第十四章:古典文学

>>[中国古代诗词] 中国の古典詩詞

 天才作家・蘇軾

 蘇軾(1037―1101)、字は子膽、東坡居士と号する。四川省眉山県の人。父親は著名な古文書家で、そのため家庭の環境にめぐまれ、子供のころから大志を抱いていた。官吏になると悪政の改革に熱心に取り組み、国の安定のために奮闘した。地方の官僚や宮廷の大臣として悪政の除去と改革を推し進めた。

 蘇軾は豪放磊落な性格で、朝廷の悪弊を直接に批判したので、宮廷の派閥闘争の犠牲となった。彼の後半生は終始度重なる政治的苦難に苦しめられた。43歳から何度も流刑に処され、流刑先は次第に遠く、環境はますます厳しいものになった。苛酷な生涯の中で、蘇軾は中国の儒教・仏教・道教という三つの宗教哲学を融合し、楽観的な姿勢で人生の苦しみに臨む解脱の境地を開くと共に、理想を堅持し美しい物事への追及を堅持することができた。これによって、蘇軾は自らの人格と節操を守り、厳しい外部からの圧力にも耐えることができたのである。

 蘇軾は裏表のない人柄で気骨があり、古い観念に捉われることはなかった。こうした人格と心理は、中国の封建時代後期の文人から非常に尊敬されるようになった。いわゆる「東坡模範」は800年余りも中国の流行だった。

 蘇軾は非常に才能があり、詩・詞・文のいずれでも偉大な成果を上げた。蘇軾の詩は内容が豊かで、様式は多様である。発想が奇抜で、比喩が新鮮、言葉が高度に形象化されている。蘇軾の詞は独自の形式をもち、詞は男女の愛情を謡うものという古い概念を打ち破り、内容は社会や人生など広い範囲に及んだ。蘇軾は散文でも実力があり、優れた才能があった。唐宋八大家の中では蘇軾の業績が最も大きい。蘇軾は境遇こそ恵まれなかったが、その文章を天下の人々がこぞって模倣した。

 蘇軾の散文で最も知られているのは、叙事と紀行である。例えば、前後篇の「赤壁賦」。前篇の「赤壁賦」は、晴れた月夜や澄んだ秋の川を詠い、後篇の「赤壁賦」は山高く月小さく、水落ちて石表れるという冬の景色を詠っている。内容は異なるが、趣向は統一されており、宋代の文章の手本とされる作品である。

 「詩聖」杜甫とその詩

 中国の文学史では李白と杜甫は、唐代の詩の最高レベルを代表する人物とされる。

 杜甫(712-770)は著名な詩人杜審言の孫として生まれた。子供の頃から賢く、勉強熱心だった。家庭の環境がよく、7歳から詩の書き方を覚え、大人になった杜甫は書画・音楽・乗馬・剣舞をすべて習得した。青年時代の杜甫は才気に富み、大きな志を持っていた。19歳 から旅に出て、ロマン溢れる暮らしを送った。ちょうど唐代が最も繁栄していたときで、杜甫は多くの名山や大河を訪れた。「会(かなら)ず当(まさ)に絶頂を凌(しの)ぎ、一覧して衆山を 小とすべし」など世に長く詠われる詩を作った。杜甫は多くの文人と同様官職の道で出世しようとしていた。詩や散文を捧げて権力者におもねり、科挙の試験を受けたが、たびたび失敗に終わった。中年になった杜甫は唐の都・長安で貧しい暮らしを送っていたが、権力者の贅沢な暮らしと貧しい人々の惨めな暮らしぶりを見た杜甫は、「朱門酒肉臭し、路に凍死の骨あり」の句を綴った。官職での失意と暮らしの困窮に苦しめられた杜甫は、統治者の腐敗と民衆の苦難を次第に認識するようになり、憂国の士となった。杜甫は43歳でようやく官職についたが、そのひと月後反乱が起こった。その後も戦乱は止まず、杜甫は各地を浮浪して艱難辛苦を嘗め 尽くした。現実に対して明晰な認識をもつ杜甫は有名な詩文「石壕吏」・「潼関吏」・「新安吏」・「新婚別」・「垂老別」・「無家別」を作り、民衆に対する 同情と戦争に対する憤りを表した。

