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>>[中国的朝代] 中国の王朝時代
中国の最初の王朝――「夏」
夏は中国の最初の王朝である夏。それは、紀元前21世紀から紀元前16世紀まで、14代・17人の王が在位してでほぼ約500年間存続いしていた。統治の中心地域は現在の山西省南部と河南省西部にあった。
夏王朝の創設者・大禹は治水を治め、安民のを安定させた歴史的英雄人物である。伝説によれば、大禹は毎年氾濫して水害を起していた黄河の治水に成功し、、部族民にから擁立慕わされて、最終的に夏王朝の時代を築いた。夏の時代の創立によりは、長く続いたい原始社会はが私有制社会にとって変わりるこを意味し、ここから中国はそれ以降、奴隷社会に入った。
夏の王朝の末期、王室の政治が乱れ、階級の対立矛盾が日増しに激し鋭くなり、った。とりわけ夏の最後の国王・夏桀は即位後、改革の気概もがなく、贅沢三昧でみだらで、節度のない生活を送っていた。彼はくる日もくる日も民の困苦を顧みず、来る日も来る日も一日中、自分の気に入ったお妃と共に酒を飲みんで享楽に耽っていた。そんな時、機に乗じてこの時、諸侯国の一つである「商」が機に乗じて決起し、夏桀を討伐し、最終的に夏桀の軍隊を破やぶった。桀はが逃亡したがげ出した後、南巣で死亡し、夏の王朝はが滅んだびた。
今日まで伝わってきたる夏王朝の史料は非常にたいへん乏しかったい。そのため、歴史上、夏の時代が存実在したかどうかは、今、学術界ので議論はが分れている。しかし、中国の有名な史書、『史記・夏本紀』の「夏本紀」には夏王朝の系図がはっきり明確に記されていたる。そこで、考古学者は考古学手段で夏王朝の物質文化遺跡を見つけ、夏王朝の歴史を回復元しようとしている。
1959年から、中国の考古学界では、1959年から「夏の遺跡」を求めての調査をが始めまり、夏の文化の探索の幕が開いた。現在、大多数の学者は、河南省偃師の二里頭の遺跡にちなんで命名された「二里頭文化」が夏文化を研究するの主な対象だと見ている。この文化遺跡のが存在していたの期間は、紀元前1900年前後にあると推定されており、夏の時代範囲内にあと重なるからであるとされている。遺跡は夏の文化の遺跡であるであるという直接的な証拠はまだ確認されていないが、その提供された豊富な考古学史料は夏王朝に関する研究を大きく強力に推し進め前進させた。
二里頭文化遺跡で出土されした生産道具は依然、と石器が主メインで、骨や角器や、貝ドブガイで作った器も含まれる使われていた。一部の家屋の敷地には、灰の跡があり、古墳の壁には木で作った耕具で土を掘った跡が残されている。当時の労働人々民がはこうしたれらの比較的原始的な道具を使いながらって、彼らの勤勉さと知恵を発揮して、、水を治収め、土をならし、農業生産を発展させていた様子が伺うかがわれる。現在まで、夏王朝の遺跡からはまだそれほど大きい青銅器は見つかっていないもののが、青銅で鋳造された刀・、錐・、手斧・、鑿・、鏃・、鉾・、爵などの道具や、武器・、容器がは出ていある。り、それと同時にまた、銅を鋳造していた遺跡があり、焼き物の鋳型・、銅のくす・、るつぼの残片も出土発掘された。この他、大量の優れた技術レベル水準の高い玉の工芸品や、トルコ石のをちりばめた装飾品、磬などの楽器も出土してされいる。手工業の制作技術と内部の分業がはいずれもより大きくな進歩していがあったことが分かる。
古文書の記載でにおいて、最も注目すされるべきものは夏の時代の暦である。『大戴礼記』に記録保存されている「夏小正」は、現存する現存の「夏暦」に関する重要な史料文献である。その内、夏の人々がは既に北斗七星の回転するひしゃくがの指す方位で12ヶ月を確定していたことが分る。り、これはが中国最古の暦である。夏暦は12ヶ月の順序に従い、毎月ごとの星回り・、気象・、物の現象およ及びその従事すべき農業と祭祀まつりごとをそれぞれ記述している。その暦は、一定程度、夏王朝の農業生産の発展レベルを反映しており、そこには中国最古の大変貴重な比較的珍しい科学知識が記録を保存されしている。
歴史記録のある最古の王朝―「商」
中国の学術界では、夏が中国最古の王朝とされているが、夏朝に関する歴史資料のほとんどは、後世の文献にでの記載されたもので述懐に過ぎず、考古学的な裏づけは今日に至ってもまでまだ見つかっていない。商朝こそ、古代中国で確実な考古学資料を得られるた最古の王朝が「商」であるだった。
商朝は約、紀元前16世紀頃に始まる商は建立され、約600年間続いて紀元前11世紀に滅んだぼされ、約600年間続いた。商朝は前期には、数回にわたり遷都し、最後は「殷」(現在の今、河南省安陽付近)に落ち着いた。考古学的なの研究によれば結果では、商朝早期、甲骨文字と青銅器文化に代表される中国文化明はすでに相当高いレベルにまで発展し、甲骨文字と青銅器文化がその主な特徴であるていた。
甲骨文字は偶然のきっかけで発見された。20世紀初頭、当時の河南省安陽北西部にある小屯村の農民がは、偶然に拾ってきた亀甲と獣の骨を漢方薬剤とにして売っていた。ある学者がそれを入手した後、その上に古代文字が彫られていることをが発見判明し、その後、甲骨のを研究が始まっ探し出す作業に力を入れた。その後、中国の古文字学者がはこれらの亀甲と獣骨に刻まれた文字をは、商時代朝の文字だと鑑確定し、これをもって、甲骨が出土した小屯村こそがすなわち、古文書に書かで言及された商朝の都「殷」の遺跡=・殷墟であるだったと断定した。
20世紀の中国では、殷墟の発見と発掘はが20世紀の中国で最もっとも重要な考古学的発見だと言われるった。1928年、初めての発掘作業が行われて以来、この村で甲骨文字、青銅器を含むめた貴重な文化財が数多く出土されした。甲骨文字は、亀甲と獣の骨に彫られた古代の文字であとして知られている。商代では、国王は何いかなる行動をする前にも、その前に必ず占いをしていた。甲骨はつまり、その占いに使われたの道具だった。甲骨は使用される前に、加工をしなければならないかった。まず、甲骨にくっついているた血と肉を綺麗にとりる。次に、それを切ったり削ったりして、平らに磨き上げる。そしてさらに、亀甲の裏、もしくは獣骨の裏側に、で刀などでの道具を用い、順番に秩序良く凹み凸をつくっけておく。占いをする人(巫師)は自分の苗字や、占う日、聞きたい質問題などをすべて甲骨に彫刻っしておく。占う時はそして、甲骨の裏に彫られた凹み凸を火であぶる。り、すると、熱で凹みにそれで得られた亀裂け目ができる。それを「兆」と呼び、んでいた。巫師はそ亀裂の向きや模様を見て分析し、占いの結果を得る。そして、占いが的中したかどうかの結果も甲骨に彫刻される。的中した場合、これら占いの祝詞がの彫られた甲骨はが政府の記録文書として保存されたる。
現在までに、殷墟から全部で甲骨16万枚余りの甲骨が出土している。完全な状態で保存されているたものもあれば、文字が記載されしていない破片もあったる。統計によれば、これらの甲骨には全部で4000字以上の様々な文字が彫られていた。そのうち中、学者が考証・、研究をした文字がは全部で3000余りであったが、こその中の1000字についてはでは、学者の解釈が一致しているた解釈を持てた文字は1000字余りだったが、。残りの文字は解読できないものか、学者により意見の食い違いが甚だしいものであるだった。しかし、そういうことがあるにしても、そこの1000余りの文字もは、人々に商朝の政治、経済、文化など各方面のことを知る手がかりを提供している。
甲骨文字に関する最初の専門的な著述は、1913年に出版された劉鄂(ガク)の『鉄雲蔵亀』である。中国の有名な歴史学者・と文学者であるの郭沫若が1929年に出版した『甲骨文字研究』もこの分野のたいへん重要な専門書である。現在では、北京大学の裘キュウ・錫圭教授と中国歴史研究所の李学勤教授が、甲骨文字研究におけるの権威である。
甲骨文字と肩を並べて、青銅器も商朝の最も代表的な器具である。商朝の青銅器鋳造はすでに相当高いレベルに達していた。殷墟で発掘された青銅器は、すでに数千点に上っている。中でも、1939年、殷墟でから出土しされた「司母戊大方鼎」は重さ875キログラム、高さ133センチ、長さ110センチ、幅78センチで、雄大な形はが雄大で、中国古代青銅器文化がの最高峰を迎えた時代の代表作とされている。
考古学的の発掘およ及び学術研究でも実証されたように、商朝ではすでに国家が誕生し、私有制も基本的に確立されていた。中国の歴史は商朝から文明時代に入った。
西周と春秋戦国
夏、商に次ぐ中国古代3三番目の古代王朝は周である。周は約、紀元前1027年頃に建立され、紀元前256年に秦に滅ぼされるまで、全部で770年余りも続いた。周は東への遷国都の東方移転を境に西周と東周に分けられる。前期がは西周にあたり、後期の東周はさらに春秋・、戦国というの2二段階に分けられる。
西周は約紀元前1027年頃から-紀元前771年までで、約257年間ほど続いた。周代初の王天子である周武王は国都を鎬(後の長安の北西部)に移転した後、連合軍を率いて、大挙して商に攻め入り、周王朝を建てた。幼い周成王が王位を継いだ後ぎ、叔父の周公・旦が摂政となっをしていた。周公は内部を安定させた後、大軍を率いて東征し、反乱を平定した。周公が国を取り仕切っていた時代にの主宰により、その後の一連の勝利を固める重要な措置が講じられた。周の成王、康王が在位していた期間は、政治が安定して、平和な世の中が続き、後世から「成康の治」とたたえられた。
周朝の国家制度や法律体系には鮮明確な特色があるがり、中でも井田制・、宗法制・、国野制・と礼楽がその最もっとも重要なものだった。
紀元前770年-紀元前476年は春秋時期。経済の発展と人口の増加に伴い、大国同士はが覇権をめぐってり、激しくい戦いが起き、社会の状況は大きく変わった。農業生産ではにおいて、鉄製農具が現れ、牛による耕作方式が徐々に普及し、水利事業が発達したことで、農作物の生産高が上昇した。春秋は西周の伝統的政治・、社会秩序が徐々に解体する過渡期だった。
中国史上最初の思想家であり、偉大な教育者でもある孔子は、春秋後期にの生まれたである。孔子はこれまでの文化・、思想を総括したする上で、春秋後期の激動する社会情勢と結び付けに身をおきながらも、倫理道徳、社会と政治の問題をめぐってり、一連の独自の理論と観点を打ちたて、古代の儒家学派を創設した。
中国の戦国(紀元前403-紀元前221年)時代は中国では、東周の列国と後に新たなに迎えた諸侯が割拠し、覇権を争ったう時代であるだった。戦国とは春秋とは明確な境界線がなく、今日の習慣に従い、紀元前403年、「三家分晋」により趙、韓、魏の三国に分かれた時から始まり、紀元前221年、秦が六国を統一する前までの期間を戦国時代と称することにする。
戦国時代になり入ると、中国の情勢構図に変化が起き現れた。数多くの中小諸侯の国が併呑され、生き残った秦・、楚・、燕、・韓、・趙、・魏、・斉のという七国がは戦国時代の主な諸侯国家となった。戦国時代、各国は相次いで改革に乗り出したが、中でも、最も徹底してたもので、影響力がの大きかったものは秦国の「商鞅(ショウオウ)の変法」だった。
