中国の人々が自発的に日本人残留孤児を育てた行為は後で新中国政府に支持されました。これについて、中国社会科学院近代史研究所の栄維木教授は、「新中国政府は人道主義に基づき、中国で捨てられた孤児を差別せずに、日本人残留孤児を育てる民間人に物質的な支援を与えた。この問題で、中国政府は日本人に対して世界で前例のない寛容な態度を見せた」と話してくれました。
1972年、中日国交の正常化が実現し、民間交流が盛んになり、日本側の親戚と連絡を取った日本人残留孤児は中国の両親を離れ、日本に帰った人もいました。しかし、彼らは帰国しても日本政府は、少ない手当てしか支給しなかったため、多くの人は日本で貧しい生活を送っています。彼らは慣れていない日本で、中国での生活、中国の養父母を思いながらたまらなくなり、時々、養父母を日本に招くか、中国に戻り、両親の世話をしています。
塩原初美さんは日本に帰ってまもなく、母親の于さんを日本に招き、一緒に過ごしました。しかし、数ヶ月後、于さんが中国に帰る時がやってきましたが、塩原初美さんは泣きながら母親の手を放したくありませんでした。
中国残留日本孤児で大人になって日本に帰ったのは全体の一部でした。多くの人は中国にいることを決め、両親のそばにいます。今、内蒙古自治区に住んでいるウユン(烏雲)さんがそのうちの1人です。ウユンさん、日本語の名前は立花珠美、1981年日本にいるお兄さんと連絡をとった後、日本に帰省しましたが、そこで5ヶ月間住んだ後、親戚の勧めを聞かず、毅然として中国に帰ってきました。
この決定について、彼女は「中国の両親は私を本当の娘と同じように愛してくれている。父親はなくなり、母親はまだ顕在ですが、年をとって、子供の力に頼る時期がやってきた。これを考えて、中国に帰ることを決心した」と語ってくれました。
ウユンさんとそれら中国に捨てられた孤児は自分たちの運がよかったと思っています。なぜかといいますと、彼らは中国で両親の献身的な愛を見つけ、家族のぬくもりを味わえたからです。

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