私達は中国の人々との友好交流を第一に、杭州、上海、北京の3都市を訪問しました。現地では、人民公社や工場、それに小学校や病院などを参観しました、行く先々で大歓迎、すなわち中国式に言えば、熱烈な歓迎を受けましたし、それに一般家庭まで訪問することができ、そこで、大変暖かいおもてなしを受けました。この中国訪問により、中国の各分野における建設の様子がよく分かり、とても感動しました。
最近では、一昨年2004年10月に北京を訪問しました。私は今までに10回ほど中国に行きましたが、78年10月に初めて中国を訪問した時と比べ、その発展振りには目を見張るものがありますね。始めての北京は町は灰色、道行く人々の服装もみな紺色か灰色ときわめて地味な服装、そして、自転車の多さにびっくりしました。しかし、今の北京は高層ビルが立ち並び、自動車が多いこと、あの広い長安街も大渋滞となりますし、町はとても綺麗で、道行く人々の服装もとても派手な服装が目立ち、各商店の商品の多さにはびっくりするばかりです。この発展振りは北京や上海のような大都会だけでなく、地方でも同じように発展していますからただただ感心するばかりです。
実を言うと、私は北京放送を聞いていても1978年までに一度も手紙を出したことはありませんでしたが、この中国訪問で大変お世話になった方々に対し、せめてものお礼にと思い、北京放送局へ訪中の感想とお礼を書きました。これが北京放送局への初めての手紙でした。それは、1978年11月のはじめのことでした。すると、12月の「お便りの時間」で、当時のアナウンサー趙志行さんの朗読で私の手紙が放送されまして、その当時は本当にびっくりしました。再放送の時は家族とともに聞きましたし、テープにも録音しましたが、その録音テープは今でも大切に保存してあります。また、日本に全国組織の「北京放送を聞く会」という組織があることを知り、79年1月にこの「北京放送を聞く会」に加入しました。そして、それまでのように、この北京放送を自分ひとりで聞くのではなく、一人でも多くの人に聞いてもらい、新中国を知り理解してもらうよう努力をしてきました。その甲斐あってか、今でも何人かの友人や知人がこの北京放送を聞いてくれていますが、これは私にとってとても嬉しいことです。
私は、1978年11月以来今日までに何回となく北京放送局へ放送番組の感想や意見、それに受信情況や、我が家の暮らしの様子などを手紙に書きましたが、この私の手紙をたびたび放送していただきまして本当に嬉しく思っています。特に家内が乳がんを患い、入院手術をした時は北京放送局からのお見舞いと激励の言葉を放送していただきましてこころより感謝しております。手紙を出すたびに心のこもったご返事と共に、べりカードや切りえなど各種の記念品を送っていただき、きりえだけでも現在150枚ほどあります。これらは私の宝として大切に保存してありまして、友人や知人にも見せながら少しでも北京放送の宣伝になればと思っております。私が始めて北京放送局を訪問したのは1983年10月で、日中友好協会の北京放送聴取者訪中団の一員としてでした。当時は復興門の放送ビルに北京放送局はありました。日本語部の朴世吾を初め日本語部の皆さんに熱烈な歓迎を受け、スタジオなど放送局内の参観をさせていただきました。そして座談会も開催され、その時私も放送番組や内容についての若干の感想や意見を述べましたが、皆さんは私の話を真剣に聞いてくださったことを今でもはっきりと覚えています。以来、北京放送局へは5回ほど訪問し、その都度友好を深めてまいりましたし、また、シルクロードのウルムチやトルファン、それに昆明や桂林など各地の観光地へもご案内をしていただきました。それから、五年前の10月には、日本語部の皆さんに放送局のバスで北京郊外の八大処へピクニックに連れて行っていただきましたが、皆で飲んで食べてとても楽しい一日でした……。
今の北京放送は、これまでと同様にとても明るく楽しい番組ばかりです。特に四月からは放送番組が大幅に改正されましたね。スポーツ番組にしろ文化的番組にしろ、よりワイドになりさらに楽しく聞くことができます。「中国昔話」は「中国の酒」と同様とても面白い番組です。次は「中国の歴史」というような番組をお願いしたいものです。それに、大半の番組の進行は二人のアナウンサーが担当されていますが、その会話からしてより楽しく聞くことができます。それから、ニュースは東京特派員の報告もあり、速報性があってニュースらしさを感じます。これからも今までと同様、日中両国人民の友好の架け橋として頑張ってください。北京放送のますますのご発展をお祈りします。 1 2
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