一方、戦国時代の中国は毎連年、戦が絶えなかったが、古代文化の発展はこれにより途絶えることはなかった。当時の社会にで、新たな士人階層が現れ、学術、・文化、・知識を身につけた新たな知識人階層が現れ彼らの活躍は、学術文化の繁栄を一層推し進めた。この間、中国古代の思想文化は、有史以来最高初の高潮期を迎えた。その中で、孔子・、孟子を代表とするした儒家、老子・、荘子・、列子を代表としたする道家、韓非子を代表としたする法家、墨子を代表としたする墨家などの理論は後世の人に高くい評価されを受けた。これらの学派の出現によりは、戦国の思想界はに「百家斉放・、百家争鳴」の様相を呈しさせた。これらの理論は当時の政治・、経済を前促進させる役割を果たしただけでなく、その深遠な影響力は今日にまで継続しており、中国思想史の不滅の一ページとなった。
紀元前230年、秦王嬴エイ政は全国を統一のする遠征途を始め、その後、9九年の間に歳月をかけ、秦は相次いで六国を滅ぼし、紀元前221年に全国を統一した。これによりをもって、600年近く続いた中国の分裂状態況が終わっ打ち切られた。
中国初の封建王朝・秦
紀元前221年、2000年余りの奴隷制社会を経て、紀元前221年、中国では歴史上、初の統一した中央集権の封建王朝・秦が誕生した。秦の誕生は中国の歴史において、きわめてたいへん重要な意義を持っている。
紀元前255-紀元前222年は、中国史ではの戦国時代には当たり、奴隷制社会の末期でもあった。当時、数多くの独立した小国が分立していたがあり、互いに併呑し合った結果、最後は比較的大きい秦・斉・楚・魏・燕・韓・趙の七カ国だけが残り、「七雄」と称された。「七雄」とは、秦、斉、楚、魏、燕、韓、趙であった。七国の中では、北西部の秦が国は早くから軍事およ及び農業の改革を進め実施したため、国力がを急速に強まった。紀元前247年、わずか13歳の嬴エイ政が王位を継ぎ、秦王となった。秦王は22歳で親政、政治を自ら行うするようになった秦王は後、他の六国を併呑し、天下を統一する雄大な戦略に取り掛かった。彼秦王は広くまなく人材を探し求集め、能力のある者はをすべて起用した。例えば、韓国の間諜・鄭国を重用し、「鄭国渠」を建造したことがその一例であるった。鄭国渠の開通により、秦国の4万ヘクタール余りのアルカリ性土壌の土地が日照りにも多雨にももちこたえ、よい収穫の得られる肥沃な良田に変わり、その後の秦がの中国を統一するに十分な物質的条件を提供することになった。
紀元前230-紀元前221年の、10年足らずの期間にで、嬴エイ政は相次いで韓、・趙、・魏、・燕、・楚、・斉の六カ国を滅ぼし、統一の大業を成し遂げた。これにより、中国の歴史は割拠状態を脱し、統一的、専制的な中央集権国家として秦王朝が誕生し、嬴エイ政はが中国初の皇帝となり・「始皇帝」と称されることになった。
秦の中国統一は、中国の歴史に上、きわめて重要大きな貢献と意義をした持っている。まず、政治では、始皇帝は「分封制」を廃止して、郡県制を敷き、全国を36の郡に分け、郡の下に県を設置した。中央と及び地方の官吏は世襲ではなく、すべて皇帝が自ら選抜・し、その任免しを行い、世襲制ではなかった。秦がの創設したによる郡県制はその後、2000年余りにわたる中国の封建社会の歴史において、固定した制度として定着し、現在も数多くの県がの名称は2000年以上余り前にの秦朝がで定められた名称を使っているものだった。
秦の中国統一のはもう一つの重要な貢献をしている。それは文字の統一である。秦の前それまでは、各国ごとにはそれぞれの文字があった。り、それらは同じルーツを持ち源を有し、書き綴り方も概して同じ似ていたがではあるものの、文化の伝播や交流に際しては、大きな障害になっていをもたらした。秦の統一後、秦国の小篆体漢字が全国にの通用する文字として指定された。その後、中国の漢字の変化には準拠すべき規則ができあがり、これが中国史の形成およびと文化の伝承に与えたで、計り知れない意義は計り知れないものがあるを持つようになった。
このほか、秦は全国の度量衡を統一した。文字と同様良く似ているたことは、統一前はまでに、各国の長さ・、容積・、重さ量の単位がはそれぞれ異なっていたので、経済の発展の大きなが著しく阻障害となっていされた。そこで、始皇帝は度量衡・貨幣・と法律を統一したものにし、国全体の経済発展のに条件を作るとともにり、さらに中央政権の地位を強化した。
一方、思想面における専制統治を強めるため、紀元前213年、始皇帝は紀元前213年に、官吏政府がの所蔵するした『秦史』以外のを除いて、他国の歴史書や、儒家の経典をすべて焼却するよう命令を出し、また、これらを密かに収蔵したり、伝播したする人間はも処刑するようにした。さらこれと同時に、北方からの少数民族政権の侵入犯を防ぐため、始皇帝は秦・、趙・、燕などの国が国境にそれぞれ建造していた長城を修復繕し、西のは砂漠から、東のは海岸までへと続く「万里の長城」を築き上げたる。始皇帝はそのほかさらに、数多くの土木工事を起こし、70万人余りの人夫を徴用し、レイ山陵墓の造営に巨額の資金を注ぎこんでい驪山に陵墓を造営しただ。驪レイ山陵墓とは、今日、世界遺産として世に知られる秦陵及び兵馬俑である。
始皇帝の中国統一は中国歴史上、長い間期的に分裂し、。割拠した中国史の構図を変え、強大な漢民族を主体とするした強大な多民族の封建大帝国を作りあげ出し、中国の歴史に新たな1ページを開いたものである。
漢
紀元前206-紀元8年はが、中国では、前漢時代にあたる。
漢の高祖帝・劉邦が漢を建て、都を長安に定めた。高祖はその在位7年の間にで、中央集権統治を堅固に強化し、「与民休息」という緩和的な政治方針を定める一方、自分自身の統治を強化しめた。紀元前159年、高祖の死後、恵帝が王位を継承したが、実権は皇后の呂雉の手中にあった。呂皇后は16年間にわたってり権力を握り、中国史では、数少ない女性統治者の一人となったである。紀元前183年、王位を継承した文帝は息子息の景帝(紀元前156-紀元前143)と共に緩和政策を継続し、人民の租税を軽減し、漢帝国の経済の活性化を図っていた。歴史学者はこれを「文景の治」と呼ぶ。
「文景之治」により、漢の国力はが次第に強くなってきた。紀元前141年、武帝が王位を継承した。その在位期間中、武将の衛青や、霍去病を派遣して、匈奴を打ち負かし、前漢王朝の統治範囲を拡大して、北方の経済や文化の発展を保証した。武帝は晩年になると、戦闘を停止し、農業の発展に重点力を移し、前漢の経済はもこれにより引き続き前進した。その後、の昭帝も経済の発展に力を入れ、前漢はの隆盛期の頂点に押し上がっげていった。
昭帝、宣帝の2二代の皇帝は38年間にわたり、「与民休息」の政策を実行したので、前漢の国力は増強された。しかし、一方では、地方勢力もそれに伴従って強くなり、漢帝国の統治に深刻な影響を与えるようになった。紀元8年、王莽が王位を簒奪して、国号を「新」と改め、前漢の統治が終わっこれにより打ち切られた。
中国の歴史では、前漢王朝は中国の歴史上では、比較的大変栄えた帝国の一つで、歴代の皇帝がは「与民休息」の政策を実施したため、人々は衣食に満ち足りて、安穏な生活を送りっていたため、漢王朝の政治はとても比較的安定していた。武帝は大臣・董仲舒の儒教的国造りによる「罷黜百家、独尊儒術」の提案を受け入れ、それ以降、儒教、儒学が漢代以降の歴代中国王朝にとって、儒教、儒学が一貫して遵守される治国の方策となった。
政治・、経済の安定により、手工業・、商業・、人文芸術・及び自然科学はいずれも長足の進歩を遂げた。科学技術の発展向上に従い、冶金・、紡績を主体とするした前漢の手工業はの生産性が大幅に拡大し引き上げられた。手工業の発展は商業の繁栄をもたらし、シルクロードを経由してで西アジア諸国と外交や商業貿易など様々な面で盛んに交流が行われた。
紀元25-220年の間継続した後漢は、漢の光武帝により建てられた、紀元25-220年の間継続した。
紀元25年、劉秀は緑林軍の助けの下で、王位を簒奪した王莽を破ってり、帝位を奪い返し王につき、国号を漢に戻すとともにし、都を洛陽に定めた。建武二年、光武帝は、王莽の遂行した旧政策を全面的に改め、官吏制度を整頓した。、三公(太尉、司徒、司空)の権限を弱めるために、6人の尚書を設け、国の大事を分担させた。このほか、「官奴」をの廃止し除、土地をの徹底調査するなどの政策を実行したため、人々の生活は徐々に安定してきた。紀元1一世紀半ば、光武帝・、明帝・、章帝の3三代の統治を経て、後漢王朝は次第にこれまで往年の隆盛を回復し、後世から「光武中興」と呼ばれていた。
後漢前期では、政権の一層の強化と地方勢力との融合が図られにより、国が徐々に安定するとし、経済・、文化・、科学技術などの面はいずれも前漢を上回るレベルに達した。105年、蔡倫は製紙技術を改造し、これにより、中国の文字記録媒体方式は竹簡のを利用することから脱出したのである。製紙術は中国の四大発明の一つとして現在にまで伝わっている。自然科学面では、張衡を代表としたする後漢の学術界は高い大きな業績を残した。張衡は「渾天儀」、「地動儀」などの科学計測器を作っり出した。また、後漢末期の名医・華佗は記録の上では、手術にで麻酔技術を初めて導入した外科医師であるだった。
魏晋南北朝
魏晋時期とは紀元220年-589年であるを指す。紀元2世紀末、後漢の統治が衰微したのにつれ、中国史は比較的長い期間の分裂期に入った。最初は魏・、蜀・、呉の三国が鼎立(189-265年)した(189-265年)が、後に西晋により統一された。しかし、西晋は短期間しか存続できず(265-316年)、その後、再び分裂状態に入った。その後、江南では、西晋の一皇族が東晋(317-420年)を建てたが、北方は様々な民族がの混戦しに陥り、数多くの政権が続出して、概して「十六国」と称される。
この時期、南方の経済は比較的大きくな発展を成し遂げた。西部・、北部からの各少数民族が相次いで内地に移転し、各民族間の移動と雑居は融合と交流を促した。文化面では、玄学(老荘の学問)が盛んで、時の統治者は仏教を保護していたが、仏教・、道教が相互いに戦いながらも拡大と発展しを遂げた。時の統治者は、一般的に仏教を保護していた。文学芸術面では、建安七子、・陶淵明などの詩文や、王羲之などの書、顧愷之などの絵画、敦煌石窟などの石窟芸術などはがいずれも不朽の名作である。
科学技術面では、祖沖之が世界で初めて円周率を小数点以下7桁まで算出し、賈思勰きょうの農学書『斉民要術』が世界的な農学史上の大著として知られている。
南北朝期(420-589年)は南朝と北朝との併称である。の北朝では、まず北魏が建立されたが、後に東魏と西魏に分裂。その後、東魏は北斉に、西魏は北周にそれぞれとって代わられ、その後、北斉は北周に滅ぼされた。一方、南朝の流れは比較的単純で、相次いで宋、・斉、・梁、・陳へと政権が相次いで交代した。
南北朝時代の経済は南方に偏っていた。中原の人々口が絶えず戦乱を避け、南へ移り続けた住んだことでは、江南の労働力がを増大やしたうえだけでなく、先進的な技術をも伝来した。、これにより、現地の経済発展は大幅に進み促され、揚州周辺は当時の南朝では経済的な先進の発達した地区となった。
文化面では、最も際立ったものは玄学思想の発展で、乱世は思想の自由に肥沃な土壌を提供した。、文学ではとりわけ詩歌がとりわけすばらしいものであかった。
