第十二章:伝統医学
「伝統医学の概況」

一、伝統医学の概況

 中国の伝統医学とは、中華民族が長年の医療、生活実践の中で絶えず蓄積し、繰り返してまとめた独特な理論風格を備えた医学システムである。

 中国の伝統医学は中国各民族医学の総称であり、主に漢民族医学、チベット医学、モンゴル族医学、ウイグル族医学などの民族医学が含まれている。中でも漢民族の伝統医学は最も多く文字の歴史や文化も長いので、中国ないし世界での影響力が最も大きい。19世紀から西洋医学が中国に伝わり漢民族の医学が"漢方医学"とも呼ばれるようになった。西洋医学とは区別されている。

 

二、漢方医学

 1、漢方医学の歴史

 中国の伝統医学の内、漢民族の医学は歴史が最も長く、その実践経験と理論認識も最も豊かである。

 漢方医学は中国の黄河流域から起こり、早くから学術システムが形成された。漢方医学は長い発展段階の中で異なった発明、多くの著名な漢方医学、重要な学派や功績を残した。

 3000年前の殷墟時代の甲骨文の中に、医療衛生や数十種類の病気についての記載がある。周の時代に入ると、見る、嗅ぐ、聞く、切る(脈を取る)などの問診方法と、薬物、針灸、手術などの治療方法が使われていた。

 秦・漢代に、「皇帝内経」という漢方の体系理論を備えた医学著作も出ている。これは今まで残っている最も古い漢方医学の理論的な古典著作である。その後、張仲景氏が記した「腸チフス雑病論」は数多くの雑病の診断や治療の原則に専門的に論及し、後世の臨床医学の発展の基礎を定めた。漢代には、漢方医学の外科医はすでに高いレベルに達した。

 「三国誌」によると、著名な医師・華佗氏は漢代から、全身麻酔の薬剤"麻沸散"を使って外科の各種の手術をした。また、魏晋南北朝(紀元220年-589年)から隋唐五代(紀元581年―960年)まで、脈診で大きな成果を収めた。晋の時代の名医・王叔和はその著書「脈経」で、静脈の現象を24種類にまとめた。この著作は中国医学に大きな影響を与えただけでなく、海外にも伝わっていったのである。

 この時期、漢方医学の各科が次第に専門的に細分化するようになった。針灸の著書には「針甲乙経」、丹薬作りの代表的な著書には「抱朴子」と「肘後方」があり、製薬の面では「雷公砲炙論」、外科では「劉涓子鬼遺方」と「諸病原候論」などがある。また小児科では「頭囟経」、眼科では、「銀海精微」、更に世界初の薬典「新修本草」、唐代の孫思邈氏の「千金要方」と、王トウ氏の「外台秘用」などの医学本もある。

 宋代(紀元960年―1279年)の医学教育では針灸教育において、大きな改革が行われた。王惟一氏が「銅人腧穴針の図経」を記し、また、等身大の銅像を設計、製作し、学生の実習に提供した。これは、後世の針灸の発展に大きな影響を与えた。明代(紀元1368年―1644年)になると、一部の医学者は、腸チフスと熱病を疫病などと区別させようと提案し、清代に入ると熱病の学説が成熟し「温熱論」などの著作も現れてきた。

 明代になると西洋の医学が中国に伝わり、一部の医学者が"漢方医学と西洋医学の融合"を主張し、現代の医学融合における先駆者となった。

 2、漢方医学の基礎的理論

 漢方医学の基礎的理論は人体の生命活動及び病気の変化などの規律をまとめた理論であり、中国古代の陰陽五行思想の概要でもある。それは主に、陰陽、五行、精神の集中力、内臓の様子、経絡などの学説を含み、また、病気の原因、診断法、弁証、予防、療養などの内容を含んでいる。

 陰陽は中国古代哲学の範畴に入っている概念である。人間は矛盾という現象を通じて、そこから陰陽の概念を作ってきた。また、陰陽二極の消長関係を利用して物事の運動と変化を解釈している。漢方は陰陽の対立と統一の観点を利用して人体の上下、内外などの各器官、そして人体と自然及び社会などの外来の要素との複雑な関係を説明している。陰陽の対立と統一の相対的バランスは、人体の正常な活動を維持し保証する基礎であり、その関係が失調或いはアンバランスになると人体に疾病をもたらし、生命の正常な活動に影響するとされている。

 五行学説は、陰陽二気の相互作用から生じる木・火・土・金・水の五元素の生成と消長によって森羅万象の変化を説く。相生と相克の関係を用いて、事物或いは現象内部の平衡と協調を維持するメカニズムを説明する。世界の万物或いは現象はすべて五行の属性を根拠に分類することができ、人体は肝、心、脾、肺、腎に分けられる。五行学説による解釈では、五臓も六腑も五行に配当される。

 臓象学説は臓腑学説ともいい、肝、心、脾、肺、腎の"五臓"と胆、小腸、胃、大腸、膀胱、三焦の"六腑"を指す。人体の生理、病理現象の観察を通じて、各臓腑の生理機能や病理変化、相互関係を解き明かす理論である。

 経絡学説は臓象学説と密接な関係がある。経絡は人体全身の気血の運行、臓腑四肢関節の連係、上下内外の疎通、体内各部分の調節などの連絡路である。経絡のシステムは経絡治療のためにあるのではなく、怪我や病気などで臓器や器官の機能低下が起きた時、内臓間のバランスを自動修復するためにある。

