、竜の口の中にある銅の玉が落ちてくれば受け取ることができるようになっていた。がまと竜の仕草は非常にユーモラスで、互いにふざけあっているように見える。そこで人々は「地動儀」の外観を「がま、竜と戯れる」と形容した。どこかで地震が起きると、「地動儀」の銅の棒はすぐにその方向に傾き、その方向にある竜の口から銅の玉ががまの口に「ドン」と音をたてて落ち、地震の起きた方向を知らせた。当時の政権の関係機構はこれに基づいて、救助活動と善後策を実施した。
西暦133年、張衡の「地動儀」は洛陽で起こった地震を正確に探知したばかりでなく、その後4年の内に洛陽地域で前後して3回起こった地震も探知し、一度も誤りはなかった。しかし西暦128年2月のある日、張衡たちは西方に向った竜の口の銅の玉ががまの口に落ちたのに気付いたが、揺れは全く感じなかった。このため「地動儀」に疑問を抱いていた学者は、「地動儀」は正確ではなく、洛陽付近で起きる地震しか探知できないと主張した。だが、4日ほど後に洛陽の西部にある甘粛省から使者がきて、地震の発生を報告した。これを聞いた人々は、張衡が造った「地動儀」は、単なる「がま、竜と戯れる」という玩具ではなく、非常に役立つ正真正銘の科学的な装置であると知った。こうして、中国では機械を用いて遠く離れた場所で起きた地震を観測し記録するようになったのである。
「2つの桃、三勇士を殺める」
紀元前7世紀の中国は、諸侯国が並存していた。当時の斉の国には田開強、古冶子、公孫捷という3人の武士がいた。勇ましく戦に強い彼らは「三勇士」と呼ばれ、斉の国王の信頼を得ていた。そして3人は次第に傲慢になっていった。非道な上に横暴で、怖いものなしという態度だった。当時の策略家だった陳無宇は、この3人を買収し、国王を引きずり落として政権の座に着こうと企んだ。
斉の宰相である晏嬰は、悪の勢力がはびこっていく様子に不安をおぼえていた。国の安定のため、彼は三勇士を殺そうと考えた。強みは知識だけという晏嬰は、国王の信頼を得ている三勇士を如何にして抹殺するかを考え続けていた。
そんなある日のこと、斉の隣国・魯の王が斉を訪れたので、斉の国王は王宮で歓迎の宴を開いた。これに晏嬰、三勇士と他の大臣たちも出席した。そして、この時、横暴な態度を取る三勇士を見て、晏嬰はある策を思いついたのである。宴もたけなわとなった頃、晏嬰は王宮の裏庭から6つの桃を摘んできた。そして6つの桃は、両国の国王が1つずつ食べ、両国の宰相が1つずつ食べたので残りは2つとなった。これを待っていた晏嬰は、周りにいる文武諸官にそれぞれ己の功績を報告させ、最も功労の大きい者に残りの桃を食べさせるよう斉の王に薦めた。
これには斉の王、宴が一層盛り上がると考え、文武諸官に己の功労を述べるよう命じた。すると三勇士の一人、公孫捷が「かつて私は陛下と狩りに出かけ、自ら一頭の虎を殴り殺し、陛下を危機から救いました。この功労は大きいでしょう?」と言って前に出た。すると晏嬰は「それは大きい、賜るべきだ」と答えたので、斉の国王は公孫捷に桃を一つ与えた。公孫捷もこれを喜び有頂天となった。
これを見た三勇士の一人、古冶子が慌てて「虎を殴り殺すなんて大したことない、昔私は暴れ狂う黄河で大亀を殺し、陛下のお命を救ったことがある。これは公孫捷の功労より大きいはず」と言うと、国王はまさにそうだと思い、最後の桃を古冶子に与えた。
こちら三勇士の最後の一人、田開強は、もう居ても立ってもいられなかった。彼は怒り出し、「昔軍を率いて敵国を攻め、敵兵を500人以上捕まえ、国のために貢献した」と言い、国王に「自分の功労はどうなのか」と聞いた。これには斉の王、「確かにお前の功労は大きい。だがもう遅い。桃はもうない。改めて褒美をとらそう」と慰めた。