この時期は対外交流が非常に盛んでに行われ、その足跡は東では日本・と朝鮮、西では中央アジアや大秦(ローマ)、さらに東南アジアにまで及んだでいた。
東晋がの滅びた後の南北朝期は中国の歴史上において、南北に分裂した数少ない時期の一つである。それの形成は経済の発展を停滞させたが、一方、異民外族による中原地区への統治で形成された黄河流域の民族大融合も前例のないものだった。この条件の下で、中国北方の諸民族は徐々に漢族に同化しされ、最終的には同一民族になった。故に、南北朝期の分裂は民族の統一をが加速されする上で、極めて重要な役割を果たし、中華民族の発展過程において不可欠なたいへん重要なプロセスだったと言える。
隋唐
紀元581年、隋の文帝・楊堅が隋朝を建ててから、618年、に煬帝が楊広に絞殺されるまで、隋朝はわずか37年しか続かなか間の存命だったが、その。中では、文帝の貢献が最も大きかったい。具体的にはまず、一つは官僚制度をの改革であるした。文帝が北周の六官制度を廃止除し、三省六部制をつくった。二つ目は次に、法整備をしたである。新たに作り出された法律では、刑罰が南北朝時代ほど残酷ではなくなった。そして三つ目は、科挙試験のを創設であるした。これにより、官僚選抜の新しい方法が確立された。一方、煬帝のは大運河の開鑿はで半分は個人の行楽のためだったとはいえ、50%の功労を残したと言われている(残りの50%は個人行楽のため)。しかし、それ以外、他の方面では後世に良いイメージを伝わら与えず、もっぱら暴君としてしか知られていない。煬帝は苛斂誅求により、人民の恨みを買いがたぎり、最後は自分の行いの結果を受け、江都で絞殺され、隋朝も滅びる運命となった。
唐王朝は紀元618年に建立され、907年、朱温に滅ぼされるまで、その存続期間は289年間存続しだった。唐は安史の乱を境目に、繁栄した隆盛期の前期と衰退した期の中期に分けらかれている。唐の高祖が建立したは唐朝を建てたが継いだ、太祖の李世民は、兵を率い、10年間をかけてようやく統一の大業をやり遂げた。李世民は玄武門の変を経て即位した後、精励して国をよく治める政策を推し進め、これにより、唐朝は中国の封建社会で空前の繁栄を実現した。、これが「貞観之治」でが現れ、政治、・経済、・文化など各方面で当時の世界で最先端の位置指導的役割に立っていた。その後、玄宗の時代に再び「開元盛世」が現れ、国が栄え民が裕福になり、太平の世が再現した。しかし、玄宗年間の終りに安史の乱が起き、その後、唐朝は衰退の一途をたど辿っていったるようになった。
隋唐では、法令制度の分野で作りに数多くの成果が現れた。例えば、三省六部制、・科挙制度、・両税法などはいずれも後世に深い影響を及ぼした。隋と唐は、対外向けには比較的開放的な政策を講じ、海外と頻繁に経済や文化の交流を頻繁に行った。文学では、唐詩が最大の成果である業績を残した。初唐の陳子昂、盛唐の李白・、杜甫、中唐の白居易、・元積、晩唐の李商隠、・杜牧がその優れた代表である。韓愈、・柳宗元の唱導した古文運動は後世に大きな甚だしい影響を与えた。このほか、顔真卿の書、閻立本、呉道子、李思訓、王維の絵などの画、『霓裳羽衣舞』などの音楽や舞踊、及び数多くの石窟芸術も後世に長く伝わっているた。科学技術では、中国の四大発明中の印刷術と火薬はこの時期に発明されたものであるだった。
後期の唐王朝は政治が乱れ、牛李党争から宦官専制まで政治が乱れの間、農民蜂起が後を絶えず起きたず、ついに、黄巾蜂起が勃発した。蜂起の軍リーダーの一人だったである朱温は最初は朝廷に投降したが、後に唐朝をに取って変わってり、自ら帝と称し、唐と宋の間、五代の最初後の王朝である後梁を建てた。
宋
紀元960年、宋の太祖・趙匡胤が陳橋兵変を起こし、宋を建て、五代十国の分裂は終わった。宋は、1279年、元に滅ぼされるまで319年間存続した。宋は時期により、北宋と南宋の2つの時期に分けられる。北宋の政権と鼎立する形で、ほぼ同じ時期に、契丹人が北部で遼(947-1125)、党項人が北西部で西夏国(1038-1227)、さらに、1115年、女真人が北方で金国(1115-1234)をそれぞれ建てた。金は1125年、遼を滅亡した後、1127年、宋の都・開封に攻め入り、徽宗、・欽宗を捕虜として連れ去り、北宋を滅ぼした。宋の高宗・趙構が南京応天府(現在の河南省商丘)で即位したが、後に臨安(現在の杭州)に逃れて、江南を行在(仮の都)として、南宋を建国した。いわば、北宋は遼、・夏、・金と対峙するしていた時期を指し、南宋は江南に逃れて衰亡していく時期を指すのである。
北宋はが北方地区を統一した後、社会、・経済、・文化に大きな発展が見られ、海外との貿易も盛んに行われていた。範仲淹の「慶暦新政」、王安石の新法等の政治改革は、一部の社会的矛盾を解決したが、北宋の長期的な繁栄を完全に実現できなかったが、一部の社会的矛盾を解決した。方臘、・宋江による農民蜂起は徽宗時代の腐敗した暗黒の統治に反抗したものである。北宋が金に滅ぼされた後、南宋は基本的に江南地区の地方政権に甘んじ、北上して再び北方を統一する雄大な意図謀略を計画する力を失っていた。有名な武将の岳飛が北伐して、金を攻撃するした行動さえ、統治者の目から見れば、自己保護のため目的に過ぎなかったのだ。さらに、南宋末期の賈似道の腐敗政治は南宋の滅亡を加速した。
この時期、科学技術に著しいの成果が顕著だっ収められた。羅針盤、・印刷術、・火薬などの三大発明は引き続き開発と応用が進み、中でも、畢昇の発明した活字印刷術はヨーロッパより400年も早いものだかった。蘇頌は世界初の水力で動く天文観測時計塔天文鐘である「水運儀象台」を作り、沈括の著した『夢渓筆談』は科学技術史上、極めて高い地位を有している。文化面では、理学が盛んで、朱熹、・陸九淵などの理学者が現れ、道教、や仏教、及び外来の宗教もすべて非常に盛んであった。北宋・欧陽修の編纂した『新唐書』は唐の歴史研究に大きな貢献をした。さらにし、司馬光の編集したによる『資治通鑑』は編年史の典範となった。文学では、欧陽修、・蘇軾などの散文の大家が現れた。宋詞はこの時期の文学の最高峰をなし、晏殊、・柳永、・周邦彦、・李清照、・辛棄疾などの代表的な詩詞人が現れた。宋、金の時代では話本や、戯曲が比較的盛んだった。絵画は山水花鳥がを長とされていたがし、張択端の『清明上河図』はが中国絵画史不朽の名作である。
元
1206年、モンゴルのテムジンによりが建国。1271年、フビライが国号を「元」と定め、1279年、宋を滅ぼして、都を大都(今日の北京)に置く。
モンゴル族はもともと大砂漠以の北に住む民族だった。テムジンは各部族を打ち破り、モンゴルをの統一してをやり遂げ、モンゴル帝国を築き、自らチジンギスハカンと名乗った。その間れより前、モンゴル軍はすでに、西方へ向かい、中央アジア、・東ヨーロッパ、・ペルシャにへと侵入していた。ユーラシア大陸にをまたがるこの大ハン汗国はまもなくいくつかのハン汗国に分裂したが、モンゴルの皇帝がは名目上の「大ハン汗」とにされていた。
元の時代、北方が長く続くいていた戦乱により北方が著しく破壊されたため、元の初代皇帝・の元世祖は農耕と黄河の治水を奨励した。
唐・宋・元の時代の中国は、当時の世界で最もっとも発達した国であり、その経済と文化は周辺隣国の憧れの的対象であった。この時期、各国の使節や、商人、と学者が頻繁に中国を訪れ、中国と域外との交流はこれまでにない隆盛ぶりを見せていた。元の時代には、東西を行き来する使節や商人は過去のいかなる時をも上回り、その数はたいへん多かった。元朝は日本、東南アジア諸国とも数多くの連携を結び、中国とインドの間の海では、数多くの中国の船舶が航海していた。中国の印刷術、・火薬、・コンパスなどの三大発明も元の時代、アラビア経由で中国からヨーロッパに伝わったものである。また、アラビア国の天文学、・医学、・算数も相次いで中国に伝えられわり、イスラム教も大きな広範囲に広まっわたり伝播された。アラビアとへの交通には海上航路のみならず、雲南を経由した陸の通路もあった。東アフリカに運ばれた中国の磁器は北アフリカのモロッコでも販売らされていた。1275年、ヴェネツィアの商人の子・マルコボーロがは父親に同行して中国を訪れ、その後、中国でに17年間滞在した。その著書『東方見聞録』はその後、数世紀にわたり、西洋人が中国とアジアを知る上での貴重な文献の一つとなったして知られている。
元の時代を代表する完成度の最も高い文化がは、元曲である。代表的な作者は関汗卿、・王実甫、・白撲、・馬志遠であり、代表作としては『竇娥怨』、・『西廂記』などがあげられる。
モンゴル政権は漢人に対し、厳しい搾取と圧迫政策を実施したため、漢人の強い反発を引き起こした。1333年、宗教と秘密の結社を絆とした農民蜂起が全国範囲で発生し、1351年、黄河の治水工事にあたっていた農民は紅い布の頭巾を標とした「紅巾の乱」を引き起こした。1341年、濠州の紅巾軍の首領である朱元璋は「駆逐胡虜、回復中華」をスローガンに掲げ、大都を攻め落として、元を倒覆し、明王朝を設立した。
明
1368年、朱元璋は南京で即位し、明を建てた。朱元璋は初代皇帝・太祖として31年間在位し、封建専制主義中央集権のを極力強化に努めしてきた。太祖は功臣を殺害し、意見の異なるものは悉く排除し、皇帝の権力利を高め、反対勢力を鎮圧した。太祖の死後、その孫にあたる建文帝が即位したが、後に叔父のにあたる朱棣(れい)の率いる兵に破られた。、朱棣は帝位についてき、明の成祖となり、1421年、明の都を北京に遷移転した。
明は中央集権を強化したものの、皇帝の多くは愚昧であったり、幼少であったりしたため、朝政を司ることができなかった。政治上の権限は宦官の手に握られ陥り、彼らはその一族では汚職し、金銭と財宝を貪り、誠臣を迫害した。そのため、朝政は日増しに腐敗し、社会の矛盾が益々先鋭になっていっきた。明の時代の半ばから、数多くの農民蜂起が起きたが、いずれも鎮圧された。
明代の有名な政治家・張居正は、社会の矛盾を緩和し、明王朝の統治を挽回するため、改革を行った。地方官の治績と行政のやり方を粛正し、農業と養蚕業を振興させする一方、河川の治水工事に取り組み、各種の名目をつけた租税と雑役を合併して一つに合併するなどした。これらの措置は、ある程度、人々の負担を軽減した。
明代の農業は前代より一定の進展がみられ、シルク、・織物産業、・磁器産業が発達し、鉄の採掘、・銅の鋳造、・製紙、・造船などの産業も大きく発展した。対外的にも経済や文化の交流が盛んでになり、航海家の鄭和は7回にわたり、南海や、インド洋方面に遠征し、アジアとアフリカの30余りの国や地域を歴訪した。一方、明の半ば以降、中国は日本、・スペイン、・ポルトガル、・オランダなどの国にから侵入されを受けた。
