北京
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中日国交正常化45周年特別企画 「国交正常化45年の歩みーあの日、その時」。
今年は中日国交正常化45周年です。この記念すべき年を迎えるに当たり、中国国際放送局は特別企画「国交正常化45年の歩みーあの日、その時」を毎週土曜日にお送りしています。今週は「中日平和友好条約の締結」についてお届けします。お相手は劉叡です。
45年前の1972年、周恩来首相と田中角栄首相を代表とする中中国、日本日双方は両国の国交正常化のカギとなる中日共同声明を結ぶため、9月25日から交渉のテーブルにつきました。そして5日後の9月29日、中日共同声明の調印式が行われました。これによって、中日両国の国交が正式に回復し、両国は正常な両国関係の軌道を共に歩みだしました。これは中日両国中国と日本にとって歴史的なターニングポイントとなっただけでなく、世界にも大きな影響を与える歴史的瞬間でした。
しかし、国交正常化は両国関係の新たのなスタートにしか過ぎませんでした。ず、新真の友好関係を築き上げるために、両国政府にはまだ多くのやるべきことが残っており山積みで、中でも最も重要なのだったのが「中日平和友好条約」の締結でした。両国政府が調印した中日共同声明の第8条ではには、「中華人民共和国政府日本国政府及び日本国政府中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した」と明記しされ、条約の優先順位は航海、航空、漁業などの協定交渉よりも高かったのですいものでした。このことからも「中日平和友好条約」の重要性がうかがえます。
両国政府の首脳が国交正常化をに達した際、中日両国関係に関する重要な政治と原則問題において、中日共同声明の中で明記する以外に、も条約という形で、具体的な法律効力のある形式を以もってて、両国関係の安定的な政治基礎を築くこと構築を目的としたものが必要だという共通認識を得ました持ちました。そこで、周恩来首相は、両国が何代にもわたって背世代台平和と友好を保ち続けることを願い、この条約の名前を「中日平和友好条約」と名付け、田中角栄首相がこれに同意したのですました。
しかし、条約の締結までの道のりは決して順風満帆なものではありませんでした。日本国内の意見の食い違いや、田中首相の「ロッキード事件」による辞任、アメリカやソ連によるからの外交圧力などでもあり、協議だけでも4年に及びましたがかかったのです。そして、1976年12月、福田赳夫が首相に任命しされ、福田内閣が発足しました。1976年12月、この時期、日本国内では経済界と与党内で「中日平和友好条約」の条約の締結に向けた呼びかけ声が大きくなっていき、「中日平和友好条約」の締結に向け、大きく動くことになったのですました。また、締結に向けて難航した「反覇権条項」を盛り込むかどうかという問題に対し、当時の鄧小平副首相は、日本の民間団体や政府に対し中国の立場と見解を幾度も強調しました。、更に、両国の外交官や民間団体のたゆまぬ努力により、最終的には「反覇権条約」を盛り込んだ形のな条約がの完成したのですに至りました。
1978年8月12日、北京の人民大会堂で時の黄華外相と園田直外相が調印を行い、両国国民が待望していたが待ち望んだ「中日平和友好条約」がついに締結されたのですました。10月23日には、当時の鄧小平副首相が、中国の指導者としては戦後初となる日本公式訪問を行い、「中日平和友好条約」の批准書交換セレモニーに出席しました。これを以てもって中日関係は新たな段階に突入し、その後の両国関係に大きな役割を果たし続けているのですます。
来年2018年は、「中日平和友好条約」締結40周年を迎える節目の年です。今年の4月12日、中日国交正常化45周年、中日平和友好条約締結40周年に際して、交流事業を促進する実行委員会が日本で発足しましたました。委員長には経団連の榊原定征会長、最高顧問には中日平和友好条約に調印した福田赳夫の息子である福田康夫元首相が就任しています。
中日国交正常化45周年記念特別番組「国交正常化45年の歩み―あの日その時」。今回は「中日平和友好条約の締結」についてお届けしました。お相手は劉叡でした。