 3、漢方医学の診療法

 医者は、見る、聞く、嗅ぐ、触るなどの感覚及び患者と、その身近にいる人との会話を通して、患者の病気と関わる各種の情報を全面的に掌握し、臨床治療を指導する。その診療法には、見る、嗅ぐ、聞く、切る(脈を取る)という4つの方法があり、総じて"4診"と呼ばれている。この4つの方法はそれぞれ特色があり、互いを代替することはできない。臨床上、これを総合的に使用すれば病状を正確に診断することができる。

 a.見る治療法

 見る治療法とは、身体の内臓と経絡などの理論に基づいて行われた診療方法である。身体の外部は内部の五臓六腑と緊密な関係があり、身体の臓器の機能に変化があれば必ず身体の外部に現れ、元気さ、顔色、体型、様体などが変わるのである。そのため、身体の表面と五官の様子や機能などの変化を観察すれば、内臓の変化を推測することができる。

 b.嗅ぐ診療法

 嗅ぐ診療法とは、医者が自分の聴覚と臭覚を利用して患者の声を聞き、排泄物の色々な臭いを通じて病気を診断する診療法である。

 声を聞くことによって、声を発する器官の病変を診察することができるだけでなく、その変化を通じて身体内の各臓器の変化も診断することができる。声には、話声、呼吸、咳、げっぷなどが含まれている。

 嗅ぐ診療法には、病体の臭いと病室の臭いを嗅ぐという2つの方法がある。病体の臭いはウィルスが身体に進入することによって、人体の臓器、血や津液(体内の液体)などから起こるもので、その臭いが身体の露出器官と排泄物から発せられる。病室の臭いは病体とその排泄物からの臭いである。

 c.聞く診療法

 聞く診療法とは医者が問診を通じて、患者或いはその周囲の人間から病気の発生、発展及び現在の病状と治療経過の状況を聞く方法である。聞く診療法は主に客観的に診断できない病状、例えば病気の特徴が無い或いは、はっきりしない時に使われる治療方法で、この方法を通じて診断に効く病気の状況や資料などを見つけることができる。これと同時に病気と関わるすべての状況を掌握することができる。例えば患者の日常生活、仕事の環境、飲食と好み、婚姻状況など。

 d.切る(脈をとる)治療法

 切る(脈をとる)治療法とは、医者が患者の体の特定部分を触って病状を把握する治療方法である。この診療法には脈診と按診という2つの方法が含まれる。脈診は、脈をとる、脈を診断するとも言い、つまり脈の状況観察を通して、身体内部の病変の原因を探す診断方法である。按診とは医者が手で患者の体表面の幾つかの部位を触ったり押したりして身体の異常を知り、病変部分の性質と病気の軽重などを診断する方法である。

 西洋医学が出現したことにより漢方医学に悪影響がもたらされた。中国政府は無形文化遺産の保護を強化するために2006年5月20日、漢方医学の診断法を第1陣国家級無形文化遺産保護リストに登録した。2007年6月5日、国家文化部によって、漢方医学を受け継いだ代表者の中国漢方医学科学院・鄭鉄濤、周仲瑛の両氏を国家級無形文化遺産266名伝承人リストに登録した。

 中国国家漢方薬管理局が2012年に発表したデータによると、2012年までの全国の漢方医学の医療従事者及び従業員数は47万6882人で全体の7.15%を占めている。

 

三、漢方薬

 漢方薬は漢方医学が疾病を予防、診断、治療を行う時に使用される医薬品である。それは天然の薬草及びその加工品から成り、中には植物性薬(根、茎、葉、実)、動物性薬(内臓、皮、骨、器官など)、鉱物薬及び一部の化学、生物製剤が含まれている。漢方薬は植物性薬が絶対的多数を占めているため、「中草薬」とも言われている。漢方薬の発明と応用は中国で1000年の歴史を持っている。漢方薬という言葉の出現は遅く、西洋医学が中国に入った後にこの2つの医学を区別するためにその名称が使われるようになった。

 1.漢方薬の簡略歴史

 中国の歴史には"神農氏は100種類の草を味見する中で、1日70種類の毒草に遭った"という伝説がある。これは中国古代の人が疾病と闘っている内に自然と薬物を発見し、経験を積んできたプロセスを反映しているものであり、漢方薬が生産労働から生まれた証拠でもある。

 中国古代の夏、商、周の時代(約紀元前22世紀末から紀元前256まで)には、養命酒と煎じて飲む漢方薬が現れた。西周時代(約紀元前11世紀から紀元前771年)の「詩経」は中国の現存文献のうち薬物を記載した最も古い書物である。中国に残っている一番古い漢方医学の理論的典籍「内経」は"寒者熱之熱者寒之""五味所入""五臓苦欲補潟"などの説を提唱し、漢方薬の分野で基本的な理論の基礎を定めた。

 1949年中華人民共和国が成立すると、漢方薬分野で植物学、鑑定学、化学、薬理学と臨床医学などの研究が広く行なわれ、医薬品の出所、選別、効能の解釈に科学的な証拠を提供した。関係部門は全国で医薬品の出所を調査した上で、1961年に全国及び地方の「漢方薬誌」を編集した。これと同時に1977年に「漢方薬大辞典」が出版され、中国漢方薬典籍に記載された漢方薬の数は5767種類に達した。1983年から1984年までの中国国内の漢方薬資源を調査した「第3回全国漢方薬資源センサス」の結果によると、中国の漢方薬の数は1万2807種類に達し、そのうち植物性薬が1万1146種類で全体の87%を占め、動物性薬は1581種類で12%、鉱物薬は80種類で約1%となった。この時代、各種類の漢方薬の辞典、専門の著作及び関連紙と雑誌が相次いで出版され、数多くの漢方薬の研究所、教学と生産工場もどんどん現れてきた。