明代にでは、商品経済が成長しつつあり、資本主義の芽生えが見られた。明のはじ始め中国に、社会では数多くの未耕作地があり、太祖はそこに流民を集め、租税を減免することにより、自作農の数を大幅に増やした。海外からはタバコ、・サツマイモ、・トウモロコシ、・ピーナッツなどの新しい作物品種が相次いで伝わってきた。この時期、中国の手工業、例えば、磁器製造業や紡績業などが比較的高いレベルにまで発展し、とりわけ、シルク、・織物産業では、数十台の織機を保有する工場経営者や機織の専門技術を有する雇われ用「機織職人」がも現れ、中国における資本主義のが中国でかすかなに芽生えたことを物語っている。明代にでは、商品の種類は非常に拡大し多く、取引も頻繁に行われていた。物産が豊かで、交通も便利なところにでは、数多くの商業センターが現れ、北京、・南京、・蘇州、・杭州、・広州などが都市として発達し賑やかな町になった。
明代の科挙試験では「八股文」がを通用いられしていたが、一方、。明代では長編小説がたいへん盛んで、『三国演義』、・『西遊記』、・『金瓶梅』などがその代表作がである。そのほか、地理学の『徐霞客遊記』、・医学の『本草綱目』(李時珍 著)、・農学の『農政全書』(徐光啓 著)、・工芸学の『天工開物』、・文献類の『永楽大典』などの古典大作が生まれた。
明代の後半になると、土地の集中状況が一段と進み深刻になり、皇室と藩王の荘園が各地に分布するようになった。し、政府の租税も日増しに重くなり、社会の矛盾が益々激化した。一部の役人や、士大夫は社会の矛盾を緩和するため、宦官や貴族の特権を抑制しすることを求めるようとしになりた。、彼らは学問を重んじ、時の政治を議論する彼らはし、「東林党人」と呼ばれていた。しかし、彼らは権力をもつ宦官にから攻撃・され、迫害を受けされ、社会の不安は増す一方だった。
農村の紛闘争が激化し、1627年、陝西省に大飢饉が発生したが、官吏は相変わらず厳しく租税を取り立て、人々民衆の著しい不満を引き起こした。幾千幾万もの飢餓に陥った農民は蜂起軍を結成し、1644年、北京を攻め落とし、明の最後の皇帝・崇禎はも自害しする羽目となった。
清
清朝は紀元1644年から始まり、1911年まで継続いした。ヌルハチが帝位につく年から数えれば、最後の皇帝であるの溥儀までは、全部で12人の皇帝がいたが、。山海関を越えたの内側に入る年から数えれば、全部で10代・の皇帝を経て、268年間になるの政権だった。
清朝ので、最大の版図が一番大きい時は1200万平方キロ余りに達していた。1616年、ヌルハチが後金を作り、1636年、ホンタイジ皇太極はが国号を「清」と改めたる。1644年、李自成の率いた農民軍がは明王朝の統治を覆し、明の崇禎皇帝はが自害した。清の軍隊は機に乗じて、山海関に入り、農民軍を打ち負かして、都を北京に定めた。清王朝は各地の農民蜂起と南部に残存していた明の抵抗勢力を次々に相次いで鎮圧していき、徐々に全国を統一した。
清は階級の矛盾を緩和するため、開墾奨励・、租税減免の政策を講じたので、内地と辺境地区の社会と経済はどこいずれも一定の進展を遂げた。18世紀半ばになると、封建経済がは新たなピークを迎え、歴史上、「康雍乾盛世」と呼ばれる繁栄の時代を迎えていた。中央集権の専制制度はさらに強化され、国力が強くなり、秩序も安定し、清代の人口は18世紀後半になると、3億人に達したと見られている。
1861年、日本生まれの鄭成功は軍艦を率いて、台湾海峡を横断し、台湾を38年にわたって間不法占拠していたオランダ人入植者を打ち破っ追い出した。翌年の年頭、オランダ人入植者は投降し、台湾は祖国に返還された。
16世紀後半、帝政ロシアは東へとの拡張政策を続けていた。清の軍隊はが山海関の内側に入った時、帝政ロシアは機に乗じて、ヤクサ(雅克薩)やとネルチンスク(尼布楚)などの地を占領した。清政府は再三にわたり、帝政ロシアの侵略者に中国の領土から撤退するよう求めた。1685年とその翌年、康煕帝は二2回にわたり、清軍にヤクサ駐屯の帝政ロシアの軍隊を攻める命令を清軍に下し、ロシア軍は中ロ露の東部区間の境界線問題を協議により解決することに同意せざるをえなくなった。1689年、双方の代表はネルチンスクで交渉を行い、中露ロ初の境界区画協定である『ネルチンスク条約』が結ばれた。
その後、乾隆皇帝はジュンガル(準葛爾)部族のジュンルタン(葛爾丹)勢力および回部族の大和卓と、小和卓の反乱を相次いで平定し、新疆を統一して、辺境地区の経済・、文化と交通を発展させする一連の政策を講じた。
清朝・は道光帝前までに、の大きな文化的成果として、王夫之、・黄宗羲、・顧炎武・および戴震などのような優れた思想家や、曹雪芹、・呉敬梓、・孔尚任及び・石涛などの著名な文学者・、芸術家が現れたことがあげられる。このほか、歴史学では考証学派の名家が輩出し、『四庫全書』、・『古今図書集成』などの政府が編纂した側主催による大型叢書が現れた。また、科学技術分野でも建築を始め、数多くの成果が収められた。
清朝は経済的には面で、依然として農業を立国の元としているた。文化思想面では、封建的な綱常礼教を提唱し、「文字の獄」を度々起こした。、外交的には上、長期にわたり鎖国し、盲目的に自らを尊大なものにしになっていった。
清朝のは半ば以降から各種の、社会的矛盾が日増しに明るみに出て、清に反対する闘争いが相次ぎ、中でも、白蓮教徒の乱は清朝の全盛時代に終止符を打つものであった。
1840年、のアヘン戦争とが勃発し、その後のれ以降、帝国主義的侵略によりが中国に侵入してきた。、清朝政府は侵略者と一連の不平等条約を締結させられ、土地の割譲、・賠償金の弁済、・通商港の開放などで、中国は徐々に半封建半植民地社会に陥っていった。清代は後期になると、衰弱期に入り、政治が腐敗して、思想が硬直化し、軟弱卑怯の上に、自信を喪失するようになっていた。人々民の生活は苦難に満ち、太平天国、・捻軍蜂起など一連の反帝反封建運動が起こった。統治者階級の内部では、自分自身の運延命を救うのために、洋務運動、・戊戌変法などのようなに改革の動きも一部見られた。しかし、これらの上から下へ貫くの改革により、中国を豊かで富強いで、独立した国に変えようとする運動はいずれも失敗に終わった。数多くの仁愛のある正義感にあふれるの人々は民族を滅亡の危機から救い出すため、血を浴びて奮戦し、先人の屍を乗り越えて戦ってきた。愛国主義の波は中国近代史で初めて激しい勢いで湧き上がり、空前の高まりを見せた。1911年、辛亥革命が起き、清朝の統治が覆され、中国で2000年余り続いた中国の封建主義帝政制もこれにより終わり、中国の歴史は新たな時期に入った。
>>[中国的史学名著] 中国の史学名著
『孫子兵法』
『孫子兵法』は中国古代における最も偉大な軍事理論書であり、中国の古典の中で世界でに最も名を知られ、最も影響力が最も大きい書物中国古典の一つである。『孫子兵法』でに論述された計略や哲学思想は今でも軍事、・政治、・経済などの分野で活用されている。
『孫子兵法』は、今から2500年前に著された軍事理論書で、欧州のプロイセンの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl von Clausewitz、1780-1831)が書いた『戦争論』(Vom Kriege)より2300年も早いものである。
『孫子兵法』の著者・孫武は中国春秋時代の大軍事家名将軍孫武で、中国の史上では「兵の聖人」または「武の聖人」と尊称されている。当時、戦乱を避けるため呉国に逃流れた込んだ孫武は呉王に才能を買われ、将軍に任じら命された。その後、孫武は3万の兵で20万もの楚国の20万もの軍隊を打ち負かし敗ったので、その名が各諸侯国に知られるようになった。孫武は春秋末期までの戦争を研究し、その経験をまとめて『「孫子兵法』」を編纂した。「『孫子兵法』」の中で、孫武は共通性のある普遍的な軍事法則をまとめ、一つの軍事理論体系を完成構築した。
「『孫子兵法』」は13篇からなる・6000字からなるのもので、各篇は1つ13のテーマが語られを巡って軍事理論を論述している。例えば、「計篇」(第一篇)の中では戦争を進められるか否かの問題を論じている。、慎重に敵との実力差、勝算の有無などを検討し、戦いを起こすべきかどうかなどについて論述している。また、「計篇」では、戦争と政治、経済の関係を掘り下げ、戦争の勝敗を決める5五つの要因(がそれぞれ政治・、天候(国際環境なども指す)、地の利理条件、将帥官(軍隊の指揮者)、法制(軍隊の組織、規律、装備などを指す)の中で、最も大切なのは政治だと指摘している。「作戦篇」では、「いかに無意味に戦争を続けるかないために、効果的な戦争決着を考えなければならない」ことを説いている。「謀攻篇」では、「いかにはかりごとで敵を攻めるか方法」を説いているく。孫武は「できるだけ最小の代償価で最大の成功を収めるにはため、戦わずして勝つことを求め人の兵を屈し、城攻めをせずに敵の城を奪い、戦わずして争を続けず敵を滅ぼすことだ」とを主張していする。この目標を実現するために彼は、謀略でを生かし勝利を得ることを強調する。とそして、「最上の戦い方は政治的な敵の謀略で勝利すを封じることであり、その次は外交策略手段で敵の同盟関係を断ち切り孤立させ勝つこと、その次が武力を行使することであって、城攻めは最も下策の行為である」と孫武は説いているく。また、謀略で敵を攻めるには、自れ分の実力を知るだけでなく把握した上、相手の情況も知るべきだとも主張している。「用間篇」では、「情報収集の方法としてのスパイの用い方」などが説かれており、「敵の情報を先に知るには各種のスパイを活用し、広範な多くの情報を収集すべきだ」と孫武は指摘主張している。
「『孫子兵法』」には価値のある哲学思想が含まれている。例えば、「彼を知り己を知れば、百戦して殆危うからず」(敵を知り己を知れば百回戦っても危険は無いと言う意味)はが中国の成語ことわざになっているた。『「孫子兵法』」には弁証法的な考え方が多く、戦争と係わる一連の矛盾、例えば、敵と味方、・主客要的と副次的、・衆寡多人数と少人数、・強と弱、・攻めと守り、・勝ちと負け、・利得と災いなどの対立と転化を検討している。「孫子兵法」『孫子兵法』はこれら矛盾の対立と転化の条件を検討した上、戦略と戦術を打ち出したものわけであり、中国の弁証法的論理の発展史において重要な位置付けを占めている。
「孫子兵法」『孫子兵法』は軍隊の配置や、戦術の実施などを取り上げ、「兵法と謀略の極意」を集大成したものであり、歴代の軍事専門家に援引用、掲載された謀略と典故などは既に中国の多くの老若男女人々に知られている。「孫子兵法」『孫子兵法』は周密的な軍事・理論、深みのある哲学思想体系である。、変化の尽きない戦略・と戦術を取り上げた本で、読むたびに新しい発見があると言われている。世界の軍事思想分野界でも広範な影響を与えておりその名が高く、英語、・ロシア語、・ドイツ語と・日本語など29種類の言語に訳されている。、全世界で数千種類もの翻訳本活字版が出版されており、多くの国の軍事学校では教科書として採用されていると言われている。報道によればると、1991年の湾岸戦争中、交対戦していたの双方がいずれも「孫子兵法」『孫子兵法』を参考にしていたというのことである。
「孫子兵法」『孫子兵法』は民間のビジネス社会、商業などの分野においても応用されている。内外の企業やビジネスマンは「孫子兵法」『孫子兵法』の軍事理論をビジネスに用い、経営管理、・マーケティング、・セールスなどにで生かし、積極的な効果役割を発揮させている果たした。
『史記』
