北京
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今月14日、中国台湾文壇の巨匠・余光中が亡くなりました。享年90歳でした。海峡両岸の数えきれない読者は、この巨匠の訃報に深い哀悼の意を示しました。今回と次回の中国メロディーは、余光中の詩作をモチーフにした音楽をご紹介します。
流浪の成長
余光中は作家、詩人、翻訳者として幅広く活躍した人です。1928年に南京で生まれ、「光中」という名前は「光耀中華(中華で輝く)」という意味が込められています。9歳の頃に中日戦争が勃発し、母親は幼い余光中を天秤棒で南京から常州へ担いで来たそうです。その後、一家は各地を転々として、やっと重慶にたどり着きました。戦火を逃れた子供時代は余光中の心の中に深く刻まれていました。
1947年、南京大学の外国語学部に進学しました。しかし、国内戦争の勃発によって余光中は再び転々とすることになり、台湾に定住しました。その後、余光中は30歳の時にアメリカに留学する夢を実現し、1960年代に台湾へ戻ってからは台湾師範大学英語学部で教鞭を取り、学部長を勤めました。また、香港、中国大陸の多くの大学でも教育活動に携わり、海峡両岸の文化交流の舞台で活躍しました。
詩人の寂しさと文人の孤独
小さいころ
郷愁は小さな郵便切手だった
ぼくはここにいて
母さんは向こうにいた
大きくなったら
郷愁は細長い船の切符になった
ぼくはここにいて
お嫁さんは向こうにいた
それから
郷愁は背の低い小さな墓になった
ぼくは外にいて
母さんは中にいた
そしていま
郷愁は細い細い海峡になった
ぼくはここにいて
大陸は向こうにあった
これは余光中の詩「郷愁」です。
余光中は自分の人生を三つの時期に分けています。まずは21歳になるまでの中国大陸にいる時期。二つ目は中国大陸を離れ、台湾に定住する時期。そして、三つ目は30歳の時にアメリカへ留学に行き、再び台湾に戻る時期です。この三つの人生の段階には何度も故郷を離れる苦しみがあり、彼の作品の中には詩人の寂しさと文人の孤独が溢れ、郷愁詩人と呼ばれるようになりました。
2001年、70歳の余光中は半世紀ぶりにようやく中国大陸に戻りました。激しい流れの黄河の畔で佇んだ彼は感激する気持ちを抑えきれず、しゃがんで、黄河の水を軽く撫でていました。靴に付いた泥も注意深く保管して、部屋の本棚の上に置いてあります。夜更けになると、滔々と流れる黄河の音が聞こえてきたと余光中は後に語っています。
ロック音楽が生んだ詩
「郷愁」は余光中の代表的な詩作として中国台湾だけでなく、中国大陸の人々にも好まれ、その美しい詩句は多くの旅人の郷愁を癒してきました。しかし、実はそんな「郷愁」は余光中がアメリカのロック音楽からインスピレーションを受けて創作したものだとされています。当時、アメリカ留学を終えたばかりの余光中は、アメリカのロック音楽やカントリー・ミュージックに魅了されていて、ロックのリズムから、この名作を創作しました。「郷愁」だけでなく、余光中の多くの作品に共通するのは韻律の美しさです。
1975年、楊弦を初めとする台湾の若手歌手が「中国現代民謡音楽会」を台北で行い、音楽会で歌われた曲はほとんどが余光中の詩を元に作られたものでした。この音楽会は当時の台湾音楽界で大きな反響を呼び、楊弦も「台湾民謡の父」と称えられました。
番組の中でお送りした曲
1曲目 郷愁四韻(郷愁の四つの趣)
今お聞きいただいているのは余光中の名作「郷愁四韻(郷愁の四つの趣)」をモチーフにした同じタイトルの歌です。
歌詞:
一すくいの長江の水がほしい
酒のような長江の水
酔いの味わいは
まさに郷愁の味わいだ
一すくいの長江の水がほしい
2曲目 郷愁(きょうしゅう)
この曲も余光中の有名な詩作「郷愁(きょうしゅう)」をモチーフにした歌です。
3曲目 江湖上(流浪の道)
この歌は楊弦が余光中の詩作「江湖上(流浪の道)」をモチーフにしたものです。
歌詞:
この靴はいくつもの道を歩むのか
この足はいくつもの靴を履きかえるのか
この息はいくつもの町の空気を吸い込むのか
この生涯はいくつもの赤信号を突き進むのか
答えは 果てしない風の中に
答えは 果てしない風の中に