第十章:台湾

一、台湾概況

 1、地理的位置

 台湾は島々からなる中国の省の1つで、中国大陸棚の東南端に位置している。台湾本島と附属島嶼および澎湖列島など80余りの島々からなっている。そ陸地面積は約3万6000平方キロである。

 台湾は北は東海に面しており、東北は琉球諸島と接している。東は太平洋に臨み、南はバシー海峡と接しておりフィリピンと隣合っている。西は台湾海峡を隔てて大陸の福建省と向かい合い、その最も近いところは130キロしか離れていない。台湾省は西太平洋の航路の中心を押さえており、戦略的に極めて重要な位置にある。

 2、台湾海峡

 台湾海峡は中国の台湾島と福建との間にある海峡である。南北約380キロで、幅は平均190キロ、最も狭いところは台湾の新竹と福建の平潭の間で130キロしかない。晴れて空気の澄みきった日には、福建省沿海の高いところから台湾の高山にかかる雲や霧や台湾北部に聳え立つ鶏籠山を望み見ることも出来る。

 3、地形

 台湾本島は台湾省の面積の97%を占めており、中国最大の島である。島には山が多く、高い山と丘陵が総面積の3分2を占める。島内には中央山脈・玉山山脈・雪山山脈・阿里山脈・台東山脈(別名海岸山脈)という5つの山脈がある。台湾島の地形の特徴は、中央部が高く両側が低いことで、島の南北を走る中央山脈を分水嶺とし、東海岸と西海岸に向って徐々に低くなっていく。玉山山脈の主峰は玉山で海抜は3997メートル、台湾一の高峰である。

 4、気候と物産

 台湾省は温帯と熱帯にまたがって位置しており、熱帯と亜熱帯気候に属している。海に囲まれていることから、海洋性季節風の影響を受けて年中温暖な気候に恵まれ、冬の厳しい寒さや夏の酷暑がない。年平均気温は高い山を除いて22℃前後で、普通の場所では1年を通して霜や雪が降ることはなく雪線は海抜3000メートル以上の地帯にある。また、雨が多く台風の影響を受けることが多い。

 台湾の森林面積は台湾省の半分以上を占め、ヨーロッパの「山林の国」スイスの森林の2倍ある。木材の蓄積量は3億立方メートルを越えている。気候が垂直に変化する影響で台湾の樹木の種類は多く、熱帯・亜熱帯・温帯・寒帯の約4000種類の植物があり、アジアの天然植物園として名高い。経済林面積は林地面積の5分の4を占めている。台湾のクスは世界でもトップの座にある。精製される樟脳と樟脳油は台湾の一大特産物で、その産出量は世界の総生産量の約70%を占めている。

 台湾は海に囲まれている上、暖流と寒流とが合流する所でもあることから海産物が非常に豊富で、魚種は500以上にもなる。高雄・基隆・蘇澳・花蓮・新港・澎湖などが有名な漁場である。このほか、台湾の海塩も古くから知られている。

 5、人口

 台湾は人口が多いのに土地が少ないので、人口密度は非常に高い。2001年末の人口は2240万人に上り、人口密度は619人/平方キロとなっている。 2010年の人口調査によると、常住人口は2312万3866人でうち男性は1148万9285人、女性は1163万4581人、人口密度は、638.9人/平方キロで、中国では人口密度が一番高い省の1つである。常住人口の男女比は99.6で、男性が女性より少ないという現象が初めて現れた。

 台湾は高齢化が急速に進んでいる。台湾の地方政府が公表した2012年度の台湾各市県の人口年齢構成のデータによると、台湾の65歳以上の人口は260万人で、総人口に占める割合は11.15%になった。世界保健機関(WHO)の高齢社会の定義は、65歳以上の人口が総人口の14%を超えることだが、台湾では嘉義市・雲林県・澎湖県がすでに高齢社会に突入した。

 台湾省の人口分布はバランスが取れていない。面積比で3分の1を占める海抜1000メートル以上の山間地区は人口密度わずか20人/平方キロである。都市部の人口密度は約4800人だが、台北市・高雄市・台中市・基隆市・新竹市・嘉義市・台南市はさらに集中しており、7都市の人口密度は1平方キロあたり1万人近くになる。7都市の面積は台湾の2.9%しかないが、人口は総人口の31%も占めている。