「史記」『史記』は中国史上の偉大な歴史学の著書であり、紀伝体の文学著作品でもあり、後世の歴史学と文学に深い影響を与えている。「史記」『史記』は紀元前1世紀の西漢時代に誕生した。著され、中国の上古時代から前西漢まで3000年にわたる政治、・経済と・文化・の歴史を記している。「史記」『史記』は中国初の人物を中心にした紀伝体の通史であり、中国の紀伝体文学の始祖でもある。
「史記」『史記』の著者は歴史学者であり、と作家の司馬遷である。司馬遷は中国西前漢の人で、父親は朝廷の史料・史書を整理・編纂する太史令であった(史官のこと。前王朝に関する史料・史書を整理・編纂し、現王朝の史実を収集、記録した官吏)。司馬遷は子供の頃から思慮深く物事を考えることが好きで、典籍に掲載された歴史人物や事件に独自分なりの考え方を持っていたというのことである。若い頃、時の司馬遷は各地を歩き回り、社会風土・、人情風俗・、経済や物産の情況を調査したり、各地の名所旧跡を訪れたりして、有名な歴史上の人物や事件の伝記と資料を収集していた。その後、司馬遷は父親の仕事事業を受け継ぎ、朝廷の史官になった。当時、前王朝に関する歴史はすべて諸侯国が割拠していた頃に記録されたもので、記述者により違いが大きく、視野も狭かった。司馬遷は古代の文献を整理するために時、自ら歴史の全書を編纂することにした。当時、司馬遷は参与した政治活動に参与したで罪でを犯し、宮刑(生殖機能を破壊する刑)をに処された。司馬遷は肉体と精神にが大きなく傷を負っついた後、朝廷に再び重用されたが、その心境は全く変わり、「史記」『史記』の編纂をかならず完成することが生きる目的だと考えるようになっ覚悟した。司馬遷が13年間をかけて編纂した「史記」『史記』は130巻・からなり、50万字余りに及ぶ著作である。
「史記」『史記』は本紀、・表、・書、・世家、・列伝という5つのパート部分からなっており、史上の帝王など政治的な人物を中心に歴史を分類している。「本紀」は歴代の帝王の盛衰興廃と重大な歴史事件を記録するもの、「表」は図表で各歴史的な時期の重大な事件を記録するもの、「書」は天文、・暦法、・水利、・経済・と文化などに関する歴史を記録するもの、「世家」は歴代の諸侯、・貴族の活動と実績を記録するもの、「列伝」は歴代の各階層における影響力のある人物の伝記を記録するもので一部分は少数民族に関連する内容である。その中、人物を中心に歴史を記録する本紀、・世家、・列伝の3部分が全体書の大部分半を占めており、それは皆人物を中心に歴史を記載するものである。このことから、司馬遷は史書の新しい形格式である「紀伝体」のを創始者であると言われる作り出した。
「史記」『史記』は歴史を忠事実のに記録した史書だと言われている。司馬遷は一般の史官と違い、帝王の偉大な功績を記録し、王朝を褒め称えることを目的としていない。「史記」『史記』が記録した内容は他の所謂「正史」より幅係わる分野が広く、政治だけでなく、経済、・軍事、・文化、・天文、・地理、・風俗習慣などからなる社会の全体図を描いている。自分の運命が悲惨だったこともあっ原因して、司馬遷は個人の生命力と自己価値の実現に注目している。ゆえに、「史記」『史記』は封建王朝の正史とは違って愛憎が鮮明で甚だしく、封建社会の統治階層、特に漢代の最高統治集団を皮肉、非難風刺するだけでなく、封建社会の暴政に反抗する人々百姓の蜂起なども記録し、愛国者についても描写しのことを褒めている。
「史記」『史記』は文学的なの価値が高い。く、真実のな歴史資料を元に性格の鮮明な人物を多く作り描き出した。例えば、庶民の田舎出身で王になった蜂起者、臆病者に見えるが大志を抱く英雄、高位に就かなかったがず名高い侠客、胆力と識見が人並みでない将軍、財力が国を凌ぐ未亡人など、これらの人物は「史記」『史記』の最も精彩を放つ、最も重要な素晴らしい内容になっている。
「史記」『史記』は記述が簡潔で、重要な情景シーンの描写がいきいきとしており、使わ用されている言葉は素朴で通俗的であるのに内容が豊かで変化に富んでおり、中国古典の最高の達成点とされている。
>>[中国历史上的盛世] 中国歴史上の盛世
史上の五大盛世
2000年以上にわたる封建社会の中、「盛世」と言われる繁栄した時代が数回現れた。五大の盛世とはそれぞれ西漢の「文景之治」、唐の「貞治之治」と「開元盛世」、明の「永宣之治」と清の「康雍乾盛世」である。
五大の盛世はいずれも前王朝が終焉し、新王朝の成立と隆昌に伴って全盛期を迎えてきた。西漢は秦の廃墟をもとに新王朝を成立し、民力を170年養った後「文景之治」を迎えた。唐の「開元盛世」は隋末の大乱が終息した後、100年近くの紆余曲折を経て迎えた。明の「永宣之治」も、元軍を長城から北へ追い出し、天下を統一して50年以上精励し国を治めた後迎えたものである。が、明神宗の萬歴中期から社会が乱れ、明の滅亡を示す「清の入関」が起きるまでに約半世紀は不安定であった。清が中原地区に進出した後、李自成と張献忠の率いる農民武装を滅ぼしたり、南部に残留している明朝の武装勢力を掃討したりして約20年間費やした。清朝は明末の大乱世後、新王朝を成立させ、凡そ70年の統治を経て、全盛期を迎えた。それに、戦国時代には7国が分立している状態だったが、これも春秋時代の「礼崩楽壊」の後各勢力が併呑を重ねて、相対的な安定を実現した結果である。その後、秦の始皇帝により統一され、盛世のピークを迎えた。
史上の盛世には、国家統一、経済繁栄、政治安定、国力強大、文化隆昌など共通した特徴を持っている。
社会体制が激変した春秋時代に、「礼崩楽壊」(社会秩序や道徳が乱れる状態)となったのを受けて、孔子は乱世だと評価した。旧制度の崩壊に伴い新制度が現れ、戦国時代に、魏国と楚国で変法(法の変革)が行われ、戦国中期と末期に、秦、韓、斎、趙、燕なども変法で国力を強大させた。特に、秦国では商鞅による変法が最も徹底的なもので、秦国を他の6ヶ国を凌ぐ強国の地位に引き上げた。各国で行われた変法の程度は異なるものの、社会制度の変革がほぼ完成され、封建制が奴隷制に取って代わった。
西周から諸侯割拠の状態が続き、春秋時代の合併を経て、戦国時代になると7ヶ国しか残っていなかった。秦以前の夏、商、周の三王朝は本当の統一とは言えず、夏、商、周の天子を中心とした部落連盟だけだったので、この7ヶ国の分立状況は国家分裂とはまったく異なるものである。春秋時代の「万国」から戦国時代の「七国」に変わったことは大きな進歩で、7ヶ国から秦に変わり始皇帝が中央集権を実現させ、天下を統一したのは必然的な結果である。
秦が他の6ヶ国を併呑し、諸侯割拠の廃止、郡県制の施行などを通じて、中央集権を実行し、春秋時代から提唱してきた「大一統」を実現させた。その後、社会の進歩を判断する際、統一か分裂かもその基準の一つになった。が、統一なら正しく、分裂なら誤りだとは言えない。王朝の末期、腐敗した統治が生産力の発展を妨げ、苦難に満ちた人々を救い出すため、農民による蜂起で統一を分裂させてもそれは仕方のないことだ。故毛沢東主席は中国の農民蜂起が果たす積極的な役割を高く評価している。しかし、分裂した末かならず統一を迎えることは中国の歴史発展の法則である。なぜならば、統一でもたらされた安定した社会環境が、社会生産の発展と人々の生活改善にプラスとなる。西漢の文帝(紀元前179―前157年)、景帝(紀元前156年―前141年)、武帝(紀元前140年―前87年)の時期はいずれも国土の拡張期である。北の匈奴を撃退する戦争が半世紀も継続していたが、漠南地区と河西回廊が漢の領土になり、西域と言われる玉門関から西への新疆南部が漢に臣服し、東は遼東地区の衛氏朝鮮が敗れ、南は今の広東、雲南、浙江、福建など少数民族が集中している地区も漢の領土になった。武帝の時期に、秦の始皇帝を遥かに凌いだ「大一統」を実現した。
唐代に中国の領土はまたもや拡張され、史上で「漢」と共に「漢唐」と併称される。唐代、西北部では突厥を打ち負かし、安西都護府を設置し、東北地区では高句麗を大敗させ安東都護府を設け、東北地区の黒龍江にも黒水都督府を設置した。唐の開元盛世には、領土の広さが西漢を遥かに上回るものとなった。
漢と唐が空前の統一を実現したことは、中国領土拡大の二つの重要な歴史上の時期である。
明の永楽、宣徳帝の時に、北と北西において元朝の残留勢力を撃退し、砂漠地帯の南北までを制覇した。南西と南部(今の雲南、貴州と四川)などでは土司制を実施し、中央政府の管轄下に置いた。東北では防衛所を多く設け、黒龍江には防衛所を管理する都司を設置した。周辺の隣国、例えば、アンナン(今のベトナムの一部)、シャム(今のタイ)、朝鮮が明の従属国だった。永宣以降、長城より北と北西の地区が再びモンゴルに支配され、明の領土は縮小された。幅の広さ、統一の大きさから見て、漢と唐を上回ったのは元のほか、清の康煕、雍正、乾隆の盛世しかない。雍正帝が、「内外一家で、領土が極めて広い王朝で、わが朝の規模を凌ぐものはない」と話したことがある。乾隆24年に、青海、新疆の南北部とチベットが完全に中央政府の管轄下になった。東北は黒龍江より北へ外興安嶺まで至り、東はカラフト島に至り、東南部は台湾より東への海域まで、南は南沙諸島まで、すべて清の領土だった。当時、各地に地方政府を設け、軍隊を駐屯させ、統一を実現した。清の時代に、50以上の民族が一つの政権下に管轄され、康煕帝から2000年以上続いてきた長城の修築が停止となり、長城内外が統一されるようになった。
>>[千古之谜] 千古のなぞ
徐福東渡の謎
秦の始皇帝は皇帝になってから、一心に不老長寿を願っていた。東海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるということを聞き、方士を不老長寿不死の薬を探しに行かせた。最初に不老不死の薬を探す旅に立ったのは燕の国の人・盧生であった。盧生は碣石山、現在今の秦皇島から出発したが探しあてる、たどり着くことができなかった。今でも、秦皇島市内の東山公園には「秦の始皇帝が、仙不老不死の薬を求めたる出発地」とさ呼ばれる遺跡がある。1992年、ここに高さ6メートル、重さ80トンのみかげ石で作られた秦の始皇帝の彫像が立てられた。
盧生に次ぎ、徐福が始皇帝に派遣され、不老不死の薬を求める旅に立った。最初回の旅から戻ったでは徐福は不老不死の薬を見つけることはできなかったが、帰国後始皇帝に、「蓬莱の仙山に登って不老不死の薬を見つけたが、優れた男女と職人を連れて行かないと仙人が薬をくれない」と伝えた。秦の始皇帝は若い男女3000人のほか、優れた職人を選び抜して、徐福と共に不老不死の薬を探す旅に行かせた。2二回目の旅もで、徐福はまたもや失敗したが、竜と鯨に阻まれてたどり着けなかったと始皇帝に報告し、仙山に行くには優れた射手と最新の武器が要ると言った。三3回目の旅には秦の始皇帝自らが参加し、海上で大魚を自ら射たが、結局、不老不死の薬をがなおも見つけることはできなかった。結局、徐福はそのまま中国に戻らず、今の日本にたどり着き、富士山の麓で没したと言われている。
日本には、徐福にまつ関わる伝説やと記録が数多く伝わっている。徐福が日本史上で有名な神武天皇であるという説もあるほか、。日本には徐福のお墓、徐福宮、徐福岩、徐福上陸記念碑などの遺跡がまだ今も残っている。1991年に、日本の佐賀県諸富町には「徐福の道ロード」という公園が建てられた。現在も、毎年秋、には佐賀県の人々はが徐福に「初穂」をささげ、50年ごとに盛大な式典を行っている。
