北京
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10月初めの長雨は南唐の皇帝・李煜の名句「寂寞梧桐深院锁清秋(秋を閉じ込めるように奥の庭に寂しげな青桐がある)」が描いた、もの悲しい秋の風景を思い浮かばせます。今回の中国メロディーは詩人皇帝と呼ばれる李煜の詩作をモチーフにした音楽作品をご紹介しましょう。
運命に翻弄される詩人皇帝
李煜は五代十国時代の南唐の最後の皇帝で、文学の方面に造詣が深いことから詩人皇帝と呼ばれています。975年に国が滅びた後、李煜は宋の軍隊に囚われました。3年間にわたる軟禁生活の後、978年に宋の皇帝・太宗に毒殺され、わずか42歳で亡くなりました。
数奇な運命と国を失う苦しみを経験した李煜は、生前最後の数年間は過去を振り返り、富貴を極めた栄華がまるではかない夢のようで、再び取り戻すことはできないと痛感しました。故国を偲ぶ苦しみを味わった彼は、この時期に多くの深い感銘を与える詩を作りました。その詩の中の一字一字は、まるで詩人の一粒の涙のようで、無限の悲しみに満ち、現在に至るまで広く世に伝わっています。
数奇な人生
五代十国時代、李煜は寛大で思いやりのある君主として知られ、また、芸術面で優れた才能を持っていたため、多くの国民たちに敬愛されました。しかし、そんな李煜は性格が弱く、国を治める気迫に欠けていたことから、最後は悲劇的な人生を招くことになりました
李煜の前期の作品は、主に豪華な宮廷生活とロマンチックな恋物語を描きました。特に、周姉妹という2人の美人との恋愛と結婚は、当時の李煜に恋の甘さをたっぷりと教えてくれました。しかし、975年、宋の軍隊が南唐の首都・金陵を占領すると、捕らえられた李煜は苦しい囚人生活を余儀なくされ、三年後に亡くなりました。
李煜の短い人生は数奇なものだったと言えるでしょう。王子から太子、太子から皇帝に上り詰めた後、最後は皇帝から囚人に転がり落ちる人生経験は彼に世の中の辛酸をなめさせました。こんな天国から地獄までに至る苦しい人生を経験したからこそ、後世に名を残す偉大な詩人皇帝になることができたのかもしれません。
死の謎
李煜の死因について、様々な噂が残されています。李煜が978年の七夕の日、軟禁されている邸宅で歌姫たちに自分の詩作「虞美人」をモチーフにした歌を歌うように命じました。ところが、これを知った宋の皇帝・太宗は李煜の詩の中に反逆をたくらむ暗示があるとして、李煜に毒の酒を飲ませ、殺害したと歴史書で伝えられています。別の説では、李煜が国を失った悲しみがあまりにも深すぎた為に病死したというものもあります。
李煜のどんな死因にも関わらず、もし皇帝としての李煜が失敗だとするならば、詩人として李煜は間違いなく成功したと言えるでしょう。なぜなら彼の多くの詩作は、長い時を過ぎた今でも広く伝えられているからです。
番組の中にお送りした曲
1曲目 相見歓
この詞は遠く離れた汴京にいる李煜が、故郷金陵の宮廷への思いを訴えました。
歌詞:
誰にも声をかけず 独り西の楼に上る
月が細く輝いている
秋を閉じ込めるように 奥の庭に寂しげな青桐がある
思いは切っても切れず
抑えようとしても乱れる
これは別離の愁いである
特別な趣が心に生じてくる
2曲目 浪淘沙
この曲は李煜の詞「浪淘沙」をモチーフにした同じタイトルの歌です。
歌詞:
すだれの外は 雨がしとしとと降り
春ののどかな雰囲気が 廃れ衰えていく
夜明けの寒さは 薄絹の夜具では耐えられない
夢では自分が囚われ人となっていることを忘れてしまう
しばし喜びを貪る
限りない祖国の山河よ
別れるときは容易だが 再びまみえることは難しい
水が流れ去り 花が散っていった
天上からも人間社会からも
3曲目 虞美人
歌詞には李煜の故国・南唐への断ち切れない思いを表しています。当時、その様子を見た宋の太宗に毒殺を決意させるほどの気持ちが込められています。
歌詞:
春の花や秋の月が いつ終わるのだろうか
過ぎ去った思い出は はかりしれないほどだ
この小さい楼閣に 昨日の夜またしても春風が吹いた
彫刻を施した欄干や玉石の石畳は まだ残っているのだろう
ただ 若かったこの顔もすっかり衰えてしまった
わが胸に満ちる愁いは どれほどあるだろうか
長江に満ちる春の流れが 東に向かって流れていくようなものだ