しかし田開強はこれに耳を貸さず、国のために戦った自分が国王に冷たくされ、みんなの前で恥をかかされたと思い、激怒しその場で剣を抜いて自害してしまった。それを目にした勇士の公孫捷も、「私の功労は小さいのに褒美をもらったが、功労が大きい田将軍が冷遇されたるは、確かに不合理である」と言って剣を抜き自害した。すると残った勇士の古冶子も前に出て「我ら3人は生死を共にすると誓った仲。2人が死んだ今、私も一人で生き延びようとは思わん」と言って己の命を絶ったのである。
こうして、三勇士が皆あっという間に自害してしまったので、来賓たちも非常に驚いた。こうして晏嬰は己の知恵を用い、たった2つの桃を使って、3人の勇士を殺し、国を災いから救ったのである。
「西門豹の物語」
西門豹は紀元前5世紀の人物であり、極めて有能だったので鄴地県の県令に命じられた。赴任した西門豹は、まず地元で名声がある老人たちを招き、百姓たちにはどんな苦しみがあるのか聞いてみた。すると老人たちは、「一番の苦しみは毎年川の神に嫁として娘を捧げることで、そのせいで鄴地県はひどく貧しい」と答えた。
実は黄河沿いの鄴地にはこんな言い伝えがあった。黄河には川の神が棲んでいて、もしその神に娘を捧げなければ、黄河は氾濫し、みな溺れ死ぬという。このため長年にわたって、地元の役人と巫女たちはこの嫁取りの儀式を熱心に行いそれを口実に特別な税金を百姓に強いて、私腹を肥やしていた。
老人たちが言うには、、毎年決まった時期に、老いた巫女が見回りにやってきて、貧乏な家の美しい娘を見つけては、「この娘は嫁として川の神に捧げるべきである」と言う。すると役所から人が来てその娘を強引に連れて行き、彼女を部屋に閉じ込め、新しい服を着せ、美味いものを食べさせた。そして10日後には、川の神が嫁を迎える時が来たと言って、着飾った娘をむしろの上に座らせ、そのまま川に流すのである。最初のうち娘はむしろと共に水面に浮いているが、まもなく川底に沈んでいく。すると巫女たちが儀式を行い、川の神はすでに嫁を迎え入れたと言う。
西門豹は何も言わなかったので、老人たちもこの新しく赴任してきた県令にはあまり期待しなかった。
やがて川の神が嫁を迎える日がやってきた。知らせを受けた西門豹は、兵士を連れ、早くから川辺で待っていた。しばらくすると町の金持ちや官吏たちとともに、今年の嫁に選ばれた娘がやってきた。ついてきた巫女は70歳ほどの老婆だった。
西門豹は「川の神に捧げる娘をここに連れて来い。美しいかどうか私が品定め致す」と言い出した。西門豹は連れて来られた娘を見て、「この娘は美しくないので、神の嫁にはできん。しかし神は今日嫁を迎えるつもりでおられるだろう。こうなれば巫女を使いにやり、神に事情を説明し、また日を改めてもっと美しい娘を差し上げると神に伝えてもらおう」と言った。急な提案を理解できずにいる周囲の連中をよそに、西門豹は兵士たちに命じ、巫女を川に放りこませた。そしてしばらくすると、再び「巫女はどうしてまだ戻ってこないのじゃ。ではその弟子に呼びに行ってもうらおう」と言い、また兵士に命じて、巫女の弟子の一人を川に投げ込んだかと思うと、次々に3人の弟子を投げ込んだ。
これを見た金持ちや役人、百姓たちはびっくり仰天。西門豹は、本当に川の神の返事を待っているかのようだった。しばらくして西門豹は「おそらく川の神は客好きで、巫女やその弟子を引き止めた違いない。すると、また誰かに呼んできてもらわないといかんな」と言って、この儀式に出席していた金持ちと役人たちの顔をじろりと眺めた。さすがの金持ちや役人たちもこれが何を意味しているのかを悟り、川に放り込まれるのを恐れ、土下座をして命乞いをした。