 政治に対して徹底的に失望した杜甫は47歳で官職を辞した。ちょうど長安が旱魃に見舞われた時期で、貧しくて生活が維持できなかった杜甫は家族を連れて西南部の四川・成都に流れ着いた。友人の援助で4年間隠居生活を送った間に書いた「茅屋為秋風所破歌」は家族の貧しい暮らしを描いたもので、自らの経験をもとに天下の貧しい人々の気持ちを詠ったが、それは詩人の高尚な気持ちを体現しているものでもあった。

 770年、59歳の杜甫は放浪の途中で死去した。杜甫が書いた1400篇の詩は、唐代の戦乱を表すものが多く、唐代の最盛期から衰退期まで20年間の社会の全貌を記録している。杜甫の詩は形式が多様で、多くの先人の長所を取り入れた上にさらに発展させたもので、内容的にも形式的にも詩歌の分野を大きく切り拓き、後代に広範な影響を及ぼした。

 「詩仙」李白とその詩

 李白は中国唐代の著名な詩人である。自尊心に富み、誇り高く独立心の強い人格や、豪放洒脱、自由でロマン溢れる感情は唐代知識人の性格と精神的な特徴を体現している。

 李白(701-762)は原籍が今日の甘粛だが、出身地や家系は今に至るまで謎である。彼の詩からわかるのは、家族は豊かで教養があり、李白は子供のころから読書好きで、剣も上手であった。李白は見聞を広めるため20歳から各地を旅した。見識が豊かで知恵が優れているため、詩作に傑出した業績を挙げた。当時はまだ印刷や交通が発達していなかったが、人々が互いに交流することで、李白は若い頃から広く名を知られていた。

 李白は若いころ官吏になって身を立てようとして、都の長安に来た。知識を学び、政府の試験を受けることは中国古代の文人が一貫して求めたことだが、詩作に優れていた上、有名人から推薦されたため、742年李白は宮廷に入り文官として仕えるようになった。この時期が李白の生涯で最も得意な時期であった。

 李白は生まれつき誇り高い性格で、役人たちの何の新味もない風潮に不満を持ちっていた。いつか皇帝から重責を任せられ、政治上の才能を発揮できることを望んでいた。しかし、皇帝は彼を詩人としかみていなかった上、役人たちが李白の陰口を言ったため、皇帝は李白を信頼しなくなった。李白は宮廷に失望して長安を離れ、天下を放浪し詩と酒に浸る暮らしを始めた。

 李白は生涯の大部分の時間を旅の中で過ごし、この間に自然を歌う詩を多く書いた。李白が詠んだ「蜀道難、難于上青空」、「君不見黄河之水天上来、奔流到海不復回」などは、誇張の手法と生き生きとした喩えで永遠に詠われる名句である。

 李白の詩はこれまで伝わっているものが900篇あまりあり、ほかに散文が60篇ほどある。特異な発想と壮大な作風は読者を魅了し、後の世代に深い影響を及ぼし、「詩仙」と呼ばれている。

 『詩経』『詩経』中国初の詩集『詩経』

 『詩経』は紀元前7世紀に生まれた中国初の詩集であり、史詩・風刺詩・叙事詩・恋歌・戦争歌・労働歌などがすべてそろっている。一人の創作ではないが、ギリシアのホメロスの詩よりも数百年早いものである。

 『詩経』には西周初年(前11世紀)から春秋半ば(前7世紀)まで500年間の約305編の詩が取り入れられている。『詩経』は風・雅・頌の3部からなり、風は15の国の民謡が160編、雅は周朝の都の歌で105編、頌は祭り歌で40編ある。

 形式からいえば四言詩が多く、二言・三言・五言・六言・七言・八言の詩もある。重複語・双声・韵の繰り返しを多く使った変化に富んだ形式で、読んでいて音楽性も豊かである。内容から見れば、風が『詩経』の精粋である。民間から生まれた歌なので装飾が少なく、周の時代の民謡の素朴な姿を表している。風は一般の労働者の暮らしを描いており、例えば若い男女の恋を歌う「関雎」「其東問を出ず」、本人は労働せず他人の成果を奪う奴隷主を歌う「伐檀」や「碩鼠」、戦争を歌う「揚の水」や「君子が役に」などがある。

 『詩経』の作者には様々な人がいる。詩に歌われる身分を作者の身分と考えれば、労働者・兵士・君子や「士」などがいる。「士」は当時の貴族の最下層で、「君子」は貴族を表す。この他の多くの作者は身分が確定できない。