 2.漢方薬の資源

 中国は国土が広く、地理的な条件が複雑で気候も多様多種なため、それぞれ異なる生態環境が形成された。これは数多くの漢方薬の成長に有利な条件を与えている。現在、中国では8000種類を超える漢方薬が開発され、その内常用されている物は600種類に及ぶ。その種類と数の多さは世界一である。中国の漢方薬は国内の需要を満たす以外に、世界80以上の国及び地域に輸出され、世界でも注目を浴びている。

 3.漢方薬の発展

 今後の漢方薬の研究方向は生産の面で伝統を受け継ぐと同時に、良質な植物の選出と育成の強化である。例えば生物プロジェクトなどの面での研究、カンゾウ、コガネバナ、ミンマサイコなど、使用ニーズの最も高い野生漢方植物及び20種類の外国漢方植物の種の輸入と栽培活動を強化し、特に種の退化を防ぐ研究を進め、新しい資源を調査し開発しなければならない。国際社会に漢方薬のより良い理解と使用を促すため、中国は積極的に漢方薬に関する国際的な規格を策定している。原材料の安全性を確保すると共に、生産技術の具体的な基準を正しく守り、漢方薬の全体的なイメージをアップをはかりながら世界の主流になるよう努力している。

 

四、針灸

 鍼灸(針灸・しんきゅう)とは身体に鍼や灸を用いて刺激を与える、中国の伝統的医学の重要な一部分である。鍼(はり)もしくは鍼治療(はりちりょう)とは、体のツボを刺激するための専用の鍼を生体に刺入または接触させる治療法である。灸(きゅう、やいと)は、経穴と呼ばれる特定の部位に対し、温熱刺激を与えることによって生理状態を変化させ、疾病を治癒する伝統的な民間療法で、現在では臨床上よく使われている。鍼灸は、使われ始めた当初は1つの医療手段でしかなかったが、次第に学問となっていった。針灸学とは、針灸医療技術及びその臨床応用規則と基礎理論を整理しまとめた科学である。

 針灸は悠久な歴史がある。古代の書物に記された針灸の原始的な道具は石針で、砭石と呼ばれる。この砭石は4000年から8000年前の新石器時代に現れた。この時代、中国は氏族公社制度の後期に当たる。中国の考古活動で砭石の実物が発見されたことがある。春秋時代(紀元前770年から紀元前476年まで)になると、医学は妖術の束縛から解放され専門的な医師が現れた。「春秋左氏伝」の記載によると、有名な医師・医緩が晋景公の病気を診断した時"攻之不可、達之不及、薬不到焉、不可為之" と指摘した。この「達」と「攻」はそれぞれ針と灸を指している。

 

五.マッサージ

 推拿(すいな)、つまりマッサージとは人体の経絡の五行穴(十二経脈上にある経穴のこと)及び一定の部位に特定の手法或いは身体の動きを通して、病気を予防・治療し、体を丈夫にする方法である。

 1.マッサージの基本的要領

 マッサージは漢方医学の理論に基づいて弁証論の原則の下で行われている。これは内服薬を使用せず、副作用も少なく、多くの病気に良好な効果を持ち、簡単で施し易い方法である。その応用範囲は広く、常に頚椎病、急性腰肌損害、四肢関節軟組織損傷などの病気に施されている。マッサージの手法には一定の基準となる動きと技術の要領があり、これには持続、力、バランス、柔らかさ及び浸透などの基本法が要求される。

 2.マッサージの効能

 一、人体の臓腑機能を調整すること。漢方医学では疾病の発生は臓腑の機能失調が原因とされている。マッサージによって人体の臓腑器官のバランスを調整し、病気を治したり体力作りを目的としている。(写真)

 二、血液の運行を推進すること。血気とは血液と気力のことで、生命維持にとって重要である。経絡は人体の代謝物質の通り道として全身の血気の運行を支配している。外邪が人体に侵入すると経絡を通じて臓腑に入ったり、また内臓の病変が経絡を通じて体表に反応が出たりする。マッサージは経絡を解きほぐして血気を調整する上で、臓腑機能を調和し外邪の侵入を防ぐことができる。(写真)

 三、筋肉や関節を柔らかくすること。皮膚のマッサージで毛穴のつまりや開きが改善できる。筋肉のマッサージで肌のキメが細くなる。脈絡のマッサージで血流を良くし、流れの悪かった状態が改善できる。現在、マッサージは通常医療の場でも代替医療の場でも様々な健康増進の目的で使われている。(写真)

 

六.民族医学概況

 中国の伝統的医学には漢民族の医学の他、各少数民族の医学も有る。各少数民族はその発展過程で異なる地域や文化などの影響によって、それぞれの特色を持つ医学を持っており、チベット族、蒙古族、ウイグル族、朝鮮族、チワン族、タイ族、イー族、ミャオ族、ラフ族、オロチョン族などの独自の医学がある。

 

七. チベット医学

 1.チベット医学の概況

 チベット医学は中国の伝統医学の重要な構成部分となっている。これはチベット族を主とする少数民族が、長い歳月の治療の実践の中で発展させてきた伝統医学である。主にチベット、青海、四川、甘粛などのチベット族が集まり住んでいる地域で行われており、南アジアのインド、ネパールなどの国でも、チベット医学が使われている。

 チベットでは仏教の信仰が深く浸透し、支配的地位を占める。その影響を受け、チベット医学は濃厚な宗教的色彩を持っている。

 2.チベット医学の基本理論

 長い歴史を持つ生産と生活及び医療的実践の中で、チベット医学は独特の理論システムが形成された。

 3.三因学説

 チベット医学によると人の体には3つの要素がある。"竜""赤巴""培根"である。また7つの物的基礎、飲食、血、肉、脂肪、骨、骨髄、精と、3つの排泄、小便、大便、汗があるとされており、3つの要素は7つの物的基礎及び3つの排泄物の運動と変化を支配している。

