第七章:建築
 1.中国建築の概況

 中国建築は西洋建築とイスラム建築と共に世界三大建築に数えられている。中でも、中国建築は世界で唯一、木質構造を主にした建築であり、中国人の倫理観、美意識、価値観、自然観を具現化したものである。長い歴史と奥深い文化に根ざした中国建築は主に次の点でその芸術性を表している。具体的には皇帝の権力を至上とする思想と厳密な序列観を反映し、宮殿や都市計画面での成果が最も高いこと、組み合わせの美を重要視し、建築群は中軸対称式の配置を主とすること、自然を尊重し、自然環境との高度な調和を重んじること、中和、親近感、含蓄といった深みのある美への追求を重要視していることである。

 建築は歴史と文化を高度に凝縮した芸術的表現である。儒家の伝統思想の影響を受け、中国の古代建築は完璧を求め、中庸で調和的な美学的特徴を持っている。また「道法自然(道は自然にのっとる)」「反者道之動(反る者は道の動なり)」という道家の思想により、山水草木、鳥獣虫魚、亭台楼閣といった知識人が好む庭園スタイルが形成された。南宋時代から、世界では唯一無二の「風水説」もまとめられ、建築の場所の選定や間取り、工事期間の決定、または禁忌の回避などで役割を果たしている。

 歴史から見て、中国建築は芸術において特色と技法についての国際交流を重んじ、日本や朝鮮、ベトナム、モンゴルといった国の建築に大きな影響を与えている。現代の中国建築は伝統を守りながら、他国の芸術の特色を取り入れ絶えず発展している。

 漢民族の建築のほか、中国の少数民族の建築にも特徴があり、中国の建築体系を多彩なものにしている。

 中国建築は大きく宮殿建築、寺院建築、庭園建築、陵墓建築と民家の5種類に分けられる。

 

 1.1宮殿建築

 宮殿建築は宮廷建築とも言う。皇帝が統治をさらに強固にし、自分の権力を見せつけ、精神面と物質面の生活を満足させるために造ったスケールの大きい建築物である。この種の建物は壮観そのものである。

 秦の時代から「宮」は皇帝および皇族の住まいとなり、宮殿は皇帝が朝廷の政務を執る場所となった。歴史上で有名な「宮」としては秦の阿房宮、西漢(前漢)の未央宮などがある。その後、中国の宮殿建築の規模はますます大きくなった。その特徴は大きな斗拱(柱の上にある、縦の部材と横の部材を結ぶ木を組み合わせるもの)や黄金色の瑠璃瓦の屋根、綺麗な浮き彫りが施された天井、漢白玉の土台や壁、柱などである。

 皇帝の権力を至上とする思想と序列観を表すため、中国の宮殿建築には厳格な中軸対称の配置方式が採用されている。中軸線にある建物を大きく華麗にして、その両側の建物を小さく、シンプルなものにすることである。また中国の礼儀思想には祖先への尊敬、親孝行の提唱、五穀を重んじ土地の神を祭るといった内容が含まれ、宮殿の左前方に祖先を祭る「祖廟」(太廟とも言う)を設け、右前方に土地と食糧の神を祭る社稷(社は土地、稷は食糧の意)壇を置く。このような配置を「左祖右社」と言う。宮殿自体も2つの部分に分けられ、これを「前朝後寝」と言う。「前朝」は皇帝が政務や式典を行う場所で、「後寝」は皇帝と皇后、妃らが住む場所である。

 北京の故宮

 中国の宮殿建築を代表するものと言えば北京の故宮である。故宮は紫禁城とも呼ばれ、明から清の時代の皇帝合わせて24人が暮らした宮廷である。敷地面積は72万平方メートルで、部屋の数は9000余り。高さ数メートル、全長3400メートル余りの赤い壁に囲まれており、壁の外はお堀となっている。

 故宮は前後2つの部分からなっている。前の部分は皇帝が大きな式典を行い、命令を発する場所である。主な建築は太和殿、中和殿、保和殿で、漢白玉で造られた高さ8メートルの土台の上に建てられている。故宮の後ろの部分は「内廷」といい、皇帝が政務を執り、妃らが住む場所である。主な建築は乾清宮、坤寧宮、御花園などであり、いずれも生活感に溢れている。このほか花園や書斎、築山などが造られ、それぞれ独立した庭園となっている。

 時代の移り変わりや戦乱により、現在も残っている宮殿建築はそれほど多くはない。北京の故宮、瀋陽の故宮のほか、西安に漢や唐の時代の宮殿遺跡が数ヶ所残っている。

 

 1.2寺院建築

 寺院は中国の仏教建築の1つである。寺院建築は最初はインドで造られ、中国では北魏時代に盛んになった。これらの建築は中国の封建社会の文化の発展と宗教の盛衰の記録であり、重要な歴史的、芸術的価値を持っている。

 中国の古い時代の人々は陰陽宇宙観や対称性、秩序、安定を求めるといった美意識をもとに建築物の配置を決めた。このため中国の寺院は先祖と天地を祭るという中国特有の機能を持ち、四角い形で、南北に中軸線を引くという配置を取り、対称式で安定感のある建築群となっている。また庭園式の寺院もよく見られる。この2種類の配置により、中国の寺院は穏やかな雰囲気をたたえ自然の趣に富み、奥深いものとなった。

 昔の寺院は大体、正面の真ん中が山門となっていて、山門を入って左には鐘楼、右には鼓楼、正面には天王殿がある。殿内には四天王の像が置かれ、天王殿の後ろには大雄宝殿、蔵経楼があり、その両側に僧舎、斎堂が置かれている。境内の中で最も重要で大きな建物は大雄宝殿である。「大雄」はお釈迦様の意である。隋や唐の時代より前の時代の寺院は寺院の前か境内の中心部に仏塔が造ってあるのが一般的だが、それ以降の時代は、仏塔の代わりに仏殿を造り、境内の別のところに仏塔を置いていることが多い。

