9月10日 火曜日

2019-09-10 21:14  CRI

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1時間目 中国人の目に映った日本の地方の魅力~小豆島、直島の見聞など

担当:王小燕、斉鵬

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 9月10日は、中国では「教師の日」です。学校では、この日になると、授業が始まる前にクラス全員が起立し、「先生、『教師の日』おめでとうございます」とみんなで祝福の言葉を贈ったり、先生に花束を捧げてお礼を言ったりするのが一般的になっています。近年ではSNS上で「先生、ありがとう!」をテーマに、恩師の思い出や感謝を伝えるつぶやきやエッセーが発表されています。教師の仕事についた人にとっては、きっとこの日は一年の中でも、最も仕事のし甲斐を実感できる日ではないのでしょうか。写真は新華網からの転載。

 さて、今日の番組はまずは「CRI時事解説」です。「意思疎通を強化、開放を維持、中国ドイツ間の大きな協力の『パイ』を作る」と題したCRI論説員の文章を抜粋してご紹介します。

 続いて、リスナーさんから火曜ハイウェー宛てに送られてきたお便りをご紹介します。後半は中国人の目に映った日本の地方の魅力というアプローチから、引き続き、王小燕アナの香川県小豆島、直島での見聞です。

<王小燕アナの旅見聞~小豆島&直島で平和の大切さと「より良く生きる」ことに思いを馳せて>

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映画「二十四の瞳」のロケ地

 小豆島、直島の見学で一番心打たれた点は、平和の大切さ、そして、「より良く生きる」ために親から子へと営々と積み重ねられてきた奮闘物語です。

 これには小豆島にオリーブの木をもたらして、それを後に島の一大産業にまで仕上げた先人たちの努力もあれば、<あるものを活かして、ないものを創る>というコンセプトに基づいて、直島をはじめ、瀬戸内海に浮かぶ十あまりの島をアートの拠点にしていく実業家、建築家、地元行政と美術界の努力もあります。

 また、「二十四の瞳」の舞台であり、映画のロケ地でもある小豆島は、原作社の小説家壺井栄の故郷(坂手村)でもあります。「二十四の瞳」はフィクションだそうですが、壺井栄の生家からほど近いところに、岬の分教場を一望できる高台があります。現在は壺井栄の文学碑と向かい合う形で、坂手村出身の戦死者を祭る墓地があり、日露戦争からの戦没者が祭られています。中でも、第二次世界大戦中に戦死した若者だけでも70人以上に上るとも言われています。フィクションでありながら、真実以上のリアリティがあるからこそ、60年余りの月日にも耐えて、現代人をも泣かせる名作になっていると思いました。

 一方、直島では、地上にではなく、地中に建物を埋め込む形で空間を作るという安藤忠雄氏の発想には強いインパクトを受けました。直島にできた最初の美術館である「ベネッセハウスミュージアム」(ベネッセというラテン語の造語で、「よく生きる」という意味)では、意外にも現代中国とも強いかかわりのある作品を目にしました。

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ベネッセハウスミュージアムの屋上から眺める瀬戸内海

 ちなみに、直島で手に取った資料によりますと、「ベネッセアートサイト直島」を展開しているベネッセホールディングス名誉顧問である「福武総一郎氏」の名前は、同じく岡山出身の実業家で、倉敷絹織の社長であった大原総一郎(1909-1968)にちなんだものだそうです。

 大原氏は戦後の繊維不足の時代に、1949年にビニロンの工業化に成功。1963年に、国交のなかった時代に、同じく繊維不足で苦しんでいた中国政府の要請に応じ、自社開発のビニロンプラントの対中輸出を日本政府に許可してもらうよう尽力しました。無事北京にまで運ばれてきたビニロンプラントは、その後、中日両国の技術者が一緒になって、それを納入するための現代化工場を整備し、中国人の暮らしの改善に役立ってきました。平和と友好的な両国関係の構築に向け取り組んできた、大原氏のような方たちの流した汗水のお蔭で、中日国交正常化が1972年に実現しました。数年前にも北京で当時の関係者が集まって、その功績をたたえる記念行事が開かれました。

