北京
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中国が生んだ世界的なピアニスト・ランラン。6月の初め、ツイッターで「ようやくアリスを見つけた。ジーナ・アリスだ」との言葉で結婚を発表しました。この閲覧数はその後たった2時間で延べ2億人となり、ランランの人気ぶりが伺えました。今回の中国メロディーは、そのピアニスト・ランランが歩んだ音楽の道のりをご紹介しましょう。
意外な出会いからゴールイン
6月2日、中国の国宝級のピアニストである36歳のランランは、ドイツと韓国のハーフである24歳のピアニスト・ジーナ・アリスさんと、フランスのヴェルサイユ宮殿で、結婚式とお披露目のパーティーをしました。会場では、二人が一台のピアノで演奏し、すばらしい「4手連弾」がハイライトになりました。
ランランは「恋愛面で、われわれは運が良かった。2人とてもお似合いで、生活面だけでなく音楽でも魂のパートナーだ。数年前にベルリンで出会って、彼女のすばらしい才能と眼差しに引かれ、美しい顔立ちや大きく清らかな瞳がとても印象的だった。まさに一目ぼれだった。たぶん、運命の出会いだったのだろう」と話しました。
ランランの結婚について、ネット上で「新郎は才能あふれ、新婦は美貌で、二人とも優れたピアニストで、将来、子供ができたら生まれながらのピアニストになるだろう」とのコメントが寄せられました。
「中国のモーツァルト」
1982年に遼寧省瀋陽に生まれたランランは、アメリカのメディアから「この時代の天才で、最も輝くアイドルスターでもある」とも呼ばれました。中国人ピアニストとして初めて、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やアメリカの五大オーケストラと契約を結びました。
祖父が音楽教師で、父も中国の伝統楽器・二胡の演奏者であるという音楽一家に生まれたランランは、幼いころから才覚を現します。2歳の時にアメリカのアニメ「トムとジェリー」を見て、トムが「ハンガリー狂詩曲第2番」を演奏したシーンに引き付けられて、ピアノに興味を持ち始めます。3歳のときに瀋陽音楽学院でピアノを学び始め、5歳で東北地方の少年児童ピアノコンクールで金賞を受賞、9歳のときに、3000人の受験生の中からトップの成績で中央音楽学院付属小学校ピアノ科に進学します。そして14歳でアメリカの名門校・カーティス音楽院に入学し、ゲイリー・グラフマン院長からじきじきに教わり、その推薦でプロのピアニストへの道を歩み始めました。
順調そうに見える音楽の道ですが、その裏には苦闘の涙が隠れています。ランランの父は、9歳の息子を北京に進学させるために、ふるさとを後にして一緒に引っ越してきました。残された母一人が一家の生計を立てるために働き、家族三人が10年にわたって離れ離れでした。幼いランランは母に会えないつらさに耐えて、ピアノに励みます。そして14歳のとき、中国交響楽団の誘いを受けて、当時の江沢民国家主席が出席した音楽会でピアノの独奏を披露しました。このとき、「中国のモーツァルト」といわれました。
心優しい芸術家に
ランランは現代を代表する天才ピアニストとして、世界各地で有名な指揮者やオーケストラと共演し、また多くの音楽祭や海外都市でリサイタルを開き、スター街道を突き進んでいます。そして忙しい中、年間25回ほどのチャリティー公演をし、ユネスコの親善大使を務めています。
世界各地で活躍するドイツの名指揮者・クリストフ・エッシェンバッハ氏は、そんなランランについて、「子供のときから知っていて、彼は今、立派な音楽家になった。ご存知のようにユネスコの親善大使として辺境地の子供たちを支援しており、心優しい芸術家になった。芸術家であっても世の中から離れてはならず、この点でランランはすばらしい」と話しました。
今は、花嫁であるアリスさんも、ランラン国際音楽基金会の一員として世界各地でチャリティー公演をしており、2500人の子供にピアノを教えています。ランランは「音楽は真の懸け橋であり、音楽には国境がない。音楽を足がかりに、世界各地の子供たちの夢を叶えるために支援していきたい」と話しました。
番組の中でお送りした曲
1曲目 黄河船夫曲(黄河の船頭)
この曲はランランのアルバム「黄河之子(黄河の子供)」の1曲目「黄河船夫曲(黄河の船頭)」です。この曲は、黄河を行く船の船頭が、黄河の様子を生き生きと表現したものです。
2曲目 彩雲追月(色づいた雲が、月を追う)
この曲は広東省に昔から伝わる曲の一つで、軽快なメロディーが、祝日の夜の一家団欒の喜びを生き生きと表現しています。
3曲目 牧童短笛(牛飼い少年とピッコロ)
この曲は1934年に作られた初めて西洋のクラシックと中国の伝統音楽をミックスさせた、いかにも中国らしいピアノ曲と言われています。少年が牛にまたがってのんびりと笛を吹いているのどかな田園風景を描いたものです。