北京
PM2.577
23/19
小澤征爾さんほど、中国の民衆のあいだで好感度が高い外国人は少ない、なぜだろうか。小澤さんが中国東北地方の瀋陽で生まれ、北京で少年時代のひとときを過ごしたということもあるだろう。だが、決してそれだけではあるまい。
小澤征爾in北京
小澤征爾さんの1978年の北京訪問、クライマックスは6月12日の北京体育館での指揮小澤征爾・演奏北京中央楽団の音楽会、小澤さんのタクトが止まり、最後の曲が終わると、一瞬会場は水を打ったように静まり、一拍おいて一万八千人の観衆の文字通り嵐のような拍手が、一陣一陣と湧きあがった。一万八千人の人々のさまざまな思いが込められた拍手の交響楽、それは「小澤さん、ありがとう」という一つの流れとなって長く長く続いた。
1976年、「四人組」が倒れた。十年にわたる「文化大革命」が終わり、暗い日に終止符が打たれた。明るく、豊かな明日に向かって第一歩を踏みだした中国の民衆には、復活したばかりの未熟な北京中央楽団を前に全身全霊を傾けてタクトを振る世界の巨匠小澤征爾さんの姿が、自分たちを暖かく、力強く励ます良き仲間として映ったのだ。会場で取材していたわたしにはそう感じられた。
このクライマックスには、それなりの前奏曲があった。十年続いた「文化大革命」に終止符が打たれた次の月、つまり1976年の11月、小澤征爾さんはこの日を待っていたように母上の手を引いて少年時代のひとときを送った北京を訪れている。
この旅で小澤さんは、中国の音楽教育の最高学府である中央音楽学院をベースにして、中国の音楽仲間との交流の輪を広げた。北京の庶民の朝食であるお粥を啜り、油条(棒のように伸ばした小麦粉を油で揚げたもの、北京の庶民の朝食に欠かせない)を食べ、ここの教師や学生と運動場で遊んだり、一緒に餃子をつくり車座になって頬張りながら音楽を論じたり……、名のある指揮者やピアニストもこの輪に仲間入りして「餃子会」をたちあげ、いまも交流を続けていると聞く。
こうした交流のなかで、毎日小澤征爾さんを感動させるものがあった。オンボロの楽器にもへこたれず、目を輝かせて西洋音楽に挑戦する中国の青年の姿、胡弓、琵琶といった中国の楽器で誇らしげに胸を張って「二泉印月」(泉に映える月)など中国の民間音楽を演奏する中国の青年の姿……。
こうした中国の青年からもらった感動は小澤さんが描いている夢――「中国人や韓国人を含めてクラシック音楽の伝統のない東洋人が、それを逆手にとれば、いい伝統だけを受け取った新しいアプローチができる」という夢を大きく膨らませたようだ。そして、これが二年後の北京体育館のクライマックスに繋がっていたのではないだろうか。
小澤征爾in瀋陽
1994年5月のゴールデンウイークのときの話だ。小澤征爾さんが母上の手を引いて中国東北地方の瀋陽を訪れた。小澤さんは、1935年9月1日に瀋陽でうぶ声をあげている。あれから59年、小澤さんは母上と一緒に生まれ故郷に帰ってきたのだ。まったくプライベートな旅である。
小澤さんの瀋陽の旅が終わってから一、二ヶ月後、つまりその年の初夏のことだ。北京のFM放送から流れる『瀋陽の小澤征爾』という番組を耳にした。
ラジオから聞こえてくる小澤さんの声、「私は瀋陽で生まれ、北京で育ちました。人間だれでも生まれ故郷に帰ってみたいという夢があります。それがやっと実り、しかも親孝行までできて、とても嬉しいです」と語る小澤さん、「この年になって瀋陽まで来られるとは夢にも思っていませんでした」と語る母上。瀋陽では北京を訪れたときと同じように小澤さん母子は昔住んでいた家を訪れ、現在の家の主人に歓迎される。