 思いがけないディテールから、中国と日本、中国と世界、そして過去と現在、ひいては未来は実は有機的につながっていることを知った今回の旅でもありました。

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直島宮之浦港を飾る草間彌生の赤いかぼちゃ

 ちなみに、今回の旅では、行った先々で中国語が聞こえ、中でも、小さなお子さんや、高齢の両親を連れての家族旅行姿の中国人観光客も多く見ました。彼らの中には、英語で道を聞く人もいれば、流暢な日本語で話す中国人もいました。このようにして、日本の地方都市とつなぐ直行便の開通が、中国人観光客のディープな日本体験を可能にしています。このような、日本観光の常連が増えつつあることが両国民の相互理解にもたらす変化も静かに見守りたいものです。

 そういえば、高松空港で飛行機に乗り、駅で買ってきたうどんをおいしく食べられた自分ですが、北京の自宅に戻ってから、ひどく悔しく思うことがありました。一体何が起きたのでしょうか。詳しくはどうぞ番組をお聞きください。

 2時間目 中国の証券会社と共に歩んで~徳地立人さんに聞く

  聞き手:王小燕

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 「新中国70周年を迎えて」のシリーズ・インタビュー、今週から2週にわたって経済と金融のプロ・徳地立人さんにお話を伺います。徳地さんは日本人でありながら中国の資本市場の成長を内側から見つめ続け、それだけでなく“担い手”としても大勢の中国人の同僚たち共にかかわってきたというユニークな経歴をお持ちです。

 父・末夫さんはかつてCRI(当時は「北京放送」として親しまれていた)に在籍する日本人専門家でした。父親の仕事の関係で、徳地さんは少年時代から青年期にかけて、1960年代から70年代までの13年間を家族と共に北京で過ごしました。末夫さんからやや遅れて、1963年末に子ども三人を連れて北京にやってきた母・香縷子さん(1924年山形生まれ、現在95歳)は、渡航後は日本語教育を始めたばかりだった北京外国語学校(小学から高校)の教師として15年間日本語教育の仕事に携わり、数百人の中国人学生を育てました。

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1964年、中国へ向かう玄界丸の中で兄、姉と記念写真(中央)(写真提供:徳地立人さん)

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1978年、北京放送の同僚が開いた徳地末夫さん、香縷子さんの送別会(二列目左から3人目が香縷子さん、4人目が末夫さん)

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北京の教え子らによる徳地香縷子先生への思い出が綴られた本の表紙

 1977年、25歳の誕生日の日に日本に本帰国した立人さんは、その後、日本の証券会社に入社。スタンフォード大学での留学やアメリカでの勤務を経て、世界を舞台に活躍してきました。

 一方、中国は1978年末から「改革開放」が始まり、1990年12月19日、上海証券取引所、1991年7月3日に、深セン証券取引所がそれぞれ正式に開業しました。

 こうした時代の変化を背景に、2002年に、徳地さんは仕事のパートナーでもあった中国の友人に誘われて、中国政府系大手コングロマリットである中国中信集団公司(CITIC Group)傘下の中信証券に副社長として転職。中国の証券会社における外国籍経営陣メンバーの第一号でした。その後、2015年の定年までに13年間の人生を中信証券と共に歩んできました。中信証券は現在では中国を代表し、世界に羽ばたく金融会社となっていますが、徳地さんが入社したばかりの頃は創業からまだ7年も経たない中堅企業でした。徳地さんの在職期間は、中国の証券業や金融開放に大きな変化が起きた時期でもあります。

 今回は徳地さんに「人間としての原点、中国への理解の原点」だった子ども時代の思い出から、中国の証券会社の経営陣として働いていた頃に実際に体験した中国のダイナミックな変化などをめぐってお話を伺います。

 「CRIインタビュー」でしか聞けないお話がたくさんありますので、ぜひお聴き逃しのないように。そしてお聞きになってご意見やご感想などをnihao2180@cri.com.cn宛てにお寄せください。お待ちしております。

【プロフィール】

 徳地 立人 (とくち たつひと)さん

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 清華大学公共管理学院産業発展と環境ガバナンスセンター(CIDEG)執行理事兼研究員(リサーチフェロー)
 中国石油天然气股份有限公司 社外取締役