 『詩経』の作品の多くは儀式の一部として使われたもので、娯楽性のあるものや社会や政治に対する作者の考えを表すものもある。後代になると『詩経』は貴族の教育に使われる教材となり、『詩経』の学習は貴族にとって必須の教養であり、中国で最も重要な古典とされた。こうした教育は言葉を美しくする役割を果たし、社交の場で『詩経』の句を詠んで自らの意思を婉曲に表すことがあった。『論語』は孔子の話として「『詩』がなければ、言葉にならない」と記している。

 全体的に見れば、『詩経』は中国文学の輝かしい出発点で、中国文学がとても早くから発展していた証しである。その内容は、労働・愛情・戦争・圧迫や反抗・風俗と結婚・祭典、宴会・天候・地理・動物・植物など中国古代社会の各方面に及ぶ。その言葉は紀元前11世紀から前6世紀までの中国語を理解する重要な手がかりとなっている。

 

>>[中国古典戏剧文学]中国古典演劇文学

 演劇家・李漁

 中国数千年の古典文学史上には多くの著名な詩人や脚本家、小説家がいるが、戯曲・監督・演劇理論・小説を1人で全部担った人は余りいない。李漁はその数少ないひとりである。

 1610年明の時代に生まれた李漁が30歳になった頃王朝の交替があり、清朝が武力で明朝に取って代わった。それに伴う社会の動揺は10年ほど続いたが、李漁はずっとこうした社会に暮らし、1680年に亡くなった。

 李漁は小さい頃から伝統的な儒教の教育を受け、中国の伝統的知識人の歩む道に憧れを持っていた。科挙の試験に合格して仕官の道を歩もうとしていたが、社会が不安定で数回受験したものの合格できずそのままあきらめてしまった。李漁は故郷で書舗を開き、彫刻や書道で生計を立てるかたわら戯曲の創作に全力を傾けた。

 李漁のもっとも大きな業績は演劇の創作と理論にある。李漁が書いた戯曲で現存するものは「比目魚」・「鳳求凰」・「玉掻頭」・「怜香伴」など10種ある。戯曲のほとんどは男女の恋物語で、現実の暮らしを背景に愛を追い求める男女の若者を描いている。こうした作品は物語が面白く、ユーモアたっぷりの言葉で、舞台劇に最適だが、単なる娯楽ではなく、厳粛な社会的な内容も含まれている。例えば、出身で結婚相手を評価することや、子供の好き嫌いに関わらず両親が結婚相手を決めることなど旧時代の結婚制度を非難している。李漁の作品は当時の社会に受け入れられただけでなく、中国と密接なつながりを持つ日本や東南アジア諸国にも伝わった。現代になっても作品が舞台で上演されることがある。

 李漁は多くの戯曲を書いただけでなく、自ら劇団を組織し自分の戯曲を上演した。李漁は演出や、時には役者もつとめた。古代の中国では演劇は下賤な仕事だと見られており、伝統的知識人は相手にしなかった。しかし、李漁は劇団を率いて中国の10数省を訪れその旅は20数年にわたった。

 こうした過程で李漁は多くの経験をつんだ。演劇のすべての過程、監督・役者・役者の選択・リハーサル・正式の公演を経験し、それを理論化して、『閑情偶寄』という本を著した。これは中国古典演劇理論の構築を意味し、後代の演劇と文学の発展に大きな影響を及ぼした。

 李漁はまた小説家でもあった。作品には長編「覚後禅」、短編「無声劇」・「十二楼」などがある。李漁の小説は自らの経験をもとに書かれたものが多く、個人的特徴が鮮明である。李漁は小説の中で社会の伝統的観念に反論する。例えば、中国には古くから「女は才能がないのが徳性だ」という観念があるが、李漁はその小説で「女は才能あるのが徳性だ」と訴え、女性も技能を学び男と平等であるべきだと主張した。

 李漁はまた詩歌や歴史論にも才能が発揮した。その最も重要な作品「閑情偶寄」に、演劇理論のほか飲食・建築・収蔵・娯楽・植物栽培にも触れ、今読んでも面白い。

 著名な演劇家関漢卿

 中国元朝の演劇家関漢卿は中国の文学・演劇史上で最も偉大な作家のひとりである。その作品「竇娥寃」は700年もの間毎年繰り返し上演され、多くの外国語にも翻訳され世界各地に広く伝わっている。

