北京
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「緑水・青山こそ金山・銀山」――中国貧困扶助第一村・福建省赤渓村の貧困脱却に向けた30年の歩み
2015年11月に中国共産党中央は貧困脱却活動に関する会議を北京で開きました。中国の党と国家の最高指導者である習近平総書記はこの会議で、「貧困撲滅、民生改善、ともに豊かな生活を送ることは中国共産党の使命であり、また、共産党が全国民に対する厳粛な確約でもある」と強調しました。これにより、貧困脱却の堅塁攻略戦が新たな段階に入りました。
しかし、農村部の貧困人口への支援は今から30数年前から始まっていました。1984年6月24日、中国共産党の機関紙「人民日報」に「貧しい農村の希望 特別政策の実施によって貧困脱却を実現」と題する読者の投稿が掲載されました。投稿は飾り気のない言葉で、福建省寧徳市赤渓村の貧困状況を反映していました。人民日報は同時に「貧困地区に関心を寄せる」と題する論評を発表し、中央政府から関心を集めることになりました。その後、党中央や国務院は「貧困地区の変貌支援に関する通知」を公布して、「貧困扶助政策」を打ち出しました。そして、国家から地方に至るまで「貧困扶助弁公室」が設置され、貧困扶助活動が正式に幕を開けることになりました。この重大な歴史的意義のある読者投稿の作者は、当時、福建省福鼎県報道グループのリーダーだった王紹据さん。王さんはその後、寧徳市「閩東日報」の総編集長を務めました。
9月下旬、かつての貧困村であった赤渓村の今の様子を取材するため、北京から現地の福建省を訪れました。最初に伺ったのは人民日報に投稿したことで貧困の現状を世に広めた王紹据さん。当時のことについて王さんはこのように語りました。
「大多数の人が藁で作られた部屋に住んでいました。藁は腐りやすいので、2、3年しか持ちません。主食は細く刻んだ後に干したサツマイモです。しかし、量は一家の主食としては十分ではなかったため、山へ山菜を取りに行って、補充する必要がありました。また、山では木や竹を伐採して、市場で売ることで生計を立てていました。特に驚いたのは、女性たちの服でした。何枚もの継ぎはぎを重ねていたのです。子供たち、特に6、7歳以下の子供はほとんどがズボンなどを履いていませんでした。それどころか、スリッパさえも持っていなかったのです。人口の減少も続いていました。一向に衣食住も解決されていなかった上、子供たちは学校教育さえも満足に受けることができない状態でした。こうした様子を見て、どうしても彼らの貧困状況を上に報告しなければならないと思いました」
現状を見たその日の夜、自宅に戻ると、王さんは「貧しい村は貧困脱却のために特別措置が必要」と題する文章を書きました。
一方、当時、中国の農村では改革政策が実施され、大きく変貌していました。特に「万元戸」や「億元村」などが生まれ、自然条件に恵まれた農村や交通が便利なところでは活気に満ちていました。そのため、王さんの文章を読んだ上司は、「今の好況な農村情勢に泥を塗るもの」だと考え、絶対に上に報告してはならないと勧告しました。上司の話を聞いた後、王さんは数日間、悩みに悩みました。しかし、同じく貧しい家庭に生まれた王さんは、赤渓村の貧困状況を無視することはできず、上に反映させなければ気が済まないという考えに至りました。当時の心情について、王さんは
「私自身も非常に貧しかった農村に生まれました。12歳の時に父親が亡くなり、13歳から母親の世話をしながら、幼い妹を育てなければならない重い責任を担うようになりました。だからこそ、村の貧困状況に対して心が痛いほどに共鳴を覚えました。そして、どうしてもこの状況を上に報告しなければならないと思いました。そうしないと、村人に申し訳ない。党中央はとても英知で、必ずや貧しい農民を見捨てることはないと信じていました。だからこそ、文章を封筒に入れて北京に郵送したのです」と語りました。
(閩東日報の正面玄関にて 左から4人目:王紹据さん)
王さんの村を思う行動により、1984年から1993年までの10年間、福建省政府は赤渓村に対する貧困扶助活動を展開してきました。当時の貧困扶助政策について、赤渓村党委員会の杜家住書記は次のように説明しています。
「当時、道路はまだ村まで敷設されていませんでした。党や政府、そして社会公益活動に熱心な人たちが我々の村に食糧や衣服などの物資を送ってくれました。生産支援物資は、苗木やウサギ、羊でした。ところが、山奥の自然条件があまりにも厳しいため、援助を受けても村人の生活に大きな変化が起きることはありませんでした」
村人の生活を根本から変えるには、まず、自分たちの生活環境を変える必要がありました。そして、1993年末、道路が開通した後、山奥の村落に住んでいた人々を全て平坦な地へと移住させました。そして、移住してからより大事になるのはいかにして村民たちの生計を立てるかということでした。これについて、杜書記は
(福建省赤渓村にて 取材を受けている杜家住書記)
