北京
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だいぶ前の話だが、北京の中心にある中日友好協会の展示館で、日本の箱根の老舗ホテル小湧園に泊った中国各界の人たちが芳名帳に残した題字や署名などを展示した催しがあった。亡くなられた方のものも多く、観る人に深い感銘を与えたと新聞は伝えていた。
新聞のこの記事を読んでいて頭に浮かんだのは、家の棚に仕舞ってあるわたしのサインブックだった。わたしが北京放送の記者をしていたころ、取材などでお会いした方々からいただいた題字や署名が記されている。 このサインブック、家の戸棚に仕舞い込んでわたし一人のものにしておくのはもったいないな、と思ったのだ。そこで、「東眺西望」のコーナーを借りて、折々に紹介してみようかなと思ったのである。 ―東京生れの廖承志さん― まず登場するのは、「廖公」と呼ばれてみんなから敬われ、親しまれた廖承志さんからいただいた小犬の絵と署名だ。 廖さんは俗ないい方をすれば「中国の偉い人」の一人だ。1983年6月10日、享年75歳で亡くなられたが、当時は中国共産党中央政治局委員、全国人民代表大会副委員長、中日友好協会会長などの要職にあった。近日中に中華人民共和国の国家副主席に任命されることが内定されていた矢先の死だった。 廖承志さんは1908年に東京の大久保で産声をあげた。両親はのちの中国国民党左派の元老廖仲愷・何香凝、当時日本に留学に来ていた。 |
―廖承志さんと暁星小学― 廖承志さんは東京九段のフランス系のミッションスクール暁星小学で学んだ。わたしがこの暁星小学で六年学んだことを知ると、廖さんは「ほう、オレタチ同窓だな」と、その大きな、厚い、暖かい手で握手をしてくれた。このコーナーで紹介している小犬の絵の傍らに「暁星の同窓に敬意を」と書いてくれたのには、こんないきさつがあるのだ。イヌ年の1982年の春節(旧正月)に、イヌ年の贈物として描いてくれたのだが、廖さんの長男廖暉さんに見せると、一目で「これは親父の愛犬モコですよ」と言った。 ―暁星小学の入学試験― 廖さんと暁星のころの思い出を話しあったとき、こんな面白いことが話題となった。廖さんとわたし、同窓といっても廖さんの暁星入学は1915年、わたしは1940年、廖さんはわたしの25年「上級生」なのだ。ところが、廖さんとわたしの暁星小学の入学試験では25年という歴史の空白がなかったかのようにまったく同じヒトコマが出現している。 こんなヒトコマだ。一人のヒゲモジヤの外国人(もちろんフランス人)が魔術師のようにビロードをかぶせた机の上のメガネ、懐中時計、万年筆、絵本……をさっとビロードをあけて十秒か二十秒見せてくれる。そしてまたビロードをかぶせてニッコリ笑い「アナタナニミマシタカ」とちょっとおかしな日本語でたずねるのだ。廖さんはこのヒトコマを話しながら「オレタチ、同じことやってたんだね。まだやってるかなあ」と懐かしそうに言い、二人は大笑いした。
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―ビーブ ビーブ― わたしが学んだころの暁星小学では、フランス人の先生への朝の挨拶は「ボンジュールムツシュー」、「ドッヂボール」などで勝つと「ビーブ ビーブ」(万歳)とフランス語で歓声をあげ、教室ではジニローム先生がバイオリンを弾きながら「ラ・マルセイエーズ」をフランス語で教えてくれた。 ―暁星の友だちたち― 暁星小学の友だちに安田暁郎君がいた。安田財閥の一族だと聞いたが、みんなと一緒にメンコ集めに精をだしていた。クラスは違うが萬屋(小川)錦之助君もいた。ロシア人のジェコフ・クリヤメドスキー君も同窓だ。まったくの白人だが、暁星の校内ではぜんぜん違和感を感じさせなかった。人種や家柄とかいったものを問わず、こうした毛色の異なるいろいろの子供たちが、いじめも知らず伸び伸びとおおらかに仲良く遊んでいるのが暁星小学だった。一人一人の個性が、やんわりと大切にされていた。わたしのそのごろ性格形成にとって素晴らしい環境だったと、八十近くなったいまでも心から感謝している。
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