 正常な生理条件の下で上記の3つの要素が依存し合い、互いに抑制し、協調とバランスを保っている。3つの要素の中で、ある要素が秀でたり、或いは衰えたりする時"竜""赤巴""培根"などの病気が現れる。治療では、この三者の関係を調整し、それらを協調した状態に回復させる。

 その内"竜"は人体の生理活動を維持する原動力であり、その性質は漢方医学の「風」或いは「気」に近いが意味はもっと広い。"赤巴"を中国語に訳すと「胆」或いは「火」となり、漢方医学の"火"の性質に近い。主な効能は、熱を出して体温を維持し胃袋の効能を強める。"培根"を中国語に訳すと「涎」或いは「水」に近く、漢方医学の津、涎に当たるが意味はもっと広い。人体の中の津液及び、その他の液体の物質や効能と緊密な関係を持っている。

 4.人体の解剖及び生理

 民族の習慣と民俗の関係で、チベットの医師は人体の解剖及び生理を比較的深く理解している。チベットの医師は人体内の器官に五臓六腑があると見ている。五臓は心臓、肝臓、脾臓、肺臓と腎臓を指し、六腑は大腸、小腸、胃、膀胱、胆と三姆休を指す。古代チベットの医師は比喩を使い、各臓器の生理的機能を喩えた。例えば心臓は「国王―人体の真ん中にある」肺臓は「大臣と太子―国王に付き添う」「肝臓と脾臓―国王の2人の皇后、国王の下で密接な関係を持つ」「腎臓―家屋の頚椎。それがなければ人体が1つにならない」

 古代チベットの医師は人体に対して科学的な知識を持っていたことが分かる。

 5.チベット医学の独特の治療法

 a.薬物療法

 薬物療法とは薬効成分を含む食品を補助食品として飲用し、薬物の薬効を最大限に引き出して痛みを抑える治療方法である。例えば風邪に効く黒糖生姜湯など。

 b.吐き気催促法

 吐き気催促法とは薬を飲ませて吐き気を催させる治療方法である。消化不振、胃袋のもたれ、毒物の誤食、また胃袋の内の"培根"(紫の痰、グレーの痰などが含まれる)などは吐き気催促法を使って比較的よい効果を収めることができる。しかし身体衰弱者、老人、妊婦、児童に対しては使用できない。また、毒物を食べた場合、時間が経つと毒物が胃袋から無くなるのでこの方法を使ってはいけない。

 c.塗擦療法

 塗擦療法はチベット医学の中の特殊な方法である。薬剤油及び軟膏を塗擦し、患部をマッサージすることにより、皮下と筋肉の間の隙間を開いて血行を促進させ、詰まっている部分を疎通させることによって、疾病を治療し健康を保つ治療方法である。

 d.薬湯治療法

 チベット族の薬湯治療法は独特な自然療法である。普段使われる薬湯温泉には硫黄温泉、寒水石温泉、砅石温泉、五灵脂温泉及び石灰岩温泉などがある。

 

 八.モンゴル医学

 1.モンゴル医学の概況

 モンゴル医学はモンゴル族が長期的な医療実践の中で、チベット医学と漢方医学の経験を汲み取って形成した伝統的医学である。その歴史は長く内容も豊富である。それは、モンゴル族の人民が疾病と戦った経験のまとめと知恵の結晶であり、民族の特徴と地域的特性を備えた医科学でもある。モンゴル帝国が成立する前にモンゴル族は独自の薬剤と治療法を持っていた。例えばハードラッグの使い方、馬乳のヨーグルトの治療法、焼きごての治療法などである。元代からモンゴル医学は更に豊富な治療経験を積み上げ、一定程度の医療理論を形作って病院などの関連医療機関も設立した。モンゴル医学は病気治療中の薬剤の使用量が少なく効果的で、便利で経済的などのメットリがある。

 2.モンゴル医学の独自の治療法

 モンゴル医学では視診、問診、触診で病状を診断する。治療方は食事療法、養生と看護、薬物治療、五種療法の4つの内容を含む。五種治療と一言にいうがこれは慣例的な呼び名で、実際には六種も七種もの治療を含んでいる。一般的には灸療法、温罨法(おんあんぽう)、羊の皮膚療法、温泉療法、瀉血療法、バター経穴(ツボ)療法などを指す。例えば暖めた塩や家畜の皮などで人体(特に患部)を暖めることによって寒湿に由来する病状を緩和し、新陳代謝を活性化させる方法など、どれも地域的な特色を持った医療方法である。またモンゴル医学は創傷処理、接骨術という独自の医療技術を持つ。

 モンゴルの医学者と薬学者は一連の医療・医薬品に関する著書を出している。『飲膳正要』(14世紀初期)、『方海』(17世紀)、『蒙薬正典』(19世紀)、『普済雑方』(19世紀)