そこで西門豹は大声で「川の神が嫁をもらうなど真っ赤な嘘である。今後誰かがこのような儀式をやるというのなら、私は真っ先にそいつを川に放り込み、その川の神とやらに会わせてやるぞ」と言い放った。こうして、鄴地の川の神の嫁取りというばかげた儀式は、それ以来行われることはなく、西門豹も自らの才を生かし、この地方を立派に治めた。
「田忌、馬を競う」
紀元前4世紀の中国は、諸侯たちが割拠する「戦国時代」と呼ばれている。この時代、魏の国で仕官していた孫臏は、同僚の厖涓に迫害されたあと、斉の使臣に助けられ斉の都へとやって来た。
そして斉の使臣が彼を斉の大将軍である田忌に紹介した。田忌が孫臏に兵法をたずねると、孫臏は3日3晩兵法を説き続けたので、田忌は心から感服し、孫臏を貴賓としてもてなし、また孫臏も田忌に感激して知恵や計策を献じた。
競馬は当時の斉の貴族の間で最も人気のある娯楽だった。国王から大臣までが競馬を楽しみ、大金を賭けた。田忌もよく国王や他の大臣たちと賭けたが、これまで負けてばかりいた。この日も彼は負けてしまい、家に帰ってからも不機嫌な顔をしていた。これを見た孫臏は「次回は私もお供しましょう、もしかしたら何かお役にたてるかもしれませんぞ」と慰めた。
そして言葉通り孫臏は、田忌について馬場へと向かった。文武諸官や多くの庶民も見物に来ていた。競馬の決まりは馬の速さを上、中、下の3つの等級に分け、異なる等級の馬にはそれぞれ異なる飾りをつけた。また賭けに参加した者はそれぞれ自由に競走に出る馬の順番を決めることができた。勝敗は3試合のうち2勝すれば勝ちとなるというものだった。
孫臏はこの決まりを知った後、しばらく様子をうかがった。そして田忌がこれまで負け続けたのは、決して彼の馬が他人の馬よりより劣っているわけではなく、ただ戦略を立てていないからだと思った。そこで孫臏は「大将軍殿、ご安心ください、私は勝つ方法を見つけました」と田忌にその策を教えた。これを聞いて喜んだ田忌、すぐに王に千金を賭けると申し出た。負け知らずの馬を持つ国王は気軽に田忌の挑戦に応じた。
さて、対戦がはじまる直前になって田忌は孫臏の指示に従い、上等級の馬の鞍を取り外し下等級の馬につけ、上等級の馬に見せかけて、王の上等級の馬と対戦させることにした。対戦が始まると王の馬は矢のように前を走り、田忌の馬はかなりの差をつけられて後に続いた。これを見た王は有頂点になって大笑い。だが2戦目、田忌は孫臏の指示に従って、自分の上等の馬を王の中等級の馬と競わせたので、田忌の馬は王の馬の前を走り、大喝采の下、勝利をものにした。そして大事な最後の対戦は田忌の中等級の馬と王の下等級の馬との対戦となった。当然、田忌の馬が王の馬を負かし、結果は2対1で、田忌が王に勝ったのである。
これまで負けたことのなかった王は驚きのばかりあいた口がふさがらない。そこで仕方なく、田忌にどこであんな良い馬を手に入れたのかと聞くと、田忌は自分が勝ったのは、良い馬を手に入れたのではなく、戦略にあると答え、孫臏に教わった策を教えた。王は大いに悟り、すぐに孫臏を王宮に招いた。そこで孫臏は、双方の条件が対等の時は、策で相手に勝つことができ、双方の条件の差が大きくても、策を用いれば損失を最小限に抑えることができると王に告げた。やがて王は孫臏を軍師に任命し、全国の軍隊の指揮権を与えた。孫臏は田忌と協力して作戦を改めた。以来斉の軍隊は他国の軍隊との戦いで数え知れぬ勝利を収めた。
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