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中日国交正常化45周年特別企画 「国交正常化45年の歩み―あの日、その時」。
今年は中日国交正常化45周年です。この記念すべき年を迎えるに当たり、中国国際放送局は特別企画「国交正常化45年の歩み―あの日、その時」を毎週土曜日にお送りしています。22回目となる今回は、1972年の中日国交正常化の実現に尽力した力を尽くした日本の政治家・松村謙三をご紹介します。お相手は任春生です。
松村謙三は日本の政治家・松村謙三は、です。富山県福光(ふくみつ)町、現在の(現、南砺(なんと)市の)出身です。早稲田(わせだ)大学を卒業後、『報知新聞の』記者、富山県議会県県会議員を経て、1928年(昭和3)の第1回普通選挙で衆議院議員に当選しました。それ、以降、以後1946年~1951年(昭和21~26)の公職追放期間を除いて、1969年に第一線を引退するまで連続で当選議員を務めました。戦後、東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)内閣の厚生大臣厚相兼文部大臣文相、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)内閣の農林大臣農相に就任して、第一次農地改革を推進しました。また、改進党幹事長、鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣文部大臣文相もを歴任しました。1959年の訪中以来、一貫して中日日中友好に努力し、両国のパイプ役として貴重な存在でした。
「中国は、広い国土と豊富な資源をもつ大きな国です。アジアの平和のために、日本と中国はお互いの立場を認め合って、協力しなければならない。日中の国交回復は、われわれ両国の子孫のためにも、実現しなければなりません。ぜひ、友好的な関係を築きましょう」
そう考えた松村謙三さんは、日本と中国の関係を良くするために、中国を訪問しました。それは、第2次世界大戦が終わってから14年後の1959年、松村謙三が76歳のときですした。
ここからはこの番組では、1959年以降、いくつの歴史事実から松村謙三が中日国交回復に力を尽くしてきたことを示す逸話をご紹介します。
まずは、中日の囲碁交流のストーリからです。
1959年10月、日本自民党顧問の松村謙三が訪中団を率いて中国を訪れ、陳毅副総理と会談しました。ともに囲碁の愛好家ファンであっただった松村謙三氏と陳毅副総理は、今後、中日間の囲碁交流を進めていくことを約束しました。その後、陳毅副総理は、日本棋院からは名誉七段の称号を、関西棋院からは七段をそれぞれ授与されました。
陳毅副総理と松村謙三氏の呼びかけで尽力で、1960年に日本棋院の代表団が初めて訪中し、1962年には中国棋院の代表団が初めて日本を初めて訪問しました。また、1964年には、29人の日本の著名な有名棋士が、800万人の囲碁愛好家者に日中国交正常化の署名活動に参加するよう呼びかけました。
そして、両国の国交が正常化すると、囲碁界の交流は日増しに盛んになりましたす。更に中日スーパー囲碁が開催されたことによって、この囲碁による種の交流活動はブームにまでなったのです。
1997年までの期間にで、中日スーパー囲碁は計11回行われました。対戦成績は中国の7勝4敗です。両国の棋士はも互いの国で名前を知られるようになり、中国の聶衛平、馬暁春、劉暁光、曹大元、日本の小林光一、加藤正夫、大竹英雄、依田紀基の各棋士は、両国人民の間でスターのような存在になりました。中日両国の囲碁交流を開拓した顧水如、呉清源、陳祖徳、木谷実、藤沢秀行の諸先輩名前も広く知られるようになり、人々はもこの試合を通して、囲碁に関する知識を増やし、囲碁の魅力を知るようになっていきましたった。
1998年以降は、中日スーパー囲碁はNECカップ杯、富士通カップ杯、応氏カップ杯に引き継がれ、両国囲碁界の友好交流が伝統として確立されました。その後、韓国の棋士も参加するようになり、現在、囲碁の対局と交流の範囲は、中日韓の三三カ国国に拡大してされています。
「手談」の古称異名を持つ囲碁には、奥深い深遠な哲理と智慧が秘められています。中日両国人民の共通の趣味であり続けた囲碁は、両国の民間交流を促進する特殊な言語と言えますです。両国人民が囲碁という特殊な言語でも、中日はこれまで心を通わせてきました交流するとき、その背景には両国が共有する千年に及ぶ文化交流の歴史があります。
次は、中日の蘭欄の鑑賞の花による交流のストーリをご紹介します。
「中国蘭」は日本と中国との花卉の交流の中でも最も古いもののひとつとされ、遡ればさかのぼれば、古くは遣隋使以前からとも言われていわれておりますいます。
1959年12月に、松村謙三が“日中関係改善”の為に訪中した時が、今日では中国蘭愛好家や識者の間では、近年の「蘭」の日中交流の新元年と位置付けられているようです。当時、周恩来総理は松村村松謙三が、“碁”と“蘭”の大変な愛好家であることを知り、同じく愛好家である陳毅副総理、とは“碁”と“蘭”は朱徳全人代委員長と交流させたのです結びつけました。三人名は10年来の知己の如く意気投合し、朱徳委員長は松村健三を自宅に招き伴い、数多くの名蘭を共に鑑賞賞したそうです。そして、朱委員長は蘭友となった村松先生に記念にと名蘭を数鉢送りましたったのでした。それがきっかけとなり、1963年4月には村松健三には「中国蘭代表団を訪日させよ」と中国側対日連絡責任者の廖承志先生に要請したのです。廖承志はその指示その問いかけに素早く対応し応じ訪日団団長に、当時、日中友好協会秘書長の孫平化を指名し氏名てし派遣しされました。日中両国間によるの蘭の交流はこのことをきっかけにから始まり、日本では日本愛蘭協会総裁・松村村松謙健三の下に、日本の中国蘭の愛好家が集まり結集し、親睦と数々の交流をし続けてきたのでしたてきました。
現在では日中両国の先人たち諸先輩の努力が実ってり、日中間の往来は全くの自由となり、各分野での交流が大いに進む状況になりましたんでいます。その結果一つとして蘭による交流では、近年華やかな洋蘭から中国蘭の控えめで香しく(かぐわしく)、可憐な楚々とした姿に目を奪われた学生・青年若者や女性の愛好家が徐々に増え始めていますですが増えはじめてきました。
今後も日中友好の一つのあり方として「中国蘭」を通して“心と心”、“情と情”を通わせることを通じて、日本と中国との友好往来、両国の人々の間がより親密になることの親近感の増進が期待されています。
1970年、87歳になった松村謙三さんは、かなり体が弱っていました。体力の低下を感じていましたがそれでも謙三さんは、5度目の中国訪問に旅立ちました。
中国と日本のきずなは、今はまだ細く弱い。しかし、絶対にこのきずなを断ってはいけない――。
そんな思いを胸に旅立ちました。中国から帰ってきた後、松村謙三の体はめっきり弱ってしまいました体調は優れず、。そして、1971年、ついに、家族や友人に見守られながら、1971年、静かに一生を終えました息を引き取りました。
松村の訃報は日本でも中国でも、多くの人々が松村謙三の死を悲しみました。
日本の国民は改めて、日中の国交回復について考えました。松村が
そして、謙三さんが亡くなった次の年の、1972年、ついに日本の首相が中国を訪問したのですました。松村が蒔いた交流は芽を出し、謙三さんが長年、願い続けてきた日中国交回復が、ようやくここに実現したのですました。
中日国交正常化45周年記念特別番組「国交正常化45年の歩み―~あの日その時」。今回は、1972の国交正常化回復に力を尽くした日本の政治家・松村健三が、囲碁と蘭の花で両国のの交流を結んだ話をお伝えしました。