 いずれも中国医学の発展に大きな貢献を果たした。

 a.放血治療法

 人体のある部位の皮膚の表の静脈を切り開く、或いは穿刺して血液を出し、病気をもたらす血液を出すことによって治療と病気予防の目的を達成する放血治療法は、血液或いは"シラ"がもたらす熱性病の治療に適応する。例えば、傷熱の拡散、疫病の熱、傷の腫れと潰瘍、結核などの熱症。放血治療法は手術前の準備と放血の2つの段階に分けられる。

 b.吸い玉・穿刺治療法

 この治療法は「吸い玉」法と放血治療法を結びつけた治療法である。人体のある部位を固定し吸い玉をかける。吸い玉を外して膨らんだ部位に三棱針、或いは皮膚針で浅く刺してからまた吸い玉をかけ、悪血と潰瘍水を吸い上げて人体の気と血液の流れを改善させる。この治療法は筋肉に対して行う方法や弾力のある柔らかい部位に行う方法があるが、毛の少ない骨の凸凹の部位には実施しない。効果が早く回復も早いのが特徴である。また容易に行えるだけでなく、患者が痛みを感じず危険性もあまりない。

 c.灸療法

 灸療法は、もぐさを患部に点じ火を着けて焼き、その熱で療病する法である。灸療法は一般的に蒙古灸、白山薊灸、西河柳灸、温鍼灸に分けられる。

 d.整骨術

 これは歴代の整骨の医学者が各種類の骨折、関節のずれ、軟組織損傷などを治療する際に積んできた民族独特の治療法である。蒙古族医学の整骨術は整復固定、マッサージ、薬湯治療、看護及びリハビリテーションなどの6つの段階に分けられ、それぞれ解毒と血液の流れを促進する役割がある。

 

九.ウイグル医学

 1.ウイグル医学の概況

 ウイグル医学は中国の新疆ウイグル自治区の伝統的な医学である。その歴史は長く十分な理論体系を有しており、中国の医薬学の重要な構成部分である。新疆地区は古代では西域の範囲に属した。西漢の時代(紀元206年―25年)、西域を通る"シルクロード"が商業の発展と文化の交流を促した。東方と西洋の医薬が相次いで中亜内陸の新疆で合流したため、地元の民族医薬事業の発展が促進された。そのためウイグル医学は発展する上で、東洋と西洋のそれぞれ異なる地域と民族の医薬の文化を吸収し、ウイグル族の特徴ある伝統的医学のシステムを形成した。

 中国唐代に発行された勅撰本草書である『新修本草』には、新疆産の本草内薬の紹介が100種類以上掲載され、ウイグル医学に関する実践的成果を表している。回鶻の高昌国時代にはウイグル人が回鶻文の医学書をまとめた。中には内科、外科、眼科、皮膚科、産婦人科の処方箋を含めた上で、毒性を持った種子や根を食品に変える技術や、病気を治療する薬として使用する技術などを持つようになった。

 カルハン朝(10世紀中頃~12世紀中頃)には、外科手術のできる有名な医師である伊麻木丁・喀什噶里氏が「医療法規解釈」を執筆した。その中に記載されている基本的な治療法は今でも代々受け継がれている。この時代には医学的能力を身につけるため、人材の養成を目的とする専門学校も設立された。元代にはウイグル族の翻訳者・安蔵氏が「難経(なんぎょう)」、「本草綱目」などの漢文薬学著作をウイグル語に翻訳し、ウイグル族に漢族の医学を導入する先鞭を果たした。その後、漢族もウイグル医学の独特の治療法を導入した。

 2.ウイグル医学の基本理論

 ウイグル医学の医学理論は、自然界にある四元素説(火・気・水・土)と四体液説(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)を基礎に、人体と外界環境間の相互関係を解析し独特な診断方法と治療方法を確立した。

 3.ウイグル医学の治療法

 ウイグル医学は触診、視診、問診で病状を診断する。内科の病気を治療する場合は内服を中心に、シロップ剤や軟膏剤は必要に応じて処方し、薬草を煎じた蒸気で患部を蒸すという熱気治療法や瀉血療法、温罨法(おんあんぽう)、吸い玉療法、食事療法など10種類以上もの治療法を併用して治療を行っている。こういったウイグル医学ならではの治療法は心臓病、肝臓・胆嚢の病気、胃の病気、結石、赤痢、精神病、尋常性白斑などの病気に効果がある。外科の病気を治療する場合は内服薬や薬剤を紙や布に広げて患部に展着する治療法、手術などの治療法がある。

 また、新疆ウイグル自治区トルファン地区には熱砂療法がある。その名の通り、照りつける太陽に熱せられた砂漠の砂の中に体を埋めて行う民間療法だ。この療法は関節炎、足腰痛、胃腸炎などの病気を治す効果がある。

 ウイグル医学の薬剤は主薬と加薬に分かれている。加薬とは主薬に少量の補助の薬を加えること、またその薬のこと。一般的には単一成分による薬(単剤)は使わず、複数の生薬を配合して用いる。多い場合は50種類以上、少なくとも7種類が必要である。

 4.ウイグル族医師の薬の使用習慣

 調査によると、新疆ウイグル族自治区にはウイグル族医薬が600種あり、そのうち常用されているものは360種程である。また、地元で生産されたものは160種でウイグル族医薬総数の27%を占めている。中でも芳香性医薬が多く使用されている。例えば、麝香、ビーバー香、黛衣草、リラなどで、そのほか強い毒性の有るマチンの種、曼陀羅、天仙子などがよく使用される。

 

十.朝鮮族医学

 1.朝鮮族医学概況

 朝鮮族医学は朝鮮族固有の文化を元に漢方医学の理論を吸収し、朝鮮族の病気予防・治療の実験と経験を結びつけて形成された伝統的医学のシステムであり、朝鮮族医学とも呼ばれている。古代から朝鮮族は漢民族と長期的な友好往来の歴史を持ち、両族の文化の交流も盛んであった。医学はその一部である。漢民族の医薬の知識を学び、吸収すると当時に、朝鮮族の医師は朝鮮族固有の文化と治療実践を踏まえて理論から臨床治療まで独特の特徴を持つ"四象医学"の学説を説きシステム化した朝鮮族医学を構築してきた。その代表が19世紀の李済馬が書いた「東医寿世保元」という医学書である。

 