 台湾の人口政策は社会や経済が発展するのに伴って調整されてきた。1965年から台湾では「家族計画」を実施し、主に男女の結婚年齢や出産年齢などについて制限を加えていた。「1人っ子は少ないとは言えない、2人っ子はちょうどいい」という育児政策を呼びかけた。その後台湾女性の出産率が徐々に下がり、人口増加の緩和に一定の効果が現れたが、人口の増加率が下がることで人口高齢化と新規労働力が減少するという問題が起きた。台湾当局は、1990年に人口政策大綱を改定し、「2人っ子はちょうどいいが、3人でも多くはない」という政策を打ち出した。2010年台湾の出生率は0.895しかなく、世界でも出生率の最も低い地域の1つとなった。ここ数年台湾当局は出産奨励策を取り、2012年台湾の出生率はこれまで10年の記録を破り1.265となった。

 6、民族

 台湾は多民族地区で、漢民族・蒙古族・ホイ族・ミャオ族・高山族などがいるが、人口の97%以上は漢民族である。漢民族の中ではまた閩南人と客家人が2大集団となっている。閩南人は原籍が福建省泉州と漳州の人がもっとも多く、客家人は原籍が広東省梅州と潮州の人が最も多い。

 高山族は台湾の代表的な少数民族である。台湾の高山族の起源説については諸説あるが、様々な研究の結果、その祖先は中国大陸から台湾に移ってきたものだと分った。台湾の高山族は平地高山族と山地高山族に分かれる。高山族の人口は増え続けており、2001年までに41万5000人になった。

 台湾の高山族には、主な支族として阿美族・泰雅族・排湾族・布農族・卑南族・魯凱族・鄒族・雅美族・賽夏族・邵族(原名曹族)がある。

 7、主な都市

 2010年末に台北県・台中県市・台南県市・高雄県市が直轄市となったが、そのうち台北県が新北県と改名された他は県市合併で格上げされた。2011年には台湾西部の台北・新北・台中・台南・高雄という5つの直轄市は「五都」と呼ばれ、21世紀初頭台湾の最も重要な5大都市となった。

 台北市

 台北市は台湾島の北部に位置する。面積272平方キロ、全島で面積が最も大きい都市である。2012年1月の人口は約270万人、総人口の8分の1を占める。人口密度は9760人/平方キロ、台湾で第2位となった。

 台北市は台湾商工業の中心都市で、全島で最大の企業・銀行・商店の多くが本部を設置している。台北市と台北県・桃園県・基隆市は台湾省の最大の工業生産区と商業区を形成している。

 台北市はまた台湾省の文化教育センターにもなっている。有名な台湾大学や台湾政治大学、台湾師範大学など24の大学がある。このほか台湾省の新聞・出版・ラジオ・テレビセンターと省最大の図書館・博物館もここに集まっている。

 台北市は交通が発達しており、台湾省の鉄道と道路交通の中心の1つである。基隆港と淡水湾は台北市の港湾で、台北松山空港は台湾省の2番目の国際空港である。(写真:台北の夜景)

 高雄市

 高雄市は台湾本島の西南部にあり、2010年12月25日にもともとの高雄市と高雄県が合併して5つの直轄市の1つとなった。面積2947平方キロ、直轄市では面積が一番大きい。人口は台湾で2番目の278万人である。

 高雄市は台湾省の主要工業基地で、石油精製工場・鋼鉄工場・造船所など台湾省で最大の企業が集まっている。電子工業・機械製造業・セメント・化学肥料・アルミニウム精錬・製糖などの工業も発達している。また高雄は台湾漁業の中心地で、遠洋漁業は台湾省1の地位を占めている。

 高雄市は海路・陸路・空路の交通が非常に発達している。海岸には有名な深海港である高雄港があり、1万トン級の船舶が同時に38隻停泊することが出来る。貨物の取り扱い量は、香港・シンガポール・オランダのロッテルダムに次いで世界で4番目になっている。高雄国際空港は国際線と島内の航路がある。台北と高雄は飛行機ならわずか40分、列車またはバスでおよそ4時間かかる。高雄港は市の西南海岸と旗津半島の間にある深水港で、戦前作られた第一港と戦後作られた第二港からなっている。高雄港は東南アジア・インド洋と北東アジア地域を結ぶ位置にあり、海運の重要な中継地である。台湾第1の国際港であるだけでなく、貨物輸送量は世界でも12位となった。

 高雄は台湾で2番目に大量高速輸送システム(MRT=Mass Rapid Transit)が整備された都市である。この交通システムには高架・地下・地上などがある。現在建設中の路線は、赤線とオレンジ線だが、その他、数本の路線が計画されている。

 高雄国際空港は市南部の小港区にあり、国内線・国際線がある総合空港で、1時間でのべ2600人を輸送することができる。年間平均輸送量はのべ630万人で、桃園中正国際空港についで2番目である。台湾島内の路線のほか、東京・名古屋・ソウル・香港・マカオ・バンコク・プーケット島・クアラルンプール・ホーチミン・シンガポール・グアムなどの都市と地域に定期便が就航している。

