スキーフリースタイル・エアリアルが冬季五輪の正式種目となった1994年、当時9歳だった韓暁鵬はまだこの競技が何なのかさえ知らなかった。だが、その12年後、トリノの地で彼はスポーツの最高峰ーーオリンピックの表彰台のトップに上った。中国五輪史上初めてとなるスキー競技での金メダルをその胸にかけて……。
江蘇省出身の韓暁鵬は、1995年、瀋陽体育学院に入り、この「エアリエル」を始める。
1999年第9回全国冬季大会(日本の冬季国体にあたる)が彼にとって初めての公式戦となった。ここで生涯最初のメダルーー銀メダルを手にする。このときの安定感ある演技、難度の高い技に果敢に挑戦する姿勢が評価され、彼は中国人アスリートの憧れ、国家チームのメンバーに選ばれる。
その後、国内大会では常にトップを走り続けた。2000年全国選手権大会でチャンピオン。2001年全国チャンピオン大会でも1位。試合後、彼は報道陣に対して、「いつか世界大会の表彰台に上りたい」とはっきりと宣言する。
しかし、事はそう簡単に運ばなかった。海外初出場となる2002年のソルトレークシティー五輪(米)。満を持して挑戦した世界最高の舞台は、彼にとってつらい思い出しか残さなかった。2回の演技の合計が僅か140点で24位に終わる。
世界レベルとの差を実感した彼は、自信を失うどころか練習により力を入れる。努力は人を裏切ることがなかった。2003年ワールドカップ(米)で第3位、2005年ワールドカップ(チェコ)で第2位、同年のオーストラリア戦のワールドカップでも第2位、そして、2005年ワールドカップ・ファイナル(伊)では第3位。世界戦での上位進出とともに、徐々にその名も世界に知られていった。
そして2006年2月。待ちに待った20回目の冬季オリンピックがやってきた。世界中が見守るトリノの舞台。この場所に彼の競技人生の最初のピークをもってきた。予選は安定した演技で、トップ通過。
そして現地時間2006年2月23日、フリースタイル男子エアリアルの決勝。彼は、予選での勢いをそのまま持ち込んだ。一回目のジャンプでは二人の審査員が満点を出す。そして二回目。ここで冒険するのでなく、あえて安定感あるジャンプを審査員にアピールした韓の演技は、同難度の最高点に近い得点を獲得。2回合計250・77点で韓暁鵬は優勝。エアリアルの「韓暁鵬時代」を世界中に宣言した瞬間だった。
"スキー競技後進国"と言われた中国が生み出した世界の頂点を極めた男。彼の快挙が、これから祖国のスキー界にもたらす影響は計り知れない。そしてまだ22歳。今度は「世界のトップ」として、4年後の「次」を目指す。
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