世界の名指揮者の来訪、瀋陽の関係部門はあれやこれや小澤さん歓迎のスケジュールを組んだ。だが、小澤さんはこうしたスケジュールをやんわりと断って、到着の翌日から生まれ故郷の楽団である遼寧交響楽団のリハーサルに多くの時間をさいたと聞く。こうした様子もラジオから流れてきた。英語、日本語をまじえてリハーサルを指揮する小澤さん、それに答える楽団員たち、その熱気と息のあった空気が伝わってくる。ラジオなので見えないが、ラジオから流れる小澤さんの声には、ボストン響の、ウィン・フィルの棒を振るときと、同じような真剣さ、熱意があふれ、いささかの出し惜しみも感じられない。ちなみにリハーサルの写真からみると遼寧交響楽団は、「文化大革命」のあとに育った二十代、三十代とみられる若手が目立つローカルの年若い楽団のようだ。
リハーサルのあと小澤さんは「生まれ故郷で棒がふれて、とても幸せです。東洋人が西洋の文化・音楽を理解するには、たいへんな努力が必要です。国と国、民族と民族のあいだでもそうでしょう。遼寧交響楽団の人たちには、こうした努力に傾ける熱情が感じられて、とても嬉しかったです」と話していた。また、遼寧交響楽団のひとりは「タクトを振る小澤さんの流れる汗、感激しました。心と心の繋がりを感じました。小澤さんのタクトは魔法のタクトです。今までにない最高の音がだせました」と話していた。
ちなみに、小澤征爾さんの瀋陽の旅の年、つまり1994年の小澤さんの全年のスケジュールが、日本の雑誌『音楽の友』のこの年の一月号に載っていた。ウィン・フィル、ボストン響、ベルリン・フィル、新日フィル、ウィン音楽祭、サイトウ・キネン・フェスティバル松本……と豪華なプログラムがぎっしり組まれていたが、五月のゴールデンウィーク前後がポツンと空いていた。この空白、小澤さんの生まれ故郷瀋陽の旅が、いっそう輝いて感じられるのだった。
「おれも北京っ子さ」とお粥を啜り、油条を食べ、餃子を頬張る北京の小澤征爾;汗一杯、髪を振り乱し全身全霊を傾けて小さなローカル楽団をタクトを振る瀋陽の小澤征爾;姜建華の胡弓が奏でる「二泉印月」に手放しで大粒の涙を流す小澤征爾;「おれたち一緒に東洋の音を創ろうぜ」と中国の仲間の肩をたたく小澤征爾;人波にもまれながら母上の手を引いて北京の街を、瀋陽の街を愉しそうに行く小澤征爾……。
素顔の小澤征爾、中国の小澤ファンはすっかりこの素顔に惚れ込んでいるのである。
追記:去年(2011年)の9月1日は小澤征爾さんの76歳の誕生日だった。もともと、この日にサイトウ・キネン・フェスティバルの舞台を北京の国家大劇院に移し、小澤さんみずからタクトを執るはずだった。だが、その直前小澤さんは体調を崩し、この訪問に「ドクターストップ」を掛けられてしまう。小澤さんは、最後の最後まで北京訪問を固持し、北京に行って漢方医に治してもらいますよなどとジョークを飛ばしていたのだが……。
しかし、公演前日の8月31日の小澤さんのホームページに「みんなと一緒に餃子を食べるのを楽しみにしていたのだけど、ごめん、ごめん……。機会をつくってきっと行く、待っていてくれよ」という文字が現れてしまった。
9月1日の北京の国家大劇院のホール、限りない静けさのなかで幕が開く。指揮台に人影はない。コンサートマスターのサインとともにサイトウ・キネン・オーケストラがまるで一人の人間のように一糸乱れることなくチャイコフスキーの「ハ長調弦楽セレナーデ(中文:柴可夫斯基C大调弦乐小夜曲)」を奏でる。観客の眼には、無人の指揮台の上に小澤征爾、そしてその師斎藤秀雄の姿がくっきりと浮かびあがるのだった。
音楽が終る、一拍おいて起きる拍手。観客は心ゆくまで小澤征爾の音楽の世界に浸った。そして、小澤さんの一日も早い健康回復と北京訪問を祈るのだった。