敦煌莫高窟の謎
敦煌の莫高窟は世界で規模が最も大きく、最も保存状態のよい仏教の遺跡である。世界に注目される芸術の珍宝庫がどうして西北の砂漠地帯ゴビにあるのだろう。
伝説によればって、敦煌莫高窟を最初に築いたのは楽僔という僧侶である。紀元366年、楽僔は敦煌の三危山を訪れた。夕方になっても宿が見つからず困っていた。ふと頭を上げると向かいの鳴沙山が金色に輝き、千万の仏の姿が現れたように見えた。この不思議な光景に魅了された楽僔は「こここそ聖地だ」と感じ入り、人を集めて経典を納める洞窟を掘り始めた。やがて唐の時代になる頃には、敦煌に1000以上の洞窟が出来ていた。
しかし、専門家の研究によれば莫高窟の開削は偶然のことではなく、古人の知恵の結晶である。場所を砂漠のオアシスにしたのは世俗と隔離し大自然と融合するという仏教の思想に基づいたものであるし、山腹に穿たれた洞窟は水に面し、その前を流れる川が周辺の林を潤し、独特の風景を作り出している。莫高窟は蜂の巣の形をしており、最も高い所でも40メートルを超えない。冬に洞窟の背面の西から吹いてくる砂嵐は洞窟の上を通り過ぎて中には入らず、夏は東風が莫高窟の向かいにある三危山にさえぎられ、直接洞窟の中に到達しない。こうして、莫高窟はゴビ砂漠の中で最も安全な所になった。
こうして莫高窟は1000年以上の風雨に耐え、11の王朝の492の洞窟と大量の壁画や彫刻が完全に保存され、極めて貴重な文化財が残されたのである。
円明園の文物は今どこにあるか
1860年、英仏連合軍は北京に侵入した際、皇室の園林である円明園を占領し、そこの珍宝を一切奪っていった。英仏連合軍が円明園から奪った至宝はいったいどれぐらいあるだろう。今も分からない謎である。が、仏軍が帰国後、皇帝に奉げた珍宝だけでも凡そ1万点に及ぶと言われている。現在、円明園の宝物を見たいと思うならば、イギリスとフランスへ行くしか方法がない。
イギリスのロンドンにある大英博物館には円明園から奪った珍宝が数万点展示されており、秦と漢の貴重な宝物、隋と唐の書画、明清の金や玉の器、何でも揃っている。東晋の画家である顧愷之による「女史箴図巻」も大英博物館に収蔵されている。この作品は中国で最も早い「形を以って神を描く」傑作だとされている。フランスのナポレオン三世は、フランス軍が円明園から奪ってきた1000点以上の珍宝を陳列するため、ある古城で「中国館」を建てた。これらの珍宝には、商周の青銅器、明清の官窯による陶磁器、玉石と象牙の彫刻品、清の乾隆帝の玉璽、乾隆帝の66歳の誕生日を祝うための玉屏風などがある。フランスのパリにある国家図書館には、円明園から奪ってきた円明園40景の絹製彩色版の図鑑、乾隆帝の題字がある円明園風景図など80点の珍宝が展示されている。また、個人に収蔵されている円明園の珍宝は数え切れないほど多い。
2000年5月頃、香港で行われた骨董品競売会で円明園の至宝が競り売りされたが、その中の3点は西洋楼の海晏堂にある12干支噴水の銅牛首、銅猿首と銅虎首であった。12干支噴水は中国の12干支をちなんで作った噴水時計で、デザインが精巧で2時間ごとにその時刻に当たる干支の銅首から水が噴出し、正午12時に12銅首から一斉に噴水する。競売会で、銅虎首が1400万元元で、銅牛首が700万元で、銅猿首が740万元で売却され、中国のある会社が買い受けた。
圓明園猴首 銅像 圓明園虎首銅像
圓明園牛首 銅像 乾隆年代描金镂空六方套瓶
北京原人化石の行方不明の謎
世界に知られる北京原人の化石は、それが行方不明になる前は、ずっと北京協和病院の金庫に保管されていた。
太平洋戦争が勃発した直後、化石の研究に従事する人類学の学者である魏敦瑞は協和病院が保管場所としてもう安全でないと判断し、北京原人の化石を米国に移送することを提案した。1941年12月に日本海軍のハワイ真珠湾攻撃を前に、北京協和病院の博文総務課長が「化石を箱詰めにせよ」という命令を受けて、北京原人の頭蓋骨5枚、頭骨の破片15枚、下顎骨14枚、鎖骨、大腿骨、上腕骨、牙歯など合計147枚の化石をレンズ拭き用の紙と綿で巻き、木箱に詰め中国駐在の米国大使館に運んだ。しかし、その後北京原人の化石が行方不明になり、今になってもどこにあるか分からない。
北京原人の化石はトランクに詰められて秦皇島からハリソン郵船に載せられ、米国に運ばれる途中沈没したという説があり、その郵船が日本海軍に占領され、化石も日本海軍に奪われたという説もある。
第二次世界大戦後、米軍は日本で北京原人の化石を探したが、見つからなかった。1972年に、米国の富豪であるジェニュース氏が懸賞をかけて北京原人の化石を探し求め、手がかりを多く入手したが、失敗に終わった。1970年に、ニューヨークに住むある女性が北京原人の化石を探していた科学者クリストフ氏に電話をかけ、その女性の夫が生前北京原人の化石を保管していたと伝えた。ハーバード大学のある教授はこの女性が提供した写真を鑑定し、行方不明になった北京原人の化石だと判明したが、その後、女性との連絡が途絶えた。1991年に、米海軍の仕官である歴史学者のブロン氏は北京原人の化石問題で責任を問われたフリー博士から、北京原人の化石を保管している女性とまた連絡が取れたと書いた手紙を受け取ったが、1992年の秋にフリー博士も死去した。
1970年に、ニューヨークタイムズの紙面にはウィレンムという医師が広告を掲載し、北京原人が三ヶ所のいずれか(天津のある友人の家、天津のフランス系のパスト研究室、天津のスイス人が経営する外国商社)に保管されているかもしれないと発表した。これを受けて、天津市公安局が「極秘案件」の専門調査グループを作って取り調べたが、見つからなかった。このほど、中国の人類学者の周国興が長年の調査で、真珠湾攻撃を前に中国駐在の米軍海兵隊本部と米国大使館を結ぶ玄関の守備に当たる警備員は二人が一つの箱を大使館の裏庭に埋めたことを目撃したという新しい手がかりを入手したが、埋蔵場所の上に建物ができ発掘が不可能になった。
北京原人の化石は数十年間行方不明のままで、今になってもどこにあるか分からない。故周恩来総理はかつて「中国人がアメリカ人に北京原人の化石の保管を頼んだが、アメリカ人がそれを落としてしまった。良識ある科学者ならばそれを探し出して返還するべきである」と言ったことがある。
楊貴妃の行方不明の謎
楊貴妃の本名は楊玉環で、やがて17才で当時の皇帝唐玄宗の第18皇子寿王瑁(じゅおうぼう)の妃となったが、唐玄宗に南宮に召しだされ、太真という号を賜った。その後、楊玉環は後宮の中の最高の地位である貴妃の位を得て、皇后と同じ待遇になった。当時、唐玄宗は56歳で、楊貴妃は22歳だった。
楊貴妃はふくよかで、音曲に秀でており、踊りが上手でとりわけ取り入ることが得意だそうである。唐玄宗が自ら作曲した「霓裳羽衣曲」に一度目を通しただけの楊貴妃はすぐ暗記でき、歌に乗せながら踊ることができた。
唐玄宗の寵愛を一身に受けた楊貴妃の一族も出世した。楊貴妃の3人の姉は国夫人となり、楊一門の兄弟は高位に就いた。兄楊国忠は右宰相の位にまで登用され、目を見張るばかりの権勢を誇った。唐玄宗が酒色にふけるようになり、政治は腐敗して各政治勢力の矛盾が日々激化して、「安史の乱」を招いた。唐玄宗は楊貴妃と共に蜀へ逃げる途中、馬嵬の地に着くや、「この反乱の原因は楊一族にこそあり」と近衛軍は楊貴妃を含む全ての一族を始末するように要求し、動こうとしない。どうすることも出来ないまま唐玄宗は宦官高力士に楊貴妃の縊死を命じた。結局、楊貴妃は馬嵬の仏堂前の梨の木の下で縊死させられ、38歳の生涯を終えた。
楊貴妃の死に関する説は色々あるが、楊貴妃の女官が代わりに縊死させられ、楊貴妃が密かに都を逃れ船で大陸を脱出し、日本にたどり着いたという説がある。今でも、日本には楊貴妃の墓が二ヶ所ある。
1963年、ある日本人の女性がテレビで視聴者に系譜を見せ、自分が楊貴妃の子孫だと自称した。
楊貴妃が日本の山口県大津郡油谷町久津にたどり着いたという説がある。唐玄宗は「安史の乱」を治めた後、方士(神仙術を行う人)に楊貴妃を探しに派遣した。方士が日本の久津で楊貴妃と会い、玄宗が贈呈した仏像二つを渡したが、楊貴妃が玉簪を贈り返した。楊貴妃は日本の久津で亡くなり、現在も久津には楊貴妃のお墓があり、二つの仏像も保存されている。
秦の始皇帝陵の謎
秦の始皇帝の陵墓は陝西省西安の郊外にある。驪山の北、渭水の南にある始皇帝陵を空から見ると、まるでエジプトのピラミッドのようなスケールである。
始皇帝陵内部の区画と構造は秦の都・咸陽とそっくりで、地下宮殿や、内外の城壁も全て咸陽を真似て建造されたものである。始皇帝陵の本体と周辺の副葬地区は66.25平方キロに及び、現在の西安の市街地面積の2倍に当たる。
始皇帝は13歳で即位してから驪山に自分の墓を修築し始め、中国を統一した後にさらに各地から10万人以上を徴用して墓を築いた。それは、彼が50歳で死去するまで37年間続いた。史料によると、始皇帝陵には珍しい宝物が沢山安置されており、盗掘を防止するために矢を自動発射する弓の仕掛けもあった。墓室の天井には星辰を表わす宝石と真珠が飾られ、床には中国の五大山などの模型が置かれ、その間を河と海を象徴する水銀が流れ、黄金で作った雉が浮かんでいた。墓室には鯨の油を燃料とする「長明灯」が燃え続け、墓室の周りは大規模な兵馬俑の軍隊に囲まれていた。
紀元前210年、始皇帝が今の河北省平郷で急死し、遺体は咸陽に運ばれた。2カ月後に葬儀が行われたが、始皇帝の女官と墓を建造した職人も共に埋められた。
『漢書』と『水経注』には、始皇帝陵は紀元前206年に項羽によって破壊されたという記録がある。北魏の『水経注』によると、項羽は咸陽に突入した後、30万人を動員して始皇帝陵内の宝物を運び出したが、30日かかっても終わらなかったという。その後、羊飼いが行方不明になった羊を探してたいまつを持って墓に入り、誤って墓が燃えてしまった。
しかし、始皇帝が死んで100年ほど後に完成した司馬遷の「史記」には、始皇帝陵の火災に関する記録は何もないため、そのさらに500年後に完成した『水経注』の記録は疑いがあるという声も聞かれた。
1949年、新中国の誕生後、中国の考古学研究者は始皇帝陵の探査を続けてきた。1974年に兵馬俑が発見された後、始皇帝陵本体の周囲に200基以上の探査ホールを掘ると、盗掘の跡が2カ所見つかった。それぞれ陵墓の東北と西にあり、直径約90センチ、長さ9メートルに達していたが、墓の中心にはまだ250メートル以上離れていた。
さらに、地下宮殿の城壁が破壊されていないことや水銀の流れが崩れていないことなどから、始皇帝陵本体は盗掘されておらず、ほぼ完全に保存されいるという結論が出された。
>>[中国历史掌故] 中国歴史典故
シルクロードの基礎知識
シルクロードは中国古代文明が西方へ伝わった重要なルートであり、中国と西方の経済文化交流をつないだ掛け橋であった。
