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ピンポン外交に始まった中日友好 バトンはタッチされている

2008-12-01 16:41:48     cri    

















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 イチョウの木が黄金色に染まった季節。中日平和友好条約締結30周年を記念した「ピンポン外交中日友好写真展」が11月14日、北京天安門付近にある中日対外人民友好協会で開かれました。併せて、「ピンポン外交」の功労者、後藤コウ[金甲]二氏(1906ー1972、元日本卓球連盟会長)のご子息で、愛知県日中友好協会会長の後藤淳氏に「中日友好使者」の名誉称号を授与する式典も行われました。

 会場には、後藤淳会長とそのご家族、村岡久平氏などピンポン外交の生き証人、中国人民対外友好協会の井頓泉副会長、中日友好協会の王効賢副会長、中国卓球協会の于斌副主任らが訪れました。

 中日国交正常化とその後の平和友好条約の締結に道筋をつけたピンポン外交。そのピンポン外交の様子が、50点ほどの写真やポスターで再現されていました。

■後藤コウ[金甲]二会長、ピンポン外交の舞台を整える

 1971年春、名古屋。第31回世界卓球選手権大会がここで開催されました。

 当時、文化大革命の影響で、第28回の世界卓球選手権大会で男女団体を含む5冠王を達成した中国チームは、それまですでに2回続けて、大会に参加するチャンスを逃していました。

 「卓球人なら世界一強い中国と戦いたいのは、だれもの願いだ」

 当時、日本卓球連盟会長だった後藤コウ[金甲]二氏には、地元開催の世界選手権を名実ともに「世界の大会」にしたいという強い願いがあったのです。

 しかし、1971年1月、世界卓球選手権大会の開催まで2ヶ月ほどとなった時点でも、中国は申し込みはしていませんでした。1月末、後藤会長は日本卓球協会理事の森武氏、日中文化交流協会事務局長の村岡久平氏、そして、秘書の小田悠祐氏と4人で、中国を説得するため、香港経由で北京に入りました。

   

 写真展の会場で、指差しながら、感無量に写真を眺めていた人たちがいました。会長に同行して訪中した村岡( 下の写真左)、森( 下の写真右)、と小田の3氏でした。写真には若き頃の姿が写っていました。

  

 当時の日本が、台湾と国交関係を結んでいたという複雑な政治的背景から、交渉はたいへん難航したようです。最終的に、卓球界及び日中友好を志す有志たちの努力が実り、中国は6年ぶりに、大会に代表団を送りました。

■小さなボールで地球を揺れ動かした

 中国訪問団の王暁雲副団長の通訳として訪日したのが、今の中日友好協会の王効賢副会長です。王氏は、訪日の本当の目的は試合の観戦ではなく、中日国交回復に向けた地ならしだったと振り返っています。

 この大会に出場した米中両国選手が接触し、翌年の中国とアメリカの関係正常化実現のきっかけとなり、その後、中日関係も正常化し、さらにその5年後の1978年、『中日平和友好条約』の批准書が東京で取り交わされました。

 「小さなピンポン玉をもって、大きな地球の情勢を動かした」。こう呼ばれているピンポン外交は、両国関係の歴史に忘れられない一ページを書き残しました。

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■後藤淳会長と中日交流

 「ピンポン外交」の舞台を整えた後藤コウ[金甲]二会長は、惜しくも翌年、病気で急逝しました。その後、ご子息の淳氏が父の遺志を受け継ぎ、中国との友好交流を続けてきました。そんな淳氏に今回、「中日友好使者」の名誉称号が贈られたことを、中国側の関係者は誰もが賞賛していました。

 中日友好協会の王効賢副会長は「舞台を作ってくれた人は後藤鞘w二先生だったことは決して忘れない。この日をずっと待っていた」としみじみ語っていました。

 中国卓球協会の于斌副主任は卓球を通して結ばれた中日の絆をこう振り返ります。

 「卓球の交流は世界史の発展において、大きな役割を果たしました。この流れの発起人が後藤コウ[金甲]二氏です。

 中日の関係は卓球交流によって大きく促され、中日の協力はアジア及び世界卓球の発展にも貢献しました。

 特に、コウ[金甲]二氏の遺志を受け継いだ後、淳氏は数多くの仕事をやって来られました。アジア卓球連盟や、世界卓球連盟などの場でも共通の目標に向けて理解し合い、支持し合ってきました。淳氏は数多くの功績を残し、中日友好にも力を捧げてきました。

 中でも、中国卓球代表団が訪日する際はいつも暖かくもてなしてくださり、ご自宅に招かれたりすることもあります。たいへん素晴らしい方で、この称号にぴったりだと思います。」

 「中日友好使者」の授与式に、王効賢副会長は赤いたすきを後藤淳氏の肩にかけました。名誉称号をもらった後藤氏は、「一人でできることではない」と話し、引退した今も卓球に対する情熱だけは失せていないと語りました。

■トウ小平氏の訪日

 ピンポン外交の翌年の1972年、中日両国は国交正常化を実現し、1978年10月22日、トウ小平氏が『中日平和友好条約』批准書の交換のため、自ら代表団を率いて日本を訪問しました。1978年の12月18日、改革開放路線を発表する「三中全会」が開かれました。王効賢氏は「トウ小平氏の頭の中にはすでに改革開放のイメージがあり、それをどう実現するか、日本を参考にするという気持ちで訪日した」と話しています。

 改革開放で経済力をつけ、人々の考え方もオープンになった中国。現在、卓球の交流に限らず、様々な分野で日本と深い絆が結ばれています。ピンポン外交の立役者の一人である森武氏は、両国関係の現状にホットした表情を見せていました。

■バトンはタッチされている

 セレモニーの会場で若い顔もたくさん見られました。「中日友好使者」の称号が贈られた後藤淳氏は、今回、お一人ではなく、ご子息夫婦とお孫さんを伴われ中国を訪問しました。

 中国の大学生とメールアドレスの交換をしているという孫の娘さんがいました。二人とも、おじいさんが「中日友好使者」の名誉称号を授与されたことをたいへん喜び、初めて訪れた中国で、同年代の中国人大学生と交流できたことを嬉しく感じた様子でした。

 

 会場で、親指をしゃぶりながら、2歳になる男のお孫さんは、母親の胸の前で気持ち良さそうに寝ていました。「後藤家の伝統を守り、伝えさせていきたい」と母親の恵美子さんが言います。

 ピンポン外交から37年が過ぎました。今、両国のアイドルやスポーツ選手が相手の国でも数多くのファンを有する時代となり、北京五輪の際にも、日本の福原愛選手にも数多くの中国人サポーターが声援が送りました。

 熟睡する2歳のご子息を胸に抱えながら、孝之さんは未来を明るい気持ちで展望していました。

 「たぶん30年前には、間違いなく考えられなかったことだと思いますが、今は現実的に、こういう流れとなって、今日のような日を迎えたのだと思います。

 まさに歴史は続いており、遺志を引き継いだ人たちが次の世代に受け継いで来たからだと思います。

 福原愛ちゃんについても、間に色んな方の努力があったなと感じますので、これからも、うちの子が大きくなった時にも、その遺志を皆で受け継いで、もっと良い日中関係が構築できればと思っています。」

 両国の平和と友好が、代々、脈々と受け継がれているのだなと実感した瞬間でした。

(王小燕、黄恂恂)

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