第四章:外交

1.外交の概況

 1949年に中華人民共和国が成立し、中国の外交関係は新しい1ページを開いた。

 1950年代末までに、中国は旧ソビエトなど社会主義諸国と外交関係を結び、友好な協力関係を発展させた。1955年インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催された後、中国はアジア、アフリカの一部国家と国交関係を樹立した。1956年までに中国と国交を樹立した国は25カ国となった。

 1950年代後半から60年代末までに、中国はギニア、ガーナ、マリ、コンゴ、タンザニアなどの国と友好条約や経済技術協力協定を結び、アンゴラ、ギニアビサウ、モザンビーク、ジンバブエ、ナミビアなどの国の独立闘争と南アフリカの反アパルトヘイト闘争を支持したほか、ミャンマー、ネパール、モンゴル、アフガニスタンと国境画定協定を締結した。更に「中国新疆ウイグル自治区とパキスタン軍実効支配区域との国境確定協定」に調印し、インドネシアと華僑の二重国籍問題を解決した。1969年までに中国と国交を樹立した国は50カ国に達した。

 1971年10月、新中国は外交において画期的な転換期を迎えた。第26回国連総会では数多くの発展途上国の支持を得て、圧倒的賛成多数で2758号決議が採択された。それによって、国連における中華人民共和国の全ての合法的権利が回復されたと同時に、台湾当局の代表が国連及び全ての国連機関から即時に追放された。その後、大多数の西側諸国が中国と外交関係を結び、新中国成立後3回目の国交樹立のピークを迎えた。

 1970年代末からの10年間、鄧小平外交思想の指導に基づき、中国はアメリカ、日本、西欧諸国と正常な関係を発展させ、旧ソビエトとの関係を改善し、第3世界諸国との関係を全面的に発展させると共に、周辺諸国及び広範な発展途上国との関係を改善、発展させた。

 香港、マカオ問題の解決で中国政府はイギリス、ポルトガル政府と外交交渉を行い、中英共同声明と中葡共同声明がそれぞれ1984年12月と1987年4月に発表された。それによって香港とマカオの主権がそれぞれ1997年7月1日と1999年12月20日に中国に返還されることが確認された。

 1990年代からは江沢民同志を核とする中国第3世代の指導グループが鄧小平外交思想と独立自主の平和的外交政策の継承と創造を徹底すると共に、平和共存五原則に基づいて世界各国との友好協力関係の発展を積極的に追求し、国際的な政治経済の新たな秩序の確立を共同で推進してきた。インドネシアと国交を回復し、シンガポール、ブルネイ、韓国の3ヵ国と国交を樹立したほかベトナム、モンゴルとの関係正常化を実現した。

 江沢民国家主席が1996年に南アジアのインド、パキスタン、ネパールの3ヵ国を歴訪し、インドとパキスタンとの間にそれぞれ21世紀に向けた建設的パートナーシップを、ネパールとの間には世代友好善隣パートナーシップを確立した。また中国はアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国、及び中東欧諸国との関係を積極的に発展させ、サハラ南部アフリカ諸国との関係を強固に増進させた。ラテンアメリカ諸国では19カ国が中国と国交を樹立した。国交のない一部の国は中国との関係発展を視野に入れつつある。

 21世紀に入っても、世界は依然として平和と発展をテーマとしている。中国は、世界各国と共に「調和の取れた世界」を建設していく願いを表し、2005年9月、胡錦涛国家主席が国連本部で演説し、「調和の取れた世界」の基本概念を全面的に紹介した。

 朝鮮核問題に積極的に対応するため、中国は朝鮮核問題をめぐる6カ国協議の開催を推進し、参加した。2003年4月、中国、朝鮮とアメリカによる北京での会談から2003年8月の中国、朝鮮、アメリカ、韓国、ロシアと日本による第1ラウンドの6カ国協議、そして2007年7月の第6ラウンドの6カ国協議まで、朝鮮半島の非核化の実現と情勢安定の維持のために、積極的で効果的な努力を払った。

 中国は引き続き「隣国と善をなしパートナーとする」という隣国との外交方針を堅持し、他国または二国などのルートを通じて、周辺諸国の善隣友好と互恵協力を強化した。上海協力機構の加盟国として、中国は積極的に機構のシステム建設を推進し、安全や経済貿易などの分野における各加盟国の協力の拡大と深化を絶えず促進している。また中国は中ロ関係の発展を重視している。2001年、中ロ両国の元首は「中ロ善隣友好協力条約」に調印し、両国関係において重要な進展を得た。そして中ロ両国は世界の多極化の推進や国際事務における国連の主導的役割の維持、新たな国際政治経済秩序の建設などの面において密に協調すると共に、一部の重大な国際と地域問題において協力し、世界と地域の平和と安定を維持した。

 中国は積極的にASEAN(東南アジア諸国連合)「10+1」、「10+3」や東アジアサミットなどの活動に積極的に参加している。中国とASEANの関係は全面的かつ深く発展していく良好な勢いを見せている。同時に、中国はアフリカを含む広範な発展途上国の友好協力を強化し、発展させている。中国は「中国・アフリカフォーラム」を主催し、中国とアフリカとの関係は新たな段階へと進んだ。

 中米関係はこの時期安定して発展しており、両国は新型大国関係の建設を模索している。両国間のハイレベル訪問が頻繁に行われ、反テロ分野における両国の交渉と協力は絶えず強化され、両国の経済貿易関係も急速に発展した。2013年6月7日と8日の2日間、習近平国家主席は米カリフォルニア州のアネンバーグ別荘でオバマ大統領と会談した。会談で、両国の首脳は中米新型大国関係の構築を検討し、今後の両国関係の発展方向を明確にした。また中米による「太平洋を跨ぐ協力」の新たな1ページを開いた。

 21世紀に入っても世界的問題は絶えず、地域的問題も世界に影響を与えている。中国は国連や、G20(主要20カ国)サミット、ダボス会議、アジア太平洋経済協力会議、ブリックス会議などの国際的舞台で活躍し、調和の取れた世界を構築するために絶えず努力している。

 

2.中国の外交政策

 中国は独立自主の平和的外交政策を揺ぎなく堅持する。中国外交政策の基本目標は国家の独立、主権と領土保全を守り、改革開放と現代化建設に良好な国際環境を作り上げ、世界の平和を維持し、共通の発展を促進することである。  

 中国外交政策の主要な内容は次の通りである。

 (1)独立自主の原則を終始履行し、如何なる大国或いは国家集団との同盟締結及び軍事集団の形成をせず、軍備競争に参加せず、軍事拡張を行わない。

 (2)覇権主義に反対し、世界の平和を擁護する。大小、強弱、貧富を問わず、全ての国家は国際社会における平等な一員である。国家間の紛争と衝突は交渉を通じて平和的に解決すべきであり、武力による威嚇と武力行使はあり得ず、如何なる口実をもってしても他国への内政干渉をしない。

