 関係資料によりますと、1945年、両親が死亡或いは逃走のため、5000人の日本人残留孤児が中国の東北部と内蒙古自治区周辺に捨てられました。そのうち一番年長は13歳、一番小さかったのは生まれた数日後でした。
両親に捨てられた日本人残留孤児は、近くにいる中国人に拾われ、育てられました。実際、当時中国人民は日本人を非常に恨んでいました。しかし、中国人民は、戦争の張本人は日本軍国主義政府であり、子供たちには全く罪がなく、心の中で憤りを抑え、残留孤児を自分の子供として育てました。
当時、日本軍に侵略された中国では物質が極めて少なくて、人々の生活が非常に貧乏でした。しかし、中国人養父母は自分の食事を節約しても、残留孤児には衣類と食事を十分与えました。塩原初美さんは養父母のこの恩を思い出すと、涙がすぐこぼれました。
「両親は酒作りで残った酒かすばかり食べた。これを食べると、血便さえも出た。両親は米などは、少しでも食べずに、全部私にくれた。両親のこの恩は一生忘れられない。私たちが今日まで生きられるのは両親みたいな中国人の愛を全部私にくれたからだ。これは絶対忘れてはいけない」
日本残留孤児を育てた中国人の内、多くの人は日本軍兵士の虐待を受けたことがあります。李淑賢という女性が日本軍の占領した長春市で、おなかを日本軍に蹴られ、妊娠する能力を奪われました。しかし、李淑賢さんは街頭で浮浪児となっていた残留孤児青山百恵さんを見たとたん、暖かい手を伸べました。彼女は百恵さんが蘭の花のように育ってほしいとの願いを込めて中国名徐桂蘭と名づけました。
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