北京
PM2.577
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キーワード①
【网瘾】(wǎngyǐn)[名]ネット依存症
「瘾」は(タバコや酒などの)中毒、習慣性、悪癖を示す字です。中国語には、「上瘾」という言葉があり、これには「病みつきになる」、「癖になる」などの意味があります。また、「烟瘾(タバコ中毒・ニコチン中毒)」、「酒瘾(アルコール依存症)」、「毒瘾(麻薬中毒)」という言い方があります(酒瘾は日本語でも稀にですがかろうじて使われている言葉でもあります)。
「网」はここではインターネットの意味で使われており、「网瘾」はインターネット依存症ということになります。「インターネット依存症」という言葉は、1991年、アメリカの心理学者アイヴァン・ゴールドバーグが冗談で命名したもので、1997年には、精神医学界がそれを「病的なインターネット利用」などの言い方に改め、今日に至るようです。一方、中国語では、「网络成瘾症」という風に訳し、その省略形である「网瘾」という言い方で一般的に使用されています。
依存症というと、厳密にはあるもののせいで生活がおかしくなってしまう病的状態を指すものです。周りを見回すと、スマホでそれに近い感じの人はいますが、ネットではゲームプレイヤーを除くと、あまり見かけることがないようです。ここで思い出すのは、10年ほど前、ソーシャルサイト「开心网」の一部だった「野菜を盗むゲーム」です。このゲームは一定時間ごとにソーシャル仲間の畑へ出かけ、仲間の植えた野菜を盗んでくるというもので、これにはみなさん生活のリズムを崩しまくってハマっていたことを思い出します。あの状態こそは一種の依存症と呼べるんだろうなと思いますが、いつしかそのブームも過ぎ去り、今では話題に上ることもなくなりました。
この依存症については、中国では2009年からその判断基準の制定作業に取り組んでおり、現在では、諸外国の基準を踏襲した上で、中国国内の事情に合わせて修正を加える形をとっています。この基準にについて一時、週に40時間以上「上网」(インターネット接続)していることが「网瘾」かどうかの判断基準になる、という説も出ましたが、インターネットに接続しないと仕事できない人たちの反対を浴びたことから、最近では時間を根拠にすることはなくなっています。
現実の社会を見ると、この依存症、純粋にネットがどうとかではなく、その先にあるゲームやチャットへの依存の方が多いのではないのでしょうか。ネットゲームに熱中している人は常に一定数いますし、昔番組でも言及したように、スマホユーザーが1日にWeChatを開く回数は平均65回に上ると言われています。ここから推測するに、インターネットそのものというよりも、現実もしくは何らかのバーチャルなつながりから抜けられなくなる人が多いのではないかと思われます。
中国には、確かにネットゲームに夢中な中高生や大学生、大学院生がいます。もちろん大人にもこういう人はいますから、これは年齢によるものではないのかもしれませんが、中高生の場合、ネットゲームに夢中になり、学業を完全に放棄してしまうケースも沢山あります。更に悲劇的なケースでは、保護者にどう対応すべきかの知識が全く備わっておらず、徒に焦った結果、とんでもない治療を受けさせるケースも報道されています。
もちろん、本当に依存症状態にある人もいます。酷いケースでは、例えばスイッチを切ると体の調子が悪くなったり、そわそわしたり、イライラしたり等の症状がでることもあるようです。もし、こうして本当に「网瘾」と呼ばれるレベルの状況になった場合には、一刻も早く病院での治療を受けるのが正解です。もちろん、実際には非常に曖昧な部分もありますので、専門知識のない私たちは、基準と原因がはっきりしないうちには軽々に「网瘾」と判断せず、病院で検査を受けるのが一番良さそうです。
こうした状況とは少々違うかも知れませんが、日々常にスマホを手放さず、ベッドの中でも画面を見ている私たちは、依存症というよりも、何か別の病気のような気がしてなりません。
極端な例を見ながら反省すべきは、実は今日の我々の生活そのものなのかも知れません。
キーワード②
【性别平等教育】(xìngbié píngděng jiàoyù)[名]ジェンダーフリー教育.
「性别平等教育」は字面通り、性別の平等を目指す教育、性的差別を取り消す教育、いわゆる本来的な意味でのジェンダーフリー教育のことを指します。
日本ではなぜかこの概念自体が色々と問題になっているようですが、中国では、昔から「同工同酬(同じ職業につき、同じお給金をもらう)」という言い方があるように、日本人から見て、かなり男女平等の社会ではないか、いや、女性のほうがやや強いのではないと思われる社会が存在します。もちろん、観念的な影響を強く受けるものですので、実際には地方差や個人差があります。
現実を見ると、「同工同酬」が本当の男女平等の思想に基づくのかどうかは別として、東洋に昔から根強く残る男尊女卑的な意識を今でも持っている人は今も少なくありません。例えば、求人広告でも、日本よりはっきりと性別に対する要求を明記するところがかなりありますし(それも社会には許容されていますし)、農村の場合、ちょっと前までは、女の子を学校に行かせない家庭もありました。近年よく聞かれる、「家を持たない・買わない相手とは結婚しない」という考え方の深層には、こうした背景から来る結婚に対する女性の不安が秘められているのではないかとも思われます。一方、男性のほうにも、泣いてはいけない、よく働いて家族を養わなければならない、出世しなければならないなどの観念が事実かなり強く押し付けられていますが、これも不平等な考え方と考えることができるでしょう。
では、このようなフラットな教育は実際にはどのように展開されているのでしょうか。ニュースによれば、現在ちょうど広東省で試験的に導入されているとの事で、そこではまず、男女の生理的な違いをはっきり理解して、独立した人格や男女平等の意識を育み、性的侵害から自分を守る方法や、男女の付き合い方などを教えているといいます。例えば、ある小学校では、男女が同じように家事の勉強をしたり、面白いものでは「男の子も泣いていい」などの感情のコントロールを学んだりする授業があるそうです。
元を正せば、男性女性と分けてはいても、体格や生理現象の違いはあるにせよ、同じ人類なわけですから、まずは人類として生きる姿勢を学ばなければいけないのではないでしょうか。そして、もしこの教育が成功した暁には、セクハラやパワハラなどの問題も消えていくのではないかと思われます。性別による不公平のない社会とその為の教育、その実現は新しい社会の形を示すものになりそうです。