普通シルクロードと言えば、漢の時代に張騫が切り開いたオアシスルートを指す。東の長安(今の西安)から出発し、中央アジアの乾燥地帯を抜けて西のローマにたどり着く。このほかシルクロードには南北2本の支線がある。南の支線は敦煌から陽関を出て西へ崑崙山脈を越え、大月氏(今の新疆・アフガニスタン周辺)、安息(今のイラン)、条氏(今のアラビア半島)を経由して、ローマ帝国にたどり着く。北の支線は敦煌から玉門関を出て、天山南部に沿って大宛、康居(今のカザフスタ南部に当たる)を経由して南西へ進み南の支線と合流する。このシルクロードは「陸のシルクロード」として知られている。
実は、ほかにも2本のシルクロードがある。1本は「西南シルクロード」である。四川から雲南を経てミャンマー北部を通りインド東北部に着き、そこから川を経由してインド西北部へ進み、イラン高原にたどり着く。このシルクロードの歴史は陸のシルクロードより早い。1986年、四川省の広漢市三星堆遺跡で3000年前の西アジアとギリシャ文化の特徴がある文物が出土した。長さ142センチの金の杖や仮面「青銅縦目面具」、高さ4m近い「青銅神樹」、2.6mの「青銅立人像」などは東西の文化交流で中国に伝わってきたものだと専門家は見ている。3000年前にすでにシルクロードはあったと言えるだろう。
もう1本は、アジア大陸の南の海を結んだ「海のシルクロード」である。海のシルクロードは広州から海に出て、満剌加海峡(今のマラッカ海峡)を通り、錫蘭(今のスリランカ)、インドなどを経由して、東アフリカにたどり着く。東アフリカのソマリなどで出土した文物によって、海のシルクロードが宋朝(960年―1126年)に既にあったことが分かった。
海のシルクロードを通じて中国は他の文明国や文化の発祥地とつながり、経済と文化の交流を促進したことから、海のシルクロードは「東西対話の道」と言われている。史料によると、イタリアのマルコポーロも海のシルクロードを通って中国に着いたという。
長城の関の名前のエピソード
長城の険しいところには関が設置されている。多くの関の名前の由来はとても興味深いものである。
「長城第一関」と呼ばれる山海関は、河北省と遼寧省の境界に位置し、長城の東の出発点でもある。山海関の北には燕山があり、南には渤海がある。山海関に登って眺めると、壮大な山と海の景色が一望できることから、山海関という名前が付けられた。
山海関を建てたのは、明代の有名な将軍・徐達である。軍事的な観点から、山と海の両方を抑えられるこの地に山海関を築いた。山海関には4つの門があり、東門の門楼には「天下第一関」と書かれた巨大な扁額が掲げられている。この額は長さ約6m、幅1.6m、1文字の大きさが1.45m×1.09mある。明代の進士で有名な書家の肖顕の筆だが、作者の署名がない。言い伝えでは、肖顕はこの額を一気に書いたが、中の「一」という文字がどうしても満足できない。何回も書いたがそれでも満足できない。そこで居酒屋に行き、一休みしながら考えていた。その時、店員が来てテーブルを拭いた後に水の跡が残った。肖顕はこれを見て突然立ち上がり、大声で「よかった。よかった」と叫んだ。なんとこの水の跡が絶好の「一」となっていたのである。肖顕士は、テーブルの水の跡を思い浮かべながら改めて額に字を書いた。こうして、今の巨大な額ができた。このため肖顕は署名をしなかったので、この額は珍しい署名なしの大額となった。
長城の西の起点は、甘粛省嘉峪関市にある嘉峪関である。明の洪武5年(1372年)に建てられた嘉峪関は嘉峪山に位置することからこの名がつけられた。また嘉峪関は戦乱に遭ったことがないので、和平関とも呼ばれる。
山西省平定県にある娘子関は、険しい山の中にあり、守るに易しく攻めるに難しいことから、「三晋門戸」と呼ばれている。この関の元の名は葦沢関だった。唐代初期、李淵の3番目の娘の平陽姫が兵士数万人を率いてここに駐留した。武術に優れた平陽姫が率いる軍は娘子軍といわれていた。そこで人々は関の名前を娘子関に変えた。今も娘子関の城の東門には「直隷娘子関」という5文字が刻まれている。
甘粛省敦煌の西北部にある玉門関は、その昔、新疆和田で産出した玉を内陸に送る際にかならず通ることから、この名を与えられた。
北京市昌平区にある居庸関は、長城を修築する時、傭兵たちを住まわせたことから、竣工後、そう呼び始めた。
山西省偏関県にある偏頭関。ちょっと奇妙な響きの名だが、偏頭関の周囲は地形が平らではなく東が高く西が低くなっており、おまけに斜めになっていたのでその名がついた。
山西省代県の谷間にある雁門関の両側にある山は険しくて、雁もなかなか超えられず、谷間の下を通って関の前を通るしかないほどだった。このため人々は雁門関という名をつけた。
台湾地名のエピソード
台湾は昔、夷州、琉球、東蕃、大員などと呼ばれたことがある。後世の人々はまた台湾の特徴から多くの美しい名前をつけた。例えば「宝島」(物華天宝)、「海棠島」(形は海棠の葉とにていることから)、「春島」(四季を通して春みたい)、「蝶々島」(特産が蝶々)、「さんご島」(特産がさんご)、「甘島」(特産がサトウキビ)などがある。ヨーロッパの植民者たちは、台湾を「福摩薩」(美しい島という意味)や「漁夫島」を呼んだ。
台湾等の名前は美しく、その地名も美しい。ある人が島の名前を使って、対句を作った。一つは:
緑島陽明山、花壇景美;
秀水日月潭、鶯歌愛河。
この対句は、緑島、陽明山、花壇、景美、秀水、日月潭、鶯歌、愛河の8つの地名からなる。この8ヵ所のいずれも台湾で風景が非常に美しいところである。
もう一つの対句は:
香山楊梅、清水花蓮、草屯佳冬大雅;
芬園秀林、芳苑牡丹、蘭(山与)恒春美濃。
この14の地名からなる対句は、これらの地方の美については語らず、この古色豊かな意味合いの対句だけが人々に詩歌の連想と美を十分に与えている。
台湾という美しい島は人々に好まれている。
中国人はなぜ「龍の子孫」と呼ばれるのか
中国人が「龍の子孫」と呼ばれる原因は古代のトーテムと伝説にある。
言い伝えでは、黄帝が中原を統一する前のトーテムはクマであった。中原が統一された後、黄帝は新しく帰属させた部落を安定化させるため、前にトーテムであったクマを新しく「龍」に変えた。龍はそれ以前のクマトーテムの頭の部分と蛇トーテムの胴体の部分とを組み合わせたものである。(虫喬)は蛇であり、昔「橋」と呼ばれた。黄帝が橋山に埋葬されたことは黄帝が母親側の家族のトーテムへの崇拝を証明できる。実際には、龍トーテムは、黄帝の父親側と母親側の家族のトーテムの統一である。龍という珍しい形の統一は、中華民族が発展する歴史と各民族が融合しあうプロセスを表した。
この中華民族の龍を象徴するシンボルは、いろいろな図案にその姿を描かれ、次第に文字も誕生した。殷商から出土した古い甲骨文字には「龍」という字がある。発見された古代の陶器の破片にも「龍」という図がある。このほど、考古学の専門家は遼寧省の阜新にある査海遺跡で、龍の模様のある陶器の破片を発見し、一つは動いている龍で、もう一つは座っている龍で、作り方が非常に巧妙であり、さらに龍の紋も見える。
龍は、中華民族の祖先のトーテムとなり、中華民族も龍とつながっている。そこに、龍をめぐって、「神様を感動させ生まれた」という伝説があった。この伝説によれば、炎帝は、登という名の女の子が神様の龍を感動させ生まれたものだという。黄帝は、「北闘」を感動させ生まれた。尧は、「赤龍」を感動させ生まれたということである。中華民族の先祖が龍から変わったのであれば、中華民族の子孫は当然龍の後代となるだろう。
中国の姓名文化
誰でも生まれたときから自分の姓名がある。その後その姓名をもって社会活動にはいる。こうして、姓名は自らを代表し、ほかの人と区別するというもっとも実際的な役割を果たす。しかし、古代の中国社会では、姓名の意義はこれだけではない。
長い歴史で、中国人の姓名文化は、中華民族の物質生活と精神生活の欠かすことのできない部分であり、政治、文化及び社会活動などの分野で重要な役割を果たしている。考古資料によれば、中国人は100万年前にその国土に生存した。姓名の歴史は、今から五六千年も前の母系社会からはじまっている。母系社会の特徴は、女性が氏族内部の事務管理で主導的な地位を示すとともに、異なる氏族の人々の間で通婚し、氏族内部の人との結婚が禁止されることである。この氏族外の結婚制度があるからこそ、一人一人のメンバーの間に直接な血縁関係があるかどうかを判断する必要が出てきて、そうして、共通の血縁関係を区別するための姓名というものが表わさせるようになったのである。
清の顧炎武という学者の研究によれば、中国で最も古い姓はあわせて22ある。しかし、さらに多くの姓名は氏族の削減とともに、なくなった可能性もある。これと同時に残った姓も大きな変化があった。今から約四五千年前に、中国人は、母系氏族社会を経て、父系氏族社会に入り、氏族社会から階級社会への飛躍を始めた。この過渡期の基本的な象徴の一つは、異なる祖先の氏族の間で起こった影響や戦いが頻繁になることにより、指導と服従という関係が出て、階級社会の最初の様相が表われた。それとともに、多くの功績のある社会メンバーが領地をもらい、それに家族や部下と捕虜といっしょにそこへ移って、新しい生活地を開くことを許可された。これら人々は、それぞれ姓があり、新しい居住地域で、地域と関係のある標識である氏をもらった。
紀元前3世紀まで、秦が中国を統一した後、最初に母系氏族社会からきた姓と父系氏族社会からきた氏とが一体化した。この後、中国の2000年余りの封建社会では、王朝が数十回も変わり、それに変わるごとに、新しい領地が表われると、新しい姓と氏が出た。このため、姓と氏が階級と地位のシンボルとなり、姓名を中心に独特な文化が生まれた。この文化は子々孫々に伝えることによって広がり、こうして、強いルーツを追う意識が社会の核心となった。
いまでも、海外に住んでいる華人華僑には中国の大陸地区にルーツを探す伝統がある。近年来、中国の姓名文化は中国古代社会特定の歴史的産物となり、人々が新しい角度から中華民族の長い歴史を学ぶ場合の巨大な宝庫となる。たとえば、姓や氏の起源、区別と合流手がかりにしてゆくと、上古時代の様々な社会形態がとってかわられた特徴がよくわかる。また、家系図、家号、連宗(同族つきあい)など一連の具体的な事象を見れば、血縁関係が果たした古代社会の発展と社会生活における歴史的な役割などを知ることができる。このように、中国古代社会の本質的な特徴、たとえば、専制制度、家族型社会構造、忠君孝行を核心とする道徳倫理観念などが姓名文化を通し、よく分かるようになる。これはまた、姓名文化がますます学術界で重視されるゆえんでもある。
中国の養蚕技術はいかにして西方に伝えられたのか
言い伝えでは、中国の養蚕技術は、5000年前に黄帝の元妃(女累)祖が民衆に教えたという。わが国の甲骨文字には、すでに蚕、桑、生糸、帛という文字がある。中国の初めての詩歌集である「詩経」には、蚕の飼育についての詩「豳風七月」がある。そのうち、「春日載陽、有鳴倉庚。女執懿筺、遵彼微行、愛求柔桑」という詩がある。「春の日、太陽はふりそそぎ、ウグイスが鳴き、女の子は大きなかごを持って道を歩きながら柔らかい桑の葉をとりに行く」という意味である。この詩歌から、わが国には大昔から養蚕やシルクを作る技術があったことがわかる。
