北京
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「七一勲章」の受勲者である医師の辛育齢さんは、戦時中に延安に渡ったカナダ人外科医のノーマン・ベチューン氏と共に医療救助活動を展開しました。50年間で1万5000人以上の胸部外科手術を行い、針麻酔のツボを見つけるために自らの体で麻酔実験を行ったこともあります。現在100歳の彼の人生は、様々なエピソードに満ちています。
辛育齢さんは、中国共産党の創設と同じ1921年に河北省高陽県に生まれました。抗日戦争の期間中、戦地の医者が足りないということで、10代の時に医学を勉強するため河北省中部軍区の医療衛生部へ派遣されました。そして1939年に彼はノーマン・ベチューン医師のいる医療チームで、医薬品関係の仕事を担当するようになりました。その影響を受けて、彼は医学によって国に奉仕しようと決心します。山へ薬草を採りに行き、下痢止めの薬を作ったり、疥癬(かいせん)という皮膚病を治療する軟膏を作ったりして、兵士たちの苦痛を解消しました。その後、辛育齢さんは中国医科大学に進学し、卒業後に外科医となりました。
当時の新中国では、医療衛生事業がスタートしたばかりの段階で、胸部外科に関してはほとんどまっさらの状態でした。そんな背景のもと、辛育齢さんは1956年に旧ソ連で医学副博士の学位を取得し、帰国後に北京通州の中央結核病研究所に就職しました。同時に、この病院の胸部外科の創設に携わりました。1958年から1980年までの約20年間、彼はリーダーとして胸部外科養成班を指導し、1000名以上の胸部外科医を育てました。また、1954年から2004年までの50年間で、彼は合わせて1万5000回の胸部外科手術を行いました。また、医学研究と医学教育を一体化させ、西洋医学と東洋医学を融合させた、日本とも縁の深い病院――中日友好病院の創設に力を尽くし、初代院長となりました。
1970年代、彼が初めて針麻酔による肺の切除手術をしたことは麻酔科学の世界を驚かせました。1972年には、中国を訪問した米国のニクソン元大統領が、彼の手術をわざわざ見学することもありました。辛育齢さんの針麻酔による肺の切除手術は1400回以上行われ、その成功率は98%に達しました。針麻酔手術の成功は中国の針による鎮痛原理に対する研究を推進するだけではなく、中国の針治療法の世界への進出にも大きく貢献しました。今、中日友好病院は世界8大肺移植センターの一つにまで発展し、毎年行われる肺の移植手術は100回を超えています。
辛育齢さんはまた、68歳の時にスウェーデンの科学者と共に電気化学による腫瘍(しゅよう)治療の新技術を作り出しました。これにより、手術をせずとも局部の腫瘍細胞を殺すことができるようになりました。現在、中国全土で1万人以上がこの治療を受けており、その有効率は85%に達しています。
辛育齢さんは1947年に中国医科大学を卒業して外科医になって以降、60年間にわたって執刀を続け、中国医療事業の発展に一生を捧げています。