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いき一郎さんの秋の古代史教室~2

2013-10-08 19:55:29     cri    


 半世紀あまりにわたって古代史を研究してきたジャーナリストのいき一郎さんに、日本列島と中国大陸、朝鮮半島との有機的なつながりについてお聞きする、講義の2回目です。

 古代日本列島の人口増には自然増のほか、社会的要素はなかったのか。

 中国と日本の古代交流史を語る上での象徴的な事象、「徐福東渡」。中国と日本の学者、着目点の違いは。

 そして、日本各地に散在する盛り土の巨大古墳はどのようにしてできたのか。

 さらに、日本各地から出土されている銅鐸。中には、意図的に砕かれて埋葬されたものもあります。それはどのような権力の移り変わりを反映するのか。

 かの有名な『魏志倭人伝』にも登場する卑弥呼の邪馬台国はどこにあったのか?

 今回の講義では、いき先生が散在する歴史の真珠を一つ一つつなげて、一本のネックレスにしていきます。

 ぜひお聞きください。

 壱岐一郎(いき・いちろう)さん

 1931年東京都生まれ。東北大学法学部卒業後、九州朝日放送で30年勤務。その後、北京放送勤務を経て東海大学、沖縄大学で教べんをとる。日本記者クラブ会員。

 主な著書

 『北京放送365日』河合出版(1991)

 『国が共犯!日中米4大事件+3・11』かもがわ出版

 『中国正史の古代日本記録』(葦書房)

 『新説 日中古代交流を探る』(葦書房)

 『扶桑国は関西にあった』(葦書房)(1995)

 『徐福集団渡来と古代日本』(三一書房)(1996)

 『藤原不比等』(三一書房)(1997)

 『継体天皇を疑う』かもがわ出版

 『映像文化論・沖縄発』(2000)

 『ゼロからの古代史事典』主編(ミネルヴァ書房)(2012)

 映像ードラマ3本、ドキュメンタリー5本、NHK・BSテレビ生紀行1本、ほか。

 いき一郎さんの

 【中国史料による意外・日本古代史】抜粋その②

 【倭国の五王・扶桑国時代】

 4世紀は中国から見た倭列島の記録ない時代でしたが、、晋が滅びて統一が崩れ、漢民族は未曽有の苦難の世紀にはいったことによるものと思われます。

 現代も中国人の「客家」ハッカ、日本語読みでは客の家、きゃっかですが、南の広東省などに逃れ、近世、東南アジアや台湾、ハワイなどに移住しています。客家の国際組織は国際徐福会とともに有名です。

 晋代の詩人では陶潜、陶淵明が日本でも好まれ、なかでも「帰去来辞」が千年以上にわたり、愛好されてきました。

 次の宋の時代、倭国王がひんぱんに南の建康、現南京に通った記録がよく知られています。いわゆる「倭の五王」ですが、私は「倭国の五王」と呼び、最後の武王時代には扶桑国王が『梁書』に記録されていることに注目しています。

 420年代には10年の間に3回も朝貢しています。まず421年にきており、劉宋初代の武帝は「倭の讃王は万里の彼方から朝貢してきたことを顕彰し、爵号を与えるすべきだ」と言います。4年後、讃王は司馬曹達を遣わして上表文を奉り、土産を献上しています。讃王の没後、弟の珍、珍しいと書きますが、珍王がたち、自分から「使持節・都督都督・倭百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍倭国王」と称していました。正式に認めてほしいというので大将軍のランクを落として「安東将軍倭国王」とし、使者倭隋ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔国」などの将軍号を認めました。

 このように420年から10年の間に3回も通ったことは当時の南朝の都が寺院2千、僧尼3万6千という仏教の都であることを見ると、倭国側も仏教に帰依する傾向があったと考えられるようです。田村円澄九州大学名誉教授は早くも1980年代にこのことを示唆しています。

 さて、この倭国の五王は関西ヤマトから中国へはるばる渡ったとするのが定説になっていました。少数説では江戸時代の鶴峰戊申(やすのぶ)が南九州の熊襲の首長としていました。そのほか、鶴嶺は元号では大化の前の多くの「九州年号」を見ていました。

 これに対し、古田武彦氏は1970年代後半に『失われた九州王朝』という著書のなかで倭は7世紀半ばまで北部九州に連綿と続いた「九州王朝」だと説きました。関西ヤマトは近畿天皇家だったというわけです。

 倭国王の5代目・武王は478年に上表文を寄せました。よく知られている文です。

 中国の冊封国である我が国は遠くしあり、外夷にたいする垣、壁になってきました…略しますが、昔からわが祖先は鎧兜をつけ、戦ってきました。

 東に毛人を打つことこと55国、西に衆夷を降伏させること66国、海を渡って北を平らげること95国です。
こうして、中国の天子の境界、支配される境ははるか遠くに至りました。 略しますが

 しかし、高句麗は無道にも百済を征服しようとし、略奪を繰り返し、私の朝貢を邪魔します。

 父は百万の兵をもって高句麗を打とうとしましたが、にわかに父も兄も急死しました。私は服喪のため、出陣できないでいます。 ( 略)

 いま、密かに「開府儀同三司」を仮に称し、忠節を励んでおります。

 武王は切々と訴えたので、宋の武帝は「大将軍」に格上げしています。開府ギドウ三司とは漢の時代から続く3つの大きな官職です。日本では古田氏が大宰府を指すとしています。