十一.チワン族医学

 1.チワン族医学の概況

 チワン族は中国の少数民族の中で最も人口が多い民族である。チワン族は唐代以降、民族独特の風格を持つものや漢方医学を生かしたチワン族の医学を形成してきた。唐代と宋代(紀元618-1279年)の医薬の書物に中国領南地域の解毒、瘴気治療の方法が収録されており、その書物の医薬の分類に「領南医薬」が記録されていた。これはチワン族医学を含む中国南方少数民族医学の、中国の伝統的医薬界での地位の確立を定めている。

 明代と清代(紀元1368年-1911年)はチワン族医学の発展期で、この時期に李時珍の「本草綱目」及び広西の各地方誌に取り上げられた他、地方では医薬教育の機構も開かれ数多くのチワン族医薬者も現れた。

 2.チワン族医薬の使用

 チワン族医薬は発展しつつある民族医薬であり、まだシステム化されていない民族医薬と民間医薬の融合状態にある。チワン族の居住地は中国領南の亜熱帯地域で、動物と植物の資源が非常に豊富である。特にチワン族の特産で、開発の可能性が高い医薬は沢山ある。例えば羅漢果(ラカンカ)、シナモン、トウシナミ、金銀花、ヤモリ、アナコンダ、葛根(カッコン)など。その内三七人参(さんしちにんじん)という医薬は金銭に替えられないほど価値が高いため、近年注目度が高まっている。チワン族の人は蛇、鼠、鳥などの野生動物を食べる習慣があるため動物医薬の応用は普遍的で、民間では「正を扶助し虚を補うのに血肉のものを使うべき」という医薬的な経験も伝えられている。

 チワン族医学の特徴は毒薬、解毒薬を医薬として広く認識し、幅広く使用していることである。これはチワン族医学の医療発展に大きく貢献した。チワン族医薬のもう1つの特徴は解毒であり、その応用範囲は非常に広い。蛇や虫の毒、食中毒、薬物中毒、矢毒、蠱毒などの解消に使われる。広西の著名な蛇の薬はチワン族医薬に大きく貢献している。チワン族医学は極めて素朴な真理に基づいており、もし邪毒が病気をもたらしたならば、必ずそれに相応する解毒剤があるとしている。また、毒も一定量ならば病気治療の良薬にもなり、いわゆる毒をもって毒を制すという考えがある。

 広西チワン族自治区は独自の漢方薬を多く持つ。例えば正骨水、雲香精、中華跌打丸、金鶏沖服剤、鶏骨草丸、炎見寧、三金片、百年楽、大力神など。これらの漢方薬は民間の秘方に基づいて作り上げたため、医療効果が著しく偽造も難しいという。

 

十二. ミャオ族医学

 1.ミャオ族医学の概況

 ミャオ族医学では、毒、損、傷、積、菌、虫が人に病気をもたらす6つの要素とされ六因とも呼ばれる。"両病両綱"という理論がある。両病とは冷え病(虚弱体質)と熱病(高熱が出ることを特徴の1つとする病気)を指し、両綱とは"熱性の薬は冷え性を治す""冷え性の薬は熱性を治す"という2つの治療原則を指している。病気を診断する時、医師は脈を取り、声を聞き、顔色を看て病状を尋ね、そして手で触る、撫でる、叩く、打つ、擦る、押す、動かす、図るなどの伝統的な方法で、人体の形態構造の変化と精神面の異常を観察する。

 ミャオ族の医師は多くの場合、植物医薬を使用する。そのほか動物医薬と少数の鉱物医薬も使用する。医薬の特色をまとめると、熱、冷えとこの2種の中間にある状態という3つに分けられ、熱性の薬は冷え性を治し、冷え性の薬は熱性の治療に適する。中間性の薬は人体の体質を強くし病後の衰弱を治す。現在の医薬は1500種に達しその内200種が常用薬とされている。

 

「中国の有名な漢方業界の老舗」

1.北京同仁堂

 中国の漢方業界で有名な老舗である北京同仁堂は、北京にある楽家の楽顕揚が1669年(康照八年)に創立した。楽顕揚は4代目で祖先の家業を継いで医者になった。「同仁堂」の名は楽顕揚が定めたという。楽顕揚は4人の子を育てたが、三男の楽鳳鳴は幼い時から家伝の学問を受け継いで医薬に通じ、1688年に楽顕揚が亡くなった後、父の仕事を継いだ。そして1702年に北京で同仁堂薬局を開設し初めて店頭での営業を開始した。楽鳳鳴は長年にわたる医術の研究に力を入れ、先祖代々伝わる処方をはじめ、宮廷の秘伝の処方や古来の処方を整理し「同仁堂伝統配本」を編集した。

 さらに「同仁堂虔修諸門應症丸散膏丹薬目(同仁堂薬目)」という漢方薬の目録も作った。この書物は医者や薬商人が薬品を購入する際に役立てられ、同仁堂は大評判になった。その後、同仁堂は「同仁堂伝統配本」と「同仁堂薬目」を2度にわたり補充改訂した。改訂版には、16種の病気に対する495種の漢方薬の処方箋が収録され、現在まで伝わっている。

 北京同仁堂は創立してから300年余、終始一貫「どんなに生産が忙しくても、人手を省かず品質を維持し、原料には金の糸目をつけない」という古くからの社訓を守り「力を合わせて徳を積み、世の中の健康事業に尽くす」という企業精神に則り営業を続けている。同仁堂はメイン製品トップ10と10大ブランド医薬品を作り出し、世界市場で好評を博している。トップ10は、安宮九黄丸、牛黄清心丸、大活絡丹、局方極宝丸、蘇合香丸、参茸衛生丸、女金丹、再造丸、紫雪散、虎骨酒である。10大ブランド医薬品は、烏鶏白鳳丸、消栓再造丸、安神健脳液、牛黄解毒片、棗仁消痛液、狗皮膏である。

