北京
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座談会の様子
元解放軍日本籍兵士・砂原恵(87歳)さんの半生をモチーフにした漫画、『血と心——元解放軍日本籍兵士・砂原恵の波瀾万丈な人生』(仮訳、原題は《血与心--日籍解放軍戦士砂原惠的伝奇人生》、新星出版社 李昀 著)の出版記念座談会が8日午後、北京市人民対外友好協会で行われました。主催は北京市人民対外友好協会、人民中国雑誌社、中国国際友人研究会と新星出版社。日本語月刊誌『人民中国』雑誌社が、中華人民共和国成立70周年を祝賀するために企画し、同雑誌社の契約漫画家李昀が一年間をかけて創作し、人民中国雑誌社と新星出版社が共同出版しました。
座談会で敬礼する砂原さん。首から下げたのは中国人民抗日戦争勝利70周年記念勲章と
中華人民共和国成立70周年祝賀記念勲章
砂原恵さんは1932年福岡県生まれ。「盧溝橋事変」が勃発した1937年に、両親と共に、当時日本の植民支配下にあった中国の東北部に渡りました。日本の敗戦まであと1カ月の1945年7月、「南満洲鉄道株式会社」の技術者だった父親が阜新で病死。その後、母は5人の子どもを連れて日本行きの船が出る葫芦島市を目指して、逃亡生活を始めました。しかし、混乱と危険を免れるため、結果的に目的地まで150キロほどの鉄道幹線沿いの村、遼寧省溝幇子鎮六台子村蘇家街に住みつくことになりました。母親は裁縫をしながら一家の生計を立て、長男である恵さんも地主の家で豚や牛の世話をするようになり、家計を助けていました。
その後、村では土地改革が行われ、村人が雇農、貧農、中農、富農、地主と5段階に分類され、順番に土地を分け与えられる中、砂原家は「雇農」とみなされ、村から土地を配分してもらえました。
漫画『血と心——元解放軍日本籍兵士・砂原恵の波瀾万丈な人生』
1948年、中国の内戦を背景に、砂原少年は「張栄清」と中国の名を名乗り、東北民主聯軍(のちに中国人民解放軍東北野戦軍と改名)に入隊し、遼瀋戦役や平津戦役などに参加。また、母親の病死がきっかけで本当の国籍が知られるまで、一時、中国人民志願軍として朝鮮の戦場にも赴きました。その後、1955年の帰国までに、東北民主聯軍航空学校政治部に配属、中国人民解放軍空軍の建設に参加しました。帰国後、砂原さんは対中貿易の仕事に従事し、1997年、天津郊外の蓟県で主として日本式の漬物を中国市場向けに作る工場を設立。砂原さんはその後今日に至るまで、22年間無給の顧問として工場活動にかかわり、自らの行動で中日の友好交流に貢献し続けてきました。
砂原さんは日本の敗戦直後の混乱にもかかわらず、一家の生活や帰国を支援してくれた村人への恩を生涯忘れずに、「それが、僕が中国を一生好きでいることの起点になっている」と言い、帰国後も中日友好をライフワークとして取り組んできました。
中国外文局・陸彩栄副局長
座談会で中国外文出版発行事業局の陸彩栄副局長は、「この漫画の企画、出版は中日両国の首脳が『民間の友好交流を積極的に展開し、相互理解を増進させ、民心の通じ合いを促進する』ことをめぐり合意した共通認識を実行して収めた成果である。今回の出版をスタートとして、中日間にあるより多くの知られざる歴史が掘り出され、より多くの優れた作品が創作されることで、両国の友好増進につなげていきたい」と述べました。
中国国際友人研究会・劉昕生副会長
中国国際友人研究会の劉昕生副会長は席上、同研究会と砂原さんとの長きにわたった交流と友情を紹介し、「砂原さんは中日友好事業に積極的に身を投じ、帰国後も対中友好貿易や中国での工場建設、または数百回にわたっての中国訪問を通して、両国の民間友好と貿易往来に積極的な貢献を果たした」と評価しました。
北京市人民対外友好協会・張謙常務副会長
北京市人民対外友好協会の張謙常務副会長は、「砂原さんの歩んだ人生は中日両国の多くの人を感動させる。その人生を記録し、後世に伝えていくことは、民間友好事業に携わる我々の当然の責任である」と述べました。
砂原恵さん
座談会に出席した砂原恵さんは、「日本は私の母国で、中国は私の祖国である。この本のタイトルにある『血と心』のように、私の体には100%日本人の血が流れているが、私の心は一度も中国を離れたことはない」と話しました。
日本語月刊誌「人民中国」社・王衆一編集長
『人民中国』誌の王衆一編集長は、この漫画の日本語版も来年の日本での出版を目指して準備中であると示し、「この作品により両国の人的交流と文化交流が促されるよう期待する」と話しました。(取材:李陽)