 (3)公正かつ合理的な国際政治経済新秩序の確立を積極的に推進する。この確立は平和共存五原則とその他公認の国際関係の原則を基礎とすべきである。

 (4)主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存という五原則の下で全ての国と友好協力関係を確立し発展させる。

 (5)全方位の対外開放政策を実施し、平等互恵の原則に基づいて世界各国・地域と広範な貿易往来、経済技術協力、科学文化交流を展開し、共同繁栄を促進する。

 (6)多国間の外交活動に参与し、世界の平和と地域の安定を維持する確固とした力となる。

 新中国が成立して50余年来、中国の外交政策は充実、調整、発展の段階を経てより健全となり、中国の特色ある外交スタイルを形成した。未来を展望すれば、世界の多極化と経済のグローバル化は進展し続け、国際関係は重要な調整を経ており、平和、協力、発展への追求は各国人民に共通した願望となっている。

 21世紀に入って中国の外交はチャンスと試練の両方に直面し、我々は終始一貫して冷静を保ち、慎重、安全、緊急時の対処の意識を強め、世界情勢の全体的趨勢から周辺の国際環境を正確に認識・把握し、チャンスを逃さず、試練を受けて立ち、利点を生かし、弊害を避けるべきである。我々は鄧小平の外交思想を引き続き学び、中国共産党中央の指導の下で独立自主の平和的外交政策を真摯に貫き、外交活動の新しい局面を絶えず切り開き、社会主義現代化建設のためより良好な国際環境を構築し、世界の平和と発展に寄与する。

 中国は引き続き平和、発展、協力とウィンウィンの旗印を掲げ、断固として世界の平和維持と共同発展の促進に取り組んでいく。また平和発展の道を揺ぎなく歩み続け、独立自主の平和的外交政策を堅持すると共に、協力を深め、世界経済の協力、持続可能かつバランスの取れた成長を促進していく。

 中国は平和共存五原則を基に、各国との友好協力を全面的に発展させていく。先進諸国との関係を改善し、発展させ、長期的で、安定かつ健全な新型大国関係の発展を推進していく。「隣国を善となしパートナーとする」ことを堅持し、互恵協力を深めると共に、自らの発展成果によって周辺諸国に、より多くの利益をもたらすために努力していく。広範な発展途上国との団結・協力関係を強化し、共に発展途上国の正当な権益を守り、国際事務における発展途上国の代表性と発言権を支持し発展途上国の信頼できる真の友人となる。中国は多国間事務に積極的に参与し、国連やG20、上海協力機構、ブリックスなどの役割を支持し、国際秩序と体系が公正かつ合理的な方向へ発展していくことを推進していく。公共外交と人的交流を確実に推進すると同時に、海外の合法的権益を守る。また各国の政党や政治組織との友好的往来を行い、人民代表大会や政治協商会議、地方、民間団体の対外交流を強化し、対外関係発展の社会的基礎を固めていく。

 

 >>[中国とアメリカ、日本、ロシアの関係]

 中米関係

 1972年2月にニクソン米大統領が訪中し、両国政府は『中米共同コミュニケ』(『上海コミュニケ』)を発表し、二十数年にわたる中米間の隔絶に終わりを告げた。

 1978年12月16日に、中米両国は『外交関係樹立に関する中華人民共和国とアメリカ合衆国の共同コミュニケ』を発表した。翌79年1月1日に、双方は大使級外交関係を正式に樹立した。

 1982年8月17日に、両国は『八・一七コミュニケ』を発表し、台湾への米兵器売却問題の段階的手順を踏まえた最終解決を規定した。

 1984年1月に、中国の首相が訪米し、同年4月にレーガン大統領が訪中した。翌85年7月に李先念国家主席が訪米し、中国国家元首の初訪米となった。

 1998年1月に、コーエン国防長官が訪中し、中米両国は『海上軍事安全協議メカニズムの強化に関する中国国防省とアメリカ国防総省の協定』に調印した。同年5月25日に、江沢民国家主席は同月に開設された中米首脳間ホットラインを通じてクリントン大統領と会談し、南アジア情勢と中米関係について意見交換した。

 1998年6月25日から7月3日にかけて、江沢民国家主席の招きに応じ、クリントン大統領が中国を公式訪問した。訪問期間中、江沢民主席とクリントン大統領は会談を行い、双方は重要な国際問題における対話と協力を強化した。21世紀に向けた戦略的パートナー関係を確立し、戦略核兵器の相互照準を解除し、経済・金融分野における戦略的対話を強め、世界経済と金融の良好な発展に寄与することで合意した。

 1999年元日、江沢民主席とクリントン大統領は中米国交樹立20周年の祝電を交換した。同年4月6日から14日にかけて朱鎔基首相がアメリカを公式訪問し、15年来初の中国首相による訪米となった。

 北京時間の1999年5月8日午前5時45分、アメリカ主導のNATO軍はユーゴスラビア駐在中国大使館を標的にミサイル5発を発射し、中国人記者3人、館員20人以上が負傷したほか、大使館官舎も損壊した。中国人民はアメリカのこうした凶悪行為に憤りを示し、中米関係もかなりの影響を受けた。

 同年9月11日に、ニュージーランドのオークランドで開催されたAPEC・アジア太平洋経済協力会議非公式首脳会合で江沢民主席とクリントン大統領が会見し、前向きな成果を収めた。

 2000年に中米間各分野のハイレベル往来と協力が増大し、同年12月15日に米議会は駐ユーゴ中国大使館爆撃による財産損失の賠償で2800万ドルにのぼる拠出法案を採択した。

 2001年4月1日午前、中国を偵察していた米軍EP-3電子偵察機が海南島南東部104キロの南海上空で追跡飛行の中国軍機殲8型機に衝突し、中国軍機が墜落、パイロットの王偉氏が亡くなった。衝突後、EP-3機は中国側の許可を得ずに領空に進入し、海南島の陵水軍飛行場に着陸した。4月11日にブリアー中国駐在米大使は米政府の全権代表として中米軍機衝突事件に関する詫び状を唐家セン外相に渡した。

 同年9月11日に、ニューヨークとワシントンで同時テロが発生し、大量の死傷者と多大な財産損失を出した。

 10月19日に、江沢民主席は上海でブッシュ大統領と会談し、中米関係、テロ撲滅などの重大な問題について深く意見交換し、中米間の建設的協力パートナー関係の確立で合意した。