 関漢卿は13世紀・元朝の人で、利口でユーモアがあり、博学で豊かな才能をもつ。詩のほか、多くの楽器や中国将棋、狩猟にも堪能である。関漢卿は長い間、元の都の大都に住んでいた。皇室の病院に勤めたこともあるが、仕事に興味はなく熱心に戯曲の創作に取り組んでいた。当時「雑劇」という演劇が流行っていた。「雑劇」は民間の物語を豊かにした内容で社会の現実を反映していた。当時の高官・貴族から市民まで「雑劇」を好んで見た。関漢卿の作品は貴族の遊びではなく、一般の人々の苦しみを述べるものだった。

 当時、元朝の政治は腐敗しており、社会は揺れ動いていた。階級対立や民族間の衝突が深刻で、人々の日々の暮らしは悲惨であった。社会の底辺に暮らす人々に同情を寄せていた関漢卿は官職を辞め、こうした人々の暮らしを理解してそれを演劇の形で表し、理想とする社会を描いた。

 関漢卿は人々の苦しみをよく理解し、一般庶民の言葉を使いこなすと同時に高い教養も備えていた。これらのことは彼の創作の条件となった。当時、役者の社会的地位は低かったが、関漢卿は常に役者たちと接し、自ら監督し、演ずることもあった。その作品で自らの性格を「私は煮ても焼いても食えない銅の豆だ」と書いている。その作品は社会の現実を深刻に表わすだけでなく、闘争精神に満ちている。作中の人物は苦しい暮らしをする一方で、正直で勇気があり反抗の精神を持っている。有名な悲劇「竇娥寃」はその代表作である。

 「竇娥寃」は「竇娥」という娘の悲惨な運命を物語る。この芝居は数百年ずっと人々に愛され、中国の10大悲劇のひとつとされる。また多くの外国語に翻訳され、世界でも愛読されてきた。

 関漢卿は演劇界のリーダーであった。当時、人々が圧迫に対して反抗することを促しただけでなく、後代の戯曲にも大きな影響を及ぼした。関漢卿は生涯で67の脚本を書いたが、今も残っているのは18作品である。典型的な人物を創造するのが得意で、人物の複雑な内面をうまく表わしている。昔の戯曲の中で、これほど多くの人物を鮮明に書き上げた作品は他にはないと言われる。

 関漢卿は中国の演劇・文学史上に重要な地位を占め、元朝演劇の創始者とされる。また世界文学史上でも高く評価され、「東洋のシェークスピア」と呼ばれる。

 

>>[中国古典小说] 中国古典小説

 『聊斎志異』

 18世紀のはじめ、中国に大変有名な短編小説集『聊斎志異』が登場した。それは蒲松齢が独特の筆法で描いた妖怪物語である。

 蒲松齢(1640-1715)は清代の文学者である。商人の家に生まれ、生涯私塾の教師で生計を立てていたと言う。彼は数多くの文学作品を書いたが、短編小説集『聊斎志異』が代表作である。

 『聊斎志異』は全部で431篇、うち短いものは200~300字、長いものは数千字ある。全篇ことごとく神仙・狐・鬼・化け物・不思議な人間に関する話で、それを通して封建社会の礼儀や道徳、腐りきった科挙制度などを厳しく批判し、個性の自由を主張した。

 『聊斎志異』に登場する狐は大部分美しく善良な少女の姿で現れるが、中でも「小翠」が最も美しく描かれている。作者は優れた表現力で純粋で善良で賢く可憐な少女・小翠の姿を描き出し、物語の終わりになって初めて彼女が狐であることを明らかにする。

 『聊斎志異』に美しい狐のほかに醜いが善良な狐も描いている。例えば「醜い狐」は、ある貧乏な書生を助けてきた醜い狐が、恩知らずの書生に復讐をするという物語。

 『聊斎志異』は中国文学史の不朽の傑作である。200年あまりの間にこの小説集は映画化されたほか、20種の外国語に翻訳され世界各国の人々に歓迎されています。

 『西遊記』

 中国の古典で最も人気のある神話小説である『西遊記』は、7世紀の唐の時代に三蔵法師・玄奘が孫悟空・猪八戒・沙悟浄を従えてインドに仏典を取りに行く途中、81の妖怪・怪物などを退治する物語である。