「赤渓村は自然豊かな優位性を生かして、積極的に地元の名勝地・太姥山観光圏と融合させ、観光業をはじめとする産業振興を始めました。観光企業の事業参加によって、村民に雇用の機会を作り出すと同時に、観光客が増加するにつれて、観光農業や民宿など観光業と関連する産業チェーンが徐々に形成していき、村人たちは一歩一歩、貧困脱却の道を歩み始めました」と語りました。
現在、赤渓村では、観光業をはじめとする多元化産業の発展を目指しています。村全体の収入から見ると、観光業が40%、次いでお茶産業が30%を占めるようになっています。
村にはおよそ67ヘクタールに及ぶ雄大な茶畑があります。そこに着目し、自身の故郷・赤渓村を発展させようと活躍する若者がいます。彼の名前は杜羸さん。
「杜羸です。2013年に大学を卒業してから村に戻り、村で最初のお茶の加工工場を創設し、起業しました。今、毎年の年間売上高はおよそ400万元(日本円にして、およそ6400万円)、利益はおよそ40万元(日本円にしておよそ640万円)に達しています」
なぜ、杜さんは故郷に戻って起業したのでしょうか。その理由について、
「当時、村の観光業は発展の軌道に乗り、人気が出始めていました。もう一つの理由は、故郷にはおよそ67ヘクタールに及ぶ茶畑があり、良い茶葉資源があるにも関わらず、加工工場がなかったということです。これが起業した直接的な原因です」と説明しました。
(杜羸さんの茶葉工場にて 左から3人目:杜羸さん)
杜さんは加工工場を作った後、原材料価格の見直し、地元茶農家の栽培指導、肥料や農薬を用いた科学的管理などを行いました。7年間の努力の結果、赤渓村の茶葉は安心・安全な名産品となりました。それと同時に加工工場の建設、規模拡大を進め、工場の規模は以前の3~400平方メートル規模から現在は1000平方メートルにまで拡大しました。
2015年12月7日、当時の貧困扶助活動担当の汪洋副総理は赤渓村を訪れました。その際に赤渓村の貧困問題を人民日報に投函し、30数年間の赤渓村の貧困脱却事業を見守り続けている王紹据さんは簡潔な言葉で、寧徳の貧困脱却経験を総括しました。
「最初の段階は10年間で『輸血』しました。効果はほとんどありませんでした。第2段階は10年間で『換血』し、遠隔地から移転しました。つまり辺鄙な場所、あるいは、水や土地が乏しいところから移転して、一つの場所に集まることです。これによって、人や情報の流通、人気、金運も盛んになってきました。第3段階は10年間で『造血』し、貧困から克服・脱却することです。10年間の造血を通して、自ら独立します。私は豊かになりたいのであって、誰かが私を豊かにしてくれる、党や政府が私を豊かにさせてくれるというわけではありません。私自身が豊かになりたいという自分の内側からの熱望です。自分の力で富を作り出します。労働によって、豊かになります。こうしてこそ、貧困を切り離すことができ、困難を乗り越えることができるのです」と語りました。それを聞いた汪洋副総理は「寧徳モデル」として高く評価しました。
そして、翌年の2016年2月19日、習近平総書記は人民網のスタジオから、赤渓村の村民や幹部たちとテレビ会話を行いました。その時、習総書記は
「かつて寧徳市で、私は滴水穿石(あまだれいしをうがつ)、久久為功(長期的な工夫)、弱鳥先飛(弱い鳥が先に飛ぶ)と言いましたが、赤渓村の村民たちはこうした言葉を確実に実践に移しました。今後とも絶えず、前へまい進し、上を目指して頑張ってください」と激励しました。
それから4年。今の赤渓村は、観光で村を振興、農業で村の基盤を強化、文化で村を立脚、生態整備で村をきれいにするという方針で村づくりを行っています。今後は文化整備の一環として、村の少数民族文化・シェ族文化の魅力を一層掘り出していく方針です。この方針の下、シェ族のグルメを広めようと奮闘するシェフもいます。彼の名前は呉貽徳さん。
呉さんも赤渓村の出身で、2002年から調理を学び、十数年間、浙江省の杭州や福建省の福州などの都市で経験を積んだ後、4年前の2016年に村に戻ってきました。今、福鼎市調理師協会赤渓村支部の会長になった呉さんは、数多くの調理賞を受賞しています。これまでに自身が一番誇りに思っている料理について、呉さんはこのように考えています。
(シェ族のグルメを広めようと奮闘するシェフ・呉貽徳さん)
「私は習近平総書記の貧困脱却に関する言葉を料理にしました。その料理の名前は、弱鳥先飛(弱い鳥が先に飛ぶ)です。食材は地元の新鮮な魚を用いて、鳥の形にしたものです。この料理は『聯合利華全国料理大会』の福建省部門で銀賞を取りました」と嬉しそうに話してくれました。
私たちは赤渓村党委員会の杜家住書記に2016年に習近平総書記とテレビ会話をした後、赤渓村で起きた一番の変化について尋ねました。すると、杜書記は
「村民の幸福感が明らかに高まっています。かつての農村では、毎日農作業で疲れ果てていました。いったい誰が広場ダンスをするでしょうか?今、村民たちは夕飯を終えた後、広場ダンスを楽しみ、みんな生き生きとした顔をしています。これは生活が豊かになり、仕事にもやりがいを感じていることを意味しています」と語りました。
夕日に照らされ、輝く村人の踊り姿。そして、地元シェ族の伝統的な民謡が響き渡る赤渓村。こんな光景こそが、小康社会のあるべき姿に違いありません。(文:劉非 星和明 写真:高勝偉、星和明、張強)