北京
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2021年12月3日は中国共産党が率いる中国人民対外放送開始80周年です。その第一声は日本語放送でした。これまでの80年、どのような人たちがどのような思いで放送に携わってきたのでしょうか。シリーズでお伝えします。
①革命の地 延安からの第一声
延安時代の原清志さん(1912-2001)
中国共産党が率いる人民放送事業の始まりは1940年に遡ります。
当時の中国には、侵略者の日本によって開設された60以上の局のほか、民衆の隷属化意識を植え付けようとする親日的な放送を行う傀儡政権の放送局も多数ありました。また、米英ソ独伊仏などの列強もいずれも中国国内で放送局を運営していました。当時の中国共産党には通信社があったものの、放送機材の不備で放送を行うことができていませんでした。
のちに新中国の総理となった周恩来氏が人民放送事業に深く関わっていました。周氏は1939年、負傷した右腕の治療のため、ソ連のモスクワに渡ります。翌1940年3月に帰国する時、コミンテルンから譲渡された一台の中古発信機を持ち帰りました。この送信機こそが最も重要な機材でした。入国時、国民党や日本軍の検査を無事に通過できるように送信機は、ばらばらに取り外されて部品のままで一旦新疆に運ばれました。その後、車で蘭州、西安を経由して延安まで運びました。到着後、技術者たちの懸命な努力の下、もう一度組み立てて復元しました。
発信機が到着すると、市内の清涼山中腹部にある新華社通信に隣接する形でラジオ放送の編集室が設けられ、放送の準備が着々と進められました。
延安新華放送局編集部・清涼山オフィス
中国国内向けの中国語放送のほか、当初から交戦していた日本軍に向けた日本語放送も計画されていました。そして日本語放送の最初のアナウンサーになったのが、解放区にいた29歳の日本人女性、原清子(中国名:原清志)さんだったのです。
原さんは1912年東京生まれ。家が貧しく、幼くして両親を亡くし、15歳から働きに出ていました。社会活動に参加し、仲間でもあった最初の夫と出会い、18歳で結婚し、間もなくして母親になりました。夫はその後、活動中に警察に捕まって投獄され、刑務所で結核を患い、出所後まもなく息を引き取りました。原さんが23歳の時でした。その後、原さんは早稲田大学に留学中の中国人学生と知り合い、結婚。1937年3月、5歳の子供を連れて中国へ渡ります。中国共産党員の夫とともに、山西省の解放区で反戦活動をしていましたが、1941年のある日、延安で日本語放送のアナウンサーになってほしいとの依頼が来ました。
原さんをインタビューしたことのある中国国際放送局元副局長の胡耀亭氏によると、彼女は自分の学歴が高くないため、最初はアナウンサーの任務を引き受ける勇気がなかったそうです。当時の中央軍事委員会河北委員分会の朱徳主席は電報を3回も送り、彭徳懐副主席も「大丈夫。あなたは日本語がうまいし、声もきれいなので、きっと務まる」と説得しました。
彭徳懐副主席の熱心な説得により、原さんはついにアナウンサーの任務を引き受けることにしました。しかし、小学校は3年生までしか通っていない彼女にとって、アナウンサーになるには大変な努力が必要でした。胡耀亭氏は「録音が始まるまで、彼女は何回も練習する。夢の中でも練習を続けていた。これは原さんから直接聞いた話だ」と振り返りました。
当時、原さんが毎日使い、ボロボロになった辞書が今も残っています。
原清子さんがアナウンスをしたヤオトン(中国の黄土高原で広くみられる土中の家)は、技術的な理由で延安市内から20キロほど離れた王皮湾というところに移設されています。アナウンサー室はきちんと整備され、今もその形を留めています。一般的なヤオトンとは違い、天井にはぽかんと丸い穴が開いていて、そこにアンテナが立てられていました。
1941年12月3日、原清子さんが第一声を発したヤオトンスタジオ 修繕前の様子(延安・王皮湾)
1941年12月3日、原清子さんが第一声を発したヤオトンスタジオ 修繕後の様子(延安・王皮湾)
中国国際放送局(現:チャイナ・メディア・グループ)内に陳列された原清志さんのパネル
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原さんは延安の新華放送局のアナウンサーとして、マイクを通じて、中国に侵入した日本軍兵士に日本語で反戦を訴えました。当時の設備はたいへん粗末なもので、消音にはふとんを使い、炭を使って、手で回して動かす発電機で発電していたということが分かる写真が残されています。放送そのものは、機械の故障などで停止を余儀なくされるまで約1年半続きました。
原さんたちは延安でどのような放送をし、電波はどこまで届いていたのでしょうか。
北京放送OBの李順然さんによりますと、当時の延安では、中国北部で八路軍(中国共産党の指導する軍隊)の捕虜になった日本の元兵士が日本反戦同盟をつくり、日本軍に対する反戦活動を進めていました。
1942年8月15日から28日までの二週間、延安を流れる延河のほとりで、「中国華北地区日本兵代表大会」が開かれた記録が残っています。中国北部各地で反戦活動を進める元日本軍兵士50数名がここに集まり、燃えるような八月の太陽の下で反戦を誓い、その活動の進め方について熱い討議を続けました。
原さんは、この大会に出席していました。そして、大会で採択された「日本の兵士に訴える」というアピールの要点を新華放送局のマイクを通じて放送し、受信した日本の将兵に大きな感動を与えたと言われています。ちなみに、この大会には当時、延安にいた日本共産党元議長の野坂参三さん(延安時代は「岡野進」や「林哲」などの仮名を使用)も出席していました。
日本が敗戦した後、原さんは中国東北地方の遼寧省で暮らしていました。長い革命歴をもつ原さんに、要職に就くようにという話もありましたが、彼女は「わたしは学問のない人間ですから」と言って、幼推園の園長など、目立たない仕事に汗を流しつづけ、2001年、遼寧省瀋陽市で、静かにその生涯を終えました。原さんの枕元には延安時代から大切に使ってきた一冊の日本語辞典が残されていました……
原清子さんの遺品
李順然さんは、北京を訪れた原さんとは何回か会って話をしたことがあります。李さんによりますと、会うたびに原さんは落ち着いた日本語で、次のような言葉を繰り返していました。
「戦争でいちばん苦しみ、悲しむのはいつでも、どこでも民衆です。20世紀の中日戦争で、中国の民衆も、日本の民衆も苦しみました。あの苦しみ、あの悲しみが繰り返されるようなことがあってはなりません。そのためにも、矛を交えた歴史を忘れてはならない。もちろん、憎み合うためではなく、仲良くしていくためです。あの歴史から教訓を汲み取らなければなりません」
1995年12月14日、北京放送局を訪れた原清志さん
2000年5月29日、北京放送局を訪れた原清志さん
原清志さんが延安のヤオトンから反戦・平和の第一声を上げた1941年12月3日。この日は後に、中国人民国際放送事業開始の日として銘記されています。
(文責:王小燕)
【主要参考文献】
・中国国際放送局日本語部編『中国国際放送局日本語放送 70年のあゆみ』(外研社、2011年)
・李順然著『二十世纪人留给二十一世纪人的故事』(外文出版社、2012年)
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