 1952年東京生まれ。1964年から1977年、北京で仕事をしていた父親と共に、一家で北京で13年間を過ごす。北京大学中国文学学科卒業、スタンフォード大学東アジア研究センターにて修士号を取得(中国経済)。
 20数年日本の大和証券に勤務、主に米国、香港、北京、シンガポールなどで国際投資銀行業務に従事。2002年に、中国政府系大手コングロマリットである中国中信集団公司(CITIC Group)傘下の中信証券に副社長として入社。その後、マネージングディレクター兼投資銀行委員会主席、中信証券国際主席などを歴任し、2015年末、退任。
 2009年、中国金融業界での功労が認められ、中国政府より“友誼賞”を受賞。
 元国家外国専門家局諮問委員会外国専門家顧問委員。現在、トヨタ自動車、東京海上グループ、星野リゾートなど日本企業への中国関連のアドバイスも行っている。

主な著作:
『国有企業到境外上市公司』(主編)、『企業重組導論』(編集委員)など。

 この番組をお聞きになってのご意見やご感想をぜひお聞かせください。メールアドレスはnihao2180@cri.com.cn、お手紙は【郵便番号100040 中国北京市石景山路甲16号中国国際放送局日本語部】もしくは【〒152-8691 東京都目黒郵便局私書箱78号 中国国際放送局東京支局】までにお願いいたします。皆さんからのメールやお便りをお待ちしております。

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<お便りの抜粋>

★名古屋市・ゲンさん

 燕さんの香川の土産話はとても面白く、又燕さんの誠実なお人柄がよく表れたレポートでした。私も斉鵬さんと同じ感想で、中国と色々関わりがあるんだなぁと思いました。「中国人の目から見える香川」というテーマが大切なものを掘り起こしてくれましたね。松山空港にある、蛇口からうどんのつゆが出てくるサービスは1日の出る分量が決まっているそうなので、今度行ったら、到着したらすぐ飲んでくださいね。

「新中国70周年を迎えて」のシリーズ・インタビュー、経済と金融のプロってどんな人かしらと思って興味津々で徳地立人さんのお話を聞きました。英語も中国語も自由に使って、時代の先端を見越して仕事をされてきたのですね。冷静なお話しぶりは、そのまま信頼に繋がる魅力を感じますね。プロフィールを伺って、なぜか、ロシア語の通訳として活躍された米原万理さんと重なりました。生い立ちをまっすぐに受け止めて豊かな人生を創造していらした方なのでしょうか。様々なご苦労も乗り越えていらしたことと思います。来週の続編を楽しみにしています。 」

 

★岩倉市・愛知の直ちゃん

 昨日の放送聞きました。私のお便りを紹介して下さり、有難うございました。王小燕さんの「瀬戸の花嫁」良かったです。ちなみに、「瀬戸は日暮れて 夕焼け小焼け」と歌われましたが、夕波小波です!高校の時の修学旅行ですが、高2で行きました、17歳ですので41年前となります。もう随分変わっていると思います。コントですが、それでは、是非、李陽さんと張怡康さんのコンビでコントをお願いします!
 
 遼寧省磐錦市、紅海灘(レッドビーチ)」にマツナが生え、真っ赤に染まった風景は見事ですね。蟹も有名。随分前ですが、中国の旅、私の故郷が1番素敵で李陽さん 1986年生まれ朝の7時に生まれたとか------太陽の陽ですと言われたことを思い出しました。リーヤンさんです。もう遼寧省と聞くだけ、1993年7月から12月までの「遼寧省特別番組」、1994年7月から12月までの「遼寧省特別番組の続編」において、多くのリスナーの中から2年連続して遼寧省特別聴取者として10名の中に、選ばれたことは忘れられません。黙ってはいられませんでした?それではこの辺で!