 2002年中米関係はいくつかの妨害はあったものの、全体的に見れば改善と発展の趨勢を維持した。同年2月21日と22日に、ブッシュ大統領は江沢民主席の招きで中国に対する活動訪問を行った。再度の会談で両首脳は両国関係と当面の国際情勢を検討し、中米間の対話協力強化、食違いの最善処置、建設的協力パートナー関係の発展促進で見解の一致を見た。同年10月に、江沢民主席はブッシュ大統領の招きでメキシコで開催されるAPEC・アジア太平洋経済協力会議首脳会合を前にアメリカを公式訪問した。訪問期間中、江沢民主席は中米関係発展における台湾問題への対応の重要性を強調した。ブッシュ大統領は、「1つの中国政策の堅持と中米間の3つの共同コミュニケの遵守は米政府の長期一貫した政策で、変わることはない」と強調した。

 2003年12月7日から10日にかけて、温家宝首相がアメリカを公式訪問し、中米経済貿易関係の持続的かつ健全な発展を確保する五原則を提出しブッシュ大統領の賛同を得た。双方は中米商業貿易連合委員会のグレードアップで合意した。

 2005年8月1日に戴秉国外務次官とゼーリック国務副長官が北京で初めての中米戦略対話に出席した。その後、定期的対話メカニズムとして、中米戦略対話が定期的に中米間で持ち回りで開催されるようになった。11月19日から21日にかけて、ブッシュ大統領が訪中した。胡錦涛国家主席とブッシュ大統領が会談し、両国関係と共に関心を寄せる国際と地域問題について突っ込んだ意見交換を行った。両国の元首は、理解の増進や、共通認識の拡大、相互信頼の増進、21世紀の中米の建設的協力関係の全面的な推進で合意した。

 2006年4月18日から21日にかけて、胡錦涛国家主席がアメリカを公式訪問した。中米双方は、両国は幅広く重要な共通戦略の利益を有しており、良好な中米関係がアジア太平洋地域及び世界の平和、安定、反映にも戦略的意義を備えていることで一致した。11月、APEC第14回首脳会合に出席した胡錦涛国家主席はベトナムのハノイでブッシュ大統領と会談した。

 2007年6月8日に、ドイツのハイリゲンダムで開催されたG8サミットに出席した胡錦涛国家主席はブッシュ大統領と会談し、中米関係発展に関する5つの意見を提出した。同年9月6日に、オーストラリアのシドニーで開催されたAPEC第15回首脳会合で胡錦涛国家主席はアメリカのブッシュ大統領と会談した。

 2008年7月9日に、G8洞爺湖サミットに出席した胡錦涛国家主席はブッシュ大統領と会談し、中米関係や共に関心を寄せている国際と地域問題について意見交換した。同年8月7日から11日にかけて、ブッシュ大統領は北京五輪の開幕式と関連活動に出席した。11月21日、APEC第16回首脳会合に出席した胡錦涛国家主席はリマでブッシュ大統領と会談し、金融危機の対応や、世界経済の発展、世界の平和など国際と地域問題について意見交換した。

 2009年4月1日に、胡錦涛国家主席とオバマ大統領はイギリスのロンドンで初会合をした。両国の元首は、21世紀に向けた積極的な協力で全面的な中米関係を共同建設することに合意したほか、中米戦略・経済対話メカニズムの構築で一致した。同年11月15日から18日にかけて、オバマ大統領が中国を公式訪問し、中米関係や共に関心を寄せている国際と地域問題について意見交換し、多くの共通認識に達した。

 2011年1月18日から21日にかけて、胡錦涛国家主席がアメリカを公式訪問し、ワシントンでオバマ大統領と会談した。双方は共同声明を発表し、「中米は相互尊重、互恵共栄の協力パートナーシップの共同建設に取り組んでいく」と表明した。

 2012年2月に習近平国家副主席がアメリカを公式訪問し、ホワイトハウスでオバマ大統領と会談した。また、バイデン副大統領と会談し、次の段階の中米関係について5つの提案を提出した。習近平副首席はアメリカ友好団体による歓迎レセプションで「中米協力パートナーシップの美しい未来を共に作ろう」と題する演説を行った。中米双方は、中米戦略・経済対話枠組み内で協議した「中米経済関係強化に関する共同状況説明」を発表した。同年5月、北京で開催された中米戦略・経済対話で双方は中米新型大国関係の構築をテーマとした。その後、中米間の第3ラウンド人的・文化交流のハイレベル交渉やG20メキシコサミット期間中の胡錦涛国家主席とオバマ大統領との会談、ASEAN関連会議の中米両国の外相会合などで、いずれも新型大国関係の構築を重要な内容に組み入れた。

 2013年6月7日から8日にかけて、オバマ大統領の招きに応じて、習近平国家主席はカリフォルニア州パームスプリングスでオバマ大統領と会談し、それぞれの内外政策や、中米新型大国関係の構築、及び共に関心を寄せる重大な国際と地域問題について突っ込んだ意見交換を行った。

 中日関係

 政治の面で、1971年10月2日に中国は、「中華人民共和国は中国を代表する唯一の合法政府である。台湾は中華人民共和国の分割できない神聖な一部分である。日本・中華民国平和条約は不法かつ、効力のないものであり、これを必ず廃棄しなければならない」とする中日国交回復三原則を提出した。1972年9月25日に田中角栄首相が中国を訪問し、29日に中日両国政府による共同声明が発表され中日国交正常化が実現された。

 現在、両国関係は発展の勢いを保ち、各分野における実務協力は前向きな成果を上げた。しかし、日本の小泉首相は靖国神社参拝を続け、これが当面の中日の政治関係に影響を与える主要な問題となっている。

 経済の面で、中日両国は主要な貿易パートナーである。日本はすでに10年連続で中国最大の貿易パートナーとなっており、中国は日本の第2の貿易国と輸出市場となっている。

 科学教育、文化、衛生の協力においては、中日国交正常化後、双方は政府間の科学技術協力関係を結び、1980年5月に、『中日科学技術協力協定』に調印した。それから、両国の科学技術の交流と協力はさまざまな様式とルートを通じて、急速な発展を遂げ、その規模は絶えず拡大してきた。

 1979年12月6日に、中日両国は『中日文化交流協定』に調印し、文化や教育、学術、スポーツなどの分野における両国の交流を確定した。2002年に、両国の政府は「中国文化年」と「日本文化年」の開催を決定した。このほか、双方は「中日韓青少年サマーキャンプ」、「中日韓テレビ知識コンクール」、「中日経済フォーラム」などを行った。

 現在、中日の間には真剣に処理しなければならない多くの敏感な問題が存在している。

 第一に歴史認識の問題である。これは中日関係における敏感な問題である。2001年以来、日本が歴史の事実を無視し、歴史の教科書を修正したり、中国を侵略した歴史を改纂したりする行為や小泉首相の靖国神社参拝が連続し、中日関係を厳しい状態にしている。

 第二に台湾問題である。日本と台湾の関係に対する中国の立場は明確である。日本と台湾との間の民間往来には、異義を持たないが、如何なる形による政府側の往来及び、「2つの中国」、「1つの中国、1つの台湾」というやり方には断固として反対し、台湾が日米安全協力の範囲内に含まれていないことを明確に確認するよう日本側に要求している。