西漢の時代、張騫が西の地域を開通した後、中国のシルクはヨーロッパに送られ始めた。ヨーロッパの人々はこのやわらかくて色の鮮やかなシルクを見て、めずらしいものだと大量に購入するようになった。言い伝えでは、ローマ帝国のカエサルは、中国のシルクで作った着物を着て劇を見て、劇場でみんなをびっくりさせたことがあるそうだ。またコロンブスが探検したとき、船員に「一番早く大陸を発見した者には、シルクの着物をほうびに与えよう」と話したという。しかし、シルクの価格は黄金に匹敵するほど高かったので、当時のローマ帝国は値段の高いシルクの輸入代金を支払うために、財政赤字に陥った。このため、元老院が中国のシルク服装品の販売やそれを着ることの禁止令を出した。しかし中国のシルクが大好きな貴族たちの強い反対を受けて、ローマ帝国はやむなく、禁止令を撤廃した。
最初は、ヨーロッパの人々は中国のシルクが蚕を飼い、その蚕が出す生糸で織ったものだということが分からなくて、生糸は木から取って、水でぬらしてから作るのだと思っていた。蚕の飼育のことが分かってからは、なんとか工夫して中国の養蚕技術を学ぼうと決心した。
紀元6世紀、ローマのジャスティンニアン皇帝は、中国の宣教師を召見し、その人物を中国へ養蚕技術を盗みに行くように命令した。この宣教師が、中国の雲南にやってきたところ、「桑の木は桑の種から生えるもので、また蚕は春に蚕の卵を胸におき、1週間温めて孵化したものだ。幼い蚕が出てから、桑の葉で心を込めて飼育すれば、まゆができて、糸が出る」ということを聞いた。この宣教師は、この方法を分かったつもりで、蚕の卵と桑の種を盗み、帰国し褒美をもらおうとした。しかし、この布教師は、蚕の卵と桑の種を混ぜて、それを土に蒔いた。そうすれば、蚕は桑の種を胸に置くのだろうと思ったのだろうが、結果は何の収穫も無かった。その後、ジャスティンニアン皇帝は、改めて頭のいい宣教師2人を中国へ養蚕技術を盗みに行かせた。この2人は昔の失敗した経験を教訓にして、種の蒔き方、孵化の方法を覚えて、蚕の卵と桑の種を中が空洞になったステッキに隠してローマに持ち帰った。こうして、中国の養蚕技術が、ヨーロッパに伝えられたのである。
中国の養蚕技術がヨーロッパに伝えられたことについては、もう一つの言い伝えもある。玄奘法師が書いた「大唐西域記」には、「西の地域には、瞿薩旦那という名の小さな国があり、蚕の飼育技術を学びたいと、当時の"東国"にもとめたが、強く拒否された。学者の研究によれば、"東国"とは北魏である可能性が強い。瞿薩旦那の国王がもう一つの方法を考え出した。国王は、友好を強化するという名義で、"東国"に通婚を求め、"東国"の認可を得た。婚姻の前に、瞿薩旦那の国王が使者を派遣し、王女に「蚕の卵と桑の種を持ってくるように」と伝えた。王女は瞿薩旦那の国王の要求に同意した。"東国"を離れる前、王女は蚕の卵と桑の種を帽子に隠した。国境を越える前、王女のすべての服や物は検査を受けたが、帽子だけが検査を免れた。こうして、蚕の卵と桑の種が瞿薩旦那国に持ちこまれ、その後さらにヨーロッパに伝えられたということである。
玄奘法師のこの貴重な記載は、イギリス系ハンガリー人の探検家スタンインによって新疆で発見された古代の版画で実証された。この版画の中央には、盛装した貴婦人が描かれており、その婦人は帽子をかぶっている。その両側には侍女が1人ずついて、左側の侍女は貴婦人の帽子をさしている。この貴婦人が桑の種と蚕の卵をヨーロッパに持っていった"東国"の王女である。
漢字の起源と変化
漢字は、世界でもっとも歴史が長く、もっとも広い範囲で使用され、もっとも使う人が多い文字のひとつである。漢字の誕生と応用は中国の文化だけでなく、世界の文化の発展にも深い影響を与えた。
今から、約6000年前の半坡遺跡で、50種あまりの符号が発見された。それには一定の規律があり、簡単な文字の特徴を持っている。これは漢字の萌芽である可能性が高いと専門家たちは見ている。
漢字が系統的な文字になるのは、紀元前16世紀の商の時代である。商の初期には中国文明はすでに相当高いレベルに達していたが、その特徴の一つは甲骨文字の誕生である。甲骨文字は亀の甲や獣の骨に刻まれた古い文字である。商の時代には国王は何をするにもまず占いをしたが、甲骨文字は占いをするときの道具だった。
甲骨は使う前に加工される。まず甲骨の上に付いている血や肉を取り除き、磨いてから、甲や骨の裏に刃物で文字を刻む。刻まれた文字の排列にも順序がある。占いをする人や巫術を行う人は、自分の名前と占いの期日、また聞きたいことをすべて甲骨に刻み、火で焼く。熱を受けて甲骨の表面に出て来た裂け目を「兆」という。巫術を行う人は裂け目の形を分析し、占いの結果を出して刻む。そして、占いが当たったかどうかも刻む。もし占いが当たったら、この甲骨は政府の文献として保存される。
今まで、考古学の専門家は、あわせて16万枚あまりの甲骨を発見した。ほぼ完全なものもあれば、文字の記載がない破片もある。甲骨に刻まれている文字は4000余りあり、そのうち3000字ほどを専門家が研究した。そして1000字あまりが解読された。この1000文字から商の政治・経済・文化などの情況を知ることができる。甲骨文字は系統的な文字で、商の後の漢字の基礎となった。この後、漢字は、銅銘文(金文)・小篆・隷書・楷書などに変化しながら、現在まで人々に使用されてきた。
漢字が変化してきた過程は、漢字の字形と字体が規範化・安定化した過程である。小篆は一つ一つの文字の筆画数を固定した。隷書は新しい筆画システムを構成し、字形が平たい方形となった。楷書が誕生してからは字形と字体が安定し、「横・縦・撇・点・捺・挑・折」という基本の筆画が定められた。書き方も規範化され、各文字の筆画数と筆順も定められた。この1000年来、楷書はずっと漢字の基準と見られている。
漢字は、象形文字を基礎に形声文字を主体とした表意文字システムで約10000字ある。そのうち通常よく使われるのは、3000字ぐらいだが、この3000あまりの漢字は数え切れないほどの単語を構成し、さらにさまざまな文を構成する。
漢字は誕生してから日本やベトナム、朝鮮など周辺諸国に大きな影響を及ぼした。
永楽大鐘は45キロ先まで響き渡る
中国の北京にある大鐘寺には、永楽大鐘と名づけられた大きな鐘がある。この鐘は、重さ46.5トン、高さ6.75メートル、直径3.3メートルある。永楽大鐘には、すでに500年あまりの歴史がある。永楽大鐘は、地面に穴を掘って造型し、表面は陶製の鋳型を使って鋳造されたものである。鋳造の時数十の溶鉱炉が同時に稼働し、溶けた銅を溝にそって陶製の鋳型に注いで作るというもので、とても巧妙な作り方である。
永楽大鐘ができてから、清の乾隆年間、覚生寺に移された。覚生寺は永楽大鐘があることから、大鐘寺と名を変えた。鐘は1751年から、現在までそのままで、一度も移動されたことはない。
永楽大鐘の音は耳に快いものである。専門家の実験で、鐘の音が振動する頻度は音楽での標準頻度と同じか近いことが判明した。軽くたたくと、滑らかに響き、力を入れてたたくと、大きく優雅に響く、もっとも遠くまで響く場合は45キロも離れたところに伝わり、2分間以上も続く。
毎年新年になると、永楽大鐘が鳴らされる。この鐘は、もう500年以上の歴史があり、今なおすばらしい音を響かせる。中国の科学専門家が、鐘の合金について研究した結果、永楽大鐘には銅、錫、鉛、鉄、マグネシウムのほか、金と銀の含有量も高くて、それぞれ金が18.6キロで、銀が38キロあった。専門家の分析では、銅器に金が入れると、さびどめになり、銀を入れると流し込み液の流動性が高くなるとのことである。これが、永楽大鐘が500年以上も良好なまま、美しい音色を響かせる原因である。
外国の専門家は、「永楽大鐘の鋳造のすばらしさは、世界鋳造史上の奇跡である。科学が発達している現在でも、永楽大鐘のような鐘はなかなか作ることはできない」と話しています。
遠隔探査技術で北京古都の新しい奇観を発見
明朝永楽年間(1403―1425)に立てられた北京城は、昔から配置が合理的で、建築物は立派なことで世に知られている。近年来、科学技術者が、遠隔探査技術を通して、高空から北京城を撮影し、北京市内には、二匹の巨大の龍が横たわっていて、1人の巨人が座っているというとても壮大な風景を発見した。これは北京の二つの新しい奇観となり、人々を驚かせた。
カラーの遠隔探査図から見ると、二匹の巨大な龍は、南から北へといっしょになて、それに都市の両側をつないでいる。そのうちの一匹は、北京の古い建物から構成されているので、「古代建築龍」だといわれる。それは、天安門から鐘鼓楼まで延びている。天安門は、ちょうど龍の口、金水橋は龍の顎、東西方向の長安街は、そのひげ、太庙、社稷壇は龍の目、故宮は、龍の胴体に当たり、そびえたっている部分は、景山公園だ。鐘鼓楼は龍の尾、故宮の4つの角楼は、八方に伸ばす龍の爪と似ている。
もう一つの龍は、北京の河流からなるもので、「水龍」だという。この「水龍」の頭は、半円型の南海で、中海と北海がつながって、龍の胴体の部分となる。西北に伸びている什刹海は、漂っている龍の尾に当たる。
「古代建築龍」と「水龍」がともになって、とても壮大な風景である。これは、意図的に設けされたものなのか、それとも偶然のものなのか、判断できない。
北京城にあるもう一つの奇観は、景山公園の園林の図形である。この図は、目を閉じて、あぐらをかいている巨大な人間みたいである。景山公園はもともと皇室の園林で、故宮の北にある。これもわざと設けされたものなのか、それとも偶然なのか、謎である。
これら奇観の新しい発見によって、北京城にいっそう神秘な感じが溢れてきた。
山頂洞人の骨針とアクセサリー
今から約5万年前の旧石器時代には、人類は針の製作と使用ができた。この針は、細い骨で作ったものだ。考古学の専門家が、ヨーロッパのオヨナ文化遺跡で骨針を発見したことがあるが、その製造レベルは低いものであった。しかし、中国の山頂洞人の遺跡で発見された一本の骨針を見ると、その製造のレベルに驚かされる。
この骨針は、長さ82ミリ、直径3ミリで、マッチより少し太目で、骨針自身が曲がって、表面が滑らかで、針の先の部分が鋭く、針の穴もはっきりしている。この骨針は、鋭い道具で掘ったものである。残念なことに、出土された時、穴の部分が損傷してしまった。
針があれば糸も必ずなくてはならないものであるが、糸はなかなか見つからなかった。山頂洞人が使った糸は、植物繊維ではなく、鹿の靱帯である可能性が大きい。罕(左には犭)という名前の鹿の体からとった靱帯で、長さが50センチ以上あり、細くて白い。この靱帯を糸にするのは理想的である。
針と糸があると、服を縫うことができる。このことから、山頂洞人は、服を着ていたことが分かる。
18000年あまり前に生活していた山頂洞人は、アクセサリーを作り、それを使用していたのである。考古学の専門家は、遺跡で山頂洞人の作ったネックレスを発見した。このネックレスは、色とりどりの石と獣の歯、魚の骨、貝などを磨いてから、縄でつなげて作ったものである。それに、縄などは染色されている。この染料は、山頂洞人がある赤い色の石、すなわち赤鉄鉱を石器で研磨して、できた粉末で作ったものだ。
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