jpjingji20131210-2a第二时段
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今週はいまから半世紀前に、中国と日本の間で起きた画期的な貿易案件にスポットを当てます。日本の繊維会社・倉敷レーヨン(現・株式会社クラレ)による中国へのポバール・ビニロンプラントの輸出です。先日、北京で行われた記念式典での取材を中心にお送りいたします。
事の始まりは1958年、中国の化学工業考察団の日本視察まで遡ります。
長い戦乱を経て成立した新中国では、物資不足の状況が長く続いていました。外貨を取得するため、国内でとれる石炭や綿花の多くは海外に輸出されており、深刻な繊維不足に見舞われていました。衣服を作るための布は配給で1人当たり年間買える量が決められていました。
こんな中、1958年に日本を訪問した考察団団員の目に止まったのは、岡山県にある倉敷レーヨンのポバール・ビニロンプラントでした。
ビニロンは衣料などを作る合成繊維の一種で、ポバールはそのビニロンの原料です。
倉敷レーヨンは石灰石を原料にポバールを作り、そこからビニロンを生産する自前技術を握っていました。研究を始めたのは戦前ですが、戦争で一旦中断し、戦後、二代目社長の大原総一郎さんが社運をかけて開発し、1950年に世界で初めて工業化に成功しました。考察団はそのビニロンプラントを中国に導入し、自国で量産して人々の「衣服不足の問題」解決に役立ちたかったのです。
一方、倉敷レーヨンの大原総一郎社長は昔から「鑑真和上」を尊敬していました。「過去に日本人は戦争を通して中国に大きな被害をもたらした。そのことへのいくばくの償いになれば」との思いで、中国からの要請に応じました。しかし、日本と中国がまだ国交がなかった時代で、世界中が東西二陣営に分かれて激しく対立していた冷戦の真っただ中でした。
社長・大原総一郎を中心に、その周囲の中日友好を心から望む大勢の人々が時間をかけて努力した結果、1963年にようやくすべてのハードルが取り除かれ、中国技術貿易公司と西日本貿易株式会社、倉敷レーヨンの間で正式契約が結ばれました。
その1年前の1962年に、中国と日本との間で「長期総合貿易に関する覚書」(通称・LT貿易)が調印されました。中国へのビニロンプラント輸出は、LT貿易を具体的な形に実らせた初の案件となりました。
契約の成立を受け、中国は国家プロジェクトとしてのビニロン工場の建設にとりかかります。場所は北京郊外の朝陽区と順義県。原料であるポバールと、それを加工してビニロンを作る工場をそれぞれ創設することになりました。これに伴って、倉敷レーヨンを筆頭とする日本側サプライヤーの技術者たちが、国交のない中国北京に来て、中国の技術者たちと一緒に工場作りを始めました。日本からの駐在員の人数は多い時は100人以上に達したともいわれています。
両国の技術者が一心同体になって頑張り、目標より8カ月も繰り上げて工場を完成させました。中国政府が主催した祝賀パーティーには、当時の周恩来首相も出席しました。
記念式典で挨拶する大原総一郎さんの子息・謙一郎さん(大原美術館理事長)
50年ぶりの再会を喜ぶ中日双方の技術者たち
(左は西堂隆雄さん、右は北京有機化学初代工場長の侯さん)
先日、北京市内でこのビニロンプラントの中国への輸出50周年を記念する行事が行われ、当時のプラント建設に携わった両国の技術者の皆さんや、中日の友好事業に深くかかわった各界の代表300人ほどが集りました。
50年前、国交もなかった両国の人々が様々な障害を乗り越え、一緒になって頑張ったこのプロジェクトに、一体どのような人たちが、どのような思いで仕事に打ち込んでいたのでしょうか。当時の出来事を振り返ることの今日的な意義、そして、それが現在の中日関係を考える上にどのような示唆を与えてくれるのか、当時の出来事をこの身で体験した方々や、そのご家族や後輩の方たちにお話を伺ってきました。
詳しくは番組をお聞きください。
(王小燕)
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