 韓国ではジャーナリスト出身の千寛宇氏が倭の五王・九州説を説いています。1973年1月号の雑誌『新東亜』です。

 この上表文では、「海北」があるので倭の五王がどこにいたか、で関西ではないという説が広がっています。

 さて、定説は五王のなかの二王の名が、この讃、珍、済、興、武の和風おくり名に似ているというものです。

 この王のなかで「武」は脚色しやすい名だということがいえます。古事記のヤマトタケルは東奔西走、奮闘しますし、日本書紀の日本武尊は九州から関東まで、1500キロも闘い抜きます。数少ない金石文である、埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘文、はるか西の熊本・江田船山古墳鉄刀銘文のワカタキロ、ワカタキルは宋書の上表文に符合します。

 同時に、古事記、日本書紀の脚色を歴史記録として考察していいか、王の名を天皇に当てはめていいか、熟考しべきところです。

 【巨大古墳の語るもの】

 中国の三国時代、日本列島により近い呉は北の魏と対決していました。有名な赤壁の戦いでは蜀の力を借りで勝っています。呉は兵力を増やすべく、東に徐福集団の子孫が繁栄しているというので、ふたりの将軍に万の兵をつけて船出させます。後漢書にも記述していますが、三国志は呉書。孫権伝に短く書いています。

 黄龍2年(230年)、孫権は衛温、諸葛直ら将兵万人を遣わし、海に出て夷洲および亶洲を求めさせた。長老は伝えて言う。

「秦始皇帝は神仙の術を持つ徐福に童男女数千人 を連れ、海に出て蓬莱の神山と仙薬を求めさせたが、その島にとどまって帰らなかった。そこの人民は時に会稽に来て取引きしている。(後略)」

 その住んでいるところは果てしなく遠く、将軍らは亶洲には行きつくことができなかったが、夷洲には行くことができ、数千人が帰ってきた。
 
 呉王孫権は翌年、二人の将軍はこの不成功のため、処刑しました。作家陳舜臣さんは、夷洲に半数の将兵が残ったとしていて、私も従っています。中国史上、呉の3代は圧政の王で、呉の地に「帰るも地獄、夷洲に残るも地獄」だったといえます。夷洲が南九州島ならば、専制君主はおらず、温暖の自由の地だったといえます。

 この南九州島は日本列島のなかでも年間降水量が最も多く、2200ミリ、つまり、北部九州、関西・大阪、東京など、およそ1600ミリとくらべてもおわかりでしよう。

 この数千の呉の人と自然条件は多くの仮説を展開させます。3世紀の南九州では墓のかたち遺跡や遺物が急変しているのです。1980年代に医師で刀剣研究家の竹田昌暉さんは『刀剣美術』(85年9月)に論文を発表しました。さらに、水軍の東征が「神武東征」説話を生んだとして注目されました。遺物には国宝の璧―大型ペンダントほか女性の物はなく、半地下式横穴墓が知られています。

 このほか、水軍の建国説を書いた人もいますし、私は呉の将兵が「前方後円墳」を誕生させたと考えています。

 その理由はこうです。

 1 自然条件 降水量―土壌に恵まれている

 2 対呉政権 大墳による自由メッセージ

 3 金属器など財に恵まれない工夫

 4 地域住民参加の方墳部+代表の円墳

 5 信仰思想として道教=自然崇拝ほか

 21世紀に入って、日本最古の「前方後円墳」型は南九州・西都原の81号墳とされ、ほぼ決定的になりました。この西都原地区は宮崎市の北方にあり、およそ300基の大小古墳があり、なかに九州島最大の古墳が2基もあります。日本列島では自然条件もあって、墓の盛り土が大きく、これまで考古学では、その盛り土のかたちが問題にされ、だれが、なぜ作り出したかが問われませんでした。ジャーナリストの私は、北京放送に赴任する前に、50代の総決算として『新説 日中古代交流を探る』で、呉の道教集団による築造を示唆しました。以来、関西で大阪府の堺市に住み、毎日、大山古墳ー通称・仁徳天皇陵を見て歩き、福岡では大宰府の西、日拝塚古墳を見る生活を送り、70代には再び大阪府に住み、墳丘長が200メートル以上の古墳をほとんど見たり、小さくても副葬品の豪華な藤ノ木古墳の展示品をみることができました。80代の今は東京で古い東京タワーの南にある、芝丸山古墳を週に3回みて通る生活です。昔なら海辺ですが、120メートル、高さ10メートルの大古墳です。2013年には、久しぶりに東京に定住したので、この大古墳と隣の増上寺に初詣でに行きました。

 これまで、いわゆる魏志倭人伝の解釈について述べてきましたが、同時に呉書の記録が面白いことがお分かり頂けたと思います。
日本の古代史学界では、岩波文庫を中心に、倭人伝の記述に誤りがある、10もあるようなことを定説として書いていますが、私は反対です。たとえば、一大国は一支国の誤りというのですが、これは定説がおかしいので、当初、壱岐島は「ひとつ離れた島」で大には大きいだけでなく、離れたの意味があります。諸橋大漢和は50近い解釈を書いていて、最後のほうに出ています。この例は大夏国、大秦国にも当てはまります。つまり遠夏国、遠秦国なのです。大はグレートでなく、ファーで、後に説明する「扶桑国」の大漢国が同じ用語です。

 このほか、中国の歴史担当官は優れた記録能力があるというのが、私が55年接触した感想です。

 日本の古事記、日本書紀の記述水準とはくらべものになりません。

 さて、三国時代の終りは、ほぼ3世紀の終りで、中国史は短い西晋時代、西の晋、から五胡十六国時代へと大変動の時期に移ります。この4世紀は中国史料で東の記録が少ない時期です。日本列島は巨大な、いわゆる前方後円墳時代に入ります。世界的に見て、盛り土だけが大きい、円墳+方墳スタイルの流行とほかの形の墳墓が共存するという、特異な300年です。その100年目くらいから、俗にいう倭の五王、倭国の五王の時代です。倭国の王が波荒い黄海、東中国海を渡り、中国・南朝にほぼ10回も朝貢する100年です。    

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