北京
PM2.577
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日本の歴史が昭和から平成に移り変ったころのことだ。わたしは中国国際放送(北京放送)の東京支局長として、三年ほど日本で暮らしていた。この三年、わたしの楽しみの一つは夏の甲子園の高校野球のテレビ中継だった。閑を見つけて、いや閑を造ってテレビの前に坐り「熱心」に観戦したものだった。
三年ほどのわたしの東京での暮らしを綴ったエッセイ集『日本・第三の開国――中国人記者のみた日本』(東京・東方書店)にも夏の甲子園高校野球のテレビ観戦記が記されているのでそのひとくだりを抜き書きしてみよう。 「ブラウン管いっぱいに映される甲子園の高校野球の若さに溢れるプレーには、いつも心を打たれていました。ピンチを切り抜けてスリーアウトを取ったナインがベンチの監督のもとに一目散にかけ足で帰ってくる姿、エラーをした選手に『ドンマイ・ドンマイ』と暖かく声をかけ、手を振って励ますナインたち、内野への平凡なゴロでも懸命に一塁に走り頭から滑り込む選手、デッドボールさせてしまった相手の選手に帽子とって心配そうに頭をさげるピッチャー……勝者、敗者を問わずグランドの選手の涙に、スタンドの応援団の涙に誘われて、思わず涙を流したこともありました」 |
甲子園紙上観戦記 北京に帰ってきてからは、テレビではなく日本から届けられてくる新聞・雑誌で甲子園の高校野球を「観戦」している。 去年(2010年)の圧巻は沖縄勢の初優勝、興南が全国参加4028校の頂点に立ったことだ。沖縄での第1回全島高校野球大会が開かれたのは敗戦の翌年の1946年だったそうだ。20万余の犠牲をだした沖縄戦の傷跡が残る島には硬球はなくソフトボールで、ベース間の距離を縮めて試合を行ったという。 あれから60余年、沖縄健児たちは艱苦奮闘を繰り返し、とうとう深紅の大旗を手にしたのだ。 優勝を決めてマウンドで抱きあう興南のバッテリー島袋と山川の二人の大きな写真、日焼けした顔とニッコリ笑う白い歯、底抜けに明るい。 こうした明るい笑顔を持つ若者は日本にもいる。中国にもいる。世界にもいる。われわれ、あの戦争を体験した二十世紀人はこうした二十一世紀の若者になにを遺すのか、なによりもまず戦争のない平和な二十一世紀だろう。わたしは島袋、山川両君の大きな写真を前にしてつくづくそう思い、そんな思いでこの雑文の筆を執ったのだ。 |
我如古君 一二三君 興南対東海大相模の決勝戦の記事を読んでいて、ちょっと驚いたことがあった。日本人の姓の豊富多彩なことである。話が本題からそれるまったくの余聞だが書き記しておこう。 興南の主将我如古(がねこ)、東海大相模の投手の一二三(ひふみ)……いずれも初年、初眼だった。 自分では、在日華僑二世、東京生まれの東京育ち、東京の小学、中学、高校、大学で学び、二十歳で中国に帰ってきてからの半世紀もずっと日本関係の仕事をしてきた「日本通」だと思い込みがちだが、この初耳、初眼の日本人の姓、わたしのこうした思いあがりにまたも痛烈な打撃を与えてくれた。(正直言って、日本についてはほとんど毎日なにか初耳、初眼のことがあるのだが……) 八十近くなった。だが生きているかぎり、なにやかにや日本とのお付き合いがあることだろう。「活到老、学到老」(生きているかぎり勉強を続けよう)、これは名宰相周恩来さんの遺した言葉だが、わたしも日本とのお付き合いあるかぎり、自分の日本に対する知識が「九牛の一毛」であることをはっきり自覚して、日本についての勉強を続けていこうと思う。こうして始めて日本人に通じる話ができ、日本人に通じる文章が書けるのだから……。 |
追記: |