 第三に釣魚島問題である。釣魚島は中国台湾省基隆市東北より92海里の東海海域に位置し、台湾群島に附属する島であり、主に釣魚島、黄尾屿、赤尾屿、南小島、北小島及び一部の暗礁から成っている。釣魚諸島は昔から中国の領土であり、台湾と同様に中国領土の分割できない一部分である。中国は釣魚群島及びその周辺海域に対する争う余地のない主権を擁する。

 中国のこうした立場には十分な歴史的、法律的な根拠がある。1943年12月に中国、アメリカ、イギリスが発表した「カイロ宣言」は日本が窃取した東北部、台湾、澎湖列島などを含む中国の土地を中国に返還するよう規定している。1945年に発された「ボツダム宣言」は「カイロ宣言の規定を必ず実施しなければならない」と明確にしている。同年8月に日本は「ボツダム宣言」を受け入れ、無条件降服を発表した。これは日本が台湾及びその附属する釣魚諸島を中国に返還したことを意味する。

 第四に日米安全協力問題である。1996年日米は「安全協力共同宣言」を発表し、これに基づいて1978年に制定した「防衛協力指針」の修正を始めた。1997年9月に、日米は防衛協力の新たな指針を正式に確定した。中国が注目する焦点の1つは台湾関連問題である。もう1つは日本の軍事動向である。中国はこれまで、様々なルートを通じてこの問題に重大な関心を持ち、それについての立場をたびたび表明している。

 第五に戦争賠償問題である。日本政府は1972年の中日の国交正常化の交渉で、「過去の戦争によって中国人民にもたらした重大な責任を痛感し、深く反省する」と明確に表明した。これを前提に中国政府は国家の根本的な利益から出発し、日本に対する戦争賠償の要求を放棄することを決定し、この決定を1972年に中日両国が調印した『中日共同声明』に記載している。1978年、中国第5期全国人民代表大会常務委員会第3回会議で採択された『中日平和友好条約』は再び、法律文書の形で日本に対する戦争賠償への要求を放棄することを確定した。

 第六に日本が化学兵器を中国に遺棄した問題である。日本は中国侵略戦争で、国際条約に公然と違反し、化学兵器を使用し、多くの中国人兵士と住民を死傷させた。日本軍は戦争に負けた時、大量の化学兵器をその場に埋めて遺棄した。現在まで、中国の十数の省、市、自治区の30ヶ所余りの場所で、日本軍が遺棄した化学兵器が発見されている。これらの兵器は50年余りの時間の経過とともに腐蝕し、化学物質が漏洩する事件が相次いで発生し、中国人民の生命と財産の安全及び生態環境にとって重大な脅威となっている。中国政府は1980年代の末、日本政府に交渉の申し入れを行い、この問題を解決するよう要求した。1999年7月30日に、両国政府は北京で『日本が中国国内に遺棄した化学兵器の処理に関する覚書』に調印した。日本政府は覚書で「『中日共同声明』と『中日平和友好条約』の精神に基づいて、問題解決の緊迫性を認識し、『化学兵器防止条約』に規定されている化学兵器を処理する義務を履行する」と確約した。現在、両国政府の関係部門は覚書の精神に基づいて、日本軍の遺棄した化学兵器をいかにできるだけ早く処理するかについて具体的な討議を行っている。

 2001年に日本の首相に就任した小泉純一郎氏は、かつて日本に侵略されたアジア諸国人民の感情を無視し、大多数の日本国民の反対を顧みず、毎年A級戦犯が祭られている靖国神社を参拝した。これを受けて東アジア諸国は憤りを示し、強く非難し、中日関係も1972年以来、最も厳しいものとなった。

 2006年10月8日から9日にかけて、就任して2週間足らずの安倍晋三首相が中国を訪問し「氷を砕く旅」と呼ばれた。この訪問で双方は中日戦略互恵関係の構築に合意した。中国は安倍首相が就任してから初めて訪問した国となり、そして日本の指導者による5年ぶりの訪中となった。

 2007年4月11日から13日にかけて、温家宝首相は「氷を融かす旅」と呼ばれた訪日を実現した。期間中、温首相は明仁天皇と安倍首相とそれぞれ会談したほか、「中日共同コミュニケ」を発表した。双方は中日戦略互恵関係の基本的内容や枠組み、重点的協力分野などを明確にし、各分野の協力を強化する一連の措置を制定した。同年12月27日から30日にかけて、福田康夫首相が中国を公式訪問し、「春を迎える旅」と呼ばれた。

 2008年5月6日から10日にかけて、胡錦涛国家主席が日本を公式訪問し、「暖春の旅」と呼ばれた。双方が発表した「戦略互恵関係の全面的推進に関する中日共同声明」は中日間の4つ目の政治文書となった。

 2010年9月7日、日本は釣魚島付近の海域で中国の漁民と漁船を不法に拘束した。24日に日本側は中国漁船の船長を釈放することを発表した。そして25日未明、拘束されていた詹其雄船長が福州に戻った。この事件に対して中国は「釣魚島とその付属島嶼は中国の固有領土である。日本による中国の漁民への拘束、調査及びいかなる司法措置は不法で無効なものだ」と指摘した。

 2012年9月11日、日本政府は釣魚島、北小島と南小島を購入し、3島の国有化を閣議で決定した。これを受けて中国政府は同日「中華人民共和国領海および接続水域法」に基づき、釣魚島とその付属島嶼の領海基点と基線を発表した。そして、中国外務省は声明を発表し、「日本政府の島購入は完全に不法で無効なものであり、日本が中国の領土を侵略した歴史的事実を少しも変えられない。また中国の釣魚島とその付属島嶼に対する主権もまったく変えられない」と強調した。

 中ロ関係

 1949年10月2日に、中国とソ連は国交を樹立した。1991年8月に旧ソ連は解体し、12月27日に、中ロ両国は議事録に署名し、中国と旧ソ連との外交関係を解決した。2001年、中ロ両国の戦略協力パートナー関係は新しいレベルに引き上げられた。政治的相互信頼が強化され、ハイレベルの接触が緊密になった。江沢民国家主席はプーチン大統領と1年の間に3回の会談し、6回の電話会談をした。両国の首脳は2001年に両国善隣友好協力条約に調印し、共同声明を発表し、両国と両国人民の代々の友好と「永遠に敵とならず」という平和思想を法的な形で確定した。

 2003年5月26日から28日まで、胡錦涛国家主席はロシアに対する公式訪問を行った。

 2004年10月14日から16日にかけてプーチン大統領が訪中した。両国の元首は「中ロ共同声明」に調印し、「中ロ善隣友好協力条約」実施綱要(2005年-2008年)を批准したほか、「中華人民共和国とロシア連邦の中ロ国境東段(東部区間)に関する補足協定」や「中ロによるロシアのWTO加盟に関する市場進出許可協議」などの文書に調印した。