 『西遊記』の作者は今の江蘇省淮安出身の呉承恩である。幼いころから聡明で、書道のほか詞や曲にも大きな興味を示し、碁にも精通していた多芸多才な人物だった。しかし、科挙の試験を何度受けても成功せず、生活や境遇は貧困を極めていた。彼はそんな現実を変えようと思ったがかなわず、やむを得ず空想の世界に望みを傾注した。

 『西遊記』は呉承恩の晩年の作品だが、彼は青年時代から『西遊記』を書くためにいろいろと準備していた。30代に『西遊記』を書く計画を立て、50歳になってから『西遊記』前篇の十数回分を書いたが、さまざまな原因で一時中断した。晩年、官職を辞任して故郷に戻ってからようやく『西遊記』の創作を完成させたのである。

 『西遊記』は1つ1つ違った内容の物語からなり、1つの物語は独立していながら前後との連続性もある。小説に出てくるさまざまな神仙や妖怪はそれぞれ正義と邪悪を代表しており、作者は小説で神話の世界を作り上げようとした。この神話の世界で呉承恩が創造した孫悟空は優れた技を持ち、悪を憎んで秘密武器「如意棒」ですべての妖怪を退治する。これは現実社会のすべての醜悪を一掃しようとする呉承恩の強い願望を表わしている。

 『西遊記』は後世への影響が非常に大きく、数百年来、多くの人々特に子供たちに愛読されている。

 『三国志』

 『三国志』と言えば、中国で知らない者はいない。数世紀の間、『三国志』に描かれた戦争の場面や生き生きとした人物などが中国の人々に好まれてきただけでなく、多くの学者にとっても長年の研究テーマでもある。

 『三国志』の作者・羅貫中は学識が非常に広い人物である。彼が生きた14世紀は民族間の争いと階級的対立が異常に際立った時代であった。元代はモンゴル人が政権を握り漢民族に対して高圧的な統治を実施していたので、全国各地で漢民族の武装蜂起が相次いでいた。青年時代の羅貫中も武装蜂起に参加したことがある。

 『三国志』は紀元184年から280年の間の歴史を物語っている。羅貫中は三国時代の歴史や伝記、民間伝説などを収集し、自分の政治信条や武装蜂起に参加した体験と結びつけて、「魏」・「呉」・「蜀」三国間の政治や軍事闘争の歴史を見事に書き上げた。

 『三国志』は文学的価値があるだけでなく、歴史学、人間学、心理学、謀略学、軍事学など多角的な価値があり、現代でも通用する意義を持っている。そのため、現在『三国志』を研究する専門家や学者がますます多くなってきている。

 そして、『三国志』も世界各国の人々にも愛され、「真に庶民のための傑作」と評価されています。

 『紅楼夢』

 18世紀半ば、清の乾隆帝の時代に中国の文壇に曹雪芹という偉大な小説家が現れた。『紅楼夢』はその代表作である。

 『紅楼夢』は中国古典小説の不朽の名作と言われる。曹雪芹がこのような傑作を書くことができたのは彼の才能と文学的修養はもちろんだが、より重要なことは裕福な身分から貧しい境遇に零落するという生活環境の激変から得た人生体験があったからだと言える。曹雪芹の祖父は清の康熙帝から深い寵愛を得ていたので、曹雪芹の幼いころは大変裕福な生活を送っていた。しかし、その後、曹家は職を解かれ財産を没収されるという大きな変化が生じた。南方から北京に転居した青年時代の曹雪芹は人間の冷たさや暖かさや金の切れ目が縁の切れ目という世間の不人情など様様なことを体験した。晩年には北京の西の郊外に住み、極限まで貧窮した境遇の中で彼は『紅楼夢』の80章を書き上げたところで病気で亡くなった。

 『紅楼夢』は又の名を『石頭記』いい、曹雪芹の生前既に写本として流布していたが、彼の死後、高顎という文人が引き継ぎ、作者の意図を憶測しながら残りの40章を書き上げた。

 『紅楼夢』は社会生活のすべてを包括する「百科全書」と言われる小説である。その中で言及される人物は皇帝や貴族・官僚のほか商人や農民など社会各層に及んでいる。描写の範囲も上流社会の社交儀礼から庶民の生活まで、社会生活のすべてが含まれている。

 『紅楼夢』は人物に対する描写がすばらしく最高レベルに達している。特に若い女性に対する描写は非常に生き生きとしており、彼女たちの生活に対する希望や愛情への憧れ、そして主人公たちの繊細な感情などが細かく描かれ、あたかも目の前にいるかのような立体的筆致で描かれている。