北京
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1929年12月28日から29日まで福建省上杭県古田村で古田会議が開かれました。この会議はいかにして、農民を基幹とする軍隊を共産党が指導し、新しい人民軍隊へと整備するかについて話し合いました。この会議で確立された軍整備の原則は、その後の農村から都市を包囲し、武力で政権をとる思想の形成、発展と実践の礎となり、軍を整備する上での一里塚的な意義を持つ会議とされています。
会議の前年1928年4月、毛沢東率いる工農革命軍に朱徳と陳毅が率いる湘南蜂起部隊が井岡山で合流し、工農革命軍第四軍として編成されました。5月に中国工農紅軍第四軍に改編され、その略称は「紅四軍」と呼ばれました。軍長は朱徳、毛沢東は党代表、陳毅は政治部主任を務めました。その後、「紅四軍」は朱徳や毛沢東らの指揮の下で、何度も井岡山革命根拠地への討伐作戦を粉砕しました。そして、1929年1月から江西省南部、福建省西部へと進み、そこに革命根拠地を築き上げました。
革命部隊に加入する人数の増加に伴い、「紅四軍」や党の組織内部には農民やそのほかの小資産階級出身の人も増えてきました。軍隊の中には、極端な民主化や軍事重視政治の軽視、軍閥主義など、非プロレタリア階級思想が広がっていきました。
1929年12月に開かれた古田会議では、毛沢東が政治活動報告、朱徳は軍事活動報告を行いました。会議では熱烈な討論が展開され、毛沢東が起草した8つの決議案が採択されました。こうした決議の中で、最も核心的な内容は「党内の誤った思想を修正することについて」でした。この内容は後に「毛沢東選集」に収録されています。
古田会議は「紅四軍」が創設されてから軍整備面における経験と教訓をくみ取り、人民軍建設の基本原則が確立され、軍隊の性格や主旨、任務などを定め、改めて党が軍隊に対する絶対的指導権を持つとする原則を強調しました。
採択された「古田決議」のカギとなる内容は、軍隊の思想および政治建設を重視し、プロレタリア階級の思想で将兵たちを教育すべきだということを強調するものです。すなわち、経済や文化が遅れていた半植民地や半封建中国社会で、農村で革命闘争を行い、党や軍隊の主要メンバーが農民という状況下で、いかに党をプロレタリア階級の先鋒隊に、軍隊をプロレタリア階級の人民軍隊として整備するかが党の存続にかかわる根本的な問題となりました。古田会議で可決された決議は中国共産党、人民軍隊の整備に関する綱領的文献であり、その精神は今になっても現実的な意義があると考えられています。