 2005年5月8日から9日にかけて、胡錦涛国家主席がモスクワで行われたロシアの対独戦勝60周年記念式典に主席した。同年6月2日に、両国の外相は「中華人民共和国とロシア連邦による中ロ国境東段(東部区間)に関する補足協定」の批准書を交換し、両国の国境問題が徹底的に解決されたことを示した。7月1日に、ロシアを訪問中の胡錦涛国家主席とプーチン大統領は「21世紀国際秩序に関する中ロ共同声明」を発表し、21世紀の国際秩序を確立する21の主張を提出した。

 2006年3月21日から22日にかけて、プーチン大統領が訪中した。両国の元首は「中ロ共同声明」を発表したほか、政治や外交、エネルギー、金融などの分野に及ぶ29の協力文書に調印した。また、「ロシア年」の開幕式と中ロ経済商工サミットの開幕式に出席した。

 2007年3月26日から28日にかけて、胡錦涛国家主席がロシアを公式訪問し、「中国年」の開幕式などの活動に出席した。同年11月5日と6日の2日間、温家宝首相がロシアを公式訪問し、モスクワで行われた中ロ首相の第12次定期会合に出席した。

 2008年10月14日、両国は黒瞎子島で中国人民共和国とロシア連邦の国境東段の標識の除幕式を行った。同年5月23日から24日にかけて、ロシアのメドベージェフ大統領が就任後初めて中国を訪問した。両国の元首は「重大な国際問題に関する中ロ共同声明」を発表した。10月27日に、温首相がロシアを訪問し、中ロ首相の第13次定期会合に出席した。

 2009年6月、胡主席がロシアを訪問した。両国の元首は「中ロ元首モスクワ会合に関する共同声明」を発表し、「中ロの投資協力企画綱要」を批准した。

 2010年9月26日から28日にかけて、ロシアのメドベージェフ大統領が訪中した。両国の元首は「戦略協力パートナーシップの全面的深化に関する中ロ共同声明」に調印したほか、「中ロ両国の元首による第2次世界大戦終了65周年に関する共同声明」を発表した。

 2011年6月に、中ロ両国の元首がモスクワで会談したほか、「中ロ善隣友好協力条約」調印10周年記念音楽会に出席した。同年10月11日にロシアのプーチン首相が訪中し、中ロ首相の第16次定期会合に出席した。

 ここ数年来、両国の経済貿易関係と経済技術協力が日増しに緊密になっているほか、文化、科学技術、教育の分野における両国の交流と協力もますます頻繁になっている。中国歌舞団、新疆歌舞団、中国作家代表団、北京梅蘭芳京劇団がロシアを訪れ、ロシアのクレムリン宮バレエ団、モスクワ古典バレエ団、サンクトぺテルブルク管弦楽団、モスクワ国立交響楽団などの文化芸術団が中国を訪問した。

 中国とロシアは4370キロにわたる国境線でつながっている。両国間には歴史的な国境問題が残されている。現在、双方は両国国境条約を基盤にし、国際法の準則に基づいて平等に話し合い、互いに配慮し、譲り合いの精神に基づき長年にわたる交渉を通じて97%の国境線を確定した。

 現在、中ロ国境線の東区間にある黒瞎子島とアバガイト洲渚の地区の国境線は今も確定しておらず、双方は公平かつ平等、相互理解という原則に基づき残された国境問のできるだけ早い解決を望んでいる。

 

 >>[中国と国際機構]

 ASEANと中国

 ASEAN・東南アジア諸国連合の前身は、1961年7月31日に発足した東南アジア連合である。1967年8月、インドネシア、タイ、シンガポール、フィリピン、マレーシアの5ヶ国は、タイのバンコクで会議を開き、『バンコク宣言』を発表し、正式にASEANの成立を発表した。その後、マレーシア、タイ、フィリピンの3ヶ国は、マレーシアの首都・クアラルンプールで閣僚級会議を開き、ASEANが東南アジア連合に取って代わることを決定した。

 加盟国:

 ASEAN加盟国はブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナムの10カ国である。

 中国との関係:

 中国は、すでに、ASEANの全ての加盟国と外交関係を樹立し、1996年に全面的な対話を行うASEANのパートナー国となった。

 2000年11月25日に第4回中国・ASEAN「10+1」首脳会議がシンガポールで開催された。当時の朱鎔基首相が初めて中国・ASEAN自由貿易区の構想を提出した。

 2002年11月4日に第6回ASEAN、中日韓「10+3」会議と第6回中国・ASEAN「10+1」首脳会議がカンボジアのプノンペンで行われ、「中国・ASEAN全面的経済協力枠組み協定」に調印し、2010年に中国・ASEAN自由貿易区の建設を完成することを決定した。

 2003年10月、第7回中国・ASEAN「10+1」首脳会議がインドネシアのバリ島で行われた。中国は「東南アジア友好協力条約」への加盟を発表すると共に、ASEANと「平和と繁栄に向けた戦略パートナー関係」の構築に関する共同宣言に調印した。

 2009年8月、中国とASEANは「中国・ASEAN自由貿易区投資協定」に調印した。これは中国・ASEAN自由貿易区協定の主な交渉が完了したことを意味している。

 2010年1月1日、中国・ASEAN自由貿易区が正式に設立した。これは19億人をカバーし、GDP総額はおよそ6兆ドル、貿易総額は4.5兆ドルに達する発展途上国からなる最大の自由貿易区である。

 2011年7月、中国の楊潔チ外相がインドネシアのバリ島で行われた中国・ASEAN「10+1」外相会議に出席した。会議では、「南海各方面行動宣言」を確実に実施する指導的方針を採択し、南海地域の実務的協力を推進する基礎を固めた。

 上海協力機構と中国

 2001年6月、中国、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、ウズベキスタンの6ヶ国の元首が、上海で会談を行い、『上海協力機構成立宣言』に署名し、"上海5国"のメカニズムに基づいて新しい地域的多国間協力機構――上海協力機構の成立を発表した。同機構の目標は、各加盟国間の相互信頼と善隣友好を強化すること、各加盟国による政治、経済貿易、科学技術、文化、教育、エネルギー、交通、環境保護などの分野での効果的協力を奨励すること、世界と地域の平和、安全、安定を維持し保障することに共同で尽力すること、民主的かつ公正で合理的な世界の政治、経済の新しい秩序を確立することなどである。各国は北京に事務所を置くことを決定した。

 2002年10月、中国とキルギスタンは上海協力機構の枠組み内で反テロ合同軍事演習を行った。

 2003年8月、上海協力機構の加盟国は初めて多国間の反テロ合同軍事演習を行い、中国、カザフスタン、キルギスタン、ロシアとタジキスタンの5ヶ国から約1300人が演習に参加した。

