北京
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第20回中国上海国際芸術祭がこのほど、開催されています。今回の芸術祭では、有名な指揮者・湯沐海が芸術祭駐在指揮者として招かれ、各界の注目を浴びています。今年69歳の湯沐海はクラシック界で最も有名な指揮者・カラヤンの弟子で、グラミー賞を受賞した唯一の中国人指揮者として、世界で最も影響力を持つ中国人指揮者と呼ばれています。今回と次回の中国メロディーは二回に分けて、そんな湯沐海の指揮と彼の音楽の世界をご紹介しましょう。
子供らしさを忘れぬ指揮者
背広を肩にかけて街角をのんびりと歩く湯沐海は、年齢が古希に近づいているにも関わらず、まるで少年のようにきょろきょろと周りを見渡し、すべてのものに好奇心を抱いています。いつも純真な子供らしさを持っていると言われる彼は、子供のような微笑をたたえている人物です。
湯沐海は「小さい頃、心を揺さぶる旋律を聞くと、思わず涙を流してしまう」と言いながら、子供時代に過ごした墨独特の心安らぐ香りが漂う家と上海の路地に息づく息吹を思い出していました。
作曲家から有名指揮者へ
湯沐海は上海の芸術一家に生まれました。父親の湯暁丹は中国でも有名な映画監督で、「渡江偵察記」、「南征北戦」、「紅日」など多くの名作の監督を勤めました。母親の藍為潔は上海映画製作所のエディターで、「中国で最も優秀なエディター」と呼ばれていました。こんな芸術一家に生まれ育った湯沐海は、幼いころから音楽だけではなく、スポーツや文学なども好きで、スポーツ選手や詩人になれたらいいなという思いをしばしば抱いていました。しかし、結局、これらの考えは音楽への憧れが全てを決めることになりました。彼は今でも、初めて父親と一緒に見に行った上海交響楽団の練習風景が心に深く刻まれています。その時の様子について「音楽がひとたび鳴ると、まるでこの世界のすべての物が生き生きとするようになっていた」と話しています。
1972年、23歳の湯沐海は上海音楽学院作曲学部に入学しました。しかし、運命とは不思議なもので、ずっと作曲家になりたくて入学した彼はここで指揮を学び始め、作曲家ではなく、世界でも著名な指揮者となりました。
人生で音楽だけは裏切らない
湯沐海は多くのインテリと同じように、文化大革命期の長くて辛い経験をしています。当時、優れた音楽の才能を持っている彼は工場に下放され、人生の中で一番つらく暗い時期を過ごしました。彼は「両親が政治的迫害に遭っていた日々の中で、音楽だけが僕の唯一の希望となった。誰もが裏切られる可能性があるが、音楽だけは裏切らない。音楽はいつもそこにいて、まるで一人ぼっちの長い長い旅へと私を抱きかかえ、伴ってくれる」と語っています。
世界の舞台に立った若き中国人指揮者
文化大革命が終わった後、1979年に湯沐海は優れた成績で改革開放以後に派遣された中国第一陣の芸術留学生になりました。当時、30歳だった彼はドイツ留学へと旅立ち、ヨーロッパの数百年にわたるクラシック音楽の世界に身を置くと、学ぶべきことが多すぎだと気づかされました。湯沐海は懸命に勉強し、ポケットの中にはいつもポケット版のオーケストラの楽譜を持っていて、時間があれば研究していました。
そして、1983年、湯沐海はついにクラシック界で最も有名な指揮者・カラヤンに認められ、2年連続して世界最高レベルの管弦楽団・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と指揮の契約を結びました。これはまだ若かった湯沐海にとっては、想像もできない光栄でした。この経験は湯沐海がその後、世界のクラシック音楽界で活躍するための強固な基盤を築きました。
番組の中でお送りした曲
1曲目 槐花幾時開(エンジュの花はいつ開く)
この曲は湯沐海が指揮し、中国国家交響楽団が演奏したものです。四川省の民謡を基にアレンジしたこの曲は、好きな人と早く会いたい女心を表しました。
2曲目 黄楊扁担(天秤棒)
この曲も湯沐海の指揮で、中国国家交響楽団が演奏したものです。四川省の民謡を基にしたこの曲は、ユーモラスな口調で地元の娘たちの可愛さを歌っています。
3曲目 節日序曲(祝日の序曲)
この曲は人々が喜んで祝日を祝う場面を描きました。