 台中市

 台湾島中部に位置し、北は苗栗県・新竹県と、南は彰化県・南投県と接し、東は中央山脈をへだてて宜蘭県・花蓮県に向かいあい、西は台湾海峡に臨んでいる。面積は約2215平方キロ、2012年の人口は台湾省で3番目の268万人である。台中市は2012年12月25日直轄市となった。台湾中部唯一の直轄市で、台湾省の3番目に大きい都市である。現在台湾中部の文化・教育・経済・交通の中心となっている。大学も台北市に次いで多い。またここは台湾の仏教文化の中心で、市内の宝覚寺で毎年仏教大会が開かれる。台中の町はいつもきれいに保たれており、台湾で最も清潔な町と称えられている。

 台南市

 台南市は台湾島の西南海岸に位置している。西は台湾海峡に臨み、東は阿里山山脈、北は義県、南は高雄市に接している。台湾の重要な農業地域と砂糖の産地である。台南市の旧名は赤嵌城で、2010年12月25日台南県と台南市が合併して直轄市となった。面積は2192平方キロ、2012年の人口は188万人、台湾で4番目の大都市であり、最も古い町である。台北市が省都になるまでは、ここがずっと台湾の政治・経済・文化の中心だった。ここには名所旧跡が多く、有名な赤嵌楼・安平城・鄭成功廟などが集まっているだけでなく、宗教の雰囲気が非常に濃厚である。寺院や教会がおよそ200あり、仏教と道教の信者が多いが、キリスト教の信者も少なくない。

 新北市

 新北市は台湾本島の最北端にある。台北市を囲んでいるが、東北部は基隆市、東南部は宜蘭県、西南部は桃園県と接している。台北・基隆とともに台北都市圏を形成している。新北市はもともと台湾省台北県だったが、2010年12月25日に直轄市となり新北市に改名された。面積は2052平方キロ、2012年の人口は394万人、台湾で人口が最も多い都市である。

 基隆市

 台湾島北部に位置し、東海に面する山々に囲まれた港町である。台湾島で比較的早く開発された町の1つで、交通が発達している上、造船・化学工業・石炭・水産加工業などが非常に発達している。また重要な漁港の一つで、水揚げ量は全省のおよそ5分の1を占めている。年間200日雨が降ることから「雨の港」とも呼ばれている。

 

二、歴史

 1、台湾開拓史

 台湾は中国の分割できない一部である。地理の面からいえば、大昔台湾と大陸は一つに繋がっていた。その後地殻の変動で繋がっていた一部の陸地が沈下して海峡になり、台湾は島になった。また、台湾各地から相次いで出土した石器や黒陶器、色彩陶器などの大量の文物も、その先史文化が中国大陸と同属であることを物語っている。

 古文献の記載によると、西暦230年呉の国の王・孫権は衛温将軍と諸葛直将軍に1万人の水軍を率いて台湾に渡らせたとのことである。これが中国大陸の住民が先進的な文化知識によって台湾を開発した始まりである。6世紀末から7世紀初めにかけて隋の時代に隋の煬帝は台湾へ3回も人を派遣し、「異なる風俗を視察させ」現地の人々を「慰撫」した。その後、唐から宋に至る600年間、大陸の沿海の人々、特に福建の泉州・漳州一帯の人々は戦乱から逃れるため澎湖島や台湾へ次々と渡り、開拓を始めた。紀元1335年元の時代に澎湖島に正式に「巡検司」を置き、澎湖島と台湾に住む人々を管理するようになった。中国が台湾に政治機構を設置するのはここから始まった。

 明の時代以降大陸と台湾の人々との往来はずっと続いている。「三宝太監」と呼ばれた航海家の鄭和は、巨大な船隊を率いて南洋の各国を訪問した際、台湾に停留したことがあり、人々に工芸品や農産物を渡した。1628(明崇禎元)年福建が旱魃に見舞われた時、福建出身の鄭芝竜は数万人にのぼる被災民を台湾に連れてゆき、「開拓により自力で生きること」を呼びかけた。ここから台湾は大規模な開発の時期に入った。

 2、鄭成功が台湾を奪い返した還

 16世紀半ば以降、美しく豊かな台湾は西洋の植民地主義者に狙われ始めた。スペインやポルトガルなどの列強が相次いで台湾に侵略をしかけた。資源を略奪し、宗教による文化侵略を行い、直接出兵して占領した。1642年オランダ人が台湾北部のスペイン人の拠点を奪い取り、台湾はオランダの植民地になった。