 2004年1月に上海協力機構の常設行政機関として北京に事務所が正式に開設された。6月17日に、胡錦涛国家主席が上海協力機構タシケントサミットに出席し、重要な談話を発表した。同年9月23日に温家宝首相が、上海協力機構第3回首相会議に出席した。6カ国の首相はビシュケクで11分野127項目のプロジェクトに及ぶ多国間経済貿易協力綱要の実施措置を許可した。

 2007年8月16日に胡錦涛国家主席はビシュケクで、上海協力機構サミットに出席し、重要な談話を発表した。また、6カ国の元首は「上海協力機構加盟国の長期的善隣友好協力条約」に調印した。

 2009年6月15日から16日にかけて、胡錦涛国家主席はロシアのエカテリンブルクで上海協力機構サミットに出席し、重要な談話を発表した。6カ国の元首は「反テロリズム条約」などの文書に調印した。

 2012年6月7日に上海協力機構加盟国首脳理事会第12次会議(北京サミット)が北京で行われ、胡錦涛国家主席は議長国の元首として会議を主宰した。会議に出席した各国の首脳は加盟国の友好協力の深化や重大な国際と地域問題などについて意見交換すると共に、上海協力機関の今後の発展を計画し、新しい重要な共通認識に達した。

 上海協力機構の提唱国の一つであり、積極的な推進国として中国は、同機構の枠組み内の様々な活動に参加し、同機構の発展と強大化のために多くの建設的な主張と原則を提出し重要な貢献をした。

 国際連合と中国

 1945年4月25日に50カ国の代表は、アメリカのサンフランシスコで、国際機構に関する連合国全体会議を開いた。6月25日に『国連憲章』を可決した。6月26日に中国、フランス、旧ソ連、イギリス、アメリカ及びその他の大多数の署名国が批准した後、『国連憲章』は自動的に発効し国連が正式に成立した。1947年、国連総会は10月24日を国連デーにすることを決定した。

 国際連合の目的は、次のとおりである。

 国際の平和及び安全を維持すること、各国人民の平等権及び自決の原則の尊重に基礎をおいて諸国間の友好関係を発展させること、国際協力を行い、経済的、社会的、文化的または人道的性質を有する国際問題の解決をもって、全ての者のために人権及び基本的自由の尊重を促進することである。

 2002年9月時点で国連には合わせて191の加盟国があり、そのうち創設国は49ヶ国である。国連本部はアメリカのニューヨークに設けられ、スイスのジュネーブ、オーストリアのウィーン、ケニアのナイロビ、タイのバンコクに事務所を設けている。

 中国は発展途上国であり、安保理常任理事国でもある。国際的事務において一貫して原則を堅持し、正義を主張し、国連や国際の舞台で重要で独特な地位を占めている。当面、国連が公正で合理的な国際的政治、経済の新しい秩序を確立する中で、どのような役割を発揮するかが国際社会に注目される点となっている。中国が提出した国際的政治、経済の新しい秩序の確立、平和維持、発展促進、覇権への反対についての主張は、5つの常任理事国の協調と協力を強調しており、世界の平和と発展にプラスなるとしている。

 APECと中国

 1989年1月にオーストラリアのホーク首相が韓国を訪問した際、"ソウル提唱"を提出し、経済協力の問題を討議するために、アジア太平洋地域の閣僚級会議の開催を提言した。関係のある国と協議した上で、オーストラリア、アメリカ、日本、韓国、ニュージーランド、カナダ及び当時のASEAN・東南アジア諸国連合の6カ国は、オーストラリアの首都・キャンベラで、アジア太平洋経済協力会議第1回閣僚級会議を開き、APEC・アジア太平洋経済協力会議が正式に成立した。

 1991年11月にソウルで開かれたAPEC第3回閣僚級会議で可決された『ソウル宣言』は、正式にこの機構の目的と目標を確定した。本地域の人民の共通の利益のために経済の成長と発展を維持すること、加盟国間の経済の相互補完を促進すること、開放された多国間貿易体制を強化すること、地域貿易や投資の障害を減少することなどである。

 加盟国:21カ国

 中国との関係:

 中国は1991年にAPECに加入して以来、APECの各項目の活動に積極的に参加し、中国の改革開放に良好な外部環境を作り上げた。同時に中国とAPECの関連加盟国との二国間関係の発展を強力に推し進めた。1993年から、中国の国家主席は毎年のAPEC首脳非公式会議に出席し、焦点を定めて中国の主張や原則的立場を提出し、会議の成功に積極的で建設的な役割を発揮した。2001年中国は上海でAPEC首脳非公式会議を開催し成功させた。

 (1)中国が参加したAPEC首脳会議  

 1993年から2010年まで、中国の国家主席はAPEC首脳会議に参加し、世界と地域情勢、アジア太平洋地域の協力、APECの発展など重大な問題について立場と主張を述べ、積極的で建設的な役割を果たしている。

 2010年11月12日から13日にかけて、日本で行われた横浜APEC首脳会議で胡錦涛国家主席は重要な談話を発表し、アジア太平洋地域のバランス的、包括的、持続的、革新的かつ安全な経済成長の実現とAPECの発展、及びアジア太平洋地域の協力に関する中国の立場と主張を紹介した。また胡錦涛国家主席はAPEC工商業サミットなどの会議に出席し、「アジア太平洋新興市場国」をめぐり、「共に発展し、繁栄を共に享受する」と題する講演を行った。また期間中、日本の菅直人首相と会談するほか、アメリカをはじめ各国の指導者と会談し、両国関係や国際と地域の重大問題について意見交換した。

 (2) 中国主催によるAPEC関連会議

 2001年10月20日から21日にかけて、APEC第9回首脳会議が上海で開催された。江沢民国家主席が会議に出席し、「協力を強化し、共に21世紀の新たな挑戦を迎えよう」と題する講演行った。会議では「APEC協力経済指導者宣言」、「上海共通認識」、「デジタルAPEC戦略」などの重要文書が採択され、中国とAPECの各加盟国と関係発展を推進すると共に、中国の国際地位と影響力の向上を示した。

 2010年5月、APEC知的都市と知的産業ハイレベル会議が河北省の廊坊で行われ、アジア太平洋地域で持続可能な発展、エコ、低炭素、友好かつ調和の取れた企業と都市の建設について討議した。同年6月末から7月はじめまで、第6回APEC中小企業技術交流及び展覧会が福州で開催された。

 (3) 中国にあるAPEC関連機構

 ここ数年来、APECとの協力の強化と拡大に伴い、中国は国内の経済建設と対外貿易におけるAPECの役割を重視するようになった。したがって、中国ではAPEC環境保護センターやアジア太平洋経済発展センター、APEC電子工商連盟、APEC技術移転センター、APEC中小企業サービス連盟、APEC海洋センターなどの関連機構が設立され、中国の関連部門や地方によるAPECとの協力参与、APECの加盟国との交流・協力強化、APECの発展推進で積極的な役割を果たしている。