 2.広州陳李済

 陳李済は中国に現存する最古の漢方薬の老舗で、広東省仏山市南海区の商人・陳体全、李昇佐の2人が1600年に創立した。北京同仁堂よりも69年も早い創立である。「陳李済」は「陳と李は同心、心を合わせて世を救う」という意味。各種の治療効果のある古い処方を元に研究製造し、歴代の陳李済人は古訓を忠実に継承して新薬を開発し、南方の漢方薬の老舗を引き継いできた。

 陳李済は烏鶏白鳳丸、壮腰健腎丸など数々のメイン製品を開発した上で、蝋で丸薬を包む技術を発明し、当時は北京や杭州などの漢方薬製造センターで包装の革命的な嵐になった。

 陳李済は取締役会制度を採用した最も早い老舗でもある。陳氏と李氏の後継者が交互に工場長を務めるため、ファミリー企業が抱える経営リスクを避けることができ長く続けられた。

 また、陳李済の独特な陳皮貯蔵方法は有名で、「百年の陳皮は黄金に勝る」とまで言われている。陳李済の陳皮は売り物ではなく、得意客に贈る品である。

 3.漢口叶開泰

 1930年代から、漢口叶開泰は北京同仁堂、杭州胡慶余、広州陳李済と並び、中国の4大漢方薬の老舗と呼ばれている。

 創業者である叶家の本貫地は安徽省微州だが、明代に江蘇省溧(りつ)水に移っていった。1637年、創始者である叶文機は湖北省武漢市漢口に移り医療活動を始め、簡親王の協力を得て漢正街で叶開泰の前身である薬屋を開き、その名を広く知らしめた。

 叶開泰のメイン製品は参桂鹿茸丸、八宝光明散、虎骨追風酒、十全大補丸など豊富で、中国各地で名声を博しているだけでなく海外にも出荷されている。

 1952年に叶開泰は武漢にある陳太乙、陳天保という2つの大手老舗と協力して健民製薬工場を創立した。現在の武漢健民薬業グループ股份有限公司の前身が叶開泰である。

 4.広州潘高寿

 潘高寿は広東省開平市出身の潘氏兄弟によって1890年に広州市で創立し、最初に「長春洞」と名付けられた。潘氏兄弟は店で自家製の薬を販売し、店の裏側に工房を開いて丸薬を作っていた。

 潘高寿のメイン製品は咳止めによく効く潘高寿川貝枇杷膏である。近年は蛇胆川貝液と蛇胆川貝枇杷膏を次々に生産すると共に、鼻咽清毒剤、昇血調元湯、炎熱清などの新薬も開発した。現在、潘高寿は中国の漢方薬工業企業トップ50社にランクインしている。潘高寿は多元化を発展の目標とし、シロップ剤、錠剤、カプセル剤など5つの剤形で100種類の漢方薬を製造販売している。

 5.長沙九芝堂

 長沙九芝堂の前身である「労九芝堂」は労澄という人物によって1650年に創立し、中国の有名な漢方薬の老舗となった。「労九芝堂」と名付けたのは労澄の息子である労楫だった。

 300年以上九芝堂を守り続けてきた歴代の後継者は、品質第一の原則を守り仁徳を身につけることを根本に置き、国民に最高水準の医薬品を提供することを目標としている。九芝堂のメイン製品には驢膠補血顆粒、足光粉、補腎固歯丸などがある。

 1938年、湖南省長沙市で中国国民党軍が起こした放火事件で九芝堂は無くなったが、中華人民共和国が1949年10月に成立した後、九芝堂は再建され「新中国製薬場」と名付けられた。その後1992年6月「長沙九芝堂製薬場」の原名に復した。

 6.貴州同済堂

 同済堂は清代後期に鉱務大臣を務めていた唐炯、県知事の于徳楷が1888年に貴州省貴陽市に創立した。創始者の2人は武漢市漢口から医薬品に精通している黄紫卿を招き管理者とした。

 創業以来、同済堂は原材料の購入、在庫保管、医薬製造、財務管理など各方面で厳密な管理を行っている。企業成長の過程で「助け合い、困難を乗り切り、困っている人を扶助しながら世の中を救済する」という企業精神を形成した。

 同済堂のメイン製品には仙霊骨葆膠嚢(カプセル)、仙霊骨葆片、潤燥止痒膠嚢、棗仁安神膠嚢、心脳康膠嚢、補腎益脳膠嚢などがある。2007年3月16日に、同済堂薬業公司はニューヨーク証券取引所に上場した。NYで上場する中国本土の企業は、これで21社となった。

 7.天津達仁堂

 1913年に楽氏の12代目である楽達仁は、イギリスで学んだ管理方法を応用し、300年の歴史を持つ京都達仁堂楽家老舗を改造し、翌年に楽氏3兄弟と共に天津市で天津達仁堂を創立した。文化大革命の時には「天津工農兵薬場」、「天津第二漢方薬工場」と改名していたが、1980年5月1日に「達仁堂」に復した。

 達仁堂は300年以上の伝統を持つ京都達仁堂楽家老舗の伝統を受け継ぎ、医薬品の製造に専念している。

 メイン製品には牛黄降圧丸、生血丸、血脂寧、清宮寿桃丸、藿香正気軟膠嚢、清肺清炎丸、参付強心丸などがある。

 

「中国古代の4大名医」

 戦国時代の扁鵲、後漢時代の華佗と張仲景、明代の李時珍は中国古代の4大名医と呼ばれている。

 1.扁鵲

 扁鵲(紀元前407年~紀元前310年)は姓を秦、名は越人という。戦国時代の中国の名医で、勃海郡の鄭(現在の河南省)の人である。その医術の高さから民衆から「神医」と呼ばれた。