★東京都大田区・三輪徳尋さん

 遼寧省盤錦市について、WEBを通して様々な写真や情報を見てみました。便利なもので、衛星からの航空写真で、街の概要を空から見ることができました。多くの集合住宅や高層マンションなどが立ち並び、運動公園やスタジアムなどもあり、街から少し出ると田園風景が広がり、特徴的な油田のポンプも見ることができ、観光スポットも散見されるとても規模の大きな街であることが理解できました。そもそも、日本の街と比べて考えたり、同じようなイメージの場所を聞こうとしたことが間違いでした。自分で調べて、その街の規模、街作りの計画も、歴史も、産業も全く異なる、そして、人々の暮らし方も文化も異なることを考えるならば、盤錦市は唯一無二であって、自分の小さな知識の中に当てはめて考えようとしたことが浅はかでした。不見識で、軽率な考えでつまらない質問をしたことを反省しています。でも、おかげさまで、不見識に気づき、遼寧省盤錦市を多く調べて、素敵な観光スポットの写真を多く見ることができました。

 セミの素揚げ、とても一般的な国民的食べ物でないとのこと、正直なところ、安心しました。このことも文化の違いを受け入れられない島国の民が思うことだと言われそうですが、衝撃的なビジュアルが今も脳裏を離れません。セミの素揚げですら受け入れられないような、こんな私は、文化の違う人たちとの交流に適さないのかもしれません。

 小豆島の旅、ご堪能されたようでなによりのことと思います。「二十四の瞳」のコメントもありがたく感じました。日本の侵略戦争を理解して、涙をしてくれることがありがたいことで、映画の舞台となった小豆島で、さまざま想ってくれたことは、なによりのお土産話と聞かせていただきました。「ありがとうございます。」

 「二十四の瞳」(反戦文学)

 戦争の悲惨さを伝えるこの物語が敗戦後七年目に発表され、確かに一般民間人が犠牲となった物語として、映画にもドラマにもアニメにもなっています。しかし、敗戦の7年目に悲惨な物語を読んで、共感し涙を流したのは、その戦争を引き起こした日本政府を何らかの形で肯定した、あるいは、投票権の買収に応じた人たち、あるいはその家族であろうと思います。軍部と官僚の共同は、一般市民が投票権の買収をきっかけに強まったことを考えれば、戦争に向かっていった大きな責任があるのは普通選挙の投票権を有していた人たちにあることは明らかであると思います。

 婦人には参政権が無いころでしたが、こうしたことをすべて歴史の流れの様に一般民間人が巻き込まれたと被害者(犠牲者)になりきることに抵抗があります。何かで書きましたが、戦争に向かわせ、侵略に向かわせたきっかけを作ったことに対する対価が悲惨で苦難であったということではないのでしょうか。

 「二十四の瞳」の物語としては、その当時の家長の愚かな行いを止めることができる立場ではない若い女性教師と子供たちの話ですので、それこそ、意味も解らずに代償を払わされた歴史の犠牲者を描いたものと思えます。私は、こうした反戦文学を今の時代に生きる若い人たちににも読んでほしいと思います。ただし、日本が大戦に至った経緯はどこかに忘れ、あくまでも歴史の流れに飲み込まれて参戦したようなあいまいな歴史の認識で読んでほしくありません。戦争その行為だけに目をむけるのではなく、一人一人が戦争に向かうまでの長い時間にあって、一つ一つの選択肢が与えられているときに、無責任な行為をとりつづけることでいづれ戦争を招く可能性もあり、結果として、大切な家族が悲惨な代償を払うこととなるのだということを理解して、この物語を初めとした戦争の悲惨さを訴えた反戦文学を読んでほしいと思います。

 ちなみに蛇口をひねるとみかんジュースというのもどっかにあったように思います。こちらもぜひお試しください。

<2時間目>

 中国での人民元建ての債券市場には、とても大きな関心をもっています。じつは、証券会社にほんの少しですが、ファンドを持っています。いまでに全容をつかむことができないほどに世界最大級の規模があるとても大きなその潜在性に期待をしています。また、「人民元決済銀行」が日本国内に指定されるところまで金融・証券の交流が進んだことは、こうした先人に飲水思源を思います。本当にご苦労も多かったことかと思います。すこしばかり、中国のファンドに有益なお話なども聞けるのかと期待したところですが、さすがに経済番組ではなかったようですね。先人のインタビュー楽しく聞かせていただきながら、日本からも多くの人たちが外へ出て行って、大きな成果を出している人がいることが解りました。来週のお話は、金融の側面からの中日関係とのこととても楽しみな内容だと思います。

ラジオ番組
10月29日放送分
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李阳