 WTOと中国

 1994年4月、モロッコのマラケシュで開かれたガット協定(関税及び貿易に関する一般協定)閣僚級会議で、正式にWTO・世界貿易機関の設立が決定され、1995年1月1日にWTOが発足した。同機関の趣旨は生活レベルの向上、十分な就業の確保、実質所得と有効需要の増加を保障するための経済と貿易の発展促進、持続可能な発展の目標に基づき合理的に世界資源を利用した商品とサービスの生産拡大、互恵利益を求める合意の実現、関税及びその他の貿易障害の大幅な削減と国際貿易における障壁の除去などである。加盟国は144カ国、本部はジュネーブにある。

 1986年からガット締結国の地位回復の申請をして以来中国は、ガット協定(WTO)の加入に向けひたすら努力をしてきた。2001年1月から9月までの間にWTO中国作業グループは4回の会議を開き、中国のWTO加入の多国間交渉を終え加入に関する法律文書を可決した。同年11月9日から14日までWTO第4回閣僚級会議がカタールの首都・ドーハで開かれ、中国の石広生対外経済貿易相が代表団を率いて会議に出席し、11日に中国はWTO加入の議定書に調印した。12月19日から20日まで、中国はWTOの正式な加盟国としてWTO理事会に出席した。

 2002年1月1日に国務院関税税則委員会が新たな関税税則(規則)の実施を発表した。同年1月22日、WTO繊維・繊維製品監視機関(TMB)第86回会議が行われ、中国が提出した紡績品・服装輸入の過度的保障措置に関する通達を審議し、採択した。2月1日に「中華人民共和国外資金融機構管理条例」と「中華人民共和国金融機構管理条例」が実施された。2月11日に国務院は「外商投資の方向指導に関する規定」を公表し、同年4月1日から正式に施行した。11月1日に「対外貿易障壁調査暫定規則」が実施された。12月10日にWTO理事会による中国に対する最終的審議が終了した。

 2004年6月1日に「外商投資商業分野管理方法」が正式に実施された。同年7月1日に「対外貿易法」修正案と「対外貿易経営者登記方法」が当初の予定より半年前倒しで正式に施行された。12月11日に外資の基礎的電信業務市場への進出を許可すると共に、外資に石油製品市場を開放した。

 2005年1月1日に中国農産品の関税をWTO加盟前の23.2%から15.35%というWTOと約束した最低ラインに下げた。それと同時に輸入車の配分許可制度を取り消し、輸入車の税率を30%に下げた。これで中国はWTOに加盟した際に非関税措置を取り消すという約束を全て果たした。

 2006年11月に改正された「中華人民共和国外資銀行管理条例」が発表された。同年12月11日より施行され、外資銀行は国民待遇を受けられるようになった。

 2007年11月29日に中国はWTOに「貿易に関わる知的財産権の協定を改正する議定書」の許可書を提出し、特許薬品を製造し輸出する権利を獲得した。12月28日に中国政府はWTO「政府調達協定」(GPA)申請書に調印した。

 2008年5月21日から23日にかけて、中国に対する2回目の貿易策審議がジュネーブのWTO本部で行われた。

 2009年9月14日にアメリカによる中国産タイヤの輸入を制限する特別保障措置に対して、中国政府はWTOの争議解決プロセスを実施した。

 2010年1月1日にイチゴなど6つの税目商品の輸入税を下げ、これにより中国はWTOと約束した関税減免の義務を全て履行した。

 

 >>[中国历任外交部长]

 周恩来

 1949年から1958年まで中国外相を務めた。

 偉大なプロレタリア階級の革命家、政治家、軍事家、外交家、中国共産党と中華人民共和国の中心的な指導者であり、中国人民解放軍の創設者の一人でもある。原籍は浙江省紹興、1898年3月5日に江蘇省淮安で生まれ、1976年1月に北京で亡くなった。多くの重要な外交政策の制定と実施に参与した。1954年にジュネーブ会議に出席した。この会議ではインドネシナ問題が解決され、ベトナム(南方を除く)、ラオス、カンボジアの3ヶ国の独立も国際社会に認められた。周恩来は中国を代表し、平和共存五原則を国家間の関係の原則とすることを提唱した。1955年にインドネシアで開かれ、アジア・アフリカの29ヶ国が参加したバンドン会議で「平和共存」を主張し、殖民地主義に反対し話し合いによる一致を訴えた。まヨーロッパ、アジア、アフリカなど数十ヶ国を訪問したほか、世界各国からの指導者や友人を迎え、中国人民と世界人民の友情を強化させた。

 陳毅

 1958年から1972年まで中国外相を務めた。

 中国人民解放軍の創設者・指導者の一人であり、軍事家で共和国の元帥でもあった。その後、国務院副首相、外相、中央軍事委員会副主席などに就任した。1958年から副首相兼外相として、毛沢東や周恩来の外交政策思想を積極的に実施したほか、新中国の長期的な外交戦略方針の制定に参与し、周恩来の重要な外交活動に協力した。1952年10月に中国の党と政府の代表団のメンバーとしてソ連共産党第19回代表大会に出席し、スターリンと会談した。1954年10月に中国共産党代表団メンバーを率いてソ連共産党第19回代表大会に出席し、ポーランドを訪問した。1955年4月に周恩来の主要なアシスタントや中国政府代表団のメンバーとしてバンドンでのアジア・アフリカ会議に出席した。1958年2月に副首相兼外相として周恩来に随行し朝鮮への友好訪問を行い、中国人民志願軍の帰国事務を適切に処理した。1960年に周恩来に随行、または単独でミャンマー、インド、ネパール、カンボジア、モンゴル、アフガニスタンといった国々を相次いで訪問し、中国・ネパール友好条約と経済協定に調印し、カンボジアと友好不可侵条約、モンゴルと友好互助条約、アフガニスタンと相互不可侵条約に調印した。

 姫鵬飛

 1972年から1974年まで中国外相を務めた。

 駐東ドイツ中国外交使節団大使兼団長に就任し、在ドイツ初代大使、外務次官、外相などを務めた。1979年に中国共産党中央対外連絡部部長、国務院副首相兼秘書長に就任。国務院香港マカオ弁公室主任や、中華人民共和国香港特別行政区基本法起草委員会主任委員、マカオ特別行政区基本法起草委員会委員を兼任し、一国二制度の構想を元に制定した香港とマカオの問題を平和的に解決するという中国政府の政策を積極的に実施した。また中国とイギリスの香港問題に関する共同声明の調印式に出席した。