 洛陽の白馬寺

 河南省洛陽にある漢時代に建てられた白馬寺は、中国の朝廷が造った初めての寺院である。白馬寺の敷地は長方形で、広さは約4万平方メートル。中国、東アジアおよび東南アジアの仏教の発展を強く推進した寺院であるため、今でも多くの信者が白馬寺を礼拝の聖地としている。

 五台山の仏教建築

 山西省の五台山は中国で有名な仏教の聖地である。この山には58ヶ所の古代仏教建築が保存されているが、中でもよく知られているのが唐の時代に建造された南禅寺と仏光寺である。南禅寺は中国で現存のものとして、最も早く建造された木構造の寺院である。仏光寺の建物には中国の各時代の建築様式が取り入れられており、寺院の建物と像、壁画、墨跡は「四絶(4つの絶妙)」と呼ばれ称えられている。

 ポタラ宮

 ラマ教(チベット仏教)は中国仏教の宗派の1つである。ラマ教の寺院の特徴として広い仏殿、高さのある経堂、建物がほとんど山を背にしていることが挙げられる。チベットのラサにあるポタラ宮は典型的なラマ教の寺院である。唐の時代に建てられたポタラ宮はいく度もの修繕を経て、膨大な建築群となった。建物全体が山の地形に合わせて造られており、素晴らしいものとなっている。建築面積2万平方メートル余りで、中には殿堂が20数ヶ所ある。正殿にはお釈迦様が12歳の時の等身大の金メッキの銅像が据え置かれている。ポタラ宮は典型的な唐代建築の要素を持ちながら、ネパールやインドの建築の特色も備えている。

 このほか承徳の「外八廟」や北京の雍和宮も有名なラマ教建築である。

 

 1.3庭園建築

 中国の庭園建築は歴史が長く、世界の庭園史上にもその名をとどろかせている。今から3000年以上前の周の時代に中国初の宮廷庭園が造られた。庭園造りは魏や晋の時代以降に盛んになり、庭園を造って楽しむという意識が広まった。その後、各時代の都や地方の有名な都市ではいずれも庭園が造られた。中国の都市の庭園は多彩で、世界の三大庭園体系において輝かしい地位を占めている。

 山水を主とした中国の庭園は独特で、変化に富んだ配置になっている。人工の美を自然の美と一体化させ、建築物を山水の中に隠して、自然の美をさらに高いレベルへ引き上げている。中国の庭園建築は雄大な皇室庭園と巧みな造りの個人庭園からなっており、庭園のイメージで分類すれば"治世の境"、"神仙の境"、"自然の境"の三種となる。

 実際を求め、社会的責任感を強く持ち、道徳倫理の価値と政治的意義を重んじるという儒学の思想が庭園造りに反映されると"治世の境"、となる。"治世の境"のようなイメージはよく皇室庭園に見られる。自然と心身の落ち着きを重んじる道家の思想が庭園造りに反映されるとロマンチックな美意識となり、"神仙の境"のようなイメージになる。"神仙の境"は皇室庭園と寺院庭園によく反映されている。円明園の蓬島瑶台、四川省青城山の古常道観、湖北省武当山の南岩宮などがその例である。また"自然の境"は写意を重んじ、庭園所有者の感情の表現に重点を置いている。このような庭園は文人の庭園に多く見られる。例えば宋の時代の蘇舜欽の滄浪亭、司馬光の独楽園などである。

 中国と西洋の庭園の違いといえば、西洋の庭園は幾何学のルールに従い、建築物そのものを重んじるが、中国の庭園は自然景観と鑑賞者の感覚を中心とし、天と人の融合を重んじる点である。

 蘇州庭園

 1997年に世界遺産に登録された蘇州の古典庭園は中国の庭園建築の芸術的特色を数多く備えている。蘇州庭園は2000年を超える歴史を持ち、現存の名園は10数ヶ所ある。ほとんどがせまい敷地の中に変化に富んだ芸術的な要素を用いる手法を取っている。中国の山水と花鳥の趣があり、唐詩と宋詞のイメージを表現し、限られたスペースに築山や樹木、亭台楼閣、池、橋などを据え置き、小さな風景から大きな風景が見えるという芸術的効果を出している。中でも有名なのは滄浪亭、獅子林、拙政園、留園などである。

 (蘇州庭園の一角)

 円明園

 中国で最も有名な皇室庭園で、「万園の園」とも呼ばれる北京の円明園は、中国各地の異なった庭園芸術を一身に集めているほか、一部では西洋の建築様式を参考にしている。園内の建物は技巧に優れ、形は様々で無限の趣が表されている。華やかで美しい庭園だが、1860年に中国を侵略した英仏連合軍の放火により破壊された。現在、人々は残された垣根や瓦からしか、名園のかつての風貌を思い描けなくなってしまった。

 円明園の遺跡は北京の北西郊外にある。一般的には円明園と呼ばれるが、実際はその付属の庭園である長春園と綺春園(万春園)も含んでおり、「円明三園」とも呼ばれている。清の時代、北京の北西郊外には5ヶ所の離宮庭園、すなわち"三山五園"(香山静宜園、玉泉山静明園、万寿山清漪園、円明園、暢春園)があったが、このうち円明園が最大であり、広さは347ヘクタールである。

 円明園は当時、中国で最も立派な離宮であった。乾隆帝から「天と地の優れたものを吸収した場所であり、帝王の巡遊には最高の場所」と称賛された。また、宣教師の手紙や報告などによってヨーロッパにも広く知られ、18世紀のヨーロッパの自然風景園の発展に影響を与えた。

 

 1.4陵墓建築

 陵墓建築は中国古代建築の重要建築の1つである。中国の古代の人は、「死んでも魂は滅びない」という考えから葬式を重んじ、どの階層でも陵墓造りに工夫した。長い歴史の中、中国の陵墓建築は大きく発展し、世界でも稀に見る膨大な皇帝・皇后陵墓群が生まれた。同時に絵画や書道、彫刻などの芸術と徐々に融合し、多様な芸術の成果を反映する総合体となった。