 若き日に長桑君という医人に師事し、医術の秘伝書を与えられ、さらに透視能力を発揮する秘薬も授かった。扁鵲の名声は天下に響きわたっている。邯鄲に彼がやってきた時、その地の人々が女性を尊んでいると聞けば、すぐに婦人科系の疾患を主に治療した。また洛陽に行き、老人を大切にすると聞けば老人性の眼疾患や耳の疾患、それに関節の痺証などを治療した。また咸陽に来て秦国の人々がとても子どもをかわいがることを知ると、主に小児科の医者となって治療した。扁鵲は多くの古典に登場するが、一番詳しいのは司馬遷の「史記」扁鵲倉公伝である。また扁鵲はハリ治療の始祖ともされ、現存する古典ではハリ治療の問答集である「難経(なんぎょう)」を編纂したといわれている。

 2.華佗

 華佗(145年~208年)は中国の後漢末期の名医で、字を元化、名は甫、ハイ国の樵県(現在の中国南部安徽省勃県)の人である。華佗は董奉、張仲景と合わせて「建安の三神医」とも呼ばれている。

 華佗は少年時代に海外留学の経験があり医学の研究に専念した。華佗の医術は非常に高く、伝染病や寄生虫病、産婦人科、小児科、呼吸器官病、皮膚病などの多くの分野に及んでいる。特に全身麻酔と外科手術の面で素晴らしい業績をあげた。華佗は人々から愛され、その業績から2000年余前の中国医学発展の情況をある程度知ることができる。華佗は世界で最も早く全身麻酔の医術を使用した医者の一人である。

 華佗の発明した「五禽遊戯」はとても人気がある。それはトラ、鹿、熊、猿、鳥など5種類の動物の動作を真似て作られた体操で、筋骨を鍛え、呼吸と血液を調整し、病気を予防することを目的としている。

 華佗の評判を聞いた曹操は彼を典医として招き入れ、持病であった頭痛や目眩の治療に当たらせた。しかし華佗は、士大夫として待遇されず医者としてしか扱われないことに不満を抱き始め帰郷の念が募り、医書を取りに行くといって故郷に戻った。その後は妻の病気を理由に二度と曹操の下に戻って来ようとしなかったため、やがてその行動を不信に思い、華佗の素性を調べた曹操の怒りを買うことになってしまう。激怒した曹操は華佗を投獄し、軍師荀彧(じゅういく)の命乞いも聞かず拷問の末に殺害してしまった。

 華佗の唯一の著書と伝えられる「青嚢書(せいかいしょ)」はもうこの世に残っていない。

 3.李時珍

 李時珍(1518年~1593年)は中国湖北省蘄州市の出身である。医者の家に生まれた李時珍は小さい頃から大自然に大きな興味を示し、いつも父親と一緒に山で草薬を採集し家で加工していた。1531年、14歳の李時珍は父親の事業を継ぎ医学の研究に専念し、貧しい民衆の病気を治すことに力を尽くしていた。良い医者になるために李時珍は、漁師や猟師、農民、薬材屋をよく訪ね、多くの民間の処方を収集した上で詳しく観察し、繰り返し実験を行い、各種薬物の形態と性質に深い理解を得た。1551年には李時珍は既に有名な医者になっていた。1553年、35歳になった李時珍は『本草綱目』の編纂に全力を注いだ。

 この新薬典編纂のため、李時珍は800種類余の医学著作とその他の書籍を閲覧し、自身が普段から収拾した資料に依拠し、編纂中の薬典に対して3回も大きな修正を行った。30年ほどの努力を経て1578年、李時珍はようやく後世まで残る大著『本草綱目』を完成させた。

 『本草綱目』全書は合わせて190万字余りあり、16部、60類、50巻に分けられ、1892種の薬物と11000余の処方が載せられていると共に、閲覧者に便宜を図るため、各種薬物の複雑な形態を描いた1100枚を超えるイラストも添えられている。『本草綱目』の成果は大変多い。まず、登録した薬物に対して新たな分類を行った。例えば、草類や動物類の薬物に対して科学的な分類を行った。また、『本草綱目』は前人の冒した間違いや表現が適切でない箇所を修正したり、明確にして新発見の薬物や薬物の効能などを追加した。日本でも何度も翻訳・発行され広く伝わっている。また、イギリスやフランス、ドイツなどの国でも訳本がありラテン語の訳本もある。17世紀から、『本草綱目』は世界各地に伝わり、近代の薬物研究者たちが参考にする重要な文献となった。

 4.張仲景

 張仲景(150年~154年)、字を仲景、名は機という。後漢の頃の南陽郡涅陽(現在の河南省鎮平県東北部)の人。その医学上の功績から医聖と称えられる。

 張仲景は幼い頃から群書に博通し、10代の時に既に地方に名前が広まっていた。霊帝の時に孝廉に推挙され、50歳の頃には長沙の太守(県知事のような政治家)となった。しかし彼が有名なのは政治家としてではなく、「傷寒雑病論」という医学書の著者としてである。張仲景は若き日に、扁鵲が眈の太子を治療したことや斉侯に対する望診などを書で学び、その素晴らしさに溜め息を洩らさずにはいられなかった。青年時代に同郷の張伯祖から医術を学び、後漢末期の混乱と更に追い討ちをかける疫病に心を痛め、官を退いて医学の研鑽に務めることになった。張仲景は古代から伝わる医書の知識と自らの経験を併せ、著名な医薬書「傷寒雑病論」を編纂した。後世は「傷寒論」と「金匱要略方論」の2部に分かれている。「傷寒雑病論」は弁証論治の思想体系を確立し、漢方医の土台となる著作として医療の発展に大きな役割を果たした。