去年、ある市民が亡くなったことで瀋陽市民は悲しみました。この人は瀋陽鉄道局前総括エンジニアで、不動産部長を兼務していた49歳の柴宝国さんです。
瀋陽鉄道局は30万人あまりの社員を持つ大型鉄道会社です。鉄道のほか、社員の日常生活と密接な関係を持つ社宅の供給と管理を行う不動産部門も大きな仕事です。社員が多い上、歴史の長い会社として人間関係が複雑に絡み合っているだけに、柴さんの担当する仕事の責任が重いと同時に権力も大きいのです。1996年抜擢された柴宝国さんは、178センチの長身で、はきはきとものを言い、てきばきと仕事をこなす人です。
柴さんはこの権力を普通の社員の福祉に使いました。2003年、会社の一部の事業が大連の関連企業に移ったので、その社員は大連へ転勤するようになり、瀋陽には妻子や老人が残されました。当時の社宅は石炭でオンドルを暖めるという旧式の家で、石炭や燃え殻を運ぶ作業は女性たちがやらなければならなくてはならなかったのです。このことから、柴さんは早速108世帯のスチーム供給の改造工事を始め、3日間で、土地の確保、消防、環境保全などの手続きを終え、その年の11月1日、スチーム供給開始に間に合わせました。このことについて、年金暮らしの徐国良さんは、「柴部長はわれわれの日常生活のことを非常に関心を持っていました。短時間で部屋の寒さの問題を解決してくれました。今家の中は暖かく、うれしいです」と話しました。この後、柴さんは引き続き残りのすべてビルのオンドルの改築も手がけ、瀋陽鉄道局の全ての社宅には、スチームが取り付けられるようになりました。柴さんは就任して8年間に、7万世帯の社宅を建て、社員30万人の平均床面積はおよそ3%増えました。柴さんは一所懸命で、着実な働きぶりに同僚は、「瀋陽鉄道局の戦車」というあだ名をつけました。
しかし、いつも元気で丈夫な柴さんは、2003年8月、よく下痢し、急に20キログラムも痩せたので、11月北京での出張を利用して、奥さんに無理矢理に病院に連れて行かれ、健康検査を受けた結果、想像さえしなかった末期ガンと告げられました。翌朝、苦しい一夜から目覚めた柴さんは、奥さんの于桂芹さんに、「最後まで一緒にいてほしい。私の病気を誰にも言わないで。残りの数ヶ月間でやりたいことを成し遂げたい」と言いました。
今回の出張は、北京駅プラットホームの雨を防ぐ建物の柱のない施工技術を研修することです。診断の後、北京で放射線治療を2回受けて、柴さんは何もなかった表情で北京駅での考査に没頭しました。一緒に立ち会った同僚は、当時のことを思い出しながら、「彼は非常に弱弱しく、顔も青白かったです。私たちが後で報告するから、部長は行かなくいいと言ったが、だめ、これは新しい技術だから、マスターしなくてはと断りました」と話しました。
瀋陽に戻ってから、柴さんは放射線治療を受けながら、平常どおりに出勤していました。2004年8月4日、柴さんは瀋陽北方病院に入院、9月遼寧省腫瘍病院に移されました。柴さんの治療の担当医の白維君医師は、柴さんは「特種の患者」と評価しています。「病室には食事用の小さな机が置いてあります。この机は柴さんの仕事用机になったようです。点滴を打ちながら文章を書いていました。いくら説得しても納得してくれなかったです。でも、この患者の一言に感動して彼のやりかたにあわせて治療することにしました。それは、『何も考えず、なにもしないでベッドに寝ているより、何かをやる、たとえ半年でもやるほうが増しだ』という言葉です」と紹介してくれました。
2004年9月24日、柴さんは数日間の昏睡から目覚め、奥さんと息子家族三人で抱き合い微笑みながら息を引き取りました。「柴さんの通して人生の上で多くの悟りを開きました。これも大きな富であると思います」と、白担当医が話しました。
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