 陵墓建築は中国の古代建築の中で、特に雄大で規模の大きい建築群の1つである。そのほとんどが自然の地形に合わせて、山を背にして造られているが、少数ながら平原地帯に建造されたものもある。陵墓建築はだいたい四面に壁が築かれ、壁ごとに入り口が設置され四つの角には角楼が置かれている。陵墓の前には参道が敷かれ、その両側には人間や動物の石像がある。園内には松や柏が生い茂り、慎み深く静かな雰囲気をつくっている。

 秦の始皇帝陵

 陝西省西安の驪山の北麓にある秦の始皇帝陵は中国で最も有名な陵墓であり、今から2000年以上前に建てられた。「世界で8番目の不思議」とも呼ばれる兵馬俑が、この陵墓を守る"部隊"である。秦の始皇帝の兵馬俑は雄大であり、彫刻や俑の技術レベルも高い。1987年に世界遺産に登録された。世界遺産委員会は兵馬俑をこのように評価している―「秦の始皇帝の陵墓を囲んでいる有名な陶俑は形が様々で、その軍馬、戦車と武器と共に現実主義の完璧な傑作であり、極めて高い歴史的価値を持っている」。

 秦の始皇帝の兵馬俑

 陝西省の西安付近は中国の帝王陵墓が比較的集中している場所であり、秦の始皇帝陵以外にも、西漢(前漢)の11人の皇帝と唐の18人の皇帝の陵墓がある。西漢の皇帝陵墓のうち、漢武帝劉徹の茂陵が最大で、埋蔵された宝物も最多である。また唐の皇帝陵墓の中では、太宗李世民の昭陵がとりわけ広い。園内には功績の大きい大臣や親族の陵墓が17ヶ所あり、地上のみならず地下も貴重な文物となっている。最も有名なのは彫刻「六駿図」である。

 明と清の皇帝陵

 明と清の皇帝陵は中国の帝王陵墓の中で保存状態が最も良い。明の皇帝の陵墓は主に北京の昌平にあるもので「十三陵」と呼ばれている。明が北京に都を置いた後の13人の皇帝の陵墓群である。敷地面積40平方キロ。陵墓には13人の皇帝のほか、皇后23人、および妃や王子、王女、女中なども数多く埋葬されている。

 明の十三陵は雄大で、景色が素晴らしく、中国で現存するものとしては最も集中的で完成度の高い陵墓建築群である。規模が最も大きいのは長陵(明成祖朱棣)と定陵(明神宗朱翊鈞)である。考古学によれば定陵の地下宮殿の石構造は非常に強固で、周りの排水設備も良好であり、浸水が極めて少ないという。また石の構造で崩れているところは1ヶ所もなく、昔の職人の技術の高さを証明している。 中国現存の陵墓建築のうち、最も規模が大きく、建築体系が完全な皇室陵墓といえば清東陵である。敷地面積は78平方キロで、清の皇帝5人、皇后14人のほか、妃100人余りが埋葬されている。陵墓内の主な建物はいずれも洗練され、精巧なものばかりである。

 

 1.5中国の民家

 中国各地の住宅建築は最も基本的な建築であり、最も早く出現し、かつ最も広く分布している。このため数も一番多い。中国各地の自然環境や文化の違いにより、住宅には様々な違いが表れている。

 北京の四合院

 中国の漢民族の地域で伝統的な民家といえば、まとまった形の住宅が主流であり、中でも中軸対称式の配置を取る北京の四合院が代表格である。北京の四合院は前後2つの庭からなり、中央にある「正房」の格が最も貴く、家庭内の儀式を行ったり来客を迎える場所となる。四合院の部屋は全て庭に面しており、回廊でつながっている。北京の四合院は中国の封建社会の規則と家庭制度が建築として具現化されたものである。庭が広く、暮らしやすい大きさで、静寂の中にも温かみを感じさせる。庭には花や木が植えられ、理想的な室外空間となっている。華北、東北地域の住宅のほとんどがこのような広い庭付きの家となっている。

 北京の四合院

 堂屋と土楼

 中国南部地域に見られる住宅はコンパクトで、2階建て以上の建物が多い。その代表格は面積が小さく、長方形の天井を中心とした「堂屋」である。この種の住宅の外観は簡素な四角形で、特に南部の省でよく見られる。

 福建省の南部、広東省の北部、広西チワン族自治区の北部に住む「客家」の人の多くは大型の集合住宅に住んでいる。形は丸いものも四角いものもある。住宅の中心には平屋があり、周りを4階から5階建ての建物で囲まれている。このような建築は防御性が高く、福建省永定県の客家土楼が有名である。永定県の客家土楼は方形、円形、八角形、楕円形などの形があり、合わせて8000棟以上ある。規模が大きく形も綺麗で、実用的でありながら特色を帯び不思議な空間となっている。

 福建の土楼は地元の土、砂、石、木材を使ってまず個々の部屋を造り、そしてそれらの部屋を縦、横につなげ、固く閉ざされた防御目的の城郭のような住宅様式を形成する。土楼は強固で安全であり、密閉性が高く強い宗族的特徴も持っている。楼内には井戸や食糧倉庫があり、戦争や強盗などに遭った場合は門を閉じれば侵入されず、数ヶ月は食べ物や水の心配がない。また冬は暖かく夏は涼しく過ごしやすいほか、地震や強風にも耐えられることから、客家の人々が代々暮らす伝統建築となった。

 少数民族の居住用建築

 中国の少数民族地域の居住用建築も多様である。例えば、北西部にある新疆ウイグル自治区の住宅は平屋根と土壁が多く、1階から3階建てで庭もある。チベット族の典型的な住宅である「碉房」は、外壁は石で築かれ、内部は木構造の平屋根の家屋である。蒙古族は一般的には移動可能な「パオ」に住んでいる。また南西部の少数民族は、山を背にし川に面した木構造の欄干式の楼閣に住んでおり、楼閣の下は開放的である。中でも一番特徴があるのは雲南のタイ族の「竹楼」である。南西地域の民家ではミャオ族、トゥチャ族の「吊脚楼」が独特である。「吊脚楼」は一般的に斜面に建てられており、土台がなく柱に支えられている。2階か3階建てで、最上階の天井は低く、食糧の貯蔵に使われる。楼の下は物を置いたり、家畜を飼う場所となる。

