北京
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中国共産党創立100周年を迎えるに当たり、中国共産党中央委員会は党内の最高栄誉である「七一勲章」の初めての授与式を6月29日、人民大会堂で行いました。式典では習近平中国共産党中央委員会総書記・国家主席・中央軍事委員会主席が「七一勲章」を自ら手渡し、重要演説を発表しました。
習総書記は演説の中で、「『七一勲章』が授与されたのはいずれも人民の一人で、人民に根を下ろし、本業に立脚し、地道に捧げてきた平凡な英雄だ」と述べました。
「七一勲章」は中国共産党内の最高栄誉で、合わせて29人が表彰されました。授与されたのは、元兵士や模範労働者、改革の先駆者、科学者、研究者、環境保護活動家、外交官など各分野・各業種の人々で、その年齢は、中国の革命、建設、改革開放の各時期に分布していますが、全員に共通するのは、中国共産党員の精神資質である信念の堅持、主旨の実践、献身的な努力、誠実な奉仕です。
「初心を保ち、使命を胸に刻む」―共産党創立100周年シリーズ番組、今月から「七一勲章」の受勲者についてお送りしています。
13回目の今日は朝鮮戦争の戦闘英雄―孫景坤について、お伝えします。担当は劉非です。
朝鮮戦争の戦闘英雄―孫景坤
孫景坤さんは革命伝統を受け継いだ戦闘英雄です。1924年に遼寧省丹東市に生まれた孫さんは、遼瀋戦役、平津戦役、そして湖南省の長沙や海南島を解放する戦闘に参加したほか、朝鮮戦争にも身を投じました。退役後孫さんはふるさとに戻り、地元の農家を率いて、故郷を大きく変貌させました。長年にわたって、孫さんは私利私欲を捨てて一心に社会に奉仕する崇高な品格を保っています。
1948年1月、地元農会の副会長を担当した24歳の孫さんは、結婚からわずか一週間で妻に別れを告げ、中国人民解放軍に参加しました。そして、遼瀋戦役、平津戦役で戦った後、そのまま南へと移動して、湖南の長沙や海南島を解放する戦争にも身を投じました。勇ましい戦いぶりで、1949年1月、孫さんは中国共産党に加入しました。翌1950年、朝鮮戦争が勃発し、孫さんは所属部隊とともに、海南から撤退し、遼寧省の丹東に集結して、いつでも国境を渡れるようにしていました。朝鮮戦争期間中、孫さんにとって、一番印象に残ったのは1952年の秋、上甘嶺(じょうかんれい)を守るための戦いでした。43日間も続いたこの戦役は、新中国の国威を確立させ、中国志願軍の死を恐れない勇敢さも十分に示すものでした。さらにこの戦役は朝鮮戦争に大きな影響を与え、孫さんはこの戦いで21人の敵を倒し、陣地を守り抜いてきたことによって、一等功労賞が授けられました。
解放戦争および朝鮮戦争で、孫さんは一等功労賞1回、二等功労賞2回、三等功労賞2回のほか、東北解放記念章、華中南解放記念章、海南島解放記念章、そして、「朝鮮戦争一級戦士栄誉勲章」といった栄誉を受けました。1953年7月、孫さんは中国人民志願軍帰国英雄報告団のメンバーとして、毛沢東主席ら党と国の指導者と会見しました。
1955年、退役した孫さんは都市で仕事する機会を捨て、ふるさとに戻って農業に努めることを決心しました。孫さんは地元の民政当局で退役手続きをした後、党員の証明書類を村の党支部に手渡しましたが、戦争での功績については一切口にしませんでした。そのため、村人やさらに彼の子供たちも、彼の輝く戦功について誰も知るものはいませんでした。ふるさとに戻ってから三日目、彼は農具をもって農作業を始めました。農家から兵士へ、そして、兵士から再び農家になった孫さんは、戦争の苦痛を肌で覚えているため、今の平和な生活を大切にしなければならないと痛感しています。長年にわたって、孫さんは村人を率いて、食糧生産や村づくりに力を入れると同時に、村人の経済収入を増やすために、13万本のカラマツと栗の木などを植えました。また、ダムの建造や、耕地の改善によって、村民たちは今、いくらかゆとりのある小康生活を送っています。
「初心を保ち、使命を胸に刻む」―中国共産党創立100周年シリーズ番組、13回目の今日は朝鮮戦争の戦闘英雄―孫景坤について、お伝えしました。今週のお相手は私、劉非でした。