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ピンポン外交に始まった中日友好 バトンはタッチされている

2008-11-26 11:29:14     cri    

















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 イチョウの木が黄金色に染まった季節。中日平和友好条約締結30周年を記念した「ピンポン外交中日友好写真展」が11月14日、北京天安門付近にある中日対外人民友好協会で開かれました。併せて、「ピンポン外交」の功労者、後藤コウ[金甲]二氏(1906ー1972、元日本卓球連盟会長)のご子息で、愛知県日中友好協会会長の後藤淳氏に「中日友好使者」の名誉称号を授与する式典も行われました。

 会場には、後藤淳会長とそのご家族、村岡久平氏などピンポン外交の生き証人、中国人民対外友好協会の井頓泉副会長、中日友好協会の王効賢副会長、中国卓球協会の于斌副主任らが訪れました。

 中日国交正常化とその後の平和友好条約の締結に道筋をつけたピンポン外交。そのピンポン外交の様子が、50点ほどの写真やポスターで再現されていました。

■後藤コウ[金甲]二会長、ピンポン外交の舞台を整える

 1971年春、名古屋。第31回世界卓球選手権大会がここで開催されました。

 当時、文化大革命の影響で、第28回の世界卓球選手権大会で男女団体を含む5冠王を達成した中国チームは、それまですでに2回続けて、大会に参加するチャンスを逃していました。

 「卓球人なら世界一強い中国と戦いたいのは、だれもの願いだ」

 当時、日本卓球連盟会長だった後藤コウ[金甲]二氏には、地元開催の世界選手権を名実ともに「世界の大会」にしたいという強い願いがあったのです。

 しかし、1971年1月、世界卓球選手権大会の開催まで2ヶ月ほどとなった時点でも、中国は申し込みはしていませんでした。1月末、後藤会長は日本卓球協会理事の森武氏、日中文化交流協会事務局長の村岡久平氏、そして、秘書の小田悠祐氏と4人で、中国を説得するため、香港経由で北京に入りました。

   

 写真展の会場で、指差しながら、感無量に写真を眺めていた人たちがいました。会長に同行して訪中した村岡( 下の写真左)、森( 下の写真右)、と小田の3氏でした。写真には若き頃の姿が写っていました。

  

 当時の日本が、台湾と国交関係を結んでいたという複雑な政治的背景から、交渉はたいへん難航したようです。最終的に、卓球界及び日中友好を志す有志たちの努力が実り、中国は6年ぶりに、大会に代表団を送りました。

■小さなボールで地球を揺れ動かした

 中国訪問団の王暁雲副団長の通訳として訪日したのが、今の中日友好協会の王効賢副会長です。王氏は、訪日の本当の目的は試合の観戦ではなく、中日国交回復に向けた地ならしだったと振り返っています。

 この大会に出場した米中両国選手が接触し、翌年の中国とアメリカの関係正常化実現のきっかけとなり、その後、中日関係も正常化し、さらにその5年後の1978年、『中日平和友好条約』の批准書が東京で取り交わされました。

 「小さなピンポン玉をもって、大きな地球の情勢を動かした」。こう呼ばれているピンポン外交は、両国関係の歴史に忘れられない一ページを書き残しました。

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