 北方の窯洞と古城の民家

 中国は土地が広く、民族も多く、各地の民家は様式、構造、装飾、色遣いなどで様々な特徴を持っている。ここでは主に明らかな個性を持つ北方の窯洞と古城の民家を紹介する。

 中国北方の黄河中流・上流地域では、窯洞式の住宅が多い。陝西、甘粛、河南、山西などの黄土地域では、天然の土壁の内部に洞窟を掘り、いくつかの洞窟をつなげた後、洞窟内にレンガと石を築いて窯洞を造る。窯洞は防火、騒音防止機能があるほか、冬は暖かく、夏は涼しく、土地の節約にもなり経済的である。また自然と生活をうまく融合させ、その土地の条件に合わせて造った完璧な建築様式である。黄色い土地に対する人々の愛着を表している。

 また、中国にはよく保存されている古城もある。これらの古城の中にはたくさんの古代民家がある。このうち山西の平遥古城と雲南の麗江古城は1998年に世界遺産に登録された。

 平遥古城

 平遥古城は、現存するものとして最も完全に保存された明、清の古い県都であり、中国の漢民族が中原地区に造った古い県都の代表とも言える。現在もこの古城の城壁、街道、民家、店舗、寺院などは完全な形を保っており、その建築配置と風貌もほぼ昔のままである。平遥古城は中国の政治、経済、文化、軍事、建築、芸術などの歴史を研究するのに「生きた標本」となる。

 麗江古城

 南宋時代に建造された麗江古城は、ナシ族の伝統建築と外来の建築の特色を融合させた唯一のものである。麗江古城は中原地区の都市建築の礼儀制度の影響を受けておらず、道路網は不規則で、城壁もない。黒龍潭はこの古城の主な水源であり、その水はいくつかの細い川となって城内に流れ込み、水網を形成した。城内には細い川が至るところにあり、川岸には柳が垂れている。

(麗江古城)

 

 2.中国古代建築の概況

 中国の古代建築は漢民族の木造建築を主体とし、各少数民族の優れた建築も含まれている。紀元前2世紀から紀元19世紀の半ばまで、閉鎖的かつ独立した体系を形成し、高い審美的価値と工芸水準を持ち、深い文化的意味もある。中国の古代建築芸術は世界でも歴史が長く、分布が広く、個性ある独特な芸術体系となっている。日本や朝鮮、ベトナムの古代建築に直接的な影響を与え、17世紀以降にはヨーロッパの建築にも影響を及ぼしている。

 中国は土地が広く、民族も多いため古代の人たちは異なる自然や地理条件に合わせ、様々な構造や芸術スタイルの建物を建造した。北方の黄河流域では、風雪と寒さを遮るために木材と黄土で家を建て、一方南部では、土と木材のほか、竹と芦も建築材料となっている。また南部の一部では、湿気を防ぎ、風通しを良くするために、家の下に欄干式の構造を取り入れている。さらに山間部の建築物には石材が多く使われ、林地では井戸式の建物が多く見られる。

 中国の古代建築の発展は3つのピーク期があった。秦から漢の時代、隋から唐の時代、明から清の時代である。この3つのピーク期には共通点がある。それは宮殿、陵墓、都城、防御施設、水利施設など代表的な建築物を大量に造り、建築様式や材料選びなどの面で後世に影響を与えていることである。中でも秦の時代の始皇帝陵や隋の時代の趙州橋、明と清の時代の紫禁城などは、今日でも中国古代建築の芸術的魅力をアピールしている。

 しかし風や雨の浸食、戦争による破壊などにより古代建築は消えてしまった。現存するのはほとんどが唐の時代(紀元7世紀)以降のものである。

 

 2.1唐代の建築

 唐代(紀元618~907年)は中国の封建社会の経済、文化発展のピーク期であり、この時代に建築面の技術や芸術も大きく発展した。唐代の建築の特徴は雄大なこと、厳密で整っていることである。

 中国の建築群の全体計画はこの時期を境に日増しに成熟していった。唐の都である長安(現在の西安)と東都である洛陽では巨大な宮殿、庭園、官署が造られ、建築の配置もさらに規範化し合理的なものとなった。当時、長安は世界最大の都市で、その都市計画も中国の古い都の中では最も整っている。長安城内の帝王宮殿である大明宮は極めて雄大であり、その遺跡の広さは明と清の故宮である紫禁城の3倍以上である。

 唐代の木造建築は芸術加工と造形の統一を実現させており、斗拱、柱、梁なども含め、すべての部分が力強さと美しさの融合を表している。唐代の建築は素朴かつ穏やかで、色遣いは簡潔で明るい。山西省五台山の仏光寺大殿は典型的な唐代建築である。

 また、石やレンガ造りの建築も唐代に大きく進展した。この時代の仏塔はほとんどレンガや石で造られている。例えば西安の大雁塔と小雁塔、大理の千尋塔など現存する唐代の塔はすべてこのような造りである。

 (西安の大雁塔)

 2.2宋代の建築

 宋代(紀元960から1279年)は中国の政治や軍事が比較的衰弱した時代であった。しかし経済や手工業、商業などは発展し、科学技術も進歩したことから、建築レベルは一層高まった。この時代の建築は唐代の雄大なものから繊細かつ秀麗なものに変わり、装飾を重んじるようになった。

 宋代の都市は通りに面して店が設けられ、同じ業界の店が集中する配置となり、消防、輸送、商店、橋梁などが新たに発展した。例えば「清明上河図」では、北宋の都である汴梁(現在の河南省開封)の商業都市としての風景が描かれている。この時代、中国各地では規模の大きい建物は建造されなくなり、その代わりに建築の構造に力を入れた。主体となる建物を目立たせるため、奥までの空間を層に分け、装飾や色遣いにも工夫も凝らした。また実用性があり、綺麗で外壁が多様である楼閣も飛躍的な発展を遂げた。黄鶴楼や滕王閣などに保存されている絵画から当時の楼閣の様子を垣間見ることができる。山西省太原市の晋祠の本殿および「魚沼飛梁」は宋代建築の典型である。

 (魚沼飛梁)

 宋代の建築の成果は主に次の点に反映されている。まずレンガや石造りの建築レベルが絶えず高められたことである。この時代のレンガや石造りの建築は主に仏塔と橋梁である。浙江省杭州の霊隠寺塔、河南省開封の繁塔、河北省趙県の永通橋などがその代表となる。また経済、社会がある程度成長したことから、この時代を境に趣を重んじる庭園が流行り始めた。代表的なものは蘇舜欽の滄浪亭、司馬光の独楽園である。さらに宋代には建築設計と施工に関する中国唯一の規範的な書籍『営造法式』が発行された。これは建築技術を全面的に説明した専門書籍である。

 

 2.3元代の建築

 元代(紀元1206~1368年)の中国は蒙古族の統治者が作った広い国土を持つ軍事帝国であった。しかしこの時代の中国は経済、文化の発展が遅く、建築の発展もほぼ停滞状態にあり、建築物のほとんどが粗末なものであった。

 元代の都である大都(現在の北京北部)は規模が大きく、その形も継続された。明と清の都である北京の大きさはこの時代に固まったもので、正方形の街づくりは幾何学の概念を表している。現存する元代の太掖池万歳山(現在は北京の北海の琼島)は当時、絶景とされた。

 元代の統治者が宗教、とりわけチベット仏教を信仰したことから、当時は宗教建築が盛んであった。北京の妙応寺の白塔は元代のチベット仏教の塔で、ネパール人が設計、建造したものである。

 (白塔寺)

 

 2.4明代の建築

 明代(紀元1368~1644年)から中国は封建社会の末期に入った。この時代の建築様式はほとんどが宋代のものを受け継いだもので、はっきりとした変化はない。しかし建築の設計では規模が大きく、雄大であることが特徴である。

 この時代の都市計画と宮殿建築はすべて後世に受け継がれた。都である北京、および中国に現存する最大の古城である南京は明代の都市計画と運営に恵まれ、清代の帝王の宮殿も明の宮殿を基にしたものであった。明代の都・北京はもとの街を基礎に改築された。完成後は、外城、内城と皇城の3つの部分からなっている。社稷壇(現在の中山公園)、太廟(現在の労働人民文化宮)と天壇はいずれも明代の傑作である。

 明代は広大な防御建築である万里の長城の修築を続けた。長城の多くの重要な区間の城壁と関所はレンガ造りで、建築水準は最高であった。明代の長城は、東は鴨緑江から西は甘粛の嘉峪関まで長さ5660キロである。山海関、嘉峪関などの有名な関所は中国の建築芸術のオリジナルの傑作であり、北京の八達嶺長城、司馬台長城なども比較的高い芸術的価値を持っている。

 (長城)

 明代の建築は木質構造の芸術と技術が発展した。公的な建築は比較的、厳密で穏やかであり、その装飾なども定型化しつつあった。また部屋の装飾品にはレンガやガラス、木材など異なる材質が使われた。レンガや陶器を焼く窯が発展したことから、レンガは民家の壁によく使われるようになった。

 中国の建築群の配置は明代になって徐々に成熟期を迎えた。南京の明孝陵と北京の十三陵は地形と環境をうまく利用して、陵墓の荘厳な雰囲気を持つ傑作となった。また、明代には江南地域の官僚や地主の個人庭園づくりも非常に発達したほか、家具も世界に名を馳せた。特に風水が明代に最盛期を迎えた。これは中国の建築史上では独特な文化現象であり、その影響は近代にまで及んでいる。

 

 2.5清代の建築

 清代(紀元1616~1911年)は中国最後の封建王朝である。この時代の建築はほとんどが明代の伝統を受け継いでいるが、発展や革新も見られ建物はより巧みで綺麗になった。

 清代の都である北京は明代の風貌をほぼ継続している。城内には20の高く雄大な城門があり、中でも内城の正陽門が最も迫力がある。明代の宮殿をそのまま使った清代の皇帝は大規模な皇室庭園を造った。それらの庭園建築は清代の建築の真髄であり、そのなかには円明園と頤和園が含まれている。

 清代の建築の特徴といえば、まず建築群の配置や装飾、設計が成熟したことである。特に庭園建築は、地形または空間に合わせた造形のレベルが高い。また建築技術も刷新され、主にガラスの導入やレンガ造りの建築の進歩などの面に反映されている。さらに中国の民家も豊富多彩で、自由な様式が見られる。

 同時に、独特なチベット仏教の建築も盛んになった。従来の単一な処理法にこだわらず、多様な建築様式を作った。北京の雍和宮、および承徳に建造されたいくつかのチベット仏教の寺院がその代表である。

 (北京の雍和宮)

 3.中国の近代と現代建築の概況

 中国の近代建築はアヘン戦争から1949年の新中国建国までの時期の建物を指す。歴史上、中国の伝統的な建築文化は20余りの王朝を経て受け継がれてきたが、1840年のアヘン戦争勃発後、その営みは寸断の危機にさらされた。

 中国の現代建築は1949年の建国以降の新たな時期のものである。計画的な国民経済事業により、建築業は大きく推進された。数や規模、種類、分布および現代化レベルのいずれの分野でも近代の範囲を超え、新たな姿を現した。

 

 3.1近代建築の特色

 新中国建国前、中国の古い建築体系はまだ数的な優位性を持っていたが、新たに劇場や酒場、旅館などの娯楽、サービス業の建築、および百貨店、野菜市場などの商業建築も現れ始めた。西洋の建築スタイルも見られるようになり上海、天津、青島、ハルビン、大連などの租界あるいは占領された都市には外国の領事館、商店、銀行、ホテル、クラブなどの外来建築も建てられた。そのうち最も早く出現した西洋建築は教会であった。

 この時期の重要な特徴は住宅の変化である。近代の住宅様式は大きく2種類に分けられる。1つは伝統的な住宅に由来するもので、例えば里弄、里院、竹筒屋、騎楼などである。もう1つは西洋の一戸建てか長屋住宅に由来したもので、例えば別荘やマンションなどである。この代表格は上海の石庫門の里弄にある住宅である。

 このほか近代の民族建築も相次いで現れ、新たな機能や技術、造形と民族文化との融合が実現した。中国で初の建築家と建築学者もこの時期に登場し、現代における中国の古典建築の伝承と発展を研究し続けた。1928年に中国建築士学会が成立した。

 南京中山陵

 (南京中山陵)

 南京中山陵は、中国の偉大な民主革命の先駆者である孫中山の陵墓であり、南京市・東郊外の鐘山にある。陵墓は1つの建築群となっている。山の地形に合わせて徐々に上がっていくような造りで、非常に雄大である。敷地は大きな鐘のような形をしていて、鐘の先端は麓にあたり、半月状の広場となっている。中山陵は南から北へ中軸線が徐々に高くなり、広場、石坊、参道、陵門、碑亭、祭堂、墓室の順に建築物が置かれている。建築スタイルは中国と西洋の融合で、鐘山の雄大さと陵墓内の建物が、広い緑地と階段によって一体となり、壮観そのものである。「中国の近代建築史上の第一陵」とも呼ばれている。

 上海和平飯店

 上海和平飯店は1929年に建てられ、当初は華懋飯店と呼ばれた。シカゴ学派ゴシック式の建築で、高さ77メートルの12階建てである。花崗岩で造られた外壁、ピラミッド形で青銅瓦の塔楼や回転ドア、広いロビーと廊下、大理石の床と柱、銅製のシャンデリア、9ヶ国のスタイルを集めた唯一無二のスイートルームなどがある。建物全体は重厚かつ華やかで「極東の第一楼」とも呼ばれた。

 

 3.2中国の現代建築の特色

 1949年の建国以来、中国の建築は一部に大きい屋根を置くことを特徴とするクラシック期、建国記念プロジェクトの十大建築を代表とする社会主義建築の新スタイル期、現代的な設計法と民族的なイメージを一体化した広州スタイル期を経て、技術面では鉄鋼構造や鉄筋コンクリート期へと向かった。

 政治的な要素が現代建築に大きな影響を与えた。建国十周年を記念して北京に建造された人民大会堂、工人体育場、民族文化宮、民族飯店、釣魚台国賓館などの十大建築は現在も独特な魅力を備え、時代の記憶を物語っている。一方、台湾地区でも1970年代後期から「中華文化復興運動」が起こり、政治や文化的な意味を持つ台北円山大飯店、台北中山記念館などの代表的な建物が造られた。

 人民大会堂

 北京の天安門広場の西側にあり、中国の指導者や国民が政治、外交活動を行う場所であり、中国の重要なシンボルの1つでもある。人民大会堂は1959年に建てられ、建築面積は17万平方メートル余り。雄大な大会堂は、黄色と緑の瑠璃瓦の屋根、高い柱、およびその周りに置かれた大小様々な建物は天安門広場に荘厳で美しい構図を形成した。人民大会堂の正門は天安門広場に面しており、正門の上には国章が嵌め込まれている。門の前には高さ25メートルの浅い灰色の大理石の柱が12本立っており、門をくぐれば優雅で素朴な中央ホールへ出る。ホールの裏には幅76メートル、奥行き60メートルの万人大会場があり、大会場の北は5000席ある大宴会ホールとなっている。人民大会堂のホールと会議室は合わせて100以上あり、それぞれに特色がある。建築スタイルにおいて、人民大会堂は中国の伝統的な設計理念を受け継ぎながら外国の精髄を吸収しており、穏やかで優雅なものとなっている。

 北京香山飯店

 北京・西郊外の香山公園の中にあり、1982年に建造された。設計はアメリカで有名な貝聿銘(イオ・ミン・ペイ)建築設計事務所が担当した。中国の庭園建築の要素を取り入れ、中軸線や空間の配置、庭園の処理では秩序を守りながら工夫を凝らしている。建物全体は山の地形に沿っており、高低の変化や曲線も多い。白を基調とした建物の外壁は城郭式で、窓の造りも規則正しい。香山飯店の庭に見られる建築配置は江南地域の庭園の巧みな部分と北方の庭園の広さを兼ね備え、築山や湖、草木は、白い壁と灰色屋根の本館とは対照的で互いを引き立てている。建物全体は中国の伝統的な庭園建築のスタイルを持ちながら、現代の観光面の機能も備えている。1984年にアメリカ建築家協会栄誉賞を受賞した。

 

 4.中国の新時代の建築

 中国の現代建築と当代建築の区分について建築界では統一した規定はないが、多くの建築家はこれを中国の近現代史と結び付け、1976年に社会主義建設の新たな時期が始まった後、中国の建築業の成長が加速したと考えている。改革開放に伴い中国の建築もますます開放的で、包容力を持つようになり、世界の多元化という概念を表してきた。特に21世紀に入ってからは一連の新しいシンボル的な建物の完成により、中国は建築のグローバル化時代を迎えた。

 1980年代からラジオやテレビの発展にともない、電波塔が各地に建設された。例えば、天津テレビ塔、上海の東方明珠塔、北京の中央テレビ(旧局舎)などである。21世紀に入って竣工した中央テレビ新局舎と広州テレビ塔により、メディア業界の建築に対する認識は刷新された。

 また各種の技術的進歩により、高層ビルさらには超高層ビルも数多く現れた。その代表格は上海の環球金融センターと金茂大厦、台北101、香港国際金融センターである。

 2008年北京五輪と2010年上海万博の開催時、主催国である中国は建築を文化の媒介として、中国建築業の設計の革新、伝統と現代の融合に向けた発展を世界にアピールした。

 新時代の中国建築はスポーツ、文化、ビジネスなど、分野に限らずいずれも成長しており、主には飛躍的な革新と高度な工芸技術という特徴を備えている。21世紀に入り現代感溢れる多くのシンボル的な建物は中国の発展を記録するものとなり、グローバル化の中で新たな意義を示している。

 国家大劇院

 2007年に竣工した国家大劇院は北京の長安街の南側、人民大会堂の西側にある。中国最高レベルの劇場である。敷地面積は約12万平方メートルでオペラ劇場、コンサートホール、演劇場、小劇場の4つの部分からなっている。ガラスとチタン合金を使った外壁は卵形に造られ曲線が美しい。底が見える透き通った人工湖に囲まれ、まるで湖に浮いているような構造となっている。

 大劇院は仏・パリの国際空港などを手がけた建築家ポール・アンドリューがメイン設計を担当し、建築技術や材料などについて新たな試みをした。大劇院の造形は斬新で、水面下にある長さ80メートルの通路が内外をつないでいる。緑地の設計は自然の緑を都市に持ち込むという発想に基づいており、周りの厳粛な建築群とは一線を画する現代的で未来感溢れる設計によって建築のグローバル化に対する概念を呼び起こしている。中国の当代文化の象徴ともいえる建物である。

 上海環球金融センターと金茂大厦

 環球金融センターは2003年の改修により、高さが460メートルから492メートルになった。中心はオフィススペースだが観光、ホテル、ビジネス、会議、展示などの機能も備えた総合的な建物である。入居企業は世界の大企業500社に数えられる企業が多い。

 建物主体の断面は長方形で、地上から空中に向かって延びる対角線は上に行くほど近づいていく。建物のラインはシンプルで際立ち、「方」と「円」の融合は中国文化の「調和」と「平穏」を表している。環球金融センターは金茂大厦と東方明珠塔とともに上海の新たなシンボルとなっている。

 同じような多目的ビルである金茂大厦は環球金融センターと並んで、浦東の黄浦江の沿岸に立っている。1999年8月に開放された。高さ420メートルを超える88階建てで、建築面積は約29万平方メートル。中国の伝統的な塔の形態をとっており、最上部は階段状になっていて上がるごとに細くなり、中国の建築スタイルと現代科学技術の完璧な融合を表している。現代建築芸術の傑作であり、中国人が請け負った世界一流の建築プロジェクトでもある。

 台北101

 2004年に竣工した台北101は中国台湾の台北市信義区にある。建設段階の名前は"台北国際金融大厦"で、現在は世界に知られる高層ビルとなった。高さ509.2メートルの101階建てで、ビジネスや娯楽、ショッピングなどの施設が揃っている。

 外見は鋸の歯のようなデザインで、風力による振動を30%から40%抑制できるという。内部は吹き抜けになっており、天井には風による振動を緩和するための重さ660トンのマスダンパーが設置されている。マスダンパーを表に出している高層ビルとしては世界初となる。設計を担当した建築家の李祖原氏は象徴的な手法で中国の要素を十分に活かしている。宝塔のような外観、細部にある伝統的な図案、花が開いたような層の構造など、いずれも東方のイメージが濃厚で、東方と西洋の文化を跨いだ建築芸術の代表となった。

 「鳥の巣」「水立方」など五輪施設

 (左は"鳥の巣"、右は"水立方")

 「鳥の巣」とも呼ばれる中国国家体育場は北京オリンピック公園にある。骨格を表に出してそれを装飾の1つにするという特徴から、オリンピックと当代の中国建築を象徴するシンボルとなった。「鳥の巣」は建築界で非常に有名な建築ユニットであるヘルツォーク&ド・ムーロンと中国の建築家・李興剛氏、艾未未氏らが協力して設計をした。外郭を「鳥の巣」のようにしたことには命を育む意と未来への美しい期待が込められている。

 同じオリンピック公園の中に、「水立方」とも呼ばれる国家水泳センターもあり、「鳥の巣」とともに北京の中軸線の北端の両側に設置されている。「水立方」は中国とオーストラリアのデザイナーが共同で設計したものである。外郭のデザインは水の流れを立体的に表現し、中国の伝統美学における方形の重要さを表した。新材料を使って水泡のイメージを表現し、美学と生態学を完璧に融合した。北京五輪の開催後、「水立方」は大型水泳施設として利用されるほか、観光、娯楽といった面でも楽しめる施設となっている。

 中央テレビ局のメインビル

 北京のCBDエリアのすぐ近くにある中央テレビ局の新局舎のメインビルの高さは234メートル。6度の傾斜があるガラス張りの2棟のビルが160メートルの空中で交差し、遠くから見れば、「U」の文字が逆さになったように見える。この独特なデザインは長い間、議論の的となっていた。設計を担当したのは当代建築に広く影響を与えているオランダ人建築家レム・コールハース氏とそのパートナーのオーレ・シェーレン氏であった。

 建築面積は約47万平方メートルで、1万人以上が収容できる。管理や報道、送信、番組制作など6つの部門を1ヶ所に集めている。ビルの設計では、メインビルと付属ビルの連結部分の重量の差という問題を克服し、重心の高い構造にチャレンジし、側面では"S"、正面からは"O"の形になる特別な造形にした。そのすべてが中国が工芸技術と設計の面で世界トップレベルになりつつあることを物語っている。

 広州で"繊細な腰"との愛称もある「広州塔」

 2009年末に竣工した広州塔は広州市海珠区にあり、珠江の南岸に接している。本体の高さは450メートルで、その上に高さ160メートルのアンテナマストが立っている。広州塔の外観は円柱の両端を逆の方向に45度ほど捻ったような形である。本体の最も細いところは断面の楕円形の短軸の長さがわずか20.6メートルしかなく、全体から見て人間の腰のようにも見えるため「繊細な腰」とも呼ばれている。広州塔は内と外の二重構造になっており、形によって5つのブロックに分かれている。観光、娯楽、放送、通信などの機能を備えた総合的な建物である。設計したのはオランダの建築家マルク・ヘムル夫妻である。

 広州塔は直線型という従来の電波塔の造形の概念を大胆に覆した。少女のような優しさを持つデザインは従来の電波塔の硬いイメージに比べ、曲線が柔らかな動きを生み、各フロアも変化に富み、電波塔の建築スタイルを新たにした。また1階から最上層までわずか1分半で到達できる高速エレベーターも新たな技術力を見せている。

 上海万博中国館(予備)

 "中華芸術宮"と名前を改めた中国国家館は2010年上海万博を契機に、中国建築の新旧融合の概念をアピールした。中国館は上海の浦江の南岸にあり、高さ63メートル。外観は中国の古代建築の「斗拱」部分のイメージを取って台形となり、高さ33メートルの巨大な支柱に支えられた「中国紅(チャイナレッド)」色の建物である。このデザインは古代建築の構造に新たな意味を取り入れ、古代建築に対する当代の中国の深い敬意を表している。

 万博主催国のメイン会場である中国館のデザイナーを募集する際には、中国系の建築家に限られていたが、これが中国の建築学界に多少貢献をしたといえる。建築がグローバル化しつつある今、いかに自国の建築の価値を保ちながら、新たなチャレンジに向かうかが、当代の建築界にとっての課題となっている。

 

 5.中国の有名な建築家

 梁思成

 梁思成(1901―1972年)。1915年から1923年まで北京清華学校で学ぶ。1927年に米・ペンシルベニア大学建築学科の修士学位を取得。1948年、米・プリンストン大学名誉博士号を授与される。梁思成は長期にわたって建築教育事業に従事し、重要な貢献をした。

 学術研究では、1930年代から中国の古代建築を系統的に調査研究し、それに関する多くの著書や論文は学術的に高い価値を持っている。

 北京の都市計画や建築設計についても多くの重要な提案をした。北京の都市計画づくりのほか、中国の国章のデザイン、人民英雄記念碑や揚州の鑑真和尚紀念堂などの建物の設計に参加し、"民族形式"の建築設計を模索した。

 梁思成は古代建築の調査研究と建築文献の整理を科学的な手段で実施した中国最初の学者の1人である。その学術著書は国内外の学者に重要視されており、中国の建築界の貴重な遺産でもある。

 呉良鏞

 1922年生まれ。国際建築家連合(UIA)副会長、世界エキスティクス学会(WSE)会長を歴任。新中国の建築と都市計画の先駆者の1人。中国の建築と都市計画の教育について提案し、この分野に関する中国の特色ある体系構築のために重要な貢献をした。

 設計の代表作である北京菊児胡同の新四合院住宅プロジェクトは1992年の国連ハビタット賞やアジア建築家評議会のゴールドメダル、中国建築学会の優秀建築賞を受賞。呉良鏞は1993年に人間居住環境科学という理論のもと研究を続けた。1996年3月、国際建築家連合(UIA)から建築評論と教育に関する賞を授与される。また彼が主導する国家自然科学基金の重点プロジェクト「経済が進む地域の都市化における建築環境の保護と発展に関する研究」は国際水準を持つ重要な科学研究成果とされている。

 楊廷宝

 楊廷宝(1901~1982年)。1921年に清華学校を卒業後、米国に留学しペンシルベニア大学建築学科で学ぶ。

 全米の建築学科の学生を対象にした設計コンテストで、1924年のエマーソン建築賞(Emerson Prize Competition)の1等賞と都市芸術協会建築賞 (MuniCipal Art Society Prize Competition) の1等賞を受賞。

 1920年代後期からの主な設計作品は京奉鉄道奉天駅、北京交通銀行、南京中央病院、清華大学図書館拡張プロジェクト、南京中山陵音楽台、瀋陽東北大学、北京和平賓館など。また北京の人民大会堂や北京駅、北京図書館(新館)、毛主席紀念堂などの設計にも参加した。主導や指導または参加した建築設計は100件以上に上る。設計スタイルは国情と環境を重要視し、中国と西洋の建築の伝統的な手法を活かす上に、現代の中国建築スタイルを絶えず模索するものである。また教育活動においては基礎と設計方法の訓練を重要視し、実践から学ぶことを提唱していた。

 張開済

 張開済は新中国の一代目の建築家である。1912年上海生まれ。1935年、南京中央大学建築学科を卒業。北京建築設計研究院の総建築士、北京市政府の建築顧問、中国建築学会の副理事長を歴任。1990年、当時の建設省によって「建築設計の師匠」という称号を授与される。2000年、中国の第1回「梁思成建築賞」を受賞。天安門の観閲台、革命博物館、歴史博物館、釣魚台国賓館、北京天文館などを設計した。

 王澍

 王澍、1963年に新疆のウルムチに生まれる。南京工学院(現在は東南大学)建築学科の修士課程を終了後、同済大学建築学科の博士号を取得。現在は中国美術学院建築芸術学院の院長であり、米・ハーバード大学やペンシルベニア大学などで教鞭を執っている。

 2012年には建築界のノーベル賞とも称されるプリツカー賞を中国人として初受賞。

 山水画や書道に深く興味を持つ彼は、創作の中で中国の伝統建築の特色を余すところなく活かしている。その作品は、古代に人気があった「建築と環境を補い合う」という理念を反映し、高層ビルが立ち並ぶ今、独特な魅力を見せている。

 代表作に寧波博物館、寧波美術館、上海万博寧波滕頭館、蘇州大学文正学院図書館、中国美術学院象山校園などがある。

 参考文献

 1.梁思成 『中国建築史』

 2.『梁思成、林徽因が語る建築』 湖南大学出版社

 3.鄧慶坦 『図解中国近代建築史』 華中科技大学出版社

 4.鄒徳儂、戴路、張向煒 『中国現代建築史』 中国建築工業出版社

 5.『中国古典建築思想四論』 復旦大学出版社

 6.張馭寰、陶世安 『中国古建築に入る』 機械工業出版社

 7.Edward Denison、Guang Yu Ren 『中国現代主義建築の視点と変革』 電子工業出版社

 8.ジョン・ストンス 『世界で最も影響力のある建築家50人』 浙江撮影出版社

 9.党傑、尹尼 『超高層ビルの設計―上海環球金融センター』 『建築学報』2009年7月版

 10.ポール・アンドリュー 『国家大劇院』 大連理工大学出版社