 オランダが台湾を植民地にしていた間、台湾の人々は過酷な榨取を受けたので、オランダに反抗する戦いが絶えず起こった。1662年、「民族の英雄」とされる鄭成功は台湾の人々の協力の下で、オランダ占領者を追い出し台湾を奪い返した。まもなく鄭成功は病死したが、息子の鄭経と孫の鄭克爽が台湾を22年間管理した。鄭氏三代は製糖と製塩を奨励し、商工業を振興し、貿易を発展させた。この他、学校を開設し、高山族の農業生産方式を改良した。これらの措置により台湾の経済・文化は急速に発展した。これは台湾の歴史上重要な開発と発展の時期になり、「明鄭時代」と称されている。

 3、清の時代初め中国領に組み込まれる

 1683(清康熙22)年、清の政府は軍隊を派遣して台湾を攻め、鄭克爽を帰服させた。その後、清の政府は台湾に1府3県を設置し、福建省に所属させた。こうして再び中央政府の統一管轄の下に置かれ、政治・経済・文化などの面で大陸との繋がりが密接になり、国家統一の中での欠かせない構成部分となった。

 1885(清光緒11)年清政府は台湾を行省とし、劉銘伝を最初の巡撫に任命した。劉銘伝は福建や広東などの住民を台湾に移住させ、大規模な開拓を行った。また、撫墾総局・電報総局・鉄道総局・軍事機械局・通商局・鉄鉱石油局・伐採局などの機構を相次いで設置し、砲台を修築、防御態勢を整備した。更に、電線を架設し、郵便を開通させた。鉄道の敷設、鉱山の開削、造船などで商工業の発展に力を入れ、中国式と西洋式の学校を設置することによって教育や文化を発展させた。

 4、日本占領時代

 19世紀後半日本は明治維新によって資本主義発展の道を歩み出した。1894年日本は中日戦争すなわち甲午戦争を起こした。戦いに敗れた清政府は1895年に日本と国辱的な「下関条約」を締結し、台湾と澎湖列島を日本に割譲した。台湾は日本の植民地に転落し、以後50年間にわたる日本占領時代が始まった。

 日本は台湾占領後台北に総督府を置き、台湾を統治する最高機関とした。そして各地に郷鎮公所を設置し、警察と保甲制度を実施して植民地統治と「皇民化」教育を行った。同時に、日本の経済発展の必要から、最初は台湾を農業と農産物の加工基地として発展させることに力を入れた。これにより台湾の加工業と交通輸送業は次第に発展を遂げた。第二次世界大戦期間中、日本は軍国主義の南侵政策により、台湾で軍事関連の各種工業を発展させた。

 5、復帰と分離

 歴史の事実によれば、第二次世界大戦期間中の国際協定で台湾は中国の分割できない領土であると新ためて確認された。1943年12月1日、中国・アメリカ・イギリス3国は共同で「カイロ宣言」に調印した。その宣言には「日本が盗み取った満州や台湾、澎湖列島などを含む中国の領土を中国に返還しなくてはならない」との内容が盛り込まれた。1945年7月26日旧ソ連を入れて、中国・アメリカ・イギリスが調印した「ポツダム宣言」では、「カイロ宣言の条件は必ず実施されなければならない」と改めて強調さした。

 1945年8月15日日本は「ポツダム宣言」を受諾し、無条件降服を宣言した。同年10月25日中国政府は台北で、「台湾省日本軍降服式」を行った。しかし台湾が復帰した後、中国を統治していた国民党当局は大きく誤った政策を採り、台湾住民に対して軍事独裁統治を行った。腐敗や汚職が横行し台湾住民との矛盾が激化した。1947年2月28日台湾住民は国民党政権に反対して武装蜂起をした。それに対して国民党は大量の軍隊を基隆から上陸させ、血生臭い弾圧を行った。被害者は3万人以上に上る。歴史では「二・二八」事件と言われている。

 1949年10月1日、中国人民は中国共産党の指導の下で、国民党政府を打ち倒し新中国の成立を宣言した。中国大陸が解放される前夜、蒋介石および国民党の一部の軍人や政治家は台湾に逃亡し、アメリカの庇護と支持の下で台湾の地で安住する。これによって台湾は祖国大陸と再び分離状態に陥った。

 

三、両岸の「三通」

 中国政府は1979年、台湾海峡両岸の間で郵便・ビジネス・交通を直接結ぶ「三通」を実現するよう提案した。それから20年、中国政府は両岸の全面的な「三通」実現の推進に全力を上げてきた。

 両岸「三通」の現在の進展状況

 郵便:郵政業務の面では、1993年海峡両岸関係協会と台湾海峡交流基金会が「両岸書留書類問い合わせおよび賠償事務協定」に署名し、両岸の郵政部門間で書留書類業務を正式に開始した。

 電信業務の面では、1996年中国電信と台湾中華電信は両岸の直接的な電信業務関係を結んだ。1999年と2000年、中国とアメリカ・アジアとヨーロッパ・アジアと太平洋の海底光ファイバーが敷設を完了したことで、両岸の直通通信のルートが開通した。現在両岸の電信部門はすでに電話・データ通信・携帯電話ローミング・テレビ電話などの業務を展開している。  

 交通:海上船舶通航の面では、1997年4月福州・アモイと高雄間の海上直通航路の試験運行が始まった。2001年初頭金門と馬祖の住民の要求を考慮して、大陸側は金門・馬祖と福建沿海地区の海上通航にできる限りの協力を提供した。双方は両岸の資本および両岸で登録した船舶を使用し、船舶には企業の旗のみを揚げるという形で、旅客運送と貨物輸送の海上航路を開通した。

 航空機通航の面では、マカオ航空と港龍航空は1995年12月にマカオ=台湾、1996年8月に香港=台湾航路を開通し、大陸からマカオ・香港経由で台湾まで「乗り換えなし」の間接的な通航を実現した。2003年の春節期間中、台湾人ビジネスマンが帰省して旧暦新年を祝えるように、大陸側は柔軟かつ実務的な方法を取り、台湾の航空会社6社のチャーター機合わせて16機に許可を出した。これによって、香港・マカオ経由で台北・高雄から上海を往復し、台湾のビジネスマンを運ぶことができた。

 ビジネス:両岸の貿易面では、大陸は台湾製品に対して早々と1979年に市場を開放した上で、免税や減税などの優遇政策を取ってきた。両岸の貿易金額は1978年の4600万ドルから2003年は583億ドルに急増した。2002年の統計によると、大陸はすでに台湾の最大の輸出市場になっており、台湾は大陸の2番目の輸入元になっているということである。

 投資については、大陸の関連部門と各地方が絶えず投資環境を改善し、台湾同胞に優れたサービスを提供するよう努めてきたため、台湾同胞の投資が大いに促進された。2003年末までに大陸側で台湾系資本のプロジェクトが合わせて6万件許可され、契約では680億ドルに達した台湾系資本の利用額は実際にも360億ドル使用されている。1993年からは大陸は台湾ビジネスマンの最優先地区になっている。金融面の交流や協力では台湾資本の銀行は大陸で現在すでに事務所を設置しており、書類審査中の銀行は10行ありほとんどは上海か北京に拠点を置いている。

 しかし、両岸の「三通」はいまだに「間接的・一方的・部分的」という状態に止まっている。

 郵便の面では、両岸の郵便物は依然として香港・マカオ経由であり、業務の種類も少なく、郵便小包・小包・為替・速達などはまだ行われていない。

 交通の面では、両岸の船舶・飛行機は直接往復することができない。両岸の人々が旅行する時は、香港やマカオなどを経由しなければならない。テスト運行では貿易貨物を輸送することはできず、日本や香港など第三者を通さなければならないことから、「船が通っても貨物は通わない、貨物が通っても船は通わない」という異常な現象が起きている。

 ビジネスの面では、大陸市場は台湾の企業と商品に対して全面的に開放されているが、大陸の商品が台湾へ輸出されるときには色々差別的な制限がある。大陸が優位性を持っていて、台湾同胞も強く求めている商品は台湾に入ることができない。大陸の企業は台湾に向けて投資できない上、必要な商務機関も設置することができない。大陸の企業は台湾で経済貿易展示会や商談会を開くことも参加することもできない。大陸の経済貿易業者n台湾への視察や訪問も多くの制限を受けている。

 

四、大陸住民の台湾個人旅行

 2011年6月12日中国国家観光局の邵琪偉局長はアモイで開かれた第3回海峡フォーラムで、中国住民の台湾個人旅行が6月28日から最初のテスト都市の北京・上海・アモイで正式に始まると発表した。これにより大陸住民の台湾個人旅行の幕が開いた。これまでに、台湾を旅行できる大陸部住民の都市リストは3回更新された。第1回は北京・上海・アモイ。第2回は天津・重慶・南京・杭州・広州・成都・済南・西安・福州・深セン、第3回は蘇州・武漢・寧波・チンタオ・鄭州・瀋陽・長春・石家荘・長沙・昆明・南寧・合肥・泉州である。