 喬冠華

 1974年から1976年にかけて中国外務相を務めた。

 江蘇省塩城出身。青年時代にドイツに留学し哲学博士の学位を取得した。抗日戦争期間中は報道活動に従事し、国際論評を発表した。1942年の秋から抗日戦争勝利まで、重慶で「新華日報」の「国際コラム」を担当した。中華人民共和国が成立した後、外務省外交政策委員会の副主任、外相補佐官、外務次官などを務めた。外務省在任中に重要な外交文書の起草や作成業務を担当し、1976年以降、中国人民対外友好協会の顧問に就任。主な著作に『国際論評集』、『ミュンヘンからダンケルクへ』などがある。

 黄華

 1976年から1982年まで中国外相を務めた。

 1971年に中国の国連での合法的な地位が回復した後、中国の初代の国連常駐大使及び安全保障理事会の代表となり、1976年に外相に就任。中国代表団を率いて、29回、32回、33回、35回、37回の国連総会に出席した。1978年8月に日本の外相と北京で「中日平和友好条約」に調印した。1978年にアメリカ代表と国交樹立交渉に取り組み、1982年にアメリカのヘイグ国務長官とアメリカの台湾への武器輸出問題を解決するため「八・一七コミュニケ」に調印した。1985年から1995年にかけて、国際行動理事会総会に出席。中国国際友人研究会会長、中国国際友好連絡会会長、中国福祉会主席、宋慶齢基金会主席などを務めた。

 呉学謙

 1982年から1988年まで中国外相を務めた。

 中華人民共和国国務院の副首相、国務委員兼外相などを務め、就任期間中に朝鮮、マレーシア、日本、エジプト、ギニア、ザンビア、ルーマニア、フランス、ドイツ、アメリカ、カナダ、アルゼンチン、ブラジルなどアジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの50カ国を訪問した。

 銭其セン

 1988年から1998年まで中国外相を務めた。

 1928年1月生まれ。上海嘉定の出身。1942年10月に中国共産党に入党した。1942年から1945年までの上海大同大学付属高等学校就学中に中国共産党に入党し、党グループの責任者や党支部の書記などを務めた。1954年から1955年まで、旧ソ連共産主義青年団学校で就学。1955年から1963年まで、駐旧ソ連中国大使館の二等書記官、留学生課主任、研究室主任を務めた。1963年から1966年まで高等教育省留学生局部長、対外局副局長を務めた。1966年から1972年は文化大革命で、批判され、"五七"幹校学校で労働に従事。1972年から1982年まで駐ソ連大使館の参事官、駐ギニア大使、外務省情報局局長などを務めた。1988年から外相、外務省共産党委員会書記、国務委員に就任し、1993年からは中国共産党中央政治局委員、国務院副首相兼外相を務めた。

 唐家セン

 1998年から2003年まで中国外相を務めた。

 1938年1月に上海市で生まれた。江蘇省鎮江の出身で、1973年に中国共産党に入党した。高等学校を卒業した後、上海復旦大学で英語を専攻した。1970年から1978年まで中国人民対外友好協会、中日友好協会の理事、対外友好協会の副部長を務めた。1988年から1991年まで、駐日中国大使館の公使級参事官、公使を務めた。1991年から1993年まで外務省補佐官を務めた。1993年から1998年まで外務次官を務め、1998年3月に外務相、2003年3月に国務委員に就任した。

 李肇星

 2003年に中国外相に就任した。

 1940年10月生まれ、山東省の出身。1964年に北京大学を卒業。1970年から1977年まで駐ギニア中国大使館の職員、随員を務めた。1985年から1990年まで外務省情報局の副局長、局長、外務省報道官などの職についた。1993年から1995年まで中華人民共和国の国連駐在大使、特命全権大使を務めた。2001年から2003年3月まで外務次官を務め、2003年3月に外相に就任した。

 楊潔篪(チ)

 2007年から2013年まで中国外相を務めた。

 1950年5月生まれ、上海の出身。1971年12月に中国共産党に入党。南京大学歴史学部で世界史を専攻。学歴は院生課程修了。歴史学の博士号を取得。1968年から1972年まで上海浦江電気計器工場に勤務。1972年から1973年まで外務省海外学習養成クラスに参加した。1973年から1975年までイギリスのバース大学やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学ぶ。1975年から1983年まで外務省翻訳室に勤務。1983年から1987年までアメリカ駐在大使館の二等書記官、一等書記官、参事官を歴任。1987年から1990年まで外務省翻訳室参事官兼処長を務めた。1990年から1993年まで外務省北米・オセアニア局参事官兼処長、副局長(1990年8月)を歴任。1993年から1995年までアメリカ駐在大使館公使を務めた。1995年から1998年まで外務次官補と外務省中国共産党委員会委員(その間、1995年8月から1996年3月まで北米・オセアニア局局長を兼任。1996年9月から1996年11月まで中国共産党中央党校の省級幹部学習クラスに参加)を務めた。1998年から2000年まで外務次官と外務省中国共産党委員会委員を務めた。2000年から2004年までアメリカ駐在全権大使を務めた。2004年から2005年まで外務次官と外務相中国共産党委員会委員を務めた。2005年から2007年まで外務次官と外務省中国共産党委員会副書記を務めた。2007年から2013年まで外務相と外務省中国共産党中央委員会副書記を務めた。2013年に国務委員に就任した。                    

 王毅

 2013年に中国外相に就任した。

 1953年10月生まれ、北京市出身。経済学修士号取得。1982年から1989年まで外務省アジア局随員、副局長、局長を歴任。1989年から1994年まで日本駐在大使館参事官、公使級参事官を歴任。1994年から1995年まで外務省アジア局副局長を務めた。1995年から1998年まで外務省アジア局局長(そのうち1997年8月から1998年2月まで訪問学者としてアメリカのジョージタウン大学に留学)。1998年から2001年まで外務次官補兼政策研究室主任を務めた。2001年から2004年まで外務次官を務めた。2004年から2007年まで日本駐在大使館全権大使を務めた。2007年から2008年まで外務次官を務めた。2008年から2013年まで中国共産党中央台湾事務弁公室、国務院台湾事務弁公室主任を務め、2013年に外相に就任した。

 

 >>[中国重要外交文献]

 中米

  『中米共同コミュニケ(上海コミュニケ)』(1972年)

  『中アメリカ交樹立コミュニケ』(1978年)

  『八・一七コミュニケ』(1982年)

  『中華人民共和国とアメリカ合衆国共同声明』(2011年)

 中日

  『中日共同声明』(1972年)

  『中日平和友好条約』(1978年)

  『中日共同宣言』(1972年)

  『戦略的互恵関係の全面的推進に関する中日共同声明』(2008年)

 中ロ

  『中華人民共和国とロシア連邦善隣友好協力条約』(2001年)

  『中ロ共同コミュニケ』(2005年)

  『重大な国際問題に関する中ロ共同声明』(2008年)

 中英

  『中華人民共和国政府とグレートブリテン・北アイルランド連合王国政府の香港問題に関する共同声明』(